王聖美のエッセイ「気の向くままに展覧会逍遥第23回」

江戸東京たてもの園屋外収蔵展示を訪れて


1. ミュージアムかテーマパークか、野外博物館について考える
 外出に適した気候になり、江戸東京たてもの園を訪問しました。明治村民家園軽井沢タリアセングラバー園北海道開拓の村など、伝統的建造物が移築されて集まる施設が国内に複数あります。これらの場所では各々の方針の下、文化的価値の認められた建造物は本来の環境や用途から切り離され、新しい条件下で保存・管理され、多くは調査を経て、解説文などの教育的要素を伴って展示されています。美学芸術学の見地から特に戦間期の建築文化を研究されている天内大樹さんは、上記に類する野外博物館を「差し迫った解体から逃れる希少な避難地として機能してきた」としながらも、「閉ざされた領域に、場合によっては一部を切り取られた建物のパッチワークが展開する風景は、歴史的価値を画定する上で位置付けが困難な、複雑な問題を捨象した魅力的な模型となり、本来の文脈において建物をとりまいていたはずの不都合な歴史もまた隠蔽される。この閉ざされた環境は、人々にとって癒やしのテーマで、資本主義の都市環境から切り離されることで、正確な意味でのテーマパークと化す」と述べています(*1)。つまり、建物たちが保護され収集後に与えられる新たなストーリーは、懐古的で肯定的なイメージの世界観が付加され、建物が実社会に存在できなくなった諸事情は表れない、と指摘しているのです。
 この見解は、建築が建てられた経緯と過程に関心を寄せがちな筆者にとって、興味深い視点でした。

*1:天内大樹「建築模型とテーマパーク 近現代都市とモダニズム運動」、(一社)日本建築学会建築と模型[若手奨励]特別研究委員会「建築と模型」、(一社)日本建築学会発行、2022年3月


2. 資料の展示と添景
 江戸東京たてもの園は、都内の現地保存が不可能な文化的・歴史的価値の高い建造物を移築、復元・保存・展示することを目的に、東京都江戸東京博物館の分館として1993年に開園しました。令和3年度は、年間11万人以上の来場がありました。同園の特殊性は、一つ目に幅の広い道(順路であり、修繕の際の資材搬入の経路でもある)に面して、収蔵資料である建造物が隣接し、映画村あるいは景観保存地区のような設えをしていること、二つ目に、建築模型でいうところの「添景」、言い換えると、家具、照明、絵画、小物、醤油屋なら酒や調味料の瓶類、生花店なら造花など、によって建物が演出されている点でした。

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1.江戸東京たてもの園東(看板建築)ゾーン

 江戸東京たてもの園の学芸員の早川典子さんは「新 江戸東京たてもの園物語」の解説「建物の復元とは」の中で、展示について書かれています。川崎市立日本民家園は建物を創建時の状態で展示する基本方針であることに対し、「江戸東京たてもの園では(中略)建物を復元するだけでなく、建物内部での生活再現を充実させようと努めてきました」とし、「江戸東京たてもの園が博物館であるためには、より再現性が高い展示を作らなくてはなりません(*2)」と記述していることから、同園では建物の中に積極的に展示物をセッティングし、来訪者の理解を促してきた考えが読み取れます。そして、調査と再現制作の過程ではかつての住人からのヒアリングを重視していることや、建物そのものを復元する年代と内部を再現する年代を一致させることの難しさについて言及していることからも、復元/展示に対する慎重な態度がうかがえます。

 筆者は第1回のエッセイで、建築と美術、あるいは伝統的建築物と文化財が切り離されることへの疑問から、ラ・ロシュ=ジャンヌレ邸とエスプリ・ヌーヴォー館のどこにどの美術作品が備えられていたかを追いました。前述の早川さんの姿勢から学ぶことは、ある平面作品がある壁にあったことは正でも、ある壁には常にある平面作品がかかっていたわけではないこと、そして複数の証言や複数の写真を同時期のものとしては扱えないことに、意識的でなくてはいけない、ということだと考えています。

