第七画廊のこと
三上 豊
画廊回り、この言葉自体はもう死語かもしれない。1960年代初頭から、銀座を中心に画廊は増え、80年代には、石を投げれば、飲み屋か画廊に当たるともいわれた。70年代半ばから、美術雑誌の編集者だった私も仕事で画廊回りを始めた。新橋から神田まで、1日の午後を使って、毎週のように歩いた。中央通りを挟んで点在する画廊群を効率よく見て回るには、ビルとビルの間のケモノ道のような細い抜け道を通るルートもあった。現在、もはや巡る画廊の数も少なく、加齢もあって、月に何度か特定の画廊に足を運ぶしかなくなっている。かつてあった画廊の前にくると、ふと記憶がよみがえる。
第七画廊は、多くの画廊がある銀座ではなく、新橋2丁目19の2番地にあった。高速道路を潜り、外堀通りから昭和通りへいたるカーブを渡ること、道1本をわたること、それが意外と面倒なこともあった。新橋の交差点の明るさが眩しすぎた。逆に第七画廊側からみれば、銀座の空間は明るすぎたのかもしれない。銀座、商売においては全国に鳴り響くブランドでもあった。とはいえ、第七画廊が銀座を意識したというよりも、自社ビルの1階にあったことが、運営の方向を導き出したともいえる。画廊主は岡本武次郎。建物は実父の遺産である。兄は美術批評家の岡本謙次郎。昔、画家になりたかった武次郎の思いは画廊運営にかわった。開廊に際して兄に相談、謙次郎は「自分が支持する画家たちの作品はおそらく売れないだろう。三年間赤字続きでももちこたえられるならば」の条件で、66年10月、難波田龍起の個展からスタートする。企画展を中心に会期は3週間を基本とした。
画廊の入り口はガラス張りで、ノブの黒い円板には7の数字があり、押して(いや引いてだったか)入ると、縦に細長い空間が広がり、向かって右側が少し広く、奥に事務所があった。入りやすい雰囲気で、100号ぐらいは数点展示できた。壁面は40メートル。今、展覧会履歴をみると、大人の作家の画廊だと思う。開廊記念展の難波田龍起は当時60代前半、その他の作家もそう若くはない。貸画廊で1週間で終わる若者でなく、3週間の会期でじっくり鑑賞できる力を持った作家たちが並んでいる。ある時、画家の藤沢典明さんの個展があった。画廊に入ると、数脚のスツールがあり、座ってぐるりと視線を巡らすと、立ち位置の視線の高さに設定されている壁面の絵画が、落ち着いた雰囲気を醸し出していたぼんやりとした記憶がある。
山崎省三の「新しい画商」(『藝術新潮』、1968年4月号)によれば、岡本武次郎は、東京高等畜産学校を卒業後、獣医として農林省に入省。大陸で敗戦を迎え、ソ連の収容所を経て、中国の豪農のもとで労働に従事。帰国後は戦災孤児の救援施設としての恵明学園の創立メンバーとして活動した。自ら「画商でなくカ商」と称していたという。
「銀座」という暖簾から一歩離れた味のある画廊は、80年7月「第7画廊展」で閉廊した。
(みかみ ゆたか)

第七画廊の外観(1967年1月 難波田史男の初個展、難波田家所蔵写真)

1969年6月第七画廊で第二回個展開催。難波田史男(28歳)、三和アルテ記念室『難波田史男作品集』(1999年)所収写真

1970年3月第七画廊で難波田龍起個展、難波田龍起(64歳)。正面奥の120号「生命体の集合」など油彩25点、陶芸作品10点、ステンドグラス1点を出品。詳しくは2020年8月29日ブログを参照。(難波田家所蔵写真)

