王聖美のエッセイ「気の向くままに展覧会逍遥」第22回
武蔵野美術大学美術館
「原弘と造形:1920年代の新興美術運動から」展を訪れて
グラフィックデザイン分野の資料、とりわけポスターを収蔵するミュージアムや資料館は、大阪中之島美術館、たばこと塩の博物館、資生堂企業資料館、多摩美術大学アートアーカイヴセンター、京都工芸繊維大学美術工芸資料館など、全国に少なからずあり、消費文化の表象であるグラフィックデザインの展覧会の楽しみの一つに、無名の大衆の生活や娯楽、当時の社会背景や、それらを半歩リードしていた価値観が見えるというのがあります。つまり、デザインは我々自身の過去や同時代を移す鏡なのだと思います。

武蔵野美術大学美術館・図書館もポスターのコレクションを持つ施設の一つで、2022年7月11日から10月2日まで開催されている「原弘と造型:1920年代の新興美術運動から」展に行ってきました。本展を訪れた動機は、1920年代に新興美術運動に関わった原弘の仕事が見られるということからでした。しかし、展示構成上、戦中の国策と結びついた仕事の割合やインパクトは大きかったです。企図と合致しているかわかりませんが、大正期の前衛美術に傾倒していた一人のデザイナーが、1930年代の活動を経て、巨大な力に飲まれていった様子と、そこで請け負うことになった仕事と並行して、新しい技術や表現を試し、追求していった姿が重ねて描かれていました。
今回は、展覧会で取り上げられた原弘の戦前の仕事を社会背景と共に追っていきたいと思います。

1,社会構造の変化に伴うサラリーマンの登場
1928年に創刊した中堅階級の経済雑誌『サラリーマン』の表紙デザインを1935年まで原弘が手掛けます。3色刷りで、写真をトリミングしたり合成する手法(フォトモンタージュ)の先駆けが資料に見られ、長年の取り組みの中で、原は理論と実践を両立していきました。
ところで、“サラリーマン”とは、1920年代当時はモダンな響きを持つ新しい言葉で、新中間層の、つまり資本家と工場労働者層の間の事務職に就いている、高給取りの俸給生活者を指しました。同時代、社会構造の変化に伴い、都市には人口が流入し、結核などの疾病の予防策として日当たりや通風といった住環境の改善が推奨された時代でもありました。そんな中、裕福な“サラリーマン”たちは、“郊外”と呼ばれた新しい鉄道沿線に住宅を建ててゆき、ちょうど、建築分離派のメンバーが住宅の設計に恵まれた時代とも重なります。郊外から都心部に通勤するという生活スタイルが始まったのもこの頃です。
そして、月刊『サラリーマン』は、どういった場所で読まれていたのか定かではありませんが、1928-1930年は25銭、1932年は30銭で販売されていました。
2,良質な商品の大衆への普及
1930年、新装花王石鹸(*1)のパッケージデザインの指名コンペティションが行われました。吉田謙吉、杉浦非水、村山知義ら8名の作品が提出され、翌年1931年、原弘による橙色地に白色のアルファベットがパターンとなった新装花王石鹸が販売されました。提出案には、「p」と「s」にネジ頭のようなワンポイントがついているのですが、パッケージにはネジ頭マークは採用されていません。木村伊兵衛との協業が始まったのはこの頃のようで、同年、木村の撮った鉄道高架とアドバルーンが写る写真や、労働者を主役にした写真を用いた広告が原によって作られ、花王はキャンペーンを展開していきました。
「アーカイブと美術史」(*2)の中で綿貫さんが言及されていましたが、花王石鹸は、市井の廉価で粗悪な質の石鹸に対し、高品質で純度の高い石鹸を作り、石鹸を舶来の贅沢品から国産品へと変えてきた会社でした。1931年の「新装花王石鹸」の販売では、1個15銭だった石鹸を10銭に値下げし、高品質の製品を労働者階級に普及させることを目指したのでした。
