現代版画センターの冒険の縮図としての「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」図録
栗田秀法
版元ならではの図録
「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」図録をレヴューするにあたり、この小論の標題を「冒険の縮図」としてみたが、むしろ「暴挙の極み」とした方が良かったかもしれない。そもそも本図録の売価が20,000円であることからして破格である。低廉な通常版があっての限定部数の特装版の価格であれば理解できるが、この展覧会では2万円の図録しかないのである。当時の大卒初任給が132,200円ほどであったことを考えると、誰もが手軽に購入できる価格ではない。むろんその価格には理由があり、小ぶりなもので、署名のないものであれ、なんとウォーホルのオリジナルシルク1点が付されているのである。現代版画センターのエディションが、「絵を愛すことということ、それはまずあなたに一枚の画を手渡すことから始まる」のメッセージを掲げて、刷り部数11,111、価格千円の靉嘔作品で始まったことはよく知られている。その後も元永定正、菅井汲、大沢昌助らのオリジナル版画の低廉な価格での提供がエディション目録やprint communication誌の合本等への差し込みとしてしばしば行われており、図録へのウォーホル作品の綴じ込みも“意地でも”の心意気からなされたものであろう。それだけに本図録は現在古書マーケットで高騰しており、大学図書館や美術図書館に新たに収蔵されにくくなっており、現物を手にできる機会が希少なままであろうことはいささか残念である。
もちろんオリジナル版画の添付が可能になったのは、展覧会に際してのウォーホルの「KIKU」のエディション3種の出版があったからである。宮井陸郎氏のウォーホル展開催の提案に対して、紆余曲折と周囲の反対にもかかわらず最終的に受け入れたのだが、単なる作品ブローカーの役割に甘んずることも、相手がウォーホルであろうともひるむことなく、版元としての活動を軸としていた現代版画センターの本領を発揮すべくエディションクラブに多額の制作資金の出資を募ってウォーホルとの契約にこぎつけ、石田了一氏の刷りによって実現した経緯については、綿貫氏のブログ記事[KIKUシリーズの誕生]に詳しい。「KIKU」シリーズの売価は18万円と控え目で、コレクター界隈では必ずしも評価の高くなかったウォーホルを日本で売りさばく当時の困難がうかがわれる。ともあれ本図録は、オリジナル版画《KIKU(小)》を保護する役割もあったであろう、ハードカバー、布製本で函付きという豪華な造本である。中扉をめくるとすぐさまに紫と白の地に一際映える二輪の金色の菊の花が飛び込んでくる。その上に重ねられた花と茎の光沢のある赤い輪郭線も魅力的だ。図版では味わえない刷りの美しさは格別で、お小遣いを奮発した方々は作品を矯めつ眇めつ眺めては今なお堪能しているに違いない。
発行日:1983年 6月7日
発行人:綿貫不二夫
発行所:現代版画センター
編集:『アンディ・ウォーホル展 1983~1984』編集委員会
(宮井陸郎・栗山豊・根本寿幸・田村洋子・綿貫不二夫)
編集協力:星野治樹(水夢社)・古谷卓夫
写真:安齊重男、酒井猛、田中誠一、他
28.5×21.5cm 184P

アンディ・ウォーホル「KIKU(小)」 1983年 シルクスクリーン(刷り:石田了一)
商品カタログとしての図録
本図録の編集は、奥付を見るとアンディ・ウォーホル展カタログ編集委員会の手になるもので、そのメンバーは宮井陸郎、栗山豊、根本寿幸、田村洋子、綿貫不二夫の5名で構成されていた。この種の図録には異例なかなり長文な編集後記が付されており、制作の意図や経緯をかなり詳細に知ることができることは興味深い。それによると展覧会の概要は次のとおりである。
このカタログは、現代版画センターが一九八三年六月から約一年間、日本各地で開催を計画している「アンディ・ウォーホル全国展」のためにつくられたものである。
「全国展」計画の大要は次の通り
一、 ウォーホルの日本初のエディションとして、「KIKU」シリーズ三点の発表(カラー図版1~3、刷りは石田了一氏)。
二、 「KIKU」シリーズを始め、「LOVE」シリーズ、「危機に瀕している種」シリーズなど八〇年代の新作版画を中心とする「アンディ・ウォーホル全国展」の開催。北海道から沖縄まで、全県にわたって約五〇会場が予定されている。同時に東京では、「ウォーホル東京365日展」を、画廊、美術館、ディスコなど様々な可能性をもった空間において開催。美術だけでなく、映像、音楽なども含めた多角的視野から把える連続展として組織される。
三、カタログの刊行。
以上三つの柱よりなる「アンディ・ウォーホル全国展」は、版画の複数性という特色を最も生かした企画となることを目指している。
カタログの構成は、後記の説明によれば次のとおりである。
(イ)カラー図版(九-~五六頁)版画七五点、キャンバス作品二点、計七七点を収録。
(ロ)モノクロ図版(六八~七五頁、一四八~一五三頁の他に本文中にカットとして挿入)は、版画、キャンバス作品、立体、映画、レコードジャケットの他、ポートレート、新聞、雑誌資料類を収録。