*2:早川典子「建物の復元とは」、江戸東京たてもの園・スタジオジブリ「新 江戸東京たてもの園物語」、東京都江戸東京博物館発行、2014年7月


3. コロナ禍で見る郊外住宅地と明るい家
 エッセイの第11回で登場した分離派建築会や、第22回で挙げた原弘の活動初期の1920年代後~1930年代は「サラリーマン」層が増えて(当時の)「郊外」に住宅が作られたということがありました。また、その背景に、東京都心の急激な人口増加と過密、そして長きに亘る結核の流行がありました。新型コロナウィルス対策から、通勤をはじめとする移動や密集を省み、地方・郊外移住者が増えたこと、リモートワークの普及によりワーケーションが促進されたことも、未来では歴史として語られるのでしょうか。
 本稿では、たてもの園の常設展示の中から、採光や換気が住環境の改善や健康向上の主題であったことを物語る例として、東京の郊外住宅地にかつて建っていた2棟の住宅を挙げておきたいと思います。


3-1. 田園調布の家(大川邸)
 田園調布は、田園都市株式会社が当時は畑だった多摩川台地区一帯を宅地として開発し、1923年(大正12年)に分譲を開始した郊外住宅地です。「調布駅」を中心にした同心円と放射線状の道路が導入されました。関東大震災以前の分譲当初は、「郊外」は富裕層にとっては都心から遠い場所と考えられていたため、サラリーマンや公務員といった層が土地を購入したようです。

 「田園調布の家(大川邸)」は、1925年に完成した瓦屋根が載った洋風の平家で、岡田信一郎(*3)の設計事務所に在籍した三井道男という設計者によって設計されたようです。当時流行していた生活改善運動の考えから、全室が洋室で椅子に座る暮らしが提案されていますが、寝室は建設翌年に和室に作り替えられました。

画像2_「田園調布の家」南側外観
2. 「田園調布の家」南側外観

画像3_「田園調布の家」寝室
3. 「田園調布の家」寝室内観(掃き出し窓を通じてパーゴラのかかる屋外に出られる)

 戦前の文化住宅の類を見ると、個人的にどうしても思い出すのが、2020年に東京国立近代美術館で行われたコレクション展の4室「明るい家」です。美術と建築の交流の示された印象的なテーマ展示で、牧野虎雄と小林徳三郎の平面作品のほか、1929年~1933年に出版された主婦之友社などによる住宅に関する記事(*4)が複数展示されました。

 「大川邸」はまさにこの「明るい家」です。自然光と換気を取り入れるために、いずれの壁も、開口を設けられる限り設けるといった具合で、縁側は明るく奥は暗い和風の家屋と異なり、全体として明暗差の少ない室内が作られています。方角や部屋によってガラスの種類が変えられていること、田園調布は建物の敷地は宅地の半分以下とされ、囲いに制限がある代わりに植栽が推奨されていたことを鑑みると、日中は室内から型板ガラスや透明ガラス越しに植物が見え、夜は室内の明かりが外部に漏れる光景が想像できます。戦前期、住宅にガラス建材と電力が普及していったこととの関連づけることもできるのではないでしょうか。

画像4_「田園調布の家」入口
4. 「田園調布の家」入口(型板ガラスの窓、ドア上部に横軸回転窓。ガラスブロックではなくガラス嵌められた格子)

画像5_「田園調布の家」居間
5. 「田園調布の家」居間(寝室、書斎とともに南に面している)

画像6_「田園調布の家」書斎の窓
6. 「田園調布の家」書斎(居間と同様、引き分け窓とその上部に型板ガラスの横軸回転窓)

園内では、同時代に建てられた建築として、堀口捨己の小出邸、上野消防署(旧下谷消防署)望楼上部があります。

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7. 上野消防署(旧下谷消防署)望楼上部

*3:岡田信一郎(1883-1932)建築家。主な作品に、大阪市中央公会堂、東京府美術館、旧歌舞伎座など。

*4:「ボーナスを貯めて建てた俸給生活者向の和洋折衷の家」(『主婦之友』13-1号、1929年1月)/『中流和洋住宅集』 (主婦之友社、1929年)/『初めて家を建てる人に必要な住宅の建て方』(主婦之友社、1931年)/『便利な家の新建築』(主婦之友社、1933年)などが展示された。


