佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」第41回
歴史について、とKintaro Kasaharaの話
第38回の投稿において、インド・シャンティニケタンの歴史、そこにある風景の成り立ちについて書かんとする、の旨を記してから、世の中は禍に陥ってどうにもうまく作動しなくなってしまった。その流れに身をまかせる形で連載もいきなりブレイクさせ、福島での今の自分の暮らしの一端について書いた。そして書きながら、この状況下でこっそりとやっている歴史研究とは一体なんなのだろうか、とボンヤリ考える。
歴史から学ぶ、ということは多分にあるのだろう。けれども、今現在の何らかの課題の答えを求めるために歴史を読み直そうとするのは、ともすると歴史を矮小化し、歪めることにも繋がりかねない。過去の山を掘り進めていけば、いつか未来に行き着いてしまう。そんなある種スキャンダラスな展開を想うのは、石川淳の『狂風記』に出てくるゴミ掘り屋マゴの姿を読んでからであるが、そこには予定調和な未来は無いし、未来に隷属してしまうような歴史のみすぼらしい姿も無いのである。
だが一方で、保苅実が遺した「歴史実践」という、あらゆる事象、出来事の因果のあり方を固定化させずに開いていく、出会った出来事を一方的に客観化することを止めて、むしろその出来事の中に自分自身を溶け込ませていくような、過去と現在(そしておそらく未来)を繋ぐラディカルかつ真摯な感覚に希望を持つ。過去の世界を史料やヒトとの出会いから眺め、また今の世界でモノを作っていく。私がその両輪を保とうとしているのは、おそらく歴史というものへどうにか手を伸ばすためであり、そしてただただ、自分が生きている世界について語るそのコトバを見つけたいからだ。
数年前、シャンティニケタンの住宅を作りに行くにあたって、倣うべき、倣いたいと思うある職人の存在があった。Kintaro Kasaharaという名前の日本からやってきた職人がどうやらおよそ100年前のシャンティニケタンに住み暮らし、その地で様々な家や家具を作っていたらしいのだ。そんな彼のことを様々なヒトから昔話として聞き、またいくつかの文献史料で読み知ったが、いかんせん情報も限られており、未だ詳しいことはわかってはいない。けれども、「どうやらKasaharaというヒトがいたらしい」という曖昧な歴史が、私にとって未踏の地であるシャンティニケタンで家を作るのにどれほど心強かったか。
Kintaro Kasaharaとその家族(Rabindra Bhavana Archive)
彼の「Kasahara」という名は実は現地ではよく知られている。なぜならば、なんとシャンティニケタンの大学の敷地内には、「Cafe Kasahara」というわりと洒落た喫茶店があるからである。誰かがしっかりと知らないままにKasaharaという名前を使ったのかな、と始めの頃は思っていた。しかし、家作りの仕事が終わってからも頻繁に、半ばゆったりとした時間を過ごしつつシャンティニケタンを訪れるようになってから、私はCafe KasaharaのオーナーがKintaro Kasaharaの実孫であることを知った。そしてすぐに連絡先を聞いて、面会をさせてもらった。彼はもうそのとき80歳は超えていただろうか。けれどもとても長く、私にKintaro Kasaharaに関する話をしてくれた。
とても当たり前のことなのだが、私はその時に、Kintaro Kasaharaが本当にその地にいたことを感じ入ったのだった。そして約1世紀前に生まれたシャンティニケタンの地が絶え間無くあり続け、今の私がその地にいることを感覚した。私が眺め見ていたシャンティニケタンの史料は、今シャンティニケタンで研究をし建築を作る私自身にまで繋がっていたのか、と密かに歓喜した。
もちろん、歴史の確からしさというものは現代からの時間的な遠さに拠るものではない。史料に基づく実証研究はどんな時代においてもそれぞれの強度を持ち合わせている。しかし私はというと、どんな史料や過去の情報を目の前にしても、生半可な知識と、意地と、不安が入り混じり、どうにも没入できずにいた。けれども、Kasaharaの実孫の方に会い、ようやくどのようにコトバを生み出していけばいいのかの感触を得た気がしたのだった。
またそれから数日、今度はその隣の家に住むKasaharaの義理の孫にあたる方で、大学の博物館(Rabindra Bhavana)のアーキビストを務めていたSupriya Roy氏にも話を聞くことができた。
