《CAFÉ モンタン》
 小瀬川了平が注いだ最上級の芸術エッセンス


平澤 広

①モンタン外観 (1959年オープン当時、その何度か改修している)モンタン外観 (1959年オープン当時、その何度か改修している)

②小瀬川了平ポートレイト小瀬川了平ポートレイト

 1960年代の岩手の芸術運動は、盛岡大通り裏の「CAFÉ モンタン」が拠点であった。東北のこの小さなスナックから、多様な表現活動のムーヴメントを発進し続けた。
 1931(昭和6)年、花巻台温泉「台湯館(たいとうかん)」の次男として生まれた小瀬川了平は、東京大学文学部中退後の1956(昭和31)年、盛岡の大通り裏に「どん底」酒場をオープンする。新宿の同名店を模したこの酒場の名物は、これも同名の「どんカク」(どん底カクテル)。しかし、配合は小瀬川のオリジナルで、ピンク色の女性受けする飲み物だった。これが大人気で、日に4、500杯出ることも珍しくなかったという。「盛岡のどん底通りには、冬でも雪が積もらない」といわれたほどで、夜ごと人が行きかい賑わっていた。この繁盛店「どん底」を改装し、1959(昭和34)年に洒落たモダンな「CAFÉ モンタン」をオープン(設計者は駿河台の明治大学裏の喫茶「レモン」と同じといわれる)。小瀬川の粋な都会的センスが開花したこの店には、若手美術家や詩人、ジャズ・マンが集った。

③「どんカク」「どんカク」

④モンタン店内モンタン店内

 イヴ・モンタンから拝借した店名が示すように、シャンソンの店としてスタートしたが、まもなくモダン・ジャズへとシフト。日本ジャズ評論の先駆であった清水俊彦が、新譜を抱えて毎月来盛し、店内でレコード・コンサートを毎回、昼夜2回催していた。記録に残るだけでも4年以上も続き、地元のバンドマンや音楽ファンを刺激し続けた。1966(昭和41)年からは、地元ラジオ局で毎週ジャズ番組の放送を開始し、地方のジャズ発信基地となっていく。
 なによりもモンタンは、オープン当初から現代美術の紹介に努め、1962(昭和37)年からは「コンテンポラリーシリーズ」と銘打って東京や地元で活躍する美術家の個展を継続的に企画。そのラインナップをあげると、池田龍雄展、末松正樹展、馬場彬展、村上善男展と既成美術への抵抗と時代を切り開こうとする表現者が選ばれていることも特徴的である。

⑤モダンジャズ・コンサート 清水俊彦解説モダンジャズ・コンサート 清水俊彦解説

⑥末松正樹展リーフレット 1963年末松正樹展リーフレット 1963年

⑥末松正樹展 《無題》 制作年不明 「ときの忘れもの」所蔵末松正樹《無題》 制作年不明 「ときの忘れもの」所蔵

 さらに1963(昭和38)年には、「モンタン美術賞」という45歳以下(2回目から制限なし)の美術家を対象に、新人発掘と支援を目的とするコンクールを立ち上げる。審査員には新鋭美術評論家の中原佑介があたり、モンタン賞受賞者は作品買い上げに加え、銀座の「サトウ画廊」での個展が約束された。時代を担う才能の発掘というこの試みは、地方から全国に向けた美術的アクションであり挑戦であった。
 第1回は32人86点の応募があったが、モンタン賞は該当なし。佳作1席が瀬川昌男、同2席が村山暢男、選外佳作に大宮政郎と高原光男が入っている。2回目はモンタン賞が吉野順夫、佳作に瀬川昌男、吉田武、森田洋子。3回目は、参加者62名185点の応募があり、モンタン賞に松尾一男、佳作第1席が松平憲機、岡田博、小林正治となっている。サトウ画廊の記録では、入賞翌年に吉野順夫、松尾一男の個展がそれぞれ開催されている。モンタン賞は、第4回の募集要項までは準備されていたようだが募集した形跡は見当たらず、残念ながら3回で終了したようだ。これらの入賞、入選者のその後を辿ってみると、活動が明らかな者が少ないなか瀬川昌男が岩手の先鋭的な美術運動「集団N39」に加わり、その後も若手グループの集団 「COZUMO‐8V」(コズモ8ボルト)に積極的に関わっていたことが認められる。また松尾一男は、サトウ画廊での個展を足掛かりにつながりを深め、同画廊での数度の個展や同画廊企画のグループ展など何度も参加している。

