石原輝雄のエッセイ「美術館でブラパチ」─15

『プロレタリアの手』

展覧会 アヴァンガルド勃興──近代日本の前衛写真
    東京都写真美術館 3階展示室
    2022年5月20日(金)~8月21日(日)

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展示室第5章東京の壁面 左から永田一脩(6点)に続き濱谷浩(4点) 撮影: 宇都宮俊之

 マン・レイの受容史に関心を持つ者にとって、長く待ち望んだ前衛写真にフォーカスした展覧会が東京で開かれている。友人から作品リストを送ってもらい会場の様子を想像しながら、出掛けたいと思いつつ、相変わらずの自粛生活を続ける身、せめてもとカタログの発刊を待った。今回は国書刊行会から一般書籍扱いでの出版、しかし、遅れましたな。展覧会初日からおよそ1ヶ月、京都で入手したのは6月21日だった。
 急いで大判のカタログ頁を捲ると、木村伊兵衛や小石清が造形の見事さに唸ったマン・レイの『りんごとねじ』(1931年)から濱谷浩の終戦を象徴する『敗戦の日の太陽』(1945年)まで、およそ36作家、177点が紹介されている。楽しく見ていたのだが、172頁に置かれた作品のキャプション「5-13 永田一脩 題不詳(手) c.1930s」で目が釘付けとなった。
 すでに、ときの忘れものブログ6月27日の同展紹介記事においてキャプションの「不親切」から、「素人(観客)が普通に見れば永田一脩がマン・レイをパクったと思うでしょう」と指摘されているので、永田の名誉の為にも、これを報告したい。「美術館でブラパチ」から、逸脱するかしら……

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カタログ 172-173頁 「左はマン・レイだけど」(石原)

 展覧会に足を運んだ友人・知人の幾人かは永田作品だと第一印象を伝えてきた。「手の形、肌の様子が違う」と言う。カタログ12頁の「1-5 マン・レイ  映画『ひとで』より 1928」の図版と見比べながら1930年代の写真や映画の状況を、写真の基と思われるマン・レイの前衛映画『ひとで』受容を縦糸に概観する。

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カタログ 12-13頁 左:マン・レイ(1-5) 右:ウジェーヌ・アジェ(1-6) 


1. 前衛映画『ひとで』紹介・輸入

友人のシュルレアリスト、ロベール・デスノスの詩に触発され映像化を思い立ったマン・レイは即興でシナリオを作り撮影に取り掛かる。キキ・ド・モンパルナスが主演女優を務め「詩の音声と視覚的なイメージのまざりあった……官能的な映画」(ニール・ボールドウィン『マン・レイ』鈴木主税訳 草思社、1993年 以後注1)『ひとで』として仕上がり、1928年5月にステュディオ・デ・ユルスリーヌで公開され大評判となった。丁度、日本でマン・レイの仕事に興味を持っていた詩人の竹中郁が外遊中で、10月頃に鑑賞。それまでの映画では持ち得なかった「シネ・ポエム」の世界に興味が高まり、雑誌や新聞で紹介すべくアトリエにマン・レイを訪ね、「連続性の中のリズムが人間の呼吸のようだった」と伝へ、前作『エマク・バキア』を含め4、5枚の場面写真の提供を受ける。気安く写真にサインもしてくれたと云う。

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ステュディオ・デ・ユルスリーヌプログラム 
左:1928年2月18日 21.2×13.6cm 右:1929年10月頃(『ひとで』上映) 20.4×13cm

 残念ながら東京都写真美術館で展示されている写真(1-5)は、竹中が持ち帰ったトリミングとは異なっている。マン・レイが亡くなった頃のプリント(いわゆるモダンプリント)は原版のイメージを再現する様式でトリミングを廃し、フランス風の柔らかな調子で焼き付けた例が多い。作品というより資料と位置づけるのが妥当であるのかもしれない。写真専門の美術館で初出(撮影年度等)と後焼きの区別表記が欠落しているのも「不親切」ですな。

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『マン・レイ:間違い映画監督』展カタログ(ポンピドゥーセンター、1997年 20.9×15cm) 74-75頁

 私見であるが、バランスから、映画撮影時に別途撮られたスチール写真と考える。血が滲み出たような不気味な手を広げているのは「デスノスの近所に住む背の高い金髪の青年アンドレ・ド・ラ・リヴィエール」(注1)で、ポンピドゥーセンターが1997年に開催した『マン・レイ: 間違い映画監督』のカタログには、撮影の様子を推測できる図版も掲載されている(60頁)。トリミングした写真を竹中に渡したのですな、『詩と詩論』の該当頁を見てもらいたい。

