ウォーホルと栗山豊の時代
第1回 栗山豊という芸術家人生
森下泰輔
ウォーホルに筆者がどのように向き合ってきたのかは、「私の Andy Warhol 体験」を読んでいただくとして、日本でいったいウォーホルがどう受容されてきたのか? そしてその意味を探っていきたい。栗山豊という一風変わった概念芸術家に関してつまびらかにしていくことは、ニッポン・ウォーホル受容史と蝶の羽のようにまったく重なり合うからである。そしてこのことはウォーホルというアメリカでもある種まともとはいい難い男のアートの本質を語ることにもつながるのだ。
1.栗山豊 Self Portrait(自画像)1993 F10 キャンバスにアクリル
栗山は「日本最強のウォーホル・ウォッチャー」を任じていた通り、アンディ・ウォ―ホルに関するマスメディアの報道を生涯収集し続けた。新聞雑誌記事、評論、グラビア、展覧会チラシ、チケット、50年代のイラストを使用した店のマッチ、テレビCMや特集のVHFテープまで多岐に及んでいる。これはウォ―ホル初期作《129 DIE IN JET!》(acrylic and pencil on canvas, 254 x 182.9 cm, Museum Ludwig, Cologne)という墜落の新聞記事を作品にした概念と呼応しているといえるだろう。そもそもアンディ・ウォーホルのコンセプトとは極めてジャーナリスティックなものであって、そこがこのいまや20世紀最大のアーティストといわれる彼の特異な芸術への介入であった。
2.ときの忘れものでの資料展示の一部 2006
3.アンディ・ウォーホル「129人ジェット機事故で死亡」1962年
栗山豊は極東の小島にあって何故、アンディ・ウォーホルにどっぷりと呼応してゆくことになったのかをみてみよう。
栗山は1946年に和歌山の田辺市に生を受けた。ほぼ終戦後の世代で翌年生まれからは団塊の世代といわれる。父が同郷の南方熊楠に師事していたという。田辺高校時代、大阪市立美術館(天王寺区)半地下の美術研究所、通称「美研」に通ってデッサンをやっていた。関西前衛の「ゆりかご」といわれ、小磯良平や具体の吉原治良が指導していたりもした。栗山の卓抜したデッサン力はここで培われた。白髪一雄や宇佐美圭司も在籍していた場、前衛芸術の影響を受けたのだろう。東京オリンピック翌年1965年に高校卒業後上京、銀座すずらん通りで似顔絵描きを始める。以降生涯いち街頭似顔絵描きを生業(なりわい)とした。
「街にはビートルズやポップス音楽が流れ、銀座みゆき通りには若い男女がたむろしていた」(栗山豊)。みゆき族、六本木族が現れた若者文化台頭の時代の只中、筆者も当時東京にいたので65年からの目まぐるしい東京サブカルチャーの渦は理解できる。エレキ・GSブームから、永島慎二漫画「フーテン」、同時に新宿フーテン族発生。ジャズ喫茶林立。とりわけ、栗山が根城にしたのが新宿・風月堂だ。ここは天井の高い画廊喫茶で、フーテン全盛期には2階でフーテンどもがシンナーを平気で吸っていた。筆者も10代で通っていたので、まさに文化的カオスだった。ヴェトナム脱走兵が逃げ込んだこともあり、新左翼、アングラ文化人の溜り場でもあった。栗山もほとんどストリートに生息していた。
4.栗山豊 Fugetsudo 1970 コピー
和製アンディ・ウォーホルといわれた宮井陸郎も風月常連で、「60年安保敗北でエネルギーを使い果たして早稲田を中退してしらけ、芸術文化の中に抵抗を継続していた」(2020年12月29日宮井陸郎インタヴューより)という。「1964年美術評論家になる前の石崎浩一郎がスープ缶を作品にしたやつがいる」(同インタヴュー)といったので宮井は驚き、アンディ・ウォーホルを知ったのも風月堂でのことであったという。「それまで芸術は自分の世界観で何か普遍的なものを深く掘り下げるという感覚だったのが、キャンベルスープのような缶詰がテーマとは」(同インタヴュー)というので180度認識が変わり、この新動向、すなわちポップアートに興味を抱いたのだ。
5.栗山豊 宮井陸郎 1993 F8 キャンバスにアクリル