⑦第2回モンタン賞公募用紙第2回モンタン賞公募用紙

⑧第3回モンタン賞 松尾一男展(サトウ画廊 1966年)第3回モンタン賞 松尾一男展(サトウ画廊 1966年)

 このモンタン賞とサトウ画廊を結びつけた張本人は、この画廊に足しげく通っていた美術家の村上善男で、盛岡には「村上に逢いたければ、週末銀座に行け」という合言葉さえあったほどで、毎週末夜行列車で上京し中央の美術関係者と交流を重ねていた。その親密度を示すように、同賞の運営委員にはサトウ画廊主も名を連ねている。

⑨村上善男《頻度n,X》1962年村上善男《頻度n,X》1962年

⑨村上善男展(1959年)村上善男展(1959年)

 このように、音楽、美術といずれの企画も、盛岡という一地方に留まらない何処に出しても恥ずかしくない文化的プロジェクトとして成立していることに注目しなければならない。地方のスナックのイベントに留まらない文化的ムーブメントを巻き興した小瀬川了平という人物は、いったいどんな人だったのだろうか。彼については、残念ながら語られることも、記録が残されていることも非常に少ないのであるが、その根幹をひも解けば一流の食器で一流の食事を提供するという、幼いころから指折りのおもてなしで客人を迎えるという温泉旅館の習わしを目にし、耳にしていた環境的な素地が窺えよう。そこから生まれたのが、最上級のものを提供する場(サロン)の創出という、妥協を許さないこだわりぬいた本物志向の信念ではなかっただろうか。それがアート(美術、音楽、詩)と結びつき、スナックの枠を超えてモンタンという文化的なサロンとなっていった。

⑩大宮政郎《cyborg plan》1962年大宮政郎《cyborg plan》1962年

⑩大宮政郎《CYBORG PLAN-2 ANOTHER FACE》1968年大宮政郎《CYBORG PLAN-2 ANOTHER FACE》1968年

 当然ではあるが、そこには彼を支えた地元のキーパーソンたちの存在も忘れてはならない。前述した村上善男は、アートクラブ会員で集団αに属する美術家。モンタン賞やコンテンポラリーシリーズなど、美術に関わるディレクションを一手に担っていた。それを裏付けるように、開催した展覧会では薄いながらもパンフレットが必ず制作され、そこには評論家や美術家の作家論や紹介文が添えられていた。たとえスナックを会場とする展覧会であっても、記録に残すという印刷媒体の発行は、彼が手掛けた企画のお約束だったといってもいい。また彼は、生前、事あるごとにモンタンの文化的意義をエッセイにしたため、後世にその事績の発掘を託した無二の人でもあった。片や、村上と共に盛岡で美術グループ「集団N39」を結成し、 岩手の美術界やデザイン界に新風を巻き起こしていた美術家でデザイナーの大宮政郎は、店舗デザインのアドバイザーとして度々小瀬川と上京。調度品の選定や店内ディスプレイに関わり、全幅の信頼を得ていた一人である。さらに彼は、小瀬川をはじめモンタン関係者を題材にしたユニークな作品を手がけ、この時代を代弁する貴重な資料としても注目される。詩人では、視覚詩の分野で世界的な評価の高い高橋昭八郎がいる。彼は北園克衛が主宰した「VOUグループ」に所属しており、モンタンでの「VOU形象展」を招致。そこから同会員でジャズ評論家の清水俊彦との縁を取り持ち、モンタンをジャズ発信基地へと押し上げていった陰の立役者でもある。一方、モンタンのバーテンダーであった中村俊亮は、地元では高校時代から既に石川啄木の再来と注目されていた詩人で、彼を慕って多くの詩人仲間が集うサロンでもあった。1965(昭和40)年には、中村の第1詩集『愛なしで』が、東北の優れた詩作に贈られる晩翠賞を獲得、詩人としての地位を確立していく。このように一地方の芸術運動に留まらず、中央とのネットワークを築いていったこの店から、美術や音楽、文芸といった芸術文化の華々しいコミュニティが形成されていったことは驚嘆に値する。