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『詩と詩論』第三冊 厚生閣 1929年3月(近代詩誌復活叢書、冬至書房新社 1979年) 209頁 竹中郁「マン・レイ氏に就いて」 右:図版 映画「ヒトデ」より

 竹中郁は「百円位でマン・レイのフィルムが買へるなら、かってかへりたいものです」と詩友・近藤東宛私信に書いているが、同時期に欧州を外遊した左翼的傾向の『何が彼女をさうさせたか』(1930年)で知られる映画監督・鈴木重吉は槌谷茂一郎の協力のもと『ひとで』の他、ジェルメール・デュラック『貝殻と僧侶』(1928年)、G・ラコンブ『ラ・ゾーン』(1928年)、D・キルサノフ『秋の霧』(1929年)などフランスの前衛映画4本を買い付けた(西村智弘『日本実験映像史』美術批評誌『あいだ』連載 2003年)。鈴木は前衛映画に熱中したようで所蔵資料を使い1930年には『先端的フランス映画芸術展覧会』を東京、京都で開催、『ひとで』の場面写真7点も紹介している。手許資料の出品目録の付記に「今回は主にフランス先端的映画の作品をフィルムから引伸して御覧に入れる事が出来た 而し之等のフィルムは近日適当な方法で上映する事になっている是非期待して戴きたい」とある。展示された写真の詳細は不明だが、当時の新聞や映画雑誌に「短刀を翳す」場面や「ベットから美しい足が滑り降りる」場面などが紹介されている。しかし、試写会が行なわれたものの『ひとで』と『貝殻と僧侶』の2作品は検閲を通らなかった。──「わけがわからない」と言う識者が多く左翼思想への警戒が持たれたこと、『ひとで』においてはキキの脱衣シーンへの過剰な反応等が考えられる。後にキネマ週報社の尽力で公開される(後述)が、283メートルのフィルムの大半はどこかに消え失せたと映画評論家の内田岐三雄が証言している。

 余談になるが当時の映画ファンの間では、フィルムのコマ集めがブームで、輸入元から切ったのをもらったり、映写室の技師と懇意になって入手したらしく、二流館で上映される頃には、ずいぶん短くなったと伝聞する。これもオリジナルとデュープで評価が分かれ、フィルムに色が付いたのもあったと云う。


2. プロレタリアの手 

 山口泰二の『変動期の画家』(美術運動史研究会、2015年)によると永田一脩はマン・レイより13歳若い1903年福岡県門司市生まれ。東京美術学校で学び(藤島武二教室)、 洋画家として出発。関東大震災を経験し、ロシア構成主義や新劇運動に興味をもち、プロレタリア美術運動に参加。論客で、機関誌等で活躍。単書に『プロレタリア絵画論』(天人社、1931年)などがある。また、装幀や雑誌・ポスターのデザインも数多く「外国の写真を切り取り、あるいはコラージュして独自のレタリングと組み合わせている」。1928年に発表された油彩『プラウダをもつ蔵原惟人』で知られるが1930年5月、特高警察により検挙・拘留された(刑3年執行猶予5年)。小生が永田の名前を知ったのはマン・レイのファッションの仕事などを含めた海外雑誌の頁を図版で示した『フォトタイムス』(1938年1月号)の「モード写真=モード写真の特異性」と題した記事だった。

 行動に制限を受けた永田一脩と前述した鈴木監督、及び輸入した映画『ひとで』との接点を確認できないが(あるとして)、映画が先行し写真が追従した社会状況(諸説あり)の中で「写真評論・写真家として先端的な位置を占めた」永田が、マン・レイの映画に、自己と関わるイメージを見つけたと考えることは可能である。これまでの日本で知られるスチール写真は、瀧口修造が回想する「美しい足」(後述)や詩誌『ひとで』の表紙を飾った「短刀を翳す」場面などだが、こちらはシュルレアリスム的な「美」あるいは「驚異」。
 永田が(5-13)のような「手」のイメージに惹かれた心情は理解できる。これは労働者の手、汚れた働く手。ルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリ合作の映画『アンダルシアの犬』(1929年公開)で衝撃を受けた眼球が剃刀で切られる場面や蟻が群がる手の場面を想起させる。心揺さぶる抗議の声、決起に至るプロレタリアの手なのである。

 展示写真(5-13)の原版は映画『ひとで』のフィルムのコマ(デュープ)なのか。スチール写真を複写したものなのか、複製の頻度や焼込みで調子が変わったのか。さらに、永田の焼付なのか、別の誰かによるものか、── 永田一脩のもとに残されていたこと以外、今ではなにも分からない。研究資料であったかもしれないし、オマージュとして眺めたのかもしれない。
 担当学芸員の藤村里美は「マン・レイにインスパイアされた永田作品」と解しておられるが、制作年代も含め、印画紙のサイズが気にかかる。