栗山はその後、1969年まで御茶ノ水の文化学院美術科に通うが、宮井陸郎のユニットプロ、ガリバー(安土修三)、ゼロ次元(加藤好弘)、秋山祐徳太子らと交遊を重ね、街頭で似顔絵を描き続けた。マリリン・モンロー、リズ・テイラー、エルビス、マーロン・ブランド、ジェームズ・キャグニーなどハリウッドスターの写真をシルクスクリーン転写でキャンバスに写す手法のウォーホルにスターのブロマイドを写す栗山豊は新宿の街頭から親和性を感じていたのだろう。
宮井は1968年「映像芸術」誌2月最終号に「三島由紀夫からウォーホルまで」を書き、映画の虚構性を超えて、現象の劇場性にまでの拡張を解き、映像「時代精神の現象学」1967ではゼロ次元の芸術行為の日常への介入をドキュメントすることを軸にマルチ映写で作品行為とした。これらはアンディ・ウォーホルが何でもない日常そのものを最低限の加工でアート化していった過程と同根であり、もはやひねくった芸術よりも現実・現象そのもののほうが遥に創作的であることに気づき、情報化時代の芸術が始まっていった。
1970年、栗山豊はプロジェクト「絵画の現象学」として似顔絵招待券をナンバリングしながら発送、街頭似顔絵を概念芸術上に持ち込む。翌71年から2年間、実際の似顔絵を現代美術関係者159人に延べ250回郵送するというメールアートも行った。高松次郎、横尾忠則、岸本清子、中谷芙二子、ヨシダミノル、吉村益信、宮川淳、池田龍雄、河原温ら作家や美術評論家手あたり次第である。
同時に1968年頃より冒頭に述べたアンディ・ウォーホル関連の掲載メディアのスクラップを日課として延々続けていたのだ。すべての媒体を購入するいとまのない栗山は銀行や美容室にいって定期購読紙誌からピックアップしていたともいう。この行為は「情報芸術家」アンディ・ウォーホルの情報を収集する派生した栗山豊の概念芸術だと思う。つまりウォーホルに対するフィードバックである。
個展「PORTRAITS」1972 銀座・村松画廊では著名人の似顔絵をハイアートとして展示、1974年には画集「PORTRAITS」を自費出版したが、アートブックを制作しメールで送りつける行為そのものの印刷ハプニングだった。74年はアンディ・ウォーホル来日騒動の年であり、安斎慶子と組んだ宮井陸郎はウォーホルと話を詰めにNYオフィス(ファクトリーとは呼ばなくなっていた)に飛ぶ。
1975年前後は栗山のメールアートに応えたニューヨークの河原温が「I GOT UP AT」のメールアートを吉祥寺北町の栗山に返してきていた。
6.河原温「I GOT UP AT 8.37AM 」1976 エアメール
筆者が急速に栗山と親密になったのは、1977年で、栗山が似顔絵で貯めたお金でアメリカ横断旅行に行き、ニューヨークでついにご本尊、アンディ・ウォーホルを激写して帰ってきた直後であり、当時新聞社で仕事をしていた筆者の取材によってだった。「街頭似顔絵師、アンディ・ウォーホルに逢う」。宮井陸郎は「実際のウォーホルに逢ったら、この男は悟っていると思い、自分も悟りを開かなくては芸術ができない」(同インタヴュー)というので76年インドにわたりラジニーシに帰依してしまった。どうもウォーホルは芸術家の人生を狂わす存在のようで、筆者もウォーホル芸術のジャーナリズム性を乗りこえようと一度ジャーナリストになったのだった。
7.栗山豊 Andy Warhol 1977 ゼラチンシルバープリント
その後、栗山とは、青山のバーやゴールデン街で週に2、3度会ってはアート論義を展開していた。ゴールデン街では同郷和歌山出身だというので、小説家、中上健次行きつけの酒場でよく飲み、当の中上とも語り合ったりした。1979年には都知事選に立候補した秋山祐徳太子の選挙ポスターを自費で制作、現在各美術館に入っているが、厳密には栗山豊作品なのである。
80年代になると、その頃カルチャー誌「UP」を制作していた根本寿幸も交え3人でウォーホル論を語る機会も増えた。82年、根本は神宮前にギャラリー360°をオープンするのだが、栗山も同年「Air Mail Message」というアートブックを限定50部でエディション。ここで「風俗シーン 風月堂、ヴィレッジ・ゲイト、バードランド・・・ 雑誌 サブ、ガロ、ワンダーランド、映画評論・・・」といった無数の情報を並列する手法をとり、ウォーホルをアナログからデジタル、ゲーデルの数理的アートへの転換と捉えているのは慧眼だ。また、ホワイトヘッド有機体哲学を引き合いに出し、東西思想を融合して「摩訶止観」を超えていくべきだと主張している。
