安曇野に内海柳子氏を訪ねて
―「内海柳子とデモクラートの作家たち」展報告と作家インタビュー


町田市立国際版画美術館 町村悠香


 現在、町田市立国際版画美術館ではミニ企画展「内海柳子とデモクラートの作家たち」(2022年9月28日~12月18日)を開催している。

 内海柳子は1921年大阪生まれ。1941年に関西女子美術学校洋画科を卒業し、油彩画を発表していく。終戦後の1946年には開設まもない大阪市立美術館・美術研究所に入所。1954年頃にデモクラート美術家協会のメンバーだった泉茂のアトリエを訪問したことがきっかけで銅版画に関心を持ち、1955年から同会に参加。1971年にパリに渡りウィリアム・ヘイターの「アトリエ17」で学んでからは、一版多色刷り銅版画にも創作の幅を広げた。展覧会では、内海が銅版画を軸に制作した時期と重なる1950年代から90年代までの25点と瑛九泉茂吉原英雄の作品を紹介している。

01 ミニ企画展展示風景ミニ企画展展示風景

 デモクラート美術家協会は当館の初代館長・久保貞次郎ともゆかりが深く、以前から当館では内海の作品を収蔵してきた。これまで内海の作品をまとまって展示する機会はなかったが、同会に所属した数少ない女性作家の足跡に光を当てるため、本展を開催することになった。

 秋が深まる10月の中旬、筆者は長野県安曇野市に住む内海を訪ねた。内海は娘の左詠さん(陶器を制作)、孫のえまさん(「うつみえま」名義で絵画を制作)と3人暮らしで、美術書と保護した猫たちに囲まれた穏やかな生活を送っていた。最近はもっぱら鑑賞の方に興味が向いているとのことだが、娘さんによると99歳ごろまでは作品制作をしていたそうだ。作品のこと、イメージの着想源、デモクラート時代やアトリエ17の思い出などを左詠さんも交えてお聞きし、さまざまな話に花が咲いた。

02 内海柳子氏近影内海柳子氏近影 2022年10月(101歳)

・美術をはじめたきっかけ、デモクラートの思い出

 内海は羽衣高等女学校を卒業した後、1941年に関西女子美術学校に入学。関西女子美術学校は国枝金三、赤松麟作など二科展や帝展に出品していた洋画家が教えており、ここで美術の専門的な教育を受けた。しかしどちらかというと「お嬢さん学校」で、後に加わるデモクラートの雰囲気とは随分違っていたという。在学中に21歳で結婚。戦後は1946年に設立したばかりの大阪市立美術館・美術研究所(当時は難波の精華小学校内で活動)に入り、子どもをもうけた後、1954年からデモクラート美術家協会に加わった。

 デモクラートに参加したきっかけは、近所に絵描きがいると聞いて内海の自宅から歩いて10分ほどのところに住んでいた泉茂を訪ねたことがきっかけだった。このころ泉は自宅でスルメイカの延ばし機を改造したプレス機を使ってエッチングを制作していた。この出会いから内海もエッチングの基礎を教わり、同じくスルメイカの延ばし機を改造したプレス機を駆使し、ほどなく独学で銅版画を習得していったという。

03 内海柳子《蝶と木片》1957年、町田市立国際版画美術館内海柳子
《蝶と木片》
1957年
エッチング
180×234mm
町田市立国際版画美術館蔵

 デモクラートに加わったことで、内海は画家として独立した創作の姿勢を確立できたという。しかし一方で、同会は盛んに合評会が開かれ互いに作品について議論しあっていたが、そうした集まりに女性はあまり出ていなかったとも記憶している。瑛九や泉茂は進歩的で、女性が発言したら話を聞いてくれる存在だったが、大勢が集まると女性は引っ込み思案になってしまい、聞き役に回ってしまうことが多かったとのことだ。
 デモクラートで特に親しかったのは早川良雄だったという。早川の妻のうめは、関西女子美術学校の1年後輩という縁があった。内海は母校の羽衣学園の中高で美術を教え、自宅で夫が開業していた医院を手伝い、同居していた姑の手を借りながら子育てをし、さらに自身の制作を続けていく。