(ハ)本文 このカタログには一七〇名の方々に原稿をお寄せ戴いた。本文では一六八名の執筆者に、ウォーホルについてそれぞれ熱気のある文章を書いて戴くことが出来た。
短期間の内に、ジャンルを超えて人々がこの様に多数執筆に参加してくれたこと自体が“ウォーホル現象”と言って良いだろう。
中谷芙二子、飯村隆彦両氏については、「草月」及び「話の特集」よりの再録である。
(ニ)資料篇
▼フィルモグラフィ(一五四~一五六頁)
日野康一氏執筆(「映画評論」誌に掲載されたものの再録)、一九七四年の執筆であるため、その後のウォーホル映画の製作については述べられていないが、ウォーホルの映画については、最も適確なフィルモグラフィとなっているので、再録させて戴いた。
▼ウォーホルを知るための十六冊の本(一五六~一六〇頁)、八十島健夫氏執筆(「POPEYE」誌に掲載されたものに一部修正をし、加筆したもの)。
▼日本の印刷メディアにおけるウォーホル紹介の記録(一六一~一七〇頁)
▼日本での展覧会を初めとする紹介の記録、各地美術館のウォーホル作品収蔵リストなど。
ただ不思議なのは本図録には目次がなく、厳密な意味での出品作品リストも載っていないことである。おそらくは「カラー図版」が出品作品なのであろうが、会場の大きさがまちまちである各会場に全てが展示されたのか、最大限の在庫リストなのか、カタログからだけでは不分明である。
「後記」では作品図版のデータについて、具体的には番号、作品名、制作年、技法、サイズ、限定部数について、かなり長文の補足がなされている。というのは、ウォーホルの版画作品が「オリジナル版画の一般的ルール――即ち刷りの均一性、限定部数の明示、刷了後の版の破棄、後刷りへの嫌悪etc.・・・―を無視したところで制作」されていることに加え、ウォーホルの版画のカタログ・レゾネが出版されたのが1985年のことで(日本語版1990年)、曖昧な点が多々残されていたからであろう。版元ならではのこだわりと言えよう。
ウォーホル現象の証言としての図録
本カタログの圧巻は何といっても「本文」である。当時は雑誌のウォーホル特集を除くと単行本はパルコ出版局から1978年に出されたジダル『アンディ・ウォーホル』しか出回っておらず、大変力がこもったものとなっている。その冒頭には日本人による長編のウォーホル論が3篇掲載されている。ウォーホルの初来日で沸いた1974年のウォーホル展の図録ではアメリカ側の論考が掲載されたのみであるのとは対照をなしている。
東野芳明「アンディ・ウォーホル外録」
石崎浩一郎「アンディ・ウォーホルの神話-わがウォーホル体験」
日向あき子「ポップ・シャーマン[アンディ]」
石崎は1967年の『現代美術』誌に「実在への復帰--アンディ・ウォーホル論」を、日向は1968年の『映画評論』誌に「ウォーホル映画のサディズム」を、東野は1969年の『美術手帖』誌に「ウォーホール--あるいは,何モシナイデ有名ニナル方法(明日をひらく芸術家-1-)」を発表するなど、いずれもウォーホル紹介の草創期の中核をなした評論家である。本カタログでの東野の論考での「ウォーホルの作品ほど、観衆が何の思いれもなしに見ることの出来る、表面だけの賑わいの世界はないのであって、こういう作品があるという事実自体が、美術による美術への批判であり続けるのだ。」とか、石崎の論考での「ウォーホルというスーパー・アーティストについて、最も奇妙な事実のひとつは、かれが絵のなかでおこなって来たことはすべて芸術家自身についても発生した、ということである。」、日向の論考での「まわりの現象を何もかもうつし、自分の中にとりこんでしまう、それがウォーホルなのだ。」といった一節などはなかなか含蓄がある。
これら3つのやや重めの論考の次に来るのは、青山南、飯田善国、金坂健二、関根伸夫、立川直樹、 寺山修司、針生一郎、宮澤壮佳、宮迫千鶴、横尾忠則、ヨシダ・ヨシエによる11のエッセイである。翻訳家、彫刻家、映像作家、プロデューサー、劇作家、美術評論家、編集者、画家、といった実に多士済々の顔ぶれで、ウォーホルの多面性を如実に映し出している。構想段階では20名程に依頼の予定であったようである。
それぞれのエッセイでは、「ファクトリーでもっとも精彩に欠ける人物はウォーホルで、ファクトリーを輝かせていたのは宿泊客たちだ」(青山)とか、「人気とか評判とかに特別の感動や感激を感じない不感症人間のようなとことがある」(飯田)、「ネオ・ポップ社会ではブランド・ネームたちはそれ自体の価値体系によって象徴交換し合い、共同体は解体して、人々はスーパーマーケットの中で迷子になっている」(金坂)、「[ウォーホルは]現代社会が特に都市社会が、荒廃し、無気力が人々の心情になってしまっている病める部分の美学者である」(関根)、「ヴェルベット[・アンダーグラウンド]はウォーホルの作品だった」(立川)、「ウォーホルの作品はこうして奇妙に、イメージと観念、表面と背後との緊張をはらんだ関係を、人々に問い直させる」(針生)、「ウーホルは日常をただ自然に鏡のように反映することによって、主題と深くかかわってきた芸術の歴史に主題を追求しない芸術をはじめて確立したのだと思う」(宮澤)、「影も裏も理由もない透明アーティスト」(宮迫)、「アンディ・ウォーホルがわれわれのウンと身近なモノを主題の対象に選べば選ぶほど、彼はますます手のとどかない遠い存在となっていった。このギャップがわれわれを熱狂させ、ついに彼を神話化させてしまった」(横尾)、「クールな手さばきのウォーホルの眼は乾いており、わたしたちの六十年代は、熱すぎるほどの眼で、そのメッセージを読んでいた」(ヨシダ)、といった言葉が心に残っている。