8.季刊UP Vol.5 1980 Spring ブライアン・イーノ、安齊重男、安土修三、中島崇、シーナ&ザ・ロケッツ、長谷川真紀男
9.栗山豊「Air Mail Message」コピー 製本 1982 ed.50
10.栗山豊 ギャラリー360°神宮前シャッター 1983
現代版画センター(現・ときの忘れもの)に依頼された、インド帰り宮井陸郎に召集され、「アンディ・ウォーホル365日展」実行委員会を、根本をまじえ結成、本邦での最初で最後のアンディ・ウォーホル・ジャパンエディション《KIKU》《LOVE》の計6種のシルクスクリーン版画を丸一年にわたり展開する国際級の一大プロジェクトがはじまった。
渋谷パルコを皮切りに全国で1年間、毎日連続開催されたこのプロジェクトは日本でのウォ―ホル版画作品の販売という具体的な現象のはじまりであった。
栗山は「アンディ・ウォーホル展1983~1984」オリジナルKIKU入り豪華カタログの編集に主にかかわり、ここで収集していたウォーホル資料をいったんまとめている。このまとめは以降、1996 東京都現代美術館「時代の鏡」展、2014森美術館「アンディ・ウォーホル」展の受容史分析の際、最重要アイテムの最初となった。(*森美図録の謝辞に「(故)栗山豊」の名が刻まれている)。
ギャラリー360°で、1987「JAPAN PROCESS」展、1998「PORTRAITS」展の2度の栗山個展を開催している。
このように街頭似顔絵師的生業(なりわい)を現代美術的な概念上に立ち上げた作業がユニークであったのだが、その間も、日本全国津々浦々、または海外にまで街頭絵師として進出し、栗山は生涯約6万枚の似顔絵を描いてきたと晩年語っている。
11.栗山豊 1990年代
12.街頭にて 1973年頃
街頭絵師は絵画であってもごく匿名的であり、芸術家、画商、美術館、文化行政など既製の官僚的美術制度外のものであって、絵描きと客が直接取引するものであり(ウォ―ホルが2万5千ドルで直接引き受けていたビジネスアートも同義だ)、栗山が生涯そこにこだわったのは美術という制度への批判があったと思う。このあたりは今後新たに検証されるべきものだが、生涯集めたウォーホル資料を「ときの忘れもの」に託し、2001年2月22日(くしくも同日はアンディの命日)、路上で倒れた栗山豊は放浪の人生に幕を閉じた。
次回は、栗山資料の詳細な分析に入りたい。
(もりした たいすけ)
■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディアアート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。本年のホイットニービエンナーレに作品が掲載された資料が展示された。Art Lab Group 運営委員。表現の不自由展・東京実行委員。
●森下泰輔「私の Andy Warhol 体験」
第1回 60年代
第2回 栗山豊のこと
第3回 情報環境へ
第4回 大丸個展、1974年
第5回 アンディ・ウォーホル365日展、1983年まで
第6回 A.W.がモデルの商業映画に見るA.W.現象からフィクションへBack Again
*画廊亭主敬白
森下泰輔さんの新連載エッセイ「ウォーホルと栗山豊の時代」を三回にわたりお届けします。
ウォーホルは美術界ではだれ一人知らぬ者はないスーパースターですが、2001年2月22日、奇しくもウォーホルの命日に55歳の生涯を終えた栗山豊は史上最強のウォーホル・ウォッチャーでした。
栗山が収集した膨大なウォーホル資料は現在はときの忘れものにあります。亡くなる少し前にそれを託された亭主はいつかそれを公開せねばと思いつつ20年があっという間に経ってしまいました。
今秋11月4日~19日の会期で、
「アンディ・ウォーホル展
史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたもの」を開催します。

青山時代に少し展示したことがあるのですが、本格的な公開は今回が初めてです。