彼女は義理の母親、つまりKintaro Kasaharaの実子Itsukoから聞かされた話を私に教えてくれ、また以前収録したというその話に関するインタビュー記録を渡してくれた。その話だけでもとても興味深いので少し紹介したい。
Kintaro Kasaharaと彼の妻Mikiは、日本の長崎に二人の息子を残してインドへ出発したのは19世紀の終わりごろだった。Kasaharaは、当時荒廃していたブッダガヤの寺院修復をインド政府から依頼された仏教職人集団の一人だった。ブッダガヤでの仕事を終えたあと、Kintaroはボパール(インド中部の現在マディヤ・プラデーシュ州)にいた。1906年か7年頃、ボパールの王立裁判所に居たのだという。その時に2人の娘が生まれた。長女はItsuko、次女はMichikoという名前だった。Itsukoは後にラビンドラナート・タゴールによってSagarika(太陽という意味)という名前に改名されたのだという。
彼女自身はボパールの記憶はなかったが、その後移住したカルカッタでの日々と、カルカッタ市内のニュー・マーケットでKasaharaが家具職人として働いていたことを覚えていた。
彼女はまた、Kasaharaがカルカッタ郊外の町ダクリアの仏教寺院で、サンダルの木から装飾を施した仏像を作ったということも覚えていた。そのことを聞いてSupriya氏はダクリアの仏教寺院を訪れたが、サンダルの木で作られた仏像は無かったという。
Kasaharaはそのあと、タゴール家のガガネンドラナートに能力をかわれ、タゴール家の邸宅ジョラサンコへ招かれた。そこで彼は家具を作った。ガガネンドラナートは彼の祖父であるドワルカナート・タゴールがそろえた重々しい西洋調の家具をどけて、オリエンタルなスタイルの家具に取り替えたのであった。Kasaharaはまた優れた庭師でもあった。
1922年、ラビンドラナート・タゴールはスリニケタンでの学校活動
の中で木工を教えることのできる人間を探していた。そこでKasaharaはシャンティニケタン・スリニケタンへ向い、現地で木工と園芸を教えた。彼は、ラビンドラナートの家の内装の工事も行なった。また、Kasaharaはラビンドラナートのために、スリニケタンで2本のピープルの木の上に小屋を建て、そこはラビンドラナートの書斎として使われた。
スリニケタンではKasaharaは小さな土壁の小屋で暮らしていたのだともいう。そして1928年にKasaharaは亡くなった。
(2019年1月13日、シャンティニケタンSupiruya Roy氏宅にて)
スリニケタンにKasaharaが建てたとされる木の上の小屋(Rabindra Bhavana Archive)
Kasaharaが19世紀末に日本からインドへと渡った経緯については、日本側での史料が見つかっておらず、詳しいことは不明である。しかし、当時は宗教改革運動が盛んで、日本とインド双方から宗教の専門家が交流を結んでいた。もしかするとそうした宗教家の往来の中の一人としてKasaharaは来印したのではないかとも考えられる。そのまま30年間、インドに住み続けたのであった。そして、今現在に至るまで彼の孫たちがその地に住み続けていて、私は彼らに会い、彼らを通じて、Kintato Kasaharaに出会ったのである。
(さとう けんご)
■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院
建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジ
オGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京
大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。福島・大玉村で藍染の活動をする「歓藍社」所
属。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。「一般社団法人コロガロウ」設立。
現在、福島県大玉村教育委員会地域おこし協力隊。
◆佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。
●本日のお勧め作品は尾崎森平です。
尾崎森平 Shinpey OZAKI
《昨日の世界》
2018年 アクリル、キャンバス、パネル
サイズ:144.5x163.5cm サインあり