・パリの「アトリエ17」へ

 50代に差しかかった内海の制作の転機になったのは、1971年からのパリでの滞在だった。フランスに渡ったのは夫の勧めだったという。大阪市立病院の医師を務めていた夫は海外視察旅行でヨーロッパ各地を巡り、各地の美術館にも訪れ巨匠の名作を見ることができた。ぜひ妻もヨーロッパで美術に触れた方がいいと勧められたことが背中を押した。
 日本でフランス語を学んでから、娘と弟子の一人とともにパリに渡ると、最初の半年はジョニー・フリードランデルの工房でオーソドックスなエッチングを学んだ。続いて、ウィリアム・ヘイターの「アトリエ17」に移り、ヘイター式の一版多色刷りを習得した。一版多色刷りで作品を制作するようになってからは抽象的な作品が増えていった。

04 内海柳子《変転》1972年、町田市立国際版画美術館蔵内海柳子
《変転》
1972年
銅版(一版多色刷り)
490×396mm
町田市立国際版画美術館蔵

 ヘイターの工房は人気があり、入るのも申し込み制だった。一版多色刷りを学ぶうえで大変だったのは、ローラーやプレス機などの道具の重さと大きさだったという。どんなに重くて苦労したかを、身振りも交えて何度も伝えてくれた。一版多色刷の制作には科学的な知識も必要になるが、技術的な部分は工房で長年助手を務めていた木原康行から親切に教えてもらうことができた。
 
・工房「版画80」解説、安曇野への移住

 パリに1年9か月滞在した後、日本に帰ってからは堺市浜寺で工房「版画80」を開設。多くの弟子をとってヘイター式を教えた。道具は扱いやすよう、小さく軽いものに改良するなど工夫をしていった。
 また80年代からは写真製版の作品も制作するようになる。もとになった写真は左詠さんが撮影したものを使うことが多かった。また身近なものを映像として取り込んでイメージを構成し、新境地を開いていく。この時期はフランス、アメリカ、韓国など海外のグループ展にも出品している。

05 内海柳子《トルソー》1980年、町田市立国際版画美術館蔵内海柳子
《トルソー》
1980年
銅版
590×420mm
町田市立国際版画美術館蔵

06 内海柳子[題名不明]1981年内海柳子
[題名不明]
1981年
銅版
400×508mm
町田市立国際版画美術館蔵

 1991年から安曇野に移ったのは、大阪の家が動物を飼うのには手狭になったからだという。森の中の家で銅版画制作に欠かせない下水処理ができないため、プレス機は持ってこなかった。こちらでは地元に伝わる紙漉きを学び、紙漉きの作品やドローイングを制作。娘や孫とともに安曇野のギャラリーで発表することも多かった。

・「半端なもの」から湧きあがるイメージを追い続けて

 内海にとって創作とは感覚的なもので、テーマやイメージは頭のなかに次々と浮かんでくるのだという。生活のなかでの発見や、新聞・雑誌を読んでいるとインスピレーションが湧いてくるので、外に出向いてスケッチすることはあまりないそうだ。

 常に猫などの動物に囲まれた生活を送ってきたといい、お話をうかがった自宅でも庭と室内で猫たちがのびのびと暮らしていた。しかし内海の作品でそれらを描いたものが見当たらない理由を聞いてみたところ、印象的な答えが返ってきた。内海にとっては「猫は可愛すぎて、形が完成されすぎていて、イメージが湧かない」というのだ。

 特に興味を惹かれるのは「半端なもの」だという。なにかのカケラや、中途半端なもの、崩れたものなどの形の面白さが着想源になっている場合が多い。たとえば、《Object-Blue》(1983年)は米袋の中身が減っていってつぶれているところ、《不安な森》(1991年)は壊れた塀が着想源だそうだ。そのように聞いて内海の作品を振り返ると、確かに初期作《蝶も木片》(1957年)でも木のカケラが描かれていることに気づいた。

07 内海柳子《Object-Blue》1983年内海柳子
《Object-Blue》
1983年
銅版
420×356mm
町田市立国際版画美術館蔵
*ミニ企画展では出品なし