本文の最後を飾るのが、なんと152名(1)によるウォーホルについての思い思いの寸評である。依頼の時点では200名を超える名前がリストにあり、赤瀬川原平は「ウーホルも凄いけど、この執筆者依頼リストを見て、「うおっ!」と思った」という感想を寄せている。リスト化に当たっては、写真、ファッション、音楽、芸術、版画、フィルム、メディア、マガジン、風俗、語録、哲学、デザイン、マンガ、コマーシャル、作品、スキャンダル、ドラッグ、イラスト、ファクトリー、人生、ポップ、アメリカ、映画スター、レコードジャケット、演劇、小説、ムーヴメント、といった分野から選ばれた。原稿用紙1枚分を目途とした依頼であったが、何人かからはやや長めの文章が寄せられている。日本で最初のウォーホル展を開いた人物の証言から、ウォーホルとの交友の思い出、様々なウォーホル体験、展覧会へのエールは言うに及ばず、今さらなんでウォーホル、というものまで、実に多種多彩である。全ての文章をテキストマイニングしたらどんなキーワードが躍り出てくるのか、調べてみたいものである。
末尾を飾る資料編で特筆されるのが「日本の印刷メディアにおけるウォーホル紹介の記録」である。リストに先立ちやや長めの解題めいた注記が冒頭に付されており、「印刷物の収集は栗山豊が十数年にわたってスクラップして来たものを中心に、今回のカタログ編集に際し、新たに収集したものを加えた。いわば、日本の印刷メディアにおけるウォーホル記事の総索引に近いものである。しかし、「総索引」という目的でつくったものではなく、ウォーホル現象とも言うべきものを浮かび上がらせる一つの方法として編集委員会で考えこの“記録”を制作した」と述べられている。この栗山氏のスクラップがまとめて展示される今回の展覧会は、森下泰輔氏がウォーホルの残したタイムカプセルになぞらえたように、文字通り日本における初期のウォーホル現象のタイムカプセルと言って過言ではない。
起爆剤としての図録
帯金章郎は、東京都現代美術館を皮切りに1996年に開催された「アンディ・ウォーホル : 1956-86:時代の鏡」展の図録に寄せた論考「神話と批評 日本におけるウォーホル受容史」において、本図録も念頭に置いて適切にも次のように評した。
日本でウォーホルを特集した雑誌もしくは展覧会カタログで最もよく見かけるのが、様々な種類の人々に少しずつ彼について語ってもらう形式である。美術評論家、美術家、デザイナー、音楽家、哲学者、漫画家、写真家、詩人、映画監督、女優、医者、政治家、宗教家など、ヴァラエティに富み世代的にも幅のあるウォーホルについてコメントする様は、さながら万華鏡を見るかのようで、ますますウォーホルは得体のしれない神話的な人物となっていく。こんな特集が考えられるアーティストはウォーホルだけである。
とはいうものの、これだけでは本図録の超カタログ的な性格を言い当てるのにはやや不十分な気がするのは筆者だけであろうか。ここで思い出されるのが、山口昌男がかつて『文化の詩学』のなかで、「美術研究における安定した参考文献」とは別種の、「劇の始まる前の状態でつくられる目録」、「新しい劇を演出するようなタイプの図録」の存在に注意を促したことである。久保貞次郎の小コレクター運動の理念を継承して始まった現代版画センターはウォーホルのエディションを起爆剤にその運動をさらに発展させるべく「ウォーホル全国展」の旅に乗り出し、新たなるウォーホル現象に火をつけようとした。本カタログが導火線的な機能を果たすべく、欲張りにもコレクター的、鑑賞的、評論的、文化史的、歴史的な機能を一冊の図録に託したとすれば、ある意味で現代版画センターの活動を集約的に象徴する図録だと言ってよいのではなかろうか。
この展覧会がセンターの経営にどの程度ダメージを与えたのかは承知していないが、菊の大輪を見事に咲かすことのできた現代版画センターは羽化した蝉よろしくほどなく大合唱を終える(1985年2月倒産)。展覧会は蜻蛉のごとく忽然と消えていく束の間のものであるとしても、センターの精神はわれわれに遺されたエディション作品や出版物からうかがい知ることができる。版画頒布への意欲と多くの人々のウォーホル愛が結晶し、綿貫不二夫の矜持が髄所にじみ出ている本図録の存在が末永く記憶されることを願ってこの文章を終えることにしたい。
(くりた ひでのり)