昨今、コロナ禍の手洗い推奨によって日本国内の石鹸類の消費は伸びたことを知る一方で、石鹸類が身近に手に入らない地域や暮らしが世界にはあることが報道されています。現代の日本に住む私たちにとっては当たり前の石鹸類ですが、先人たちの良心的な働きがあったことを知れました。
*1:(参考)https://www.kao.co.jp/white/history/03/
*2:「アーカイブと美術史 ―『資生堂ギャラリー七十五年史 1919 - 1994』を編集執筆された綿貫不二夫さんにお話を伺う」
粟生田弓編集、AMSEA:The University of Tokyo/Art Management of Socially Engaged Art(東京大学情報学環:社会を指向する芸術のためのアートマネジメント育成事業)発行、2020年
3,戦前の喫茶店ブーム
1932年頃、原弘はじめ東京府立工芸学校出身者によって「東京工房」が結成されました。展示されていた配布物『エーホ』から、東京工房は、新型態建築、室内新意匠、家具工芸品、照明効果、広告美術、ポスター図案の仕事を受けていたこと、茶房やサロン(喫茶店)の運営をしていたことがうかがえます。解説文によると、木村伊兵衛が「原さんはそもそも日本の喫茶店をつくった草分けなんだ」と話したという記載があり、その背景には、1930年前後の“カフェー”の取締まりを機に、喫茶店の仕事が多くあった機運が考えられます。
ところで、日本音楽史の研究者である齋藤桂さんは、日本の国際化から国粋化の転換点として1933年に着目し「1933年を聴く―戦前日本の音風景」(*3)を著し、その頃の音風景とそれらに関わった人々を扱うことで当時の社会の不穏な雰囲気をとらえようとしたのですが、原弘周辺も同様、この後から、加速度的に仕事の内容が国の気配を帯びていきます。
*3:「1933年を聴く―戦前日本の音風景」、齋藤桂著、NTT出版発行、2017年
4,国際観光政策から対外軍事宣伝、そして戦後へ
1933年、名取洋之助(報道写真家)、木村伊兵衛(写真家)、伊奈信男(美学研究)、岡田桑三(プランナー)、原弘によって日本工房が結成されますが、名取以外が脱退。1934年に木村、伊奈、原は中央工房を結成し、写真を中心とした広告制作の事業を行っていました。同年、「中央工房」の中にirp(*4)が設置され、木村伊兵衛や渡辺義雄らの撮影した日本の写真を海外へ配信する代理店を営み始めます。後に、対外文化宣伝雑誌『Travel in Japan』(1935年創刊)や、海外の博覧会に展示する「日本観光写真壁画」といった鉄道省国際観光局の仕事、外務省後援の写真展「日本を知らせる写真展」や「南京―上海報道写真展」の仕事を通じ、フォトモンタージュを用いたグラフィックデザインの技法の発展に貢献しました。
1938年頃と推定されている「シカゴ貿易博覧会出品壁画下絵」では、1940年に開催予定だった東京オリンピックの予告が下書きされています。外客誘致を目的とした海外に向けた媒体が、日本文化の紹介だけでなく国家宣伝を手伝い、国内に向けた展覧会が、国威発揚のプロパガンダとして働いていく危うさに、当時は意外にも無頓着だったのかもしれません。
インバウンド振興はそのワードの登場とともに、2020東京オリンピック前(コロナ禍前)に急速に進められた感がありますが、実は、irpの多くの仕事の依頼主であった国際観光局(1930-1942)は、当初、外貨をもたらす訪日外国人を積極的に誘致し、国際収支の課題を解消するために、鉄道省の中に登場した組織でした。蒲郡ホテル、川奈ホテルなど、訪日外国人が宿泊するための国際観光ホテル、いわゆるクラシックホテルが建てられたのも同時代です。
そしてこの後、原は、1940年代に入ると、東方社によるグラフ誌『FRONT』(1942~1945)の対外軍事宣伝の仕事をし、戦後はまるで何もなかったかのように、別人のように民衆向けの雑誌や書籍の装丁の仕事に舵を切ったのでした。展示解説の中で、戦後の物資不足の中での仕事について「装丁といっても(略)少しでもいい紙が使えることが、どれだけうれしかったことか」という原の言葉が書かれています。この思いが、竹尾との洋紙開発に繋がりました。本展は展覧会カタログの奥付には、使われた用紙と書体がわざわざ書かれています。デザインだけでなく、それに使われた素材もまた、時代を映す鏡ということなのでしょう。

