中尾美穂「ときの忘れものの本棚から」第11回
鬼海弘雄『靴底の減りかた』
鬼海弘雄『靴底の減りかた』筑摩書房、2016年
写真家、鬼海弘雄(1945~2020年)のエッセイに眩暈を覚えるのは私だけだろうか。
本書は「靴底の減りかた」全20回(初出:アサヒカメラ.net、2010~2013年)をはじめ、大半が文章である。その第1回「青空」で、鬼海弘雄は随筆家の須賀敦子の言葉にならって靴を新調する。いい靴を履けば遠くまで歩くことができ、さらによい写真が撮れるかもしれない。まさか、歩き方の癖が治って「撮る写真までも健康的で、のっぺらぼうになってしまうこともあるまい……」と書く。のっぺらぼうではなりたたない彼の表現を支える町歩き――その1日、1日をたどる言葉の堆積に眩暈がする。
文体は緩やかで、独り言を呟くのに似ている。こんなふうに。
朝から久しぶりに晴れていた。このところのぐずついた天候にうんざりさせられていた。秋の高い青空は気分を軽くする。そうだ、先ずはベランダの枯れていたプチトマトを片付けてから、カメラを持って町歩きにでかけよう。
(「世界に一つだけの花と八つ手の葉」「靴底の減りかた」第5回)
このあとパリの裏通りをくまなく撮影したウジェーヌ・アジェに思いをめぐらせる。もう電車に乗っている。隣の男の膝上にある、マンション管理人の求人広告を隙間なく貼ったボール紙を覗きこむ。几帳面な行為に、管理人には適任にちがいないと思う。それから三ノ輪に行こうと考える。
日々の行き先は、電車賃を目安に決めた都内および近郊の商店街や路地。そして市井の人々を撮りつづける浅草寺の境内。駅から駅へと歩いては、往来の人や建物、路上の草花、空模様などを、自身の過去をからめて子細にとらえる。モツ焼き屋や蕎麦屋で昼食をとる。「ふしぎな存在感のある人」「謎めいた濃い人」とは二、三言、言葉を交わし、「運命的な特徴のある個人商店」を慈しむ。ふと、今夜は何々を食べようと算段して終わる。
雨の日は暗室での紙焼きやスポッティング(写真の修正)にページを割く。長年にわたるトルコへの旅の成果となる写真集『アナトリア』(クレヴィス、2011年)の構成にこだわり、また暗室にこもる。家族や老猫ゴンとのひとときを交える回もあれば、山形県旧・醍醐村の稲作農家に育った幼少期から、哲学者である恩師、福田定良との出会い、「肉体労働で食いつないで」いるうちにダイアン・アーバスの肖像写真集に影響を受けて本格的に写真を撮るまでの折々を回想する回もある。
描写をつなぐ文脈の深度が興味深い。記憶をほぐしては、時間をかけて反芻するのにちがいない。
その結果、言葉の反復にユーモアとペーソスが漂う。高級スポーツカーを「1千万」、ランナー姿の老人を「健康志向」の男、宿の応対が良いと駐車場にいるのも「品のある」野良猫たち、カチューシャをつけた「お洒落な」おばあさん。彼女の手首に巻かれた数本の輪ゴムに母親もそうだったと思い出す。アップリケをつけた手編みセーターの乗客は「背中の大きなミッキーマウス」。その「少女趣味」の年配男性が「不当な扱いを受けていなければいいのだが」と願う。身なりや独自の習慣から人となりを一瞬ですくっていくが、そこに目新しさや奇異をみてはいない。
風景にも住民の几帳面さ、実直さを読む。作られた下町風情でなく、何の変哲もなさそうな木造家屋の2階に干された魚の開きや、彩色したペットボトルの風車がカラカラと廻る店に強い個性をみるのである。その部分だけが、遠い荒野の心象風景へポーンと飛んでいきそうな気がする。
してみると、鬼海弘雄がみせたいのは人というものの<普遍性>。人間界の外からの不可抗力を甘受する力かもしれない。彼が台湾の侯孝賢監督やギリシャのテオ・アンゲロプロス監督の映画に共感を抱くのも頷けよう。主人公(たち)をとりまく群像や舞台に民族の歴史や人生の喜怒哀楽がにじみ、世界中の人々に強烈なノスタルジーを与えるからだ。