(1) 愛川欽也、相澤俊雄、赤瀬川原平、赤塚不二夫、秋山祐徳太子、浅野翼、安土修三、安福信二、荒井由泰、荒木経惟、栗津潔、安斎重男、安斉儒理、飯塚明、池田満寿夫、石井志津男、石岡瑛子、石田了一、石原悦郎、市川雅、一色与志子、井上保、井上弥須男、岩城義孝、岩谷宏、有為エィンジェル、植田實、牛久保公典、内田繁、枝川公一、おおえまさのり、大沢昌助、太田克彦、大野ノコ、大林宣彦、大宮政郎、大宜味喬志、岡部徳三、岡正夫、 岡本信治郎、奥平イラ、尾崎正教、小野耕世、貝田隆博、柏原園子、桂宏平、金井美恵子、金子國義、川口信介、カワスミ・カズオ、かわなかのぶひろ、河原淳、川本三郎、北島敬三、木村恒久、草間彌生、久保貞次郎、倉垣光孝、久里洋二、黒田征太郎、黒柳徹子、小池一子、幸村真佐男、コシノジュンコ、小島素治、後藤由多加、今野雄二、坂井直樹、坂田栄一郎、佐藤重臣、佐藤忠雄、佐藤千賀子、佐野まさの、佐山一郎、白井佳夫、末井昭、鋤田正義、高梨豊、高橋明子、高橋明彦、高橋亨、高橋康雄、高松次郎、立花ハジメ、田中弘子、田村彰英、谷岡ヤスジ、谷川晃一、近田春夫、手塚真、 戸田正寿、戸村浩、富田敏夫、内藤忠行、中川徳章、長沢節、中田耕治、中村孝、中村直也、奈良彰一、西田考作、野口伊織、野田哲也、萩原朔美、長谷川義太郎、長谷川真紀男、羽永光利、浜田剛爾、浜野安宏、久田尚子、福島恵津子、福田繁雄、藤井邦彦、藤江民、藤本義一、藤原新也、船木仁、牧田喜義、町野親生、松岡和子、松岡正剛、松本俊夫、松山猛、三沢憲司、三宅一生、水原健造、道下匡子、峯村敏明、宮川賢左衛門、宮崎佳紀、武藤直路、村上知彦、室伏哲郎、元永定正、森下泰輔、森永純、森原智子、矢内廣、柳沢伯夫、矢吹申彦、山口勝弘、山田龍宝、よこすか未美、横山道代、吉田カツ、吉田大朋、ヨシダミノル、吉福伸逸、吉村弘、米倉守、ジョセフ・ラブ、渡部重行
■栗田秀法(くりた ひでのり)
1963年愛知県生まれ。 1986年名古屋大学文学部哲学科(美学美術史専攻)卒業。1989年名古屋大学大学院文学研究科哲学専攻(美学美術史専門)博士後期課程中途退学。 愛知県美術館主任学芸員、名古屋芸術大学美術学部准教授を経て、現在、名古屋大学大学院人文学研究科教授(博物館学担当)。博士(文学)。専門はフランス近代美術史、日本近現代美術史、美術館学。
著書、論文:『プッサンにおける語りと寓意』(三元社、2014)、編著『現代博物館学入門』(ミネルヴァ書房、2019)、「 戦後の国際版画展黎明期の二つの版画展と日本の版画家たち」『名古屋芸術大学研究紀要』37(2016)など。
展覧会:「没後50年 ボナール展」(1997年、愛知県美術館、Bunkamura ザ・ミュージアム)、「フランス国立図書館特別協力 プッサンとラファエッロ 借用と創造の秘密」(1999年、愛知県美術館、足利市立美術館)、「大英博物館所蔵フランス素描展」(2002年、国立西洋美術館、愛知県美術館)など
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『アンディ・ウォーホル展 1983~1984』オリジナル版画入り図録、刊行時の案内パンフレット


*画廊亭主敬白
亭主が編集した書籍、カタログ(総数は自分でもわからない)の中で、もっとも不運な運命をたどったのは『アンディ・ウォーホル展 1983~1984』オリジナル版画入り図録かも知れない。
170人もの方に執筆していただき、1983年6月に刊行した。
渋谷パルコからスタートした全国展は宇都宮市大谷、九州・福岡、北海道・小樽など全国各地、さらに韓国・ソウルでも開催されたが、栗田先生もご指摘されたように一冊2万円である、まさに「暴挙の極み」、そうそう売れたわけではない。むしろほとんど売れなかった。
1985年2月に倒産し、本書は亭主の手を離れた。
そんな経緯もあり本書を読み込んだレビューもほとんどなかった(のではないか)。
古書価は高額で、亭主でもおいそれとは手が出ない。
でも自分で言うのもなんだが、とにかく面白い。各界の錚々たる人たちが「私のウォーホル」を語っている。刊行後39年経ち、死んだ子を供養するような気持ちで、栗田先生に「隅から隅まで読んでください」と懇願した次第である。
11月4日~19日開催する「アンディ・ウォーホル展 史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたもの」には全170人の生原稿を展示する。パソコンはおろかワープロも無かった時代、全員手書きである。ブログで「170人の私のウォーホル」と題して、カタログを一ページづつ再録(スキャン)、ウォーホルファンにお届けしたいと思います。ご期待ください。
栗山豊とウォーホルについては、下記のブログも併せてお読みください。
・森下泰輔 「ウォーホルと栗山豊の時代」ただいま連載中
・石岡瑛子 「石岡瑛子さん逝く(私のウォーホル)」
・中谷芙二子 「ウォーホル 東京の夜と朝 」(再録)
・森下泰輔 「私のAndy Warhol体験」
・画廊亭主 「アンディ・ウォーホル『KIKUシリーズ』の誕生」
・1983年6月7日 渋谷パルコ「アンディ・ウォーホル展」全国展オープニング
・1983年7月23日 宇都宮大谷「巨大地下空間とウォーホル展」オープニング
・1984年9月1日 韓国ソウルで「アンディ・ウォーホル展」開催
◆「アンディ・ウォーホル展
史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたもの」
会期:2022年11月4日[金]~11月19日[土] ※日・月・祝日休廊

◆11月9日東京大学副産物ラボ(中井悠研究室)主催による「影響学セミナー ブランドの影響学」が開催され、粟生田弓さんとともに、尾立麗子と綿貫不二夫が登壇します。
参加方法:一般に向けオンラインWebinar配信(参加費無料、事前登録制(先着順300名)※学外の方もご視聴いただけます)。
登録フォームはコチラ