*4:International Reportage Photography、国際報道写真協会。1935年にJPSに改称。現在の日本写真家協会とは別。
(おう せいび)
●王 聖美のエッセイ「気の向くままに展覧会逍遥」は偶数月18日に掲載しています。
■王 聖美 Seibi OH
WHAT MUSEUM 学芸員(建築)。1981年神戸市生まれ、京都工芸繊維大学工芸学部造形工学科卒業。主な企画展に「あまねくひらかれる時代の非パブリック」(2019)、「Nomadic Rhapsody -“超移動社会”がもたらす新たな変容-」(2018)、「UNBUILT : Lost or Suspended」(2018)など。
●展覧会紹介
「原弘と造形:1920年代の新興美術運動から」
会期:
2022年7月11日(月)-2022年8月14日(日)、
2022年9月5日(月)-2022年10月2日(日)
12:00 - 20:00(土・日曜日、祝日は10:00 - 17:00)
休館日:水曜日
主催:武蔵野美術大学 美術館・図書館
電話:042-342-6003
協力:特種東海製紙株式会社
監修:髙島直之(武蔵野美術大学 名誉教授)
日本における近代デザインの黎明期を切り拓いたデザイナー・原弘(はら・ひろむ 1903-1986)。原の仕事は、戦後に手がけた多くのブックデザインや東京国立近代美術館をはじめとするポスターの仕事によって広く知られています。また、その旺盛なデザイン実践のみならず、日本宣伝美術会や日本デザインセンターの創設に参画するなど、戦後の日本デザイン界を牽引するオーガナイザーとしても厚い信頼を寄せられた人物でした。本学との関わりは、前身にあたる帝国美術学校の教員時代に始まり、戦後の造型美術園、武蔵野美術学校へと長きにわたります。1962年に大学へと改組された後も、当時の産業デザイン学科商業デザイン専攻(現・造形学部視覚伝達デザイン学科)の主任教授として後進の指導にあたり、教育者としても多大な功績を残しました。
しかし、このような原のデザイン活動の礎石に、大正期の新興美術運動に傾倒した、若かりし頃の模索の日々があったことはあまり知られていません。1921年、郷里の家業を継ぐために入学した東京府立工芸学校を卒業した原は、卒業と同時に製版印刷科の助手として母校に残り、「印刷図案」と「石版印刷」を教えるようになります。また、1920年代半ばになると、村山知義やワルワーラ・ブブノワらが集った「三科会」や神原泰らが結成した「造型」等、大正末の新興美術運動に強く惹かれていきました。とりわけ、美術評論家の一氏義良の理論を後ろ盾とする「造型」と、同団体が改組した「造型美術家協会」では、岡本唐貴や矢部友衛ら旧「アクション」、「三科」のメンバーと肩を並べて活動し、一時は、常任中央委員に名を連ねるなど運動に深く関与しました。
いっぽうで、このころ原は、海外の印刷雑誌や書籍を通じて、ロシア構成主義のエル・リシツキーや、ヤン・チヒョルト、ラースロー・モホイ=ナジらに代表されるニュー・タイポグラフィの理論の摂取に努めはじめました。そのため、原は画家を中心とする団体に身を置きながらも絵筆は執らず、みずからを印刷や宣伝を専門とする技術者と位置づけ、その立場を固守しました。原は後年、「造型」における自身の活動を振り返り、「自分のめざすコミュニケーションの手段が、こうした組織の中では実現できないことを知って、いつのまにか脱落していった」と述べています。