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阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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歴史について、とKintaro Kasaharaの話
第38回の投稿において、インド・シャンティニケタンの歴史、そこにある風景の成り立ちについて書かんとする、の旨を記してから、世の中は禍に陥ってどうにもうまく作動しなくなってしまった。その流れに身をまかせる形で連載もいきなりブレイクさせ、福島での今の自分の暮らしの一端について書いた。そして書きながら、この状況下でこっそりとやっている歴史研究とは一体なんなのだろうか、とボンヤリ考える。
歴史から学ぶ、ということは多分にあるのだろう。けれども、今現在の何らかの課題の答えを求めるために歴史を読み直そうとするのは、ともすると歴史を矮小化し、歪めることにも繋がりかねない。過去の山を掘り進めていけば、いつか未来に行き着いてしまう。そんなある種スキャンダラスな展開を想うのは、石川淳の『狂風記』に出てくるゴミ掘り屋マゴの姿を読んでからであるが、そこには予定調和な未来は無いし、未来に隷属してしまうような歴史のみすぼらしい姿も無いのである。
だが一方で、保苅実が遺した「歴史実践」という、あらゆる事象、出来事の因果のあり方を固定化させずに開いていく、出会った出来事を一方的に客観化することを止めて、むしろその出来事の中に自分自身を溶け込ませていくような、過去と現在(そしておそらく未来)を繋ぐラディカルかつ真摯な感覚に希望を持つ。過去の世界を史料やヒトとの出会いから眺め、また今の世界でモノを作っていく。私がその両輪を保とうとしているのは、おそらく歴史というものへどうにか手を伸ばすためであり、そしてただただ、自分が生きている世界について語るそのコトバを見つけたいからだ。
数年前、シャンティニケタンの住宅を作りに行くにあたって、倣うべき、倣いたいと思うある職人の存在があった。Kintaro Kasaharaという名前の日本からやってきた職人がどうやらおよそ100年前のシャンティニケタンに住み暮らし、その地で様々な家や家具を作っていたらしいのだ。そんな彼のことを様々なヒトから昔話として聞き、またいくつかの文献史料で読み知ったが、いかんせん情報も限られており、未だ詳しいことはわかってはいない。けれども、「どうやらKasaharaというヒトがいたらしい」という曖昧な歴史が、私にとって未踏の地であるシャンティニケタンで家を作るのにどれほど心強かったか。

彼の「Kasahara」という名は実は現地ではよく知られている。なぜならば、なんとシャンティニケタンの大学の敷地内には、「Cafe Kasahara」というわりと洒落た喫茶店があるからである。誰かがしっかりと知らないままにKasaharaという名前を使ったのかな、と始めの頃は思っていた。しかし、家作りの仕事が終わってからも頻繁に、半ばゆったりとした時間を過ごしつつシャンティニケタンを訪れるようになってから、私はCafe KasaharaのオーナーがKintaro Kasaharaの実孫であることを知った。そしてすぐに連絡先を聞いて、面会をさせてもらった。彼はもうそのとき80歳は超えていただろうか。けれどもとても長く、私にKintaro Kasaharaに関する話をしてくれた。
とても当たり前のことなのだが、私はその時に、Kintaro Kasaharaが本当にその地にいたことを感じ入ったのだった。そして約1世紀前に生まれたシャンティニケタンの地が絶え間無くあり続け、今の私がその地にいることを感覚した。私が眺め見ていたシャンティニケタンの史料は、今シャンティニケタンで研究をし建築を作る私自身にまで繋がっていたのか、と密かに歓喜した。
もちろん、歴史の確からしさというものは現代からの時間的な遠さに拠るものではない。史料に基づく実証研究はどんな時代においてもそれぞれの強度を持ち合わせている。しかし私はというと、どんな史料や過去の情報を目の前にしても、生半可な知識と、意地と、不安が入り混じり、どうにも没入できずにいた。けれども、Kasaharaの実孫の方に会い、ようやくどのようにコトバを生み出していけばいいのかの感触を得た気がしたのだった。
またそれから数日、今度はその隣の家に住むKasaharaの義理の孫にあたる方で、大学の博物館(Rabindra Bhavana)のアーキビストを務めていたSupriya Roy氏にも話を聞くことができた。