詳しくは中井悠さんのエッセイをお読みください。
栗田秀法
版元ならではの図録
「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」図録をレヴューするにあたり、この小論の標題を「冒険の縮図」としてみたが、むしろ「暴挙の極み」とした方が良かったかもしれない。そもそも本図録の売価が20,000円であることからして破格である。低廉な通常版があっての限定部数の特装版の価格であれば理解できるが、この展覧会では2万円の図録しかないのである。当時の大卒初任給が132,200円ほどであったことを考えると、誰もが手軽に購入できる価格ではない。むろんその価格には理由があり、小ぶりなもので、署名のないものであれ、なんとウォーホルのオリジナルシルク1点が付されているのである。現代版画センターのエディションが、「絵を愛すことということ、それはまずあなたに一枚の画を手渡すことから始まる」のメッセージを掲げて、刷り部数11,111、価格千円の靉嘔作品で始まったことはよく知られている。その後も元永定正、菅井汲、大沢昌助らのオリジナル版画の低廉な価格での提供がエディション目録やprint communication誌の合本等への差し込みとしてしばしば行われており、図録へのウォーホル作品の綴じ込みも“意地でも”の心意気からなされたものであろう。それだけに本図録は現在古書マーケットで高騰しており、大学図書館や美術図書館に新たに収蔵されにくくなっており、現物を手にできる機会が希少なままであろうことはいささか残念である。
もちろんオリジナル版画の添付が可能になったのは、展覧会に際してのウォーホルの「KIKU」のエディション3種の出版があったからである。宮井陸郎氏のウォーホル展開催の提案に対して、紆余曲折と周囲の反対にもかかわらず最終的に受け入れたのだが、単なる作品ブローカーの役割に甘んずることも、相手がウォーホルであろうともひるむことなく、版元としての活動を軸としていた現代版画センターの本領を発揮すべくエディションクラブに多額の制作資金の出資を募ってウォーホルとの契約にこぎつけ、石田了一氏の刷りによって実現した経緯については、綿貫氏のブログ記事[KIKUシリーズの誕生]に詳しい。「KIKU」シリーズの売価は18万円と控え目で、コレクター界隈では必ずしも評価の高くなかったウォーホルを日本で売りさばく当時の困難がうかがわれる。ともあれ本図録は、オリジナル版画《KIKU(小)》を保護する役割もあったであろう、ハードカバー、布製本で函付きという豪華な造本である。中扉をめくるとすぐさまに紫と白の地に一際映える二輪の金色の菊の花が飛び込んでくる。その上に重ねられた花と茎の光沢のある赤い輪郭線も魅力的だ。図版では味わえない刷りの美しさは格別で、お小遣いを奮発した方々は作品を矯めつ眇めつ眺めては今なお堪能しているに違いない。

発行人:綿貫不二夫
発行所:現代版画センター
編集:『アンディ・ウォーホル展 1983~1984』編集委員会
(宮井陸郎・栗山豊・根本寿幸・田村洋子・綿貫不二夫)
編集協力:星野治樹(水夢社)・古谷卓夫
写真:安齊重男、酒井猛、田中誠一、他
28.5×21.5cm 184P

アンディ・ウォーホル「KIKU(小)」 1983年 シルクスクリーン(刷り:石田了一)
商品カタログとしての図録
本図録の編集は、奥付を見るとアンディ・ウォーホル展カタログ編集委員会の手になるもので、そのメンバーは宮井陸郎、栗山豊、根本寿幸、田村洋子、綿貫不二夫の5名で構成されていた。この種の図録には異例なかなり長文な編集後記が付されており、制作の意図や経緯をかなり詳細に知ることができることは興味深い。それによると展覧会の概要は次のとおりである。
このカタログは、現代版画センターが一九八三年六月から約一年間、日本各地で開催を計画している「アンディ・ウォーホル全国展」のためにつくられたものである。
「全国展」計画の大要は次の通り
一、 ウォーホルの日本初のエディションとして、「KIKU」シリーズ三点の発表(カラー図版1~3、刷りは石田了一氏)。
二、 「KIKU」シリーズを始め、「LOVE」シリーズ、「危機に瀕している種」シリーズなど八〇年代の新作版画を中心とする「アンディ・ウォーホル全国展」の開催。北海道から沖縄まで、全県にわたって約五〇会場が予定されている。同時に東京では、「ウォーホル東京365日展」を、画廊、美術館、ディスコなど様々な可能性をもった空間において開催。美術だけでなく、映像、音楽なども含めた多角的視野から把える連続展として組織される。
三、カタログの刊行。
以上三つの柱よりなる「アンディ・ウォーホル全国展」は、版画の複数性という特色を最も生かした企画となることを目指している。
カタログの構成は、後記の説明によれば次のとおりである。
(イ)カラー図版(九-~五六頁)版画七五点、キャンバス作品二点、計七七点を収録。
(ロ)モノクロ図版(六八~七五頁、一四八~一五三頁の他に本文中にカットとして挿入)は、版画、キャンバス作品、立体、映画、レコードジャケットの他、ポートレート、新聞、雑誌資料類を収録。
(ハ)本文 このカタログには一七〇名の方々に原稿をお寄せ戴いた。本文では一六八名の執筆者に、ウォーホルについてそれぞれ熱気のある文章を書いて戴くことが出来た。
