井戸沼紀美のエッセイ「二十二日の半券」第13回
『すべての夜を思いだす』
「人がものを作るということは、何世紀にも渡って行われてきたその営みにつらなるということだと思っています。」
ジョナス・メカスが亡くなった際の追悼記事で、映画監督の清原惟が綴った言葉だ。映画『すべての夜を思いだす』を観てまっさきに思い浮かんだのが、この言葉だった。
5年もの歳月をかけて完成されたという清原監督の新作映画『すべての夜を思いだす』(2022年)は、東京の多摩ニュータウンを舞台に、世代が異なる3人の女性たちの1日を描く物語。着物の着付けの仕事をクビになりハローワークに通うチズさん、ガスメーター計測の仕事をするサナエ、幼なじみを亡くした大学4年生のナツが登場する。*
劇場公開は来年2023年ということだったので、あまりネタバレをしないように感想を書き進めようと思うのだけれど、一つハッキリと言えるのは、この映画が清原監督の過去作からのバトンをたしかに受け取っているということ。あるメロディーを過去から未来へとつないだ『ひとつのバガテル』、場所に宿る記憶を見つめた『わたしたちの家』。新作『すべての夜を思い出す』では、それらのテーマがさらに深められ、発酵しているように思えた。同作の印象を一言で表すならば「記憶を受け渡す」みたいなことになるのだろうか。
私はお酒を飲むとすぐに記憶をなくしてしまうし、お酒を飲まなくてもあっという間に自分の気持ちや人の話を忘れてしまう。だからこうして文章を書いたり、つどつど記録をとっておけると良いのだろうけど、忙しいなどさまざまな理由をつけて、それすら不可能なときがざらにある。でも、そうしてどこにも記録されず、自分の脳内からも消えた記憶や出来事は、この世界から「なくなった」ことになってしまうのだろうか?
『すべての夜を思いだす』は、「すべては記憶されているよ、あなたのことを誰かが覚えているよ」と簡単に慰めてくれるような映画ではない。自分が忘れられてしまうことや、過ごした時間がなかったことにされてしまう恐ろしさを認めている。けれど同時に、「私はきっと、あなたのことを思い出したい」と願い、「思いがけない誰かが、あなたを記憶しているかもしれない」という予感を信じ続けている。タイトルにも、その強い意思が表れているようだ。
あなたを記憶しているかもしれない「誰か」とは、必ずしも見知った人ではない。偶然すれ違った他人、風に揺れる植物たち、猫、鳥、住む街。そして映画も、人だけでない生を記憶し、未来へと受け渡す重要な手段の一つなのだ。
『すべての夜を思いだす』からは、そうした映画の役割を引き受けようとする覚悟をひしひしと感じる。中でも私が胸打たれた箇所は二つあって、一つは、自転車で坂を下るナツの姿を、見えなくなるまでずっとずっと捉えている、象徴的なカット。もう一つは、反射するガラスの前で踊るダンスサークルの人たちを映したシーン。物語の本筋とは直接的に関係のないダンサーたちの姿も、「なんとなく」で撮らないんだ。ちゃんとこの映画が覚えている。そう感じて、心が震えた。涙をこらえる。
「映画の中で、誰かに何かをあげる人が多かったよね」。映画を観た帰りの電車で、友人のリコちゃんがそう言ってくれた飴は、私が小学校の時によく食べていた飴で、だけどそのことをずっと忘れていた。舌の上を転がる甘さに、懐かしい記憶がじわりとひきよせられる。2022年9月10日、完璧な満月が帰り道を照らしてくれたことを、私はいつまで覚えていられるのだろう。

追伸:この飴『キュービィロップ』は私の生まれる6年前、1986年から発売されているらしい。
*それぞれの登場人物に苗字や漢字があるはずなのですが、現時点で公表されている情報では確認できず、カタカナで明記しています。
(いどぬま きみ)
■井戸沼紀美
福島県生まれ、都内在住。明治学院大学卒。これまでに『ジョナス・メカスとその日々をみつめて』(2014年)、『ジョナス・メカス写真展+上映会』(2015年)、『肌蹴る光線』(2018年~)などの上映イベントを企画した。
・井戸沼紀美のエッセイ「二十二日の半券」は隔月、奇数月の22日に更新します。次回は2022年11月22日掲載予定です。
『すべての夜を思いだす』