写真には映像も音楽も言葉もない。彼自身、ポートレートを始めて「写真がいかに写らないか」を知ったという。しかしながら「めったに撮れなかったがある手応えを感じるようになってもいた」と自負する。『王たちの肖像:浅草寺境内』(矢立出版、1987年)、『PERSONA』(草思社、2003年)を経て『PERSONA最終章=PERSONAL: The Final Chapter:2005-2018』(筑摩書房、2019年)に至る人々のポートレート、『東京迷路:鬼海弘雄作品集』(小学館、1999年)『東京夢譚:labyrinthos』(草思社、2007年)や本書掲載の路地のポートレート、前掲書や『INDIA:1979~2016』(クレヴィス、2017年)等の、トーンを抑えたモノクローム写真を開くと、時間の重みに驚く。また「スポットの時間に堪えられない写真は、表現が浅いので、除くことにしている」というほど厳選された写像は、一瞬、直視をためらわせる。このざわつく不穏な感覚の理由を、作者みずから追求しすぎてしまわないことに安堵した。
謎めいた部分を謎めいたまま提示できるのが、写真の強みである。それを踏まえてか、エッセイでも撮影対象との関係を突きつめない。だからこそ自身の表現哲学をあらわす最後の数行を意外に思い、印象に残った。
素人が苦労して綴った文章だが、やはり抽象へ跳べずに地べたからはなれることができない季節外れの打ち水のように取り留めがない。たぶん、わたしは今でも写真の静止画像だけが観念的にならずに具体のまま普遍に到達できるかもしれないという妄想からまだ覚めないでいるからだろう。
(本書「こぼれる水のように あとがきにかえて」)
(なかお みほ)
■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
池田満寿夫研究をライフワークとする中尾美穂さんの連載エッセイ「ときの忘れものの本棚から」は奇数月の19日に掲載します。
次回は2022年3月19日の予定です。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています。WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
鬼海弘雄『靴底の減りかた』

写真家、鬼海弘雄(1945~2020年)のエッセイに眩暈を覚えるのは私だけだろうか。
本書は「靴底の減りかた」全20回(初出:アサヒカメラ.net、2010~2013年)をはじめ、大半が文章である。その第1回「青空」で、鬼海弘雄は随筆家の須賀敦子の言葉にならって靴を新調する。いい靴を履けば遠くまで歩くことができ、さらによい写真が撮れるかもしれない。まさか、歩き方の癖が治って「撮る写真までも健康的で、のっぺらぼうになってしまうこともあるまい……」と書く。のっぺらぼうではなりたたない彼の表現を支える町歩き――その1日、1日をたどる言葉の堆積に眩暈がする。
文体は緩やかで、独り言を呟くのに似ている。こんなふうに。
朝から久しぶりに晴れていた。このところのぐずついた天候にうんざりさせられていた。秋の高い青空は気分を軽くする。そうだ、先ずはベランダの枯れていたプチトマトを片付けてから、カメラを持って町歩きにでかけよう。
(「世界に一つだけの花と八つ手の葉」「靴底の減りかた」第5回)
このあとパリの裏通りをくまなく撮影したウジェーヌ・アジェに思いをめぐらせる。もう電車に乗っている。隣の男の膝上にある、マンション管理人の求人広告を隙間なく貼ったボール紙を覗きこむ。几帳面な行為に、管理人には適任にちがいないと思う。それから三ノ輪に行こうと考える。
日々の行き先は、電車賃を目安に決めた都内および近郊の商店街や路地。そして市井の人々を撮りつづける浅草寺の境内。駅から駅へと歩いては、往来の人や建物、路上の草花、空模様などを、自身の過去をからめて子細にとらえる。モツ焼き屋や蕎麦屋で昼食をとる。「ふしぎな存在感のある人」「謎めいた濃い人」とは二、三言、言葉を交わし、「運命的な特徴のある個人商店」を慈しむ。ふと、今夜は何々を食べようと算段して終わる。