新宿などで夜の街角に立つ似顔絵かきを生業とした栗山は1960年代からアンディ・ウォーホルに関するカタログはもちろん、新聞、雑誌、広告、展覧会の半券、テレビコマーシャル、中には珍しいジャズ喫茶のマッチ箱まで幅広いメディアを網羅してウォーホルに関する情報を蒐集していました。遺された膨大なウォーホル資料は日本におけるウォーホル受容史の貴重な記録であり、1983年に現代版画センターが企画した「アンディ・ウォーホル全国展」はじめ、その後のウォーホル回顧展の重要な基礎資料としても使われています。それら資料の山を公開する11月のウォーホル展にご期待ください。
第1回 栗山豊という芸術家人生
森下泰輔
ウォーホルに筆者がどのように向き合ってきたのかは、「私の Andy Warhol 体験」を読んでいただくとして、日本でいったいウォーホルがどう受容されてきたのか? そしてその意味を探っていきたい。栗山豊という一風変わった概念芸術家に関してつまびらかにしていくことは、ニッポン・ウォーホル受容史と蝶の羽のようにまったく重なり合うからである。そしてこのことはウォーホルというアメリカでもある種まともとはいい難い男のアートの本質を語ることにもつながるのだ。

栗山は「日本最強のウォーホル・ウォッチャー」を任じていた通り、アンディ・ウォ―ホルに関するマスメディアの報道を生涯収集し続けた。新聞雑誌記事、評論、グラビア、展覧会チラシ、チケット、50年代のイラストを使用した店のマッチ、テレビCMや特集のVHFテープまで多岐に及んでいる。これはウォ―ホル初期作《129 DIE IN JET!》(acrylic and pencil on canvas, 254 x 182.9 cm, Museum Ludwig, Cologne)という墜落の新聞記事を作品にした概念と呼応しているといえるだろう。そもそもアンディ・ウォーホルのコンセプトとは極めてジャーナリスティックなものであって、そこがこのいまや20世紀最大のアーティストといわれる彼の特異な芸術への介入であった。


栗山豊は極東の小島にあって何故、アンディ・ウォーホルにどっぷりと呼応してゆくことになったのかをみてみよう。
栗山は1946年に和歌山の田辺市に生を受けた。ほぼ終戦後の世代で翌年生まれからは団塊の世代といわれる。父が同郷の南方熊楠に師事していたという。田辺高校時代、大阪市立美術館(天王寺区)半地下の美術研究所、通称「美研」に通ってデッサンをやっていた。関西前衛の「ゆりかご」といわれ、小磯良平や具体の吉原治良が指導していたりもした。栗山の卓抜したデッサン力はここで培われた。白髪一雄や宇佐美圭司も在籍していた場、前衛芸術の影響を受けたのだろう。東京オリンピック翌年1965年に高校卒業後上京、銀座すずらん通りで似顔絵描きを始める。以降生涯いち街頭似顔絵描きを生業(なりわい)とした。
「街にはビートルズやポップス音楽が流れ、銀座みゆき通りには若い男女がたむろしていた」(栗山豊)。みゆき族、六本木族が現れた若者文化台頭の時代の只中、筆者も当時東京にいたので65年からの目まぐるしい東京サブカルチャーの渦は理解できる。エレキ・GSブームから、永島慎二漫画「フーテン」、同時に新宿フーテン族発生。ジャズ喫茶林立。とりわけ、栗山が根城にしたのが新宿・風月堂だ。ここは天井の高い画廊喫茶で、フーテン全盛期には2階でフーテンどもがシンナーを平気で吸っていた。筆者も10代で通っていたので、まさに文化的カオスだった。ヴェトナム脱走兵が逃げ込んだこともあり、新左翼、アングラ文化人の溜り場でもあった。栗山もほとんどストリートに生息していた。

和製アンディ・ウォーホルといわれた宮井陸郎も風月常連で、「60年安保敗北でエネルギーを使い果たして早稲田を中退してしらけ、芸術文化の中に抵抗を継続していた」(2020年12月29日宮井陸郎インタヴューより)という。「1964年美術評論家になる前の石崎浩一郎がスープ缶を作品にしたやつがいる」(同インタヴュー)といったので宮井は驚き、アンディ・ウォーホルを知ったのも風月堂でのことであったという。「それまで芸術は自分の世界観で何か普遍的なものを深く掘り下げるという感覚だったのが、キャンベルスープのような缶詰がテーマとは」(同インタヴュー)というので180度認識が変わり、この新動向、すなわちポップアートに興味を抱いたのだ。