08 内海柳子《不安な森》1990年、町田市立国際版画美術館内海柳子
《不安な森》
1991年
エッチング
368×614mm
町田市立国際版画美術館蔵

 内海自身は「作品に強いメッセージや理屈なんかはないから、語れることはあまりないのよ」としきりに繰り返していた。しかし身近なものに着想を得つつ、透明感と浮遊感のある世界に昇華し、いつまでも自分の作りたいイメージを追い続ける自由さに強い魅力を感じた。このしなやかさで、もしかすると今後も新作が生まれるのでは、という勝手な期待を胸に秘めつつ、緑と花に囲まれた安曇野のご自宅を後にした。

(まちむら はるか)

町村悠香(まちむら はるか)
1988年生まれ。2012年東京大学大学院人文社会系研究科文化資源学専攻修士課程修了。2016年より町田市立国際版画美術館学芸員。主な企画展「浜田知明 100年のまなざし」展(2018年)、「インプリントまちだ」展シリーズ(2017年、19年、20年)、「彫刻刀で刻む戦後日本 2つの民衆版画運動」展(2022年)など。

●展覧会のご紹介
「内海柳子とデモクラート」展
会期:2022年9月28日~12月18日
会場:町田市立国際版画美術館

 内海柳子(うつみ・りゅうこ)は銅版画の表現を追求しつづける作家です。内海がこの技法に取り組みはじめた1950年代初頭は、日本で銅版画が芸術表現として花開きつつあった時期で、常に進取の精神をもって制作に取り組んできました。

 内海は1921年に大阪市堂島で生まれ、1941年に関西女子美術学校洋画科を卒業し、油彩画を発表していきます。終戦後の1946年には開設まもない大阪市立美術館・美術研究所に入所。1954年頃にデモクラート美術家協会のメンバーだった泉茂(1922-1995)のアトリエを訪問したことをきっかけに銅版画に関心を持ち、1955年から同会に参加します。会のメンバーの大半は男性であったものの、民主的な運営を目指し若者が集まったデモクラートには、内海をはじめ複数の女性が加わっていました。泉から学んだ銅版画表現、そして会員同士で芸術論や作品批評を交わし合ったことは、創作の道を支える生涯の糧となりました。デモクラートが解散した1957年に初めての個展を開き、モノクロの象徴的なイメージを追求していきます。

 1971年、50代にさしかかった時期に内海はフランスへ渡ります。版画家のウィリアム・ヘイター(1901~1988)が主宰するパリの版画工房「アトリエ17」で一版多色刷り技法を学んだことで、色彩豊かな作品世界が花開いていきました。1977年には自身の銅版画工房「版画80」を堺市に開設。多くの教え子を育て、銅版画の普及にも貢献しました。1991年には長野県に移り制作を続け、同じく芸術家である娘や孫との展覧会を度々開催。100歳を超えた現在は美術鑑賞を楽しむ日々を過ごしています。
 本展では当館収蔵品から1950年代から90年代にわたる内海の作品約30点を展示します。さらに、デモクラート美術家協会で活躍した作家のうち関西を拠点とした泉茂、吉原英雄(1931-2007)、また同会の中心的存在だった瑛九(1911-1960)の作品も紹介いたします。
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●「アンディ・ウォーホル展 
史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたもの

会期:2022年11月4日(金)~19日(土)※日・月・祝日休廊
アンディ・ウォーホル展_案内状_表面1280
2001年2月22日奇しくもウォーホルの命日に路上で倒れ55歳の生涯を終えた栗山豊(1946-2001)は、新宿などで夜の街角に立つ似顔絵かきでした。
栗山は1960年代からアンディ・ウォーホルに関するカタログはもちろん、新聞、雑誌、広告、展覧会の半券、テレビコマーシャル、中には珍しいジャズ喫茶のマッチ箱まで幅広いメディアを網羅してウォーホルに関する情報を蒐集していました。遺された膨大なウォーホル資料は日本におけるウォーホル受容史の貴重な記録であり、1983年に現代版画センターが企画した「アンディ・ウォーホル全国展」はじめ、その後のウォーホル回顧展の重要な基礎資料としても使われています。
本展では、膨大なウォーホルの栗山資料のすべてを初公開します。

●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