3. 東京都写真美術館3階展示室

 瑛九のフォト・デッサンを表紙に使ったモダンなカタログとはいえ、頁を捲った印象のみで本稿を進めるのは問題があると理解している。幸い東京都写真美術館のコレクションについてはパチリが許されているので、丁度出掛けるという友人の宇都宮俊之に、会場の撮影をお願いした(深謝)。
展示は5つの章に区切られているものの、作品の間隔は同じようで、最初に作家のプロフィールが下段にある他は作家性の差異はあまり配慮されていない印象を持った。展示5番目のイメージは会場の最終章で蘇るのだろうか。カタログが置いてなければ差異は確認出来ません、出てしまえば後の祭り。コロナ対策の側面もあるので、これも難しい。

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展示室第1章インパクト(同時代の海外作家)の壁面 左からマン・レイ作品:1-5 映画『ひとで』より 1928、1-4 長い髪の女 1929 撮影: 宇都宮俊之

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展示室第5章東京の壁面 左から永田一脩作品とされる3点、5-12 火の山 1939、5-13 題不詳(手) c.1930s、5-14 題不詳(石膏像) c.1937 撮影: 宇都宮俊之


4.  『ひとで』一般上映

 映画『ひとで』を改めて観る。内容の詳細については拙著『三條廣道辺り』(銀紙書房、2011年)に書いたので、ここでは永田作品と関連する部分を確認する。16分程の映写時間のうち、挿入字幕「美しい、肉体の花のように」以降の10分57秒前後に現れる。「手」に動きがあるのでコマの特定は専門家の判断を待たねばならないだろう。ちなみに「美しい足」は10分5秒、「短刀を翳す」は11分51秒。これらのシーンでは字幕も重要で物語のクライマックスに当たると言える(上映時間は参考)。

 戦前に遡り『映画検閲時報』(内務省警保局編、復刻版、不二出版、1985年)を開くと、キネマ週報社が申請した映画『ひとで』の検閲が行われたのは1933年1月21日と分かる。記録では「制限事項1 切除1、第1巻第2字幕の前後に於て男に見送られたる女が部屋に於て脱衣して寝床に入る場面切除18メートル(風俗)」とある。前述した内田の回想に「公開されたものは、映画の原型の約半分であり、マン・レイの意図するところは、全部失くなっていたといっていい。惜しいことであった」(『欧米映画論』書林絢天洞、1935年)とあるので、どんな『ひとで』を人々が観たのか分からない。ここでは最初の一般上映記録を転記する。大阪中之島・大阪朝日会館1933年2月8・9日、東京丸ノ内・邦楽座2月16日─、名古屋・八重垣劇場3月24日─、金沢・金沢市仙石町教育会館4月23日など。
 この後、娯楽性の乏しい無声の前衛映画は忘れられるが、1937年になるとシュルレアリスム運動の世界的広がりに照応し『貝殻と坊主』と共に発掘再上映されて行く。これも記録を転記する。東京・シネマ・パレス1937年3月6日(資料未見)、神戸・朝日館4月30日、京都・京極映画劇場9月27日─29日、東京新宿・新宿映画劇場10月7日など。これらの資料探しは、日暮れて道遠しです。

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左:邦楽座プログラム89号 1933年2月 『ひとで』『貝殻と僧侶』上映 18.9×12.8cm 
右:詩誌『手紙』第4冊 1934年9月(手紙のクラブ、発売ボン書店)  表紙『ひとで』 19.2×13.3cm。

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左:京極映画劇場プログラム51号1937年9月『ひとで』『貝殻と僧侶』上映、浅原清隆「『ひとで』『貝殻と僧侶』評」18.9×13.1cm 
右:『映画無限』第8冊 1937年4月(映画無限編集部)『アラン』『ひとで』『貝殻と僧侶』上映告知(朝日館)、岡田眞吉「ひとで・解説」 22.3×15.4cm

 戦後の日仏文化交流でマン・レイを含むアヴァンガルド映画が国立近代美術館(フイルムセンター)に所蔵されたのは1960年代にはいってからである。


5. 瀧口修造「美しい足」

 前後するが、『フォトタイムス』の1931年8月号でマン・レイを紹介した瀧口修造は、映画『ひとで』の製作者としてマン・レイの名が広く印象付けられたとしつつ「それも試写グループ内での反響にとどまったように見えて、彼の芸術の全的地位については殆ど問題とされていない」と実状を訴え、レイヨグラフや肖像写真、絵画の仕事を踏まえてシュルレアリストの芸術探求への共感を明らかにしている。ここでは本稿に関連する部分を引用する──「彼の作品のような映画も日本で上映される日が早く来ることを希望する。そして真摯な写真芸術家によって彼の作品と精神とはもっと研究されなければならない」とし、紹介図版はレイヨグラフ10点、『ひとで』の「美しい足」と『エマク・バキア』の「光が踊る」スチール写真2点。