栗山はその後、1969年まで御茶ノ水の文化学院美術科に通うが、宮井陸郎のユニットプロ、ガリバー(安土修三)、ゼロ次元(加藤好弘)、秋山祐徳太子らと交遊を重ね、街頭で似顔絵を描き続けた。マリリン・モンロー、リズ・テイラー、エルビス、マーロン・ブランド、ジェームズ・キャグニーなどハリウッドスターの写真をシルクスクリーン転写でキャンバスに写す手法のウォーホルにスターのブロマイドを写す栗山豊は新宿の街頭から親和性を感じていたのだろう。
宮井は1968年「映像芸術」誌2月最終号に「三島由紀夫からウォーホルまで」を書き、映画の虚構性を超えて、現象の劇場性にまでの拡張を解き、映像「時代精神の現象学」1967ではゼロ次元の芸術行為の日常への介入をドキュメントすることを軸にマルチ映写で作品行為とした。これらはアンディ・ウォーホルが何でもない日常そのものを最低限の加工でアート化していった過程と同根であり、もはやひねくった芸術よりも現実・現象そのもののほうが遥に創作的であることに気づき、情報化時代の芸術が始まっていった。
1970年、栗山豊はプロジェクト「絵画の現象学」として似顔絵招待券をナンバリングしながら発送、街頭似顔絵を概念芸術上に持ち込む。翌71年から2年間、実際の似顔絵を現代美術関係者159人に延べ250回郵送するというメールアートも行った。高松次郎、横尾忠則、岸本清子、中谷芙二子、ヨシダミノル、吉村益信、宮川淳、池田龍雄、河原温ら作家や美術評論家手あたり次第である。
同時に1968年頃より冒頭に述べたアンディ・ウォーホル関連の掲載メディアのスクラップを日課として延々続けていたのだ。すべての媒体を購入するいとまのない栗山は銀行や美容室にいって定期購読紙誌からピックアップしていたともいう。この行為は「情報芸術家」アンディ・ウォーホルの情報を収集する派生した栗山豊の概念芸術だと思う。つまりウォーホルに対するフィードバックである。
個展「PORTRAITS」1972 銀座・村松画廊では著名人の似顔絵をハイアートとして展示、1974年には画集「PORTRAITS」を自費出版したが、アートブックを制作しメールで送りつける行為そのものの印刷ハプニングだった。74年はアンディ・ウォーホル来日騒動の年であり、安斎慶子と組んだ宮井陸郎はウォーホルと話を詰めにNYオフィス(ファクトリーとは呼ばなくなっていた)に飛ぶ。
1975年前後は栗山のメールアートに応えたニューヨークの河原温が「I GOT UP AT」のメールアートを吉祥寺北町の栗山に返してきていた。

筆者が急速に栗山と親密になったのは、1977年で、栗山が似顔絵で貯めたお金でアメリカ横断旅行に行き、ニューヨークでついにご本尊、アンディ・ウォーホルを激写して帰ってきた直後であり、当時新聞社で仕事をしていた筆者の取材によってだった。「街頭似顔絵師、アンディ・ウォーホルに逢う」。宮井陸郎は「実際のウォーホルに逢ったら、この男は悟っていると思い、自分も悟りを開かなくては芸術ができない」(同インタヴュー)というので76年インドにわたりラジニーシに帰依してしまった。どうもウォーホルは芸術家の人生を狂わす存在のようで、筆者もウォーホル芸術のジャーナリズム性を乗りこえようと一度ジャーナリストになったのだった。

その後、栗山とは、青山のバーやゴールデン街で週に2、3度会ってはアート論義を展開していた。ゴールデン街では同郷和歌山出身だというので、小説家、中上健次行きつけの酒場でよく飲み、当の中上とも語り合ったりした。1979年には都知事選に立候補した秋山祐徳太子の選挙ポスターを自費で制作、現在各美術館に入っているが、厳密には栗山豊作品なのである。
80年代になると、その頃カルチャー誌「UP」を制作していた根本寿幸も交え3人でウォーホル論を語る機会も増えた。82年、根本は神宮前にギャラリー360°をオープンするのだが、栗山も同年「Air Mail Message」というアートブックを限定50部でエディション。ここで「風俗シーン 風月堂、ヴィレッジ・ゲイト、バードランド・・・ 雑誌 サブ、ガロ、ワンダーランド、映画評論・・・」といった無数の情報を並列する手法をとり、ウォーホルをアナログからデジタル、ゲーデルの数理的アートへの転換と捉えているのは慧眼だ。また、ホワイトヘッド有機体哲学を引き合いに出し、東西思想を融合して「摩訶止観」を超えていくべきだと主張している。