彼女は義理の母親、つまりKintaro Kasaharaの実子Itsukoから聞かされた話を私に教えてくれ、また以前収録したというその話に関するインタビュー記録を渡してくれた。その話だけでもとても興味深いので少し紹介したい。
Kintaro Kasaharaと彼の妻Mikiは、日本の長崎に二人の息子を残してインドへ出発したのは19世紀の終わりごろだった。Kasaharaは、当時荒廃していたブッダガヤの寺院修復をインド政府から依頼された仏教職人集団の一人だった。ブッダガヤでの仕事を終えたあと、Kintaroはボパール(インド中部の現在マディヤ・プラデーシュ州)にいた。1906年か7年頃、ボパールの王立裁判所に居たのだという。その時に2人の娘が生まれた。長女はItsuko、次女はMichikoという名前だった。Itsukoは後にラビンドラナート・タゴールによってSagarika(太陽という意味)という名前に改名されたのだという。
彼女自身はボパールの記憶はなかったが、その後移住したカルカッタでの日々と、カルカッタ市内のニュー・マーケットでKasaharaが家具職人として働いていたことを覚えていた。
彼女はまた、Kasaharaがカルカッタ郊外の町ダクリアの仏教寺院で、サンダルの木から装飾を施した仏像を作ったということも覚えていた。そのことを聞いてSupriya氏はダクリアの仏教寺院を訪れたが、サンダルの木で作られた仏像は無かったという。
Kasaharaはそのあと、タゴール家のガガネンドラナートに能力をかわれ、タゴール家の邸宅ジョラサンコへ招かれた。そこで彼は家具を作った。ガガネンドラナートは彼の祖父であるドワルカナート・タゴールがそろえた重々しい西洋調の家具をどけて、オリエンタルなスタイルの家具に取り替えたのであった。Kasaharaはまた優れた庭師でもあった。
1922年、ラビンドラナート・タゴールはスリニケタンでの学校活動
の中で木工を教えることのできる人間を探していた。そこでKasaharaはシャンティニケタン・スリニケタンへ向い、現地で木工と園芸を教えた。彼は、ラビンドラナートの家の内装の工事も行なった。また、Kasaharaはラビンドラナートのために、スリニケタンで2本のピープルの木の上に小屋を建て、そこはラビンドラナートの書斎として使われた。
スリニケタンではKasaharaは小さな土壁の小屋で暮らしていたのだともいう。そして1928年にKasaharaは亡くなった。
(2019年1月13日、シャンティニケタンSupiruya Roy氏宅にて)

Kasaharaが19世紀末に日本からインドへと渡った経緯については、日本側での史料が見つかっておらず、詳しいことは不明である。しかし、当時は宗教改革運動が盛んで、日本とインド双方から宗教の専門家が交流を結んでいた。もしかするとそうした宗教家の往来の中の一人としてKasaharaは来印したのではないかとも考えられる。そのまま30年間、インドに住み続けたのであった。そして、今現在に至るまで彼の孫たちがその地に住み続けていて、私は彼らに会い、彼らを通じて、Kintato Kasaharaに出会ったのである。
(さとう けんご)
■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院
建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジ
オGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京
大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。福島・大玉村で藍染の活動をする「歓藍社」所
属。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。「一般社団法人コロガロウ」設立。
現在、福島県大玉村教育委員会地域おこし協力隊。
◆佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。
●本日のお勧め作品は尾崎森平です。

《昨日の世界》
2018年 アクリル、キャンバス、パネル
サイズ:144.5x163.5cm サインあり
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