1920年代の新興美術運動への参加、それとほぼ並行したニュー・タイポグラフィ研究の営み。こうした経験を通じて培われた原の理論は、1930年代から40年代にかけて自身が創設に関わった諸団体—日本工房、中央工房、国際報道写真協会、東方社など—において、実践に移されていきました。アートディレクターの太田英茂や岡田桑三、写真家では木村伊兵衛や渡辺義雄らが原と活動を共にしました。写真を主体とするグラフ等の「新しい視覚的形成技術」の確立を目指したその活動は、日本の近代デザイン史の歩みそのものを形づくったといっても過言ではありません。
本展では、特種東海製紙株式会社の原弘アーカイヴ並びに当館が所蔵する原弘関連資料の中から、原が1920年代から1940年代にかけて制作した作品を紹介します。また、「三科」、「造型」をはじめとする新興美術運動にまつわる一次資料や原が残した未公開の原稿類・版下類をあわせて展観し、原弘のデザインワークに通底する造型思考の検証を試みます。(同展資料より)
■原弘(はら・ひろむ)
1903(明治36)年-1986(昭和61)年 グラフィックデザイナー
長野県飯田町(現・飯田市)生まれ。1921年東京府立工芸学校(現・東京都立工芸高等学校)卒業。戦前は、同校の教員を勤めながら新装花王石鹸のパッケージデザインを手がけ、世に広く知られることになる。30~40年代には日本工房、中央工房、東方社など諸団体の設立に参加。51年、戦後初のグラフィックデザイナーの全国組織である日本宣伝美術会の結成に参画、60年には亀倉雄策らと日本デザインセンターを設立した。64年の東京オリンピックでは、組織委員会デザイン懇談会で、書体の統一および広報を担当した。装幀、ポスター、パッケージデザイン、雑誌のアート・ディレクションなどその仕事は多岐にわたり、日本のグラフィックデザインの進展に大きく貢献した。
●ただいまときの忘れものは夏季休廊中です(8月14日~22日)。お問い合わせ、ご注文への返信は8月23日以降、順次対応させていただきます。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
武蔵野美術大学美術館
「原弘と造形:1920年代の新興美術運動から」展を訪れて
グラフィックデザイン分野の資料、とりわけポスターを収蔵するミュージアムや資料館は、大阪中之島美術館、たばこと塩の博物館、資生堂企業資料館、多摩美術大学アートアーカイヴセンター、京都工芸繊維大学美術工芸資料館など、全国に少なからずあり、消費文化の表象であるグラフィックデザインの展覧会の楽しみの一つに、無名の大衆の生活や娯楽、当時の社会背景や、それらを半歩リードしていた価値観が見えるというのがあります。つまり、デザインは我々自身の過去や同時代を移す鏡なのだと思います。

武蔵野美術大学美術館・図書館もポスターのコレクションを持つ施設の一つで、2022年7月11日から10月2日まで開催されている「原弘と造型:1920年代の新興美術運動から」展に行ってきました。本展を訪れた動機は、1920年代に新興美術運動に関わった原弘の仕事が見られるということからでした。しかし、展示構成上、戦中の国策と結びついた仕事の割合やインパクトは大きかったです。企図と合致しているかわかりませんが、大正期の前衛美術に傾倒していた一人のデザイナーが、1930年代の活動を経て、巨大な力に飲まれていった様子と、そこで請け負うことになった仕事と並行して、新しい技術や表現を試し、追求していった姿が重ねて描かれていました。
今回は、展覧会で取り上げられた原弘の戦前の仕事を社会背景と共に追っていきたいと思います。

1,社会構造の変化に伴うサラリーマンの登場
1928年に創刊した中堅階級の経済雑誌『サラリーマン』の表紙デザインを1935年まで原弘が手掛けます。3色刷りで、写真をトリミングしたり合成する手法(フォトモンタージュ)の先駆けが資料に見られ、長年の取り組みの中で、原は理論と実践を両立していきました。