「人がものを作るということは、何世紀にも渡って行われてきたその営みにつらなるということだと思っています。」
ジョナス・メカスが亡くなった際の追悼記事で、映画監督の清原惟が綴った言葉だ。映画『すべての夜を思いだす』を観てまっさきに思い浮かんだのが、この言葉だった。
5年もの歳月をかけて完成されたという清原監督の新作映画『すべての夜を思いだす』(2022年)は、東京の多摩ニュータウンを舞台に、世代が異なる3人の女性たちの1日を描く物語。着物の着付けの仕事をクビになりハローワークに通うチズさん、ガスメーター計測の仕事をするサナエ、幼なじみを亡くした大学4年生のナツが登場する。*
劇場公開は来年2023年ということだったので、あまりネタバレをしないように感想を書き進めようと思うのだけれど、一つハッキリと言えるのは、この映画が清原監督の過去作からのバトンをたしかに受け取っているということ。あるメロディーを過去から未来へとつないだ『ひとつのバガテル』、場所に宿る記憶を見つめた『わたしたちの家』。新作『すべての夜を思い出す』では、それらのテーマがさらに深められ、発酵しているように思えた。同作の印象を一言で表すならば「記憶を受け渡す」みたいなことになるのだろうか。
私はお酒を飲むとすぐに記憶をなくしてしまうし、お酒を飲まなくてもあっという間に自分の気持ちや人の話を忘れてしまう。だからこうして文章を書いたり、つどつど記録をとっておけると良いのだろうけど、忙しいなどさまざまな理由をつけて、それすら不可能なときがざらにある。でも、そうしてどこにも記録されず、自分の脳内からも消えた記憶や出来事は、この世界から「なくなった」ことになってしまうのだろうか?
『すべての夜を思いだす』は、「すべては記憶されているよ、あなたのことを誰かが覚えているよ」と簡単に慰めてくれるような映画ではない。自分が忘れられてしまうことや、過ごした時間がなかったことにされてしまう恐ろしさを認めている。けれど同時に、「私はきっと、あなたのことを思い出したい」と願い、「思いがけない誰かが、あなたを記憶しているかもしれない」という予感を信じ続けている。タイトルにも、その強い意思が表れているようだ。
あなたを記憶しているかもしれない「誰か」とは、必ずしも見知った人ではない。偶然すれ違った他人、風に揺れる植物たち、猫、鳥、住む街。そして映画も、人だけでない生を記憶し、未来へと受け渡す重要な手段の一つなのだ。
『すべての夜を思いだす』からは、そうした映画の役割を引き受けようとする覚悟をひしひしと感じる。中でも私が胸打たれた箇所は二つあって、一つは、自転車で坂を下るナツの姿を、見えなくなるまでずっとずっと捉えている、象徴的なカット。もう一つは、反射するガラスの前で踊るダンスサークルの人たちを映したシーン。物語の本筋とは直接的に関係のないダンサーたちの姿も、「なんとなく」で撮らないんだ。ちゃんとこの映画が覚えている。そう感じて、心が震えた。涙をこらえる。
「映画の中で、誰かに何かをあげる人が多かったよね」。映画を観た帰りの電車で、友人のリコちゃんがそう言ってくれた飴は、私が小学校の時によく食べていた飴で、だけどそのことをずっと忘れていた。舌の上を転がる甘さに、懐かしい記憶がじわりとひきよせられる。2022年9月10日、完璧な満月が帰り道を照らしてくれたことを、私はいつまで覚えていられるのだろう。

追伸:この飴『キュービィロップ』は私の生まれる6年前、1986年から発売されているらしい。
*それぞれの登場人物に苗字や漢字があるはずなのですが、現時点で公表されている情報では確認できず、カタカナで明記しています。
(いどぬま きみ)
■井戸沼紀美
福島県生まれ、都内在住。明治学院大学卒。これまでに『ジョナス・メカスとその日々をみつめて』(2014年)、『ジョナス・メカス写真展+上映会』(2015年)、『肌蹴る光線』(2018年~)などの上映イベントを企画した。
・井戸沼紀美のエッセイ「二十二日の半券」は隔月、奇数月の22日に更新します。次回は2022年11月22日掲載予定です。
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