⑪高橋昭八郎《ポエムアニメーション 影》1968年高橋昭八郎《ポエムアニメーション 影》1968年

⑫VOU展会場 1962年VOU展会場 1962年

⑬中村俊亮、大宮政郎、高橋昭八郎、清水俊彦、他中村俊亮、大宮政郎、高橋昭八郎、清水俊彦、他

 味覚の面でも特段のこだわりをみせた小瀬川は、オリジナルのコーヒー豆を使っていたことはいうまでもないが、何時でも誰でも(店員スタッフが、早番遅番と入れ替わっても)美味しいコーヒーを提供できるようにと、当時日本では珍しかった高価なアメリカ製のコーヒー・マシンを導入。また、市内でいち早くソフトクリームの機械を購入し提供し評判となったり、さらには彼が開発した「どんカク」や「ア・ラ・モンタン」(辛くて熱いスープ・スパゲッティ。「盛岡冷麺」に対抗して二日酔いに嬉しい温麺として開発されたという。小瀬川の後を引き継いだ現在の「モンタン」でも提供され、ソウルフードとして現在も市民に愛されている。)を開発したりと、盛岡の新たな味覚を創出、提供していった。

⑭ア・ラ・モンタンア・ラ・モンタン

 盛岡の伝説のスナック、初代「CAFÉモンタン」のマスター小瀬川了平と、そこに集った芸術家たちとの華やいでいた時代の足跡をたどり、この小さなこのスナックが果敢に挑んだ文化的意義を発掘し、これまで全く語られてこなかった戦後美術の一頁を記したいと願っている。
ひらさわ ひろし

■平澤 広(Hirasawa, Hiroshi)
1959年岩手県生まれ。1986年萬鉄五郎記念美術館に勤務、同館学芸員。以来、150以上の企画展を手がける。代表的な展覧会に「萬鉄五郎多面体展」、「岩手近代洋画100年展」、「熊谷守一展」、「絵で読む宮沢賢治展」、「棟方志功 萬鉄五郎に首ったけ展」、「没後90年 萬鉄五郎展」がある。共書に『萬鉄五郎 鉄人アバンギャルド』(二玄社)、『萬鉄五郎書簡集』(萬鉄五郎記念美術館)。岩手大学非常勤講師。

●展覧会のお知らせ
「画廊スナック モンタン展 小瀬川了平が紡いだアートと詩人のコミュニティ」
会期:12月11日~2022年2月23日
会場:萬鉄五郎記念美術館
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花巻出身の小瀬川了平が、1960年代に盛岡の大通り裏に開いた画廊スナック「CAFÉモンタン」には、地元の若き美術家や詩人、さらには中央の美術評論家やジャズ評論家が定期的に集い、そこでは美術、音楽、文芸といった芸術文化の華々しいコミュニティが形成されていました。さらに、小瀬川が主宰する「モンタン賞」と銘打った新人美術家の発掘と支援を目的とする美術コンクールを開催。時代を担う才能豊かなアーティストを発掘するという岩手から全国に向けた美術文化の発信基地となっていました。
本展は、今では忘れられ、語られることのなかった小瀬川了平と芸術家たちとの足跡をたどり、さらにはそこに集った美術家や詩人、文化人たちを紹介します。

●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています。WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
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営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。