短期間の内に、ジャンルを超えて人々がこの様に多数執筆に参加してくれたこと自体が“ウォーホル現象”と言って良いだろう。
中谷芙二子、飯村隆彦両氏については、「草月」及び「話の特集」よりの再録である。
(ニ)資料篇
▼フィルモグラフィ(一五四~一五六頁)
日野康一氏執筆(「映画評論」誌に掲載されたものの再録)、一九七四年の執筆であるため、その後のウォーホル映画の製作については述べられていないが、ウォーホルの映画については、最も適確なフィルモグラフィとなっているので、再録させて戴いた。
▼ウォーホルを知るための十六冊の本(一五六~一六〇頁)、八十島健夫氏執筆(「POPEYE」誌に掲載されたものに一部修正をし、加筆したもの)。
▼日本の印刷メディアにおけるウォーホル紹介の記録(一六一~一七〇頁)
▼日本での展覧会を初めとする紹介の記録、各地美術館のウォーホル作品収蔵リストなど。
ただ不思議なのは本図録には目次がなく、厳密な意味での出品作品リストも載っていないことである。おそらくは「カラー図版」が出品作品なのであろうが、会場の大きさがまちまちである各会場に全てが展示されたのか、最大限の在庫リストなのか、カタログからだけでは不分明である。
「後記」では作品図版のデータについて、具体的には番号、作品名、制作年、技法、サイズ、限定部数について、かなり長文の補足がなされている。というのは、ウォーホルの版画作品が「オリジナル版画の一般的ルール――即ち刷りの均一性、限定部数の明示、刷了後の版の破棄、後刷りへの嫌悪etc.・・・―を無視したところで制作」されていることに加え、ウォーホルの版画のカタログ・レゾネが出版されたのが1985年のことで(日本語版1990年)、曖昧な点が多々残されていたからであろう。版元ならではのこだわりと言えよう。
ウォーホル現象の証言としての図録
本カタログの圧巻は何といっても「本文」である。当時は雑誌のウォーホル特集を除くと単行本はパルコ出版局から1978年に出されたジダル『アンディ・ウォーホル』しか出回っておらず、大変力がこもったものとなっている。その冒頭には日本人による長編のウォーホル論が3篇掲載されている。ウォーホルの初来日で沸いた1974年のウォーホル展の図録ではアメリカ側の論考が掲載されたのみであるのとは対照をなしている。
東野芳明「アンディ・ウォーホル外録」
石崎浩一郎「アンディ・ウォーホルの神話-わがウォーホル体験」
日向あき子「ポップ・シャーマン[アンディ]」
石崎は1967年の『現代美術』誌に「実在への復帰--アンディ・ウォーホル論」を、日向は1968年の『映画評論』誌に「ウォーホル映画のサディズム」を、東野は1969年の『美術手帖』誌に「ウォーホール--あるいは,何モシナイデ有名ニナル方法(明日をひらく芸術家-1-)」を発表するなど、いずれもウォーホル紹介の草創期の中核をなした評論家である。本カタログでの東野の論考での「ウォーホルの作品ほど、観衆が何の思いれもなしに見ることの出来る、表面だけの賑わいの世界はないのであって、こういう作品があるという事実自体が、美術による美術への批判であり続けるのだ。」とか、石崎の論考での「ウォーホルというスーパー・アーティストについて、最も奇妙な事実のひとつは、かれが絵のなかでおこなって来たことはすべて芸術家自身についても発生した、ということである。」、日向の論考での「まわりの現象を何もかもうつし、自分の中にとりこんでしまう、それがウォーホルなのだ。」といった一節などはなかなか含蓄がある。
これら3つのやや重めの論考の次に来るのは、青山南、飯田善国、金坂健二、関根伸夫、立川直樹、 寺山修司、針生一郎、宮澤壮佳、宮迫千鶴、横尾忠則、ヨシダ・ヨシエによる11のエッセイである。翻訳家、彫刻家、映像作家、プロデューサー、劇作家、美術評論家、編集者、画家、といった実に多士済々の顔ぶれで、ウォーホルの多面性を如実に映し出している。構想段階では20名程に依頼の予定であったようである。
それぞれのエッセイでは、「ファクトリーでもっとも精彩に欠ける人物はウォーホルで、ファクトリーを輝かせていたのは宿泊客たちだ」(青山)とか、「人気とか評判とかに特別の感動や感激を感じない不感症人間のようなとことがある」(飯田)、「ネオ・ポップ社会ではブランド・ネームたちはそれ自体の価値体系によって象徴交換し合い、共同体は解体して、人々はスーパーマーケットの中で迷子になっている」(金坂)、「[ウォーホルは]現代社会が特に都市社会が、荒廃し、無気力が人々の心情になってしまっている病める部分の美学者である」(関根)、「ヴェルベット[・アンダーグラウンド]はウォーホルの作品だった」(立川)、「ウォーホルの作品はこうして奇妙に、イメージと観念、表面と背後との緊張をはらんだ関係を、人々に問い直させる」(針生)、「ウーホルは日常をただ自然に鏡のように反映することによって、主題と深くかかわってきた芸術の歴史に主題を追求しない芸術をはじめて確立したのだと思う」(宮澤)、「影も裏も理由もない透明アーティスト」(宮迫)、「アンディ・ウォーホルがわれわれのウンと身近なモノを主題の対象に選べば選ぶほど、彼はますます手のとどかない遠い存在となっていった。このギャップがわれわれを熱狂させ、ついに彼を神話化させてしまった」(横尾)、「クールな手さばきのウォーホルの眼は乾いており、わたしたちの六十年代は、熱すぎるほどの眼で、そのメッセージを読んでいた」(ヨシダ)、といった言葉が心に残っている。