現代版画センター(現・ときの忘れもの)に依頼された、インド帰り宮井陸郎に召集され、「アンディ・ウォーホル365日展」実行委員会を、根本をまじえ結成、本邦での最初で最後のアンディ・ウォーホル・ジャパンエディション《KIKU》《LOVE》の計6種のシルクスクリーン版画を丸一年にわたり展開する国際級の一大プロジェクトがはじまった。
渋谷パルコを皮切りに全国で1年間、毎日連続開催されたこのプロジェクトは日本でのウォ―ホル版画作品の販売という具体的な現象のはじまりであった。
栗山は「アンディ・ウォーホル展1983~1984」オリジナルKIKU入り豪華カタログの編集に主にかかわり、ここで収集していたウォーホル資料をいったんまとめている。このまとめは以降、1996 東京都現代美術館「時代の鏡」展、2014森美術館「アンディ・ウォーホル」展の受容史分析の際、最重要アイテムの最初となった。(*森美図録の謝辞に「(故)栗山豊」の名が刻まれている)。
ギャラリー360°で、1987「JAPAN PROCESS」展、1998「PORTRAITS」展の2度の栗山個展を開催している。
このように街頭似顔絵師的生業(なりわい)を現代美術的な概念上に立ち上げた作業がユニークであったのだが、その間も、日本全国津々浦々、または海外にまで街頭絵師として進出し、栗山は生涯約6万枚の似顔絵を描いてきたと晩年語っている。


街頭絵師は絵画であってもごく匿名的であり、芸術家、画商、美術館、文化行政など既製の官僚的美術制度外のものであって、絵描きと客が直接取引するものであり(ウォ―ホルが2万5千ドルで直接引き受けていたビジネスアートも同義だ)、栗山が生涯そこにこだわったのは美術という制度への批判があったと思う。このあたりは今後新たに検証されるべきものだが、生涯集めたウォーホル資料を「ときの忘れもの」に託し、2001年2月22日(くしくも同日はアンディの命日)、路上で倒れた栗山豊は放浪の人生に幕を閉じた。
次回は、栗山資料の詳細な分析に入りたい。
(もりした たいすけ)
■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディアアート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。本年のホイットニービエンナーレに作品が掲載された資料が展示された。Art Lab Group 運営委員。表現の不自由展・東京実行委員。
●森下泰輔「私の Andy Warhol 体験」
第1回 60年代
第2回 栗山豊のこと
第3回 情報環境へ
第4回 大丸個展、1974年
第5回 アンディ・ウォーホル365日展、1983年まで
第6回 A.W.がモデルの商業映画に見るA.W.現象からフィクションへBack Again
*画廊亭主敬白
森下泰輔さんの新連載エッセイ「ウォーホルと栗山豊の時代」を三回にわたりお届けします。
ウォーホルは美術界ではだれ一人知らぬ者はないスーパースターですが、2001年2月22日、奇しくもウォーホルの命日に55歳の生涯を終えた栗山豊は史上最強のウォーホル・ウォッチャーでした。
栗山が収集した膨大なウォーホル資料は現在はときの忘れものにあります。亡くなる少し前にそれを託された亭主はいつかそれを公開せねばと思いつつ20年があっという間に経ってしまいました。
今秋11月4日~19日の会期で、
「アンディ・ウォーホル展
史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたもの」を開催します。

青山時代に少し展示したことがあるのですが、本格的な公開は今回が初めてです。
新宿などで夜の街角に立つ似顔絵かきを生業とした栗山は1960年代からアンディ・ウォーホルに関するカタログはもちろん、新聞、雑誌、広告、展覧会の半券、テレビコマーシャル、中には珍しいジャズ喫茶のマッチ箱まで幅広いメディアを網羅してウォーホルに関する情報を蒐集していました。遺された膨大なウォーホル資料は日本におけるウォーホル受容史の貴重な記録であり、1983年に現代版画センターが企画した「アンディ・ウォーホル全国展」はじめ、その後のウォーホル回顧展の重要な基礎資料としても使われています。それら資料の山を公開する11月のウォーホル展にご期待ください。
コメント