佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」第49回

かわいいについて2

 前回の投稿では、「妖怪めいた輪郭を帯びるモノを、新たに作り出す」という課題を掲げたまま、文章を終えてしまった。膨大な時間によって生み出されるモノの内実や、そのモノと時間を共にしてきた人々が持つ愛着めいた感覚を、果たして新しくデザインし作り出したモノが備え持つことができないだろうか。時間性の超克、と言っても良いかもしれない。けれども普遍を見つけようとするのかと言えばそれは違う気もする。愛着という感覚が人ぞれぞれの個人的な嗜好であるからだ。
 愛着とは、モノとヒトの距離感、「近さ」を表している。哲学者の鞍田崇さんは民藝を語るときのキーコンセプトとして「いとおしさ」という言葉をつかっている。(※)(そして民藝の先駆者である柳宗悦は「親しさ」と表現している)愛着、という言葉が適切かはまだわからない。むしろ上に書いたように「近さ」のほうがより広く捉えることができている気もする。
 そうした近さを、新たにデザインすることは当然ながら難題である。結局は、ドローイングを描き、作ることを積み重ねていくしか進む方法はないのだが、こういった場で幾たびも言語化を試みている。
 人がモノに向き合ったとき、様々な感覚を用いてそのモノを分かろうとする。目で見て光と影の重なり合いから質感を、手で触れてそのザラツキと平滑さを、鼻で匂いをかいでその材料の今の具合を。そうしてたとえ新品のモノであろうとも、それがどのように作られたのか、どこからやってきたのか、おそらく自分自身の経験と知識をもとに想像を試みる。「これは、前に見たーーに似ているな」とか「なんか~~っぽい」とか。モノを捉える感覚というものはそれぞれのヒトが固有に持つ経験にかなり拠っている。そのモノから受ける印象が千差万別なのも当たり前のことである。けれども、それぞれの経験に依るヒトの感覚だけでなく、モノ自体にその来歴を辿ることのできる痕跡が残っていれば、それはモノとヒトとの距離を近づける上での有効な手立てとなる。推理小説、サスペンスさながらにモノから発見できるいくつかの断片的な要素を組み合わせて、そのモノがどのように作られたのかを想像できるはずだ。
 つまりそれは、モノの作られ方、モノが作られるプロセスが、出来上がったモノから分かるということである。制作プロセスと制作物とが分かち難い関係を成し、制作の手順、仕組みが、出来上がったモノに表現として滲み出ているような。それは建築でいえば、各所の部材と部材が取り合う部分をどのように納めるかの問題でもある。建築は様々な工種と素材でできあがっている複合体だ。建設現場を眺めてみれば分かるように、始めは基礎が地面に敷かれ、骨組みが建ち上がり、外装材が貼られ、様々な設備が埋め込まれて、内部の仕上げが貼り付けられる。このように建設現場では、モノとモノの組み合わせ方の順序がある。分業化がはっきりとされた昨今の建設産業では、それぞれの素材を取り付けごとにそれぞれの職人さんが現場に入れ替わり立ち替わりやってくる。当然、どの工程においても次に入る職人さんがどうすれば作業しやすくなるか、一連の部材の取り合わせ方を想像しながら作業している。そうした複数部材の取り合いが最終的にどのように見えるのかはかなりその建築の姿形を決める重要な要因となるが、その取り合いの有様によってどのように建築が出来上がったのかの制作プロセスの開示、表現が可能となるだろう。そしてそれは、もし建築に故障や不具合が発生したときにもすぐさま対応ができる修復の可能性、再現可能性の高さを備えることにも繋がる。使い手自らが手を入れることができる建築であったとき、その建築と使い手の距離は比較的近いものだといえそうだ。
 修復、修理ができる、あるいは再び同じように作ることができるというのは、ある種の「素朴な技術」を用いることで実現する面も大きいだろう。もちろん人々の生活を取り巻く産業構造、社会のシステムが高度化して緻密なものであれば、出来上がった部品を新たに買って交換することは可能になる。けれども、高度な産業構造では、絶えず技術は革新、刷新を遂げて、古いものは切り捨てられるので、モノを長く使えば使うほどに、モノは時代から取り残された遺物と化し、修理しようにもメーカーのサポート対象外となっていて、部品も手に入らないということはしばしばあり、それはなかなかに悲しい。
 「素朴な技術」とは、それこそ、ヒトの手と手道具程度によって作ることである。もちろん作る時により高度で効率的な機械を使って作っても良いだろうが、その時にも再現の可能性を考慮することが肝要だろうと思う。
 短文であるが、「かわいい」の概念から出発してどうにか技術の在り方まで綴ってみた。いくつかのキー概念が出てきているので、これはまた次の当方の個展などでまとめることを試みたい。 

202102佐藤研吾‗1(喫茶野ざらしの正面玄関 photo by comuramai)

202102佐藤研吾‗2202102佐藤研吾‗3(正面玄関の図面。汎用Lアングル部材を組み合わせて制作)
※ 「遅いインターネット」での鞍田崇氏へのインタビュー(聞き手:宇野常寛)

さとう けんご

佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。福島・大玉村で藍染の活動をする「歓藍社」所属。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。「一般社団法人コロガロウ」設立。
現在、福島県大玉村教育委員会地域おこし協力隊。

・佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。

*画廊亭主敬白
2018年12月にときの忘れもので初個展を開いた佐藤研吾さん、あのときはときの忘れものには珍しく若い人たちで会場が溢れました(10日間の会期でギャラリートークを5回開催)
都会っ子の佐藤さん、見かけは華奢ですが、結構図太い。福島県大玉村に拠点を移したのには驚かされましたが、東京、福島、インドを往還しながら、「素朴な技術」を基底に着実にものづくりとネットワークの構築に励んでいるようです。次回の個展を期待しています。

塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」第3回を掲載しました。合わせて連載記念の特別頒布会を開催しています。
A Musical Embryo塩見允枝子先生には11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。1月28日には第3回目の特別頒布会を開催しました。お気軽にお問い合わせください。

多摩美術大学美術館で「多摩美の版画、50年」展が2月14日(日)まで開催されています(関根伸夫島州一吉田克朗本田眞吾駒井哲郎靉嘔、他)

東京都現代美術館で「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」が2月14日(日)まで開催されています。

佐藤美術館で「永井桃子展」が2月21日(日)まで開催されています。

東京国立近代美術館で「MOMATコレクション 特集:「今」とかけて何と解く?」が2月23日(火・祝日)まで開催されています(瑛九松本竣介野田英夫駒井哲郎難波田龍起国吉康雄ジョエル・シャピロ、他)。

京都国立近代美術館で「分離派建築会100年 建築は芸術か?」が3月7日(日)まで開催されています。

東京オペラシティアートギャラリーで「難波田龍起 初期の抽象」が3月21日(日)まで開催されています。

●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
E-mail:info@tokinowasuremono.com 
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。