ところで、“サラリーマン”とは、1920年代当時はモダンな響きを持つ新しい言葉で、新中間層の、つまり資本家と工場労働者層の間の事務職に就いている、高給取りの俸給生活者を指しました。同時代、社会構造の変化に伴い、都市には人口が流入し、結核などの疾病の予防策として日当たりや通風といった住環境の改善が推奨された時代でもありました。そんな中、裕福な“サラリーマン”たちは、“郊外”と呼ばれた新しい鉄道沿線に住宅を建ててゆき、ちょうど、建築分離派のメンバーが住宅の設計に恵まれた時代とも重なります。郊外から都心部に通勤するという生活スタイルが始まったのもこの頃です。
そして、月刊『サラリーマン』は、どういった場所で読まれていたのか定かではありませんが、1928-1930年は25銭、1932年は30銭で販売されていました。
2,良質な商品の大衆への普及
1930年、新装花王石鹸(*1)のパッケージデザインの指名コンペティションが行われました。吉田謙吉、杉浦非水、村山知義ら8名の作品が提出され、翌年1931年、原弘による橙色地に白色のアルファベットがパターンとなった新装花王石鹸が販売されました。提出案には、「p」と「s」にネジ頭のようなワンポイントがついているのですが、パッケージにはネジ頭マークは採用されていません。木村伊兵衛との協業が始まったのはこの頃のようで、同年、木村の撮った鉄道高架とアドバルーンが写る写真や、労働者を主役にした写真を用いた広告が原によって作られ、花王はキャンペーンを展開していきました。
「アーカイブと美術史」(*2)の中で綿貫さんが言及されていましたが、花王石鹸は、市井の廉価で粗悪な質の石鹸に対し、高品質で純度の高い石鹸を作り、石鹸を舶来の贅沢品から国産品へと変えてきた会社でした。1931年の「新装花王石鹸」の販売では、1個15銭だった石鹸を10銭に値下げし、高品質の製品を労働者階級に普及させることを目指したのでした。
昨今、コロナ禍の手洗い推奨によって日本国内の石鹸類の消費は伸びたことを知る一方で、石鹸類が身近に手に入らない地域や暮らしが世界にはあることが報道されています。現代の日本に住む私たちにとっては当たり前の石鹸類ですが、先人たちの良心的な働きがあったことを知れました。
*1:(参考)https://www.kao.co.jp/white/history/03/
*2:「アーカイブと美術史 ―『資生堂ギャラリー七十五年史 1919 - 1994』を編集執筆された綿貫不二夫さんにお話を伺う」
粟生田弓編集、AMSEA:The University of Tokyo/Art Management of Socially Engaged Art(東京大学情報学環:社会を指向する芸術のためのアートマネジメント育成事業)発行、2020年
3,戦前の喫茶店ブーム
1932年頃、原弘はじめ東京府立工芸学校出身者によって「東京工房」が結成されました。展示されていた配布物『エーホ』から、東京工房は、新型態建築、室内新意匠、家具工芸品、照明効果、広告美術、ポスター図案の仕事を受けていたこと、茶房やサロン(喫茶店)の運営をしていたことがうかがえます。解説文によると、木村伊兵衛が「原さんはそもそも日本の喫茶店をつくった草分けなんだ」と話したという記載があり、その背景には、1930年前後の“カフェー”の取締まりを機に、喫茶店の仕事が多くあった機運が考えられます。
ところで、日本音楽史の研究者である齋藤桂さんは、日本の国際化から国粋化の転換点として1933年に着目し「1933年を聴く―戦前日本の音風景」(*3)を著し、その頃の音風景とそれらに関わった人々を扱うことで当時の社会の不穏な雰囲気をとらえようとしたのですが、原弘周辺も同様、この後から、加速度的に仕事の内容が国の気配を帯びていきます。
*3:「1933年を聴く―戦前日本の音風景」、齋藤桂著、NTT出版発行、2017年
4,国際観光政策から対外軍事宣伝、そして戦後へ