本文の最後を飾るのが、なんと152名(1)によるウォーホルについての思い思いの寸評である。依頼の時点では200名を超える名前がリストにあり、赤瀬川原平は「ウーホルも凄いけど、この執筆者依頼リストを見て、「うおっ!」と思った」という感想を寄せている。リスト化に当たっては、写真、ファッション、音楽、芸術、版画、フィルム、メディア、マガジン、風俗、語録、哲学、デザイン、マンガ、コマーシャル、作品、スキャンダル、ドラッグ、イラスト、ファクトリー、人生、ポップ、アメリカ、映画スター、レコードジャケット、演劇、小説、ムーヴメント、といった分野から選ばれた。原稿用紙1枚分を目途とした依頼であったが、何人かからはやや長めの文章が寄せられている。日本で最初のウォーホル展を開いた人物の証言から、ウォーホルとの交友の思い出、様々なウォーホル体験、展覧会へのエールは言うに及ばず、今さらなんでウォーホル、というものまで、実に多種多彩である。全ての文章をテキストマイニングしたらどんなキーワードが躍り出てくるのか、調べてみたいものである。
末尾を飾る資料編で特筆されるのが「日本の印刷メディアにおけるウォーホル紹介の記録」である。リストに先立ちやや長めの解題めいた注記が冒頭に付されており、「印刷物の収集は栗山豊が十数年にわたってスクラップして来たものを中心に、今回のカタログ編集に際し、新たに収集したものを加えた。いわば、日本の印刷メディアにおけるウォーホル記事の総索引に近いものである。しかし、「総索引」という目的でつくったものではなく、ウォーホル現象とも言うべきものを浮かび上がらせる一つの方法として編集委員会で考えこの“記録”を制作した」と述べられている。この栗山氏のスクラップがまとめて展示される今回の展覧会は、森下泰輔氏がウォーホルの残したタイムカプセルになぞらえたように、文字通り日本における初期のウォーホル現象のタイムカプセルと言って過言ではない。
起爆剤としての図録
帯金章郎は、東京都現代美術館を皮切りに1996年に開催された「アンディ・ウォーホル : 1956-86:時代の鏡」展の図録に寄せた論考「神話と批評 日本におけるウォーホル受容史」において、本図録も念頭に置いて適切にも次のように評した。
日本でウォーホルを特集した雑誌もしくは展覧会カタログで最もよく見かけるのが、様々な種類の人々に少しずつ彼について語ってもらう形式である。美術評論家、美術家、デザイナー、音楽家、哲学者、漫画家、写真家、詩人、映画監督、女優、医者、政治家、宗教家など、ヴァラエティに富み世代的にも幅のあるウォーホルについてコメントする様は、さながら万華鏡を見るかのようで、ますますウォーホルは得体のしれない神話的な人物となっていく。こんな特集が考えられるアーティストはウォーホルだけである。
とはいうものの、これだけでは本図録の超カタログ的な性格を言い当てるのにはやや不十分な気がするのは筆者だけであろうか。ここで思い出されるのが、山口昌男がかつて『文化の詩学』のなかで、「美術研究における安定した参考文献」とは別種の、「劇の始まる前の状態でつくられる目録」、「新しい劇を演出するようなタイプの図録」の存在に注意を促したことである。久保貞次郎の小コレクター運動の理念を継承して始まった現代版画センターはウォーホルのエディションを起爆剤にその運動をさらに発展させるべく「ウォーホル全国展」の旅に乗り出し、新たなるウォーホル現象に火をつけようとした。本カタログが導火線的な機能を果たすべく、欲張りにもコレクター的、鑑賞的、評論的、文化史的、歴史的な機能を一冊の図録に託したとすれば、ある意味で現代版画センターの活動を集約的に象徴する図録だと言ってよいのではなかろうか。
この展覧会がセンターの経営にどの程度ダメージを与えたのかは承知していないが、菊の大輪を見事に咲かすことのできた現代版画センターは羽化した蝉よろしくほどなく大合唱を終える(1985年2月倒産)。展覧会は蜻蛉のごとく忽然と消えていく束の間のものであるとしても、センターの精神はわれわれに遺されたエディション作品や出版物からうかがい知ることができる。版画頒布への意欲と多くの人々のウォーホル愛が結晶し、綿貫不二夫の矜持が髄所にじみ出ている本図録の存在が末永く記憶されることを願ってこの文章を終えることにしたい。
(くりた ひでのり)
(1) 愛川欽也、相澤俊雄、赤瀬川原平、赤塚不二夫、秋山祐徳太子、浅野翼、安土修三、安福信二、荒井由泰、荒木経惟、栗津潔、安斎重男、安斉儒理、飯塚明、池田満寿夫、石井志津男、石岡瑛子、石田了一、石原悦郎、市川雅、一色与志子、井上保、井上弥須男、岩城義孝、岩谷宏、有為エィンジェル、植田實、牛久保公典、内田繁、枝川公一、おおえまさのり、大沢昌助、太田克彦、大野ノコ、大林宣彦、大宮政郎、大宜味喬志、岡部徳三、岡正夫、 岡本信治郎、奥平イラ、尾崎正教、小野耕世、貝田隆博、柏原園子、桂宏平、金井美恵子、金子國義、川口信介、カワスミ・カズオ、かわなかのぶひろ、河原淳、川本三郎、北島敬三、木村恒久、草間彌生、久保貞次郎、倉垣光孝、久里洋二、黒田征太郎、黒柳徹子、小池一子、幸村真佐男、コシノジュンコ、小島素治、後藤由多加、今野雄二、坂井直樹、坂田栄一郎、佐藤重臣、佐藤忠雄、佐藤千賀子、佐野まさの、佐山一郎、白井佳夫、末井昭、鋤田正義、高梨豊、高橋明子、高橋明彦、高橋亨、高橋康雄、高松次郎、立花ハジメ、田中弘子、田村彰英、谷岡ヤスジ、谷川晃一、近田春夫、手塚真、 