雨の日は暗室での紙焼きやスポッティング(写真の修正)にページを割く。長年にわたるトルコへの旅の成果となる写真集『アナトリア』(クレヴィス、2011年)の構成にこだわり、また暗室にこもる。家族や老猫ゴンとのひとときを交える回もあれば、山形県旧・醍醐村の稲作農家に育った幼少期から、哲学者である恩師、福田定良との出会い、「肉体労働で食いつないで」いるうちにダイアン・アーバスの肖像写真集に影響を受けて本格的に写真を撮るまでの折々を回想する回もある。
描写をつなぐ文脈の深度が興味深い。記憶をほぐしては、時間をかけて反芻するのにちがいない。
その結果、言葉の反復にユーモアとペーソスが漂う。高級スポーツカーを「1千万」、ランナー姿の老人を「健康志向」の男、宿の応対が良いと駐車場にいるのも「品のある」野良猫たち、カチューシャをつけた「お洒落な」おばあさん。彼女の手首に巻かれた数本の輪ゴムに母親もそうだったと思い出す。アップリケをつけた手編みセーターの乗客は「背中の大きなミッキーマウス」。その「少女趣味」の年配男性が「不当な扱いを受けていなければいいのだが」と願う。身なりや独自の習慣から人となりを一瞬ですくっていくが、そこに目新しさや奇異をみてはいない。
風景にも住民の几帳面さ、実直さを読む。作られた下町風情でなく、何の変哲もなさそうな木造家屋の2階に干された魚の開きや、彩色したペットボトルの風車がカラカラと廻る店に強い個性をみるのである。その部分だけが、遠い荒野の心象風景へポーンと飛んでいきそうな気がする。
してみると、鬼海弘雄がみせたいのは人というものの<普遍性>。人間界の外からの不可抗力を甘受する力かもしれない。彼が台湾の侯孝賢監督やギリシャのテオ・アンゲロプロス監督の映画に共感を抱くのも頷けよう。主人公(たち)をとりまく群像や舞台に民族の歴史や人生の喜怒哀楽がにじみ、世界中の人々に強烈なノスタルジーを与えるからだ。
写真には映像も音楽も言葉もない。彼自身、ポートレートを始めて「写真がいかに写らないか」を知ったという。しかしながら「めったに撮れなかったがある手応えを感じるようになってもいた」と自負する。『王たちの肖像:浅草寺境内』(矢立出版、1987年)、『PERSONA』(草思社、2003年)を経て『PERSONA最終章=PERSONAL: The Final Chapter:2005-2018』(筑摩書房、2019年)に至る人々のポートレート、『東京迷路:鬼海弘雄作品集』(小学館、1999年)『東京夢譚:labyrinthos』(草思社、2007年)や本書掲載の路地のポートレート、前掲書や『INDIA:1979~2016』(クレヴィス、2017年)等の、トーンを抑えたモノクローム写真を開くと、時間の重みに驚く。また「スポットの時間に堪えられない写真は、表現が浅いので、除くことにしている」というほど厳選された写像は、一瞬、直視をためらわせる。このざわつく不穏な感覚の理由を、作者みずから追求しすぎてしまわないことに安堵した。
謎めいた部分を謎めいたまま提示できるのが、写真の強みである。それを踏まえてか、エッセイでも撮影対象との関係を突きつめない。だからこそ自身の表現哲学をあらわす最後の数行を意外に思い、印象に残った。
素人が苦労して綴った文章だが、やはり抽象へ跳べずに地べたからはなれることができない季節外れの打ち水のように取り留めがない。たぶん、わたしは今でも写真の静止画像だけが観念的にならずに具体のまま普遍に到達できるかもしれないという妄想からまだ覚めないでいるからだろう。
(本書「こぼれる水のように あとがきにかえて」)
(なかお みほ)
■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。

次回は2022年3月19日の予定です。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています。WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
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