1933年、名取洋之助(報道写真家)、木村伊兵衛(写真家)、伊奈信男(美学研究)、岡田桑三(プランナー)、原弘によって日本工房が結成されますが、名取以外が脱退。1934年に木村、伊奈、原は中央工房を結成し、写真を中心とした広告制作の事業を行っていました。同年、「中央工房」の中にirp(*4)が設置され、木村伊兵衛や渡辺義雄らの撮影した日本の写真を海外へ配信する代理店を営み始めます。後に、対外文化宣伝雑誌『Travel in Japan』(1935年創刊)や、海外の博覧会に展示する「日本観光写真壁画」といった鉄道省国際観光局の仕事、外務省後援の写真展「日本を知らせる写真展」や「南京―上海報道写真展」の仕事を通じ、フォトモンタージュを用いたグラフィックデザインの技法の発展に貢献しました。
1938年頃と推定されている「シカゴ貿易博覧会出品壁画下絵」では、1940年に開催予定だった東京オリンピックの予告が下書きされています。外客誘致を目的とした海外に向けた媒体が、日本文化の紹介だけでなく国家宣伝を手伝い、国内に向けた展覧会が、国威発揚のプロパガンダとして働いていく危うさに、当時は意外にも無頓着だったのかもしれません。
インバウンド振興はそのワードの登場とともに、2020東京オリンピック前(コロナ禍前)に急速に進められた感がありますが、実は、irpの多くの仕事の依頼主であった国際観光局(1930-1942)は、当初、外貨をもたらす訪日外国人を積極的に誘致し、国際収支の課題を解消するために、鉄道省の中に登場した組織でした。蒲郡ホテル、川奈ホテルなど、訪日外国人が宿泊するための国際観光ホテル、いわゆるクラシックホテルが建てられたのも同時代です。
そしてこの後、原は、1940年代に入ると、東方社によるグラフ誌『FRONT』(1942~1945)の対外軍事宣伝の仕事をし、戦後はまるで何もなかったかのように、別人のように民衆向けの雑誌や書籍の装丁の仕事に舵を切ったのでした。展示解説の中で、戦後の物資不足の中での仕事について「装丁といっても(略)少しでもいい紙が使えることが、どれだけうれしかったことか」という原の言葉が書かれています。この思いが、竹尾との洋紙開発に繋がりました。本展は展覧会カタログの奥付には、使われた用紙と書体がわざわざ書かれています。デザインだけでなく、それに使われた素材もまた、時代を映す鏡ということなのでしょう。

*4:International Reportage Photography、国際報道写真協会。1935年にJPSに改称。現在の日本写真家協会とは別。
(おう せいび)
●王 聖美のエッセイ「気の向くままに展覧会逍遥」は偶数月18日に掲載しています。
■王 聖美 Seibi OH
WHAT MUSEUM 学芸員(建築)。1981年神戸市生まれ、京都工芸繊維大学工芸学部造形工学科卒業。主な企画展に「あまねくひらかれる時代の非パブリック」(2019)、「Nomadic Rhapsody -“超移動社会”がもたらす新たな変容-」(2018)、「UNBUILT : Lost or Suspended」(2018)など。
●展覧会紹介
「原弘と造形:1920年代の新興美術運動から」
会期:
2022年7月11日(月)-2022年8月14日(日)、
2022年9月5日(月)-2022年10月2日(日)
12:00 - 20:00(土・日曜日、祝日は10:00 - 17:00)
休館日:水曜日
主催:武蔵野美術大学 美術館・図書館
電話:042-342-6003
協力:特種東海製紙株式会社
監修:髙島直之(武蔵野美術大学 名誉教授)
日本における近代デザインの黎明期を切り拓いたデザイナー・原弘(はら・ひろむ 1903-1986)。原の仕事は、戦後に手がけた多くのブックデザインや東京国立近代美術館をはじめとするポスターの仕事によって広く知られています。また、その旺盛なデザイン実践のみならず、日本宣伝美術会や日本デザインセンターの創設に参画するなど、戦後の日本デザイン界を牽引するオーガナイザーとしても厚い信頼を寄せられた人物でした。本学との関わりは、前身にあたる帝国美術学校の教員時代に始まり、戦後の造型美術園、武蔵野美術学校へと長きにわたります。1962年に大学へと改組された後も、当時の産業デザイン学科商業デザイン専攻(現・造形学部視覚伝達デザイン学科)の主任教授として後進の指導にあたり、教育者としても多大な功績を残しました。