右が難波田龍起(難波田家所蔵写真)。


1970年3月難波田龍起個展の案内状(難波田家所蔵資料)
■三上 豊(みかみ ゆたか)
1951年東京都に生まれる。11年間の『美術手帖』編集部勤務をへて、スカイドア、小学館等の美術図書を手掛け、2020年まで和光大学教授。現在フリーの編集者、東京文化財研究所客員研究員。主に日本近現代美術のドキュメンテーションについて研究。『ときわ画廊 1964-1998』、『秋山画廊 1963-1970』、『紙片現代美術史』等を編集・発行。
*画廊亭主敬白
本日1月29日は難波田史男の命日です(1941年4月27日 - 1974年1月29日)。
<1974(昭和49]年1月29日未明、兄・紀夫とともに出かけた九州旅行の帰路、瀬戸内海にて、小倉発神戸行きフェリー「はりま」のデッキから転落し、消息を絶つ。3月7日、香川県三豊市の箱崎沖にて、漁船により遺体が収容され、死亡が確認された。享年32歳。(2014年世田谷美術館『難波田史男の世界ーイメージの冒険』展図録所収の略年譜より)>
ときの忘れものでは没後50年となる2024年に難波田史男の回顧展を計画しており、今年からブログで難波田史男の生涯と作品について、研究者たちによるエッセイを随時掲載してまいります。
難波田史男は32歳の短い生涯でしたが、2000点余の作品を遺しています。岡本謙次郎の勧めで父・難波田龍起と縁も深い第七画廊で初個展を開いたのは1967年1月でした。
1980年には閉まっているので、いまの若い世代は第七画廊といってもおわかりにならないでしょう。街の画廊の歴史に詳しい三上豊先生に、難波田史男のデビュー展を開催した第七画廊についてご寄稿いただきました。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています。WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
三上 豊
画廊回り、この言葉自体はもう死語かもしれない。1960年代初頭から、銀座を中心に画廊は増え、80年代には、石を投げれば、飲み屋か画廊に当たるともいわれた。70年代半ばから、美術雑誌の編集者だった私も仕事で画廊回りを始めた。新橋から神田まで、1日の午後を使って、毎週のように歩いた。中央通りを挟んで点在する画廊群を効率よく見て回るには、ビルとビルの間のケモノ道のような細い抜け道を通るルートもあった。現在、もはや巡る画廊の数も少なく、加齢もあって、月に何度か特定の画廊に足を運ぶしかなくなっている。かつてあった画廊の前にくると、ふと記憶がよみがえる。
第七画廊は、多くの画廊がある銀座ではなく、新橋2丁目19の2番地にあった。高速道路を潜り、外堀通りから昭和通りへいたるカーブを渡ること、道1本をわたること、それが意外と面倒なこともあった。新橋の交差点の明るさが眩しすぎた。逆に第七画廊側からみれば、銀座の空間は明るすぎたのかもしれない。銀座、商売においては全国に鳴り響くブランドでもあった。とはいえ、第七画廊が銀座を意識したというよりも、自社ビルの1階にあったことが、運営の方向を導き出したともいえる。画廊主は岡本武次郎。建物は実父の遺産である。兄は美術批評家の岡本謙次郎。昔、画家になりたかった武次郎の思いは画廊運営にかわった。開廊に際して兄に相談、謙次郎は「自分が支持する画家たちの作品はおそらく売れないだろう。三年間赤字続きでももちこたえられるならば」の条件で、66年10月、難波田龍起の個展からスタートする。企画展を中心に会期は3週間を基本とした。
画廊の入り口はガラス張りで、ノブの黒い円板には7の数字があり、押して(いや引いてだったか)入ると、縦に細長い空間が広がり、向かって右側が少し広く、奥に事務所があった。入りやすい雰囲気で、100号ぐらいは数点展示できた。壁面は40メートル。今、展覧会履歴をみると、大人の作家の画廊だと思う。開廊記念展の難波田龍起は当時60代前半、その他の作家もそう若くはない。貸画廊で1週間で終わる若者でなく、3週間の会期でじっくり鑑賞できる力を持った作家たちが並んでいる。ある時、画家の藤沢典明さんの個展があった。画廊に入ると、数脚のスツールがあり、座ってぐるりと視線を巡らすと、立ち位置の視線の高さに設定されている壁面の絵画が、落ち着いた雰囲気を醸し出していたぼんやりとした記憶がある。
山崎省三の「新しい画商」(『藝術新潮』、1968年4月号)によれば、岡本武次郎は、東京高等畜産学校を卒業後、獣医として農林省に入省。大陸で敗戦を迎え、ソ連の収容所を経て、中国の豪農のもとで労働に従事。帰国後は戦災孤児の救援施設としての恵明学園の創立メンバーとして活動した。自ら「画商でなくカ商」と称していたという。
「銀座」という暖簾から一歩離れた味のある画廊は、80年7月「第7画廊展」で閉廊した。
(みかみ ゆたか)

第七画廊の外観(1967年1月 難波田史男の初個展、難波田家所蔵写真)

1969年6月第七画廊で第二回個展開催。難波田史男(28歳)、三和アルテ記念室『難波田史男作品集』(1999年)所収写真

1970年3月第七画廊で難波田龍起個展、難波田龍起(64歳)。正面奥の120号「生命体の集合」など油彩25点、陶芸作品10点、ステンドグラス1点を出品。詳しくは2020年8月29日ブログを参照。(難波田家所蔵写真)

右が難波田龍起(難波田家所蔵写真)。


1970年3月難波田龍起個展の案内状(難波田家所蔵資料)
■三上 豊(みかみ ゆたか)
1951年東京都に生まれる。11年間の『美術手帖』編集部勤務をへて、スカイドア、小学館等の美術図書を手掛け、2020年まで和光大学教授。現在フリーの編集者、東京文化財研究所客員研究員。主に日本近現代美術のドキュメンテーションについて研究。『ときわ画廊 1964-1998』、『秋山画廊 1963-1970』、『紙片現代美術史』等を編集・発行。
*画廊亭主敬白
本日1月29日は難波田史男の命日です(1941年4月27日 - 1974年1月29日)。
<1974(昭和49]年1月29日未明、兄・紀夫とともに出かけた九州旅行の帰路、瀬戸内海にて、小倉発神戸行きフェリー「はりま」のデッキから転落し、消息を絶つ。3月7日、香川県三豊市の箱崎沖にて、漁船により遺体が収容され、死亡が確認された。享年32歳。(2014年世田谷美術館『難波田史男の世界ーイメージの冒険』展図録所収の略年譜より)>
ときの忘れものでは没後50年となる2024年に難波田史男の回顧展を計画しており、今年からブログで難波田史男の生涯と作品について、研究者たちによるエッセイを随時掲載してまいります。
難波田史男は32歳の短い生涯でしたが、2000点余の作品を遺しています。岡本謙次郎の勧めで父・難波田龍起と縁も深い第七画廊で初個展を開いたのは1967年1月でした。
1980年には閉まっているので、いまの若い世代は第七画廊といってもおわかりにならないでしょう。街の画廊の歴史に詳しい三上豊先生に、難波田史男のデビュー展を開催した第七画廊についてご寄稿いただきました。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています。WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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