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『フォトタイムス』1931年8月号(フォトタイムス社)126-127頁 瀧口修造「マン・レイ論」 図版:マン・レイの作品 映画「ひとで」「エマク・バキア」

 後年、瀧口は1940年前後に自身も参加する「アヴァンガルド芸術家クラブ」が主催した『ひとで』などの上映会が不許可になった当時を、自室に置いた「古風なセピヤ調に変色した」「美しい足」の写真を前に「熱心な推進者のひとり浅原清隆が苦心してフィルムから数場面を伸ばしておいたのだ。その浅原もやがて戦死し、私はその印画を戦災で失った。私の机上にあるのは当時の協力者のひとり宮城輝夫氏から記念にと贈られたもの。映画『ひとで』の遥かな国における、もうひとつの物語である」(『マン・レイはマン・レイである』シュルレアリスムと画家叢書「骰子の7の目」月報4号、河出書房新社、1975年)と回想している。

 拙宅で京都映画劇場のプログラムに浅原清隆の名前を見付けると、瀧口の机上ではないが、「美しい足」の後に現れた「プロレタリアの手」にまつわる、新しい物語を読んでいる感覚。新興写真運動につらなる「前衛写真協会」では瀧口と永田、さらに宮城との接点があり、浅原を通して『ひとで』のフィルムが永田一脩につながるのではないか、鈴木監督も含め探索の糸が絡み合う。戦後の永田は魚拓作りの名人だから、この「手」も墨を塗ってなどと妄想が広がりますな……


6. わたしの『ひとで』体験

 さて、とりとめなく書いてしまった。マン・レイの『ひとで』を初めて鑑賞してからの45年が去来する。光の帯が暗闇を走りスクリーンに「シネ・ポエム」を映し出した時代は遠い。劇場そのものがアヴァンガルドで、舞い上がった埃が、キラキラと輝いた時代の魅力は、昨今のモニター再現では如何ともし難い。

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ギャラリー176『ひとで』映写 出演者等紹介字幕 キキ、アンドレ・ド・ラ・リヴィエール、ロベール・デスノス

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同上 「美しい足」の場面

 告白するが、そうした上映でも、どこか無理して理解しようとした部分があったように思う。伴奏音楽が追加されたVHSでも、リズムに違和感が残っていた。この謎は2017年8月になって、ギャラリー176(阪急電車宝塚線服部天神駅近く)で開催された『写真家マン・レイの前衛映画』鑑賞で解明された。主催された皆様に感謝申し上げる。マン・レイの主要映画4本(『理性に帰る』『エマク・バキア』『ひとで』『サイコロ城の秘密』)が鳥飼りょうの生演奏とともに、映画研究家・富岡邦彦(プラネットプラスワン)による映写速度を1920年代の毎秒16コマに戻しての上映だったのである。

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プラネットプラスワン 映写機 巻き戻し

 富岡は「映写機を改造して16コマにしています。デジタルで残すのは危険なので、アーカイバルは原則オリジナルでしています。この映写機もランプが壊れたらどうしようかと、思いながら持ってきました」と会場で語った。わたしにとって、夢のような、まったく新しい『ひとで』の鑑賞だったのである。艶めかしいキキの動き、リヴィエールが見つめる色白の「手」、竹中郁になった気分といえようか。

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 本稿がブログに掲載された後も、会場のキャプションは変わらないままだと思う。カタログの補足説明もないままだと思う。マン・レイを敬愛する者としては、とてもつらい。この気持ちは理解してもらえないだろうな。

(いしはら てるお)

・石原輝雄さんのエッセイ「美術館でブラパチ」は隔月・奇数月の18日に更新します。次回は9月18日です。どうぞお楽しみに。

◆明日から「銀塩写真の魅力VIII展」
銀塩写真の魅力展_表
会期=2022年7月19日(火)~7月30日(土) 11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊
出品=ジャン=ウジェーヌ・アジェ(1857-1927)、イモージン・カニンガム(1883-1976)、マン・レイ(1890-1976)、ロベール・ドアノー(1912-1994)、風間健介(1960-2017)、奈良原一高(1931-2020) 出品全作品の画像とデータは7月15日ブログをご参照ください。

●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
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