しかし、このような原のデザイン活動の礎石に、大正期の新興美術運動に傾倒した、若かりし頃の模索の日々があったことはあまり知られていません。1921年、郷里の家業を継ぐために入学した東京府立工芸学校を卒業した原は、卒業と同時に製版印刷科の助手として母校に残り、「印刷図案」と「石版印刷」を教えるようになります。また、1920年代半ばになると、村山知義やワルワーラ・ブブノワらが集った「三科会」や神原泰らが結成した「造型」等、大正末の新興美術運動に強く惹かれていきました。とりわけ、美術評論家の一氏義良の理論を後ろ盾とする「造型」と、同団体が改組した「造型美術家協会」では、岡本唐貴や矢部友衛ら旧「アクション」、「三科」のメンバーと肩を並べて活動し、一時は、常任中央委員に名を連ねるなど運動に深く関与しました。
いっぽうで、このころ原は、海外の印刷雑誌や書籍を通じて、ロシア構成主義のエル・リシツキーや、ヤン・チヒョルト、ラースロー・モホイ=ナジらに代表されるニュー・タイポグラフィの理論の摂取に努めはじめました。そのため、原は画家を中心とする団体に身を置きながらも絵筆は執らず、みずからを印刷や宣伝を専門とする技術者と位置づけ、その立場を固守しました。原は後年、「造型」における自身の活動を振り返り、「自分のめざすコミュニケーションの手段が、こうした組織の中では実現できないことを知って、いつのまにか脱落していった」と述べています。
1920年代の新興美術運動への参加、それとほぼ並行したニュー・タイポグラフィ研究の営み。こうした経験を通じて培われた原の理論は、1930年代から40年代にかけて自身が創設に関わった諸団体—日本工房、中央工房、国際報道写真協会、東方社など—において、実践に移されていきました。アートディレクターの太田英茂や岡田桑三、写真家では木村伊兵衛や渡辺義雄らが原と活動を共にしました。写真を主体とするグラフ等の「新しい視覚的形成技術」の確立を目指したその活動は、日本の近代デザイン史の歩みそのものを形づくったといっても過言ではありません。
本展では、特種東海製紙株式会社の原弘アーカイヴ並びに当館が所蔵する原弘関連資料の中から、原が1920年代から1940年代にかけて制作した作品を紹介します。また、「三科」、「造型」をはじめとする新興美術運動にまつわる一次資料や原が残した未公開の原稿類・版下類をあわせて展観し、原弘のデザインワークに通底する造型思考の検証を試みます。(同展資料より)
■原弘(はら・ひろむ)
1903(明治36)年-1986(昭和61)年 グラフィックデザイナー
長野県飯田町(現・飯田市)生まれ。1921年東京府立工芸学校(現・東京都立工芸高等学校)卒業。戦前は、同校の教員を勤めながら新装花王石鹸のパッケージデザインを手がけ、世に広く知られることになる。30~40年代には日本工房、中央工房、東方社など諸団体の設立に参加。51年、戦後初のグラフィックデザイナーの全国組織である日本宣伝美術会の結成に参画、60年には亀倉雄策らと日本デザインセンターを設立した。64年の東京オリンピックでは、組織委員会デザイン懇談会で、書体の統一および広報を担当した。装幀、ポスター、パッケージデザイン、雑誌のアート・ディレクションなどその仕事は多岐にわたり、日本のグラフィックデザインの進展に大きく貢献した。
●ただいまときの忘れものは夏季休廊中です(8月14日~22日)。お問い合わせ、ご注文への返信は8月23日以降、順次対応させていただきます。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
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