3-2. 常盤台写真場
 次に、常盤台住宅地は、武蔵常盤駅(現ときわ台駅)の北側に広がる東武鉄道が開発した郊外住宅地で、前述の田園調布の分譲開始後13年を経て1936年から分譲が始まりました。都市計画の教科書的なことを言うと、住宅地内を一周するループ状の遊歩道が造られ、袋小路(クルドサック)と歩行者専用の小道(フットパス)が試みられた地域です。当時は、昭和恐慌の後で国民の栄養状態が良くなかったこともあり、内務省が「健康向上」策を牽引していきました。常盤台住宅地は内務省都市計画課のプランがベースとなり、電気、ガス、水道、地中に埋められた排水設備が完備され、衛生面でも先進的な「健康住宅地」と宣伝されました。

 「常盤台写真場」は、1937年に大工による設計で建てられたと考えられている店舗併用住宅です。正面である西側はコンクリート造にも見えますが、木造モルタル仕上げで、北側または南側から見ると化粧した木造家屋であることがわかります。

画像8「常盤台写場」北西側外観
8. 「常盤台写真場」北西側外観

画像9「常盤台写場」IMG-3790
9. 「常盤台写真場」南西側外観

 ここでも光が主題になっており、2階の写真館では、安定した自然採光を可能にするために、北側に磨りガラス窓と天窓があり、スタジオ内は天井と壁面にRが付けられ塗り回されていることで、室内への柔らかな配光を可能にしています。

画像10_「常盤台写場」2階写真館内観(採光)
10. 「常盤台写真場」2階内観

画像11_「常盤台写場」2階写真館内観(R塗り回し)
11. 「常盤台写真場」2階内観

 1階は主に居住空間で、北側にトイレ、暗室、食堂、台所、浴室といった水回りが配置され、南側の日あたりの良い側に子供室、老人室、居間と応接間があります。老人室と居間は障子とガラス窓の二重窓があり、日中はそれらの部屋からの外光が食堂にまで届くよう、壁の欄間に横軸回転の開口が工夫されていることからも、細かい採光/換気への配慮がうかがえます。

画像12_「常盤台写場」内観
12. 「常盤台写真場」1階内観

 なお、「田園調布の家」は1995年6月に、「常盤台写真場」は1997年3月に同園に移築されました。現在は日々、園の職員さんにより、清掃や点検などのきめ細やかなケアが行われています。

おう せいび

●王 聖美のエッセイ「気の向くままに展覧会逍遥」は偶数月18日に掲載しています。次回は12月18日の予定です。

王 聖美 Seibi OH
1981年神戸市生まれ、京都工芸繊維大学工芸学部造形工学科卒業。WHAT MUSEUM 学芸員を経て、国立近現代建築資料館 研究補佐員。
主な企画展に「あまねくひらかれる時代の非パブリック」(2019)、「Nomadic Rhapsody-"超移動社会がもたらす新たな変容"-」(2018)、「UNBUILT:Lost or Suspended」(2018)など。

*画廊亭主敬白
今回王聖美さんにご紹介いただいた「田園調布の家」、「常盤台写真場」の丁寧に作られた建物の写真を見ると、市谷佐土原町、栃木県真岡、旧軽井沢にあった久保貞次郎先生のお屋敷や別荘を思い出します。久保先生はタリアセンにライトに会いにいったくらいですから建築好きで、ライトの高弟の遠藤新にいくつもの住宅や学校の設計を依頼していました。
昨日は休廊日で社長はのんびりと、いうわけにはゆかず久保貞次郎の会主催の下記展覧会の当番(世話人とボランティア)で、朝から夕方まで六本木で店番をしていました。会場のストライプハウスギャラリーは山下和正の設計です。駒込は平日一人か二人の来廊者なのに、さすが都心の繁華街、「平日はぱらぱらかしら」という割に10数人の来場者あり、入札もされていったようです。9月28日ブログ(塩見允枝子+フルクサス展の満員御礼)に書いた通り、駒込にそんなにいらしたらパニックです。ツーフロアー、広々とした会場と展示の様子は明日のブログでご紹介します。

クボテーって誰? 希代のパトロン久保貞次郎と芸術家たち
会期:10月15日[土]~10月29日[土] *日曜休廊 
会場:ストライプハウスギャラリー STRIPED HOUSE GALLERY
  〒106-0032 東京都港区六本木 5-10-33
  Tel:03-3405-8108 / Fax:03-3403-6354
主催:久保貞次郎の会
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