戸田正寿、戸村浩、富田敏夫、内藤忠行、中川徳章、長沢節、中田耕治、中村孝、中村直也、奈良彰一、西田考作、野口伊織、野田哲也、萩原朔美、長谷川義太郎、長谷川真紀男、羽永光利、浜田剛爾、浜野安宏、久田尚子、福島恵津子、福田繁雄、藤井邦彦、藤江民、藤本義一、藤原新也、船木仁、牧田喜義、町野親生、松岡和子、松岡正剛、松本俊夫、松山猛、三沢憲司、三宅一生、水原健造、道下匡子、峯村敏明、宮川賢左衛門、宮崎佳紀、武藤直路、村上知彦、室伏哲郎、元永定正、森下泰輔、森永純、森原智子、矢内廣、柳沢伯夫、矢吹申彦、山口勝弘、山田龍宝、よこすか未美、横山道代、吉田カツ、吉田大朋、ヨシダミノル、吉福伸逸、吉村弘、米倉守、ジョセフ・ラブ、渡部重行
■栗田秀法(くりた ひでのり)
1963年愛知県生まれ。 1986年名古屋大学文学部哲学科(美学美術史専攻)卒業。1989年名古屋大学大学院文学研究科哲学専攻(美学美術史専門)博士後期課程中途退学。 愛知県美術館主任学芸員、名古屋芸術大学美術学部准教授を経て、現在、名古屋大学大学院人文学研究科教授(博物館学担当)。博士(文学)。専門はフランス近代美術史、日本近現代美術史、美術館学。
著書、論文:『プッサンにおける語りと寓意』(三元社、2014)、編著『現代博物館学入門』(ミネルヴァ書房、2019)、「 戦後の国際版画展黎明期の二つの版画展と日本の版画家たち」『名古屋芸術大学研究紀要』37(2016)など。
展覧会:「没後50年 ボナール展」(1997年、愛知県美術館、Bunkamura ザ・ミュージアム)、「フランス国立図書館特別協力 プッサンとラファエッロ 借用と創造の秘密」(1999年、愛知県美術館、足利市立美術館)、「大英博物館所蔵フランス素描展」(2002年、国立西洋美術館、愛知県美術館)など
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『アンディ・ウォーホル展 1983~1984』オリジナル版画入り図録、刊行時の案内パンフレット


*画廊亭主敬白
亭主が編集した書籍、カタログ(総数は自分でもわからない)の中で、もっとも不運な運命をたどったのは『アンディ・ウォーホル展 1983~1984』オリジナル版画入り図録かも知れない。
170人もの方に執筆していただき、1983年6月に刊行した。
渋谷パルコからスタートした全国展は宇都宮市大谷、九州・福岡、北海道・小樽など全国各地、さらに韓国・ソウルでも開催されたが、栗田先生もご指摘されたように一冊2万円である、まさに「暴挙の極み」、そうそう売れたわけではない。むしろほとんど売れなかった。
1985年2月に倒産し、本書は亭主の手を離れた。
そんな経緯もあり本書を読み込んだレビューもほとんどなかった(のではないか)。
古書価は高額で、亭主でもおいそれとは手が出ない。
でも自分で言うのもなんだが、とにかく面白い。各界の錚々たる人たちが「私のウォーホル」を語っている。刊行後39年経ち、死んだ子を供養するような気持ちで、栗田先生に「隅から隅まで読んでください」と懇願した次第である。
11月4日~19日開催する「アンディ・ウォーホル展 史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたもの」には全170人の生原稿を展示する。パソコンはおろかワープロも無かった時代、全員手書きである。ブログで「170人の私のウォーホル」と題して、カタログを一ページづつ再録(スキャン)、ウォーホルファンにお届けしたいと思います。ご期待ください。
栗山豊とウォーホルについては、下記のブログも併せてお読みください。
・森下泰輔 「ウォーホルと栗山豊の時代」ただいま連載中
・石岡瑛子 「石岡瑛子さん逝く(私のウォーホル)」
・中谷芙二子 「ウォーホル 東京の夜と朝 」(再録)
・森下泰輔 「私のAndy Warhol体験」
・画廊亭主 「アンディ・ウォーホル『KIKUシリーズ』の誕生」
・1983年6月7日 渋谷パルコ「アンディ・ウォーホル展」全国展オープニング
・1983年7月23日 宇都宮大谷「巨大地下空間とウォーホル展」オープニング
・1984年9月1日 韓国ソウルで「アンディ・ウォーホル展」開催
◆「アンディ・ウォーホル展
史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたもの」
会期:2022年11月4日[金]~11月19日[土] ※日・月・祝日休廊

◆11月9日東京大学副産物ラボ(中井悠研究室)主催による「影響学セミナー ブランドの影響学」が開催され、粟生田弓さんとともに、尾立麗子と綿貫不二夫が登壇します。
参加方法:一般に向けオンラインWebinar配信(参加費無料、事前登録制(先着順300名)※学外の方もご視聴いただけます)。
登録フォームはコチラ
詳しくは中井悠さんのエッセイをお読みください。
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