石原輝雄のエッセイ「美術館でブラパチ」─17

『ランチタイムとディナーショー』


展覧会 マン・レイのオブジェ 日々是好物|いとしきものたち
    DIC川村記念美術館
    2022年10月8日(土)~2023年1月15日(日)

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『ミスター・ナイフとミス・フォーク』(1944年、1973年) など

 展示品のすべてが日本国内の美術館や個人の所蔵だという驚くべきマン・レイの展覧会が、千葉県の佐倉市で催されている。会場は印刷インキの製造と販売で創業し世界有数のファインケミカルメーカーとなったDIC(株)(旧・大日本インキ化学工業(株))を運営母体とするDIC川村記念美術館。マーク・ロスコの連作『シーグラム壁画』を展示するロスコ・ルームで知られ、小生の関心領域であるシュルレアリスム系の作家の名品も揃う憧れの美術館。豊かな自然の中にヨーロッパの古城を思わせる建物が海老原一郎の設計によって建てられている。色彩に特化する企業らしくマン・レイによるオブジェの所蔵品もブルー、レッド、シルバーと揃い楽しげ。今回の「美術館でブラパチ」は、来年の1月15日迄を会期とする『マン・レイのオブジェ 日々是好物|いとしきものたち』展を紹介したい。

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DIC川村記念美術館正面 左に清水九兵衛『朱甲面』(1990年)

 担当学芸員の杉浦花奈子さん(以下敬称略)が「日本国内のオブジェを複数並べる」企画に、副題として「日々是好物|いとしきものたち」を与えた時、展覧会は完成したといえる。後は具体的に作品をピックアップし並べれば──もちろん、それだけではないけど、二次元の展示プランが膨らみ空間化されてオブジェ自体が語りだす、これが「いとしき」眼差しを誘引した訳で、マン・レイ作品を調査・研究する過程で「いとしさ」が醸し出されたのではと、「マン・レイ 愛」50年になる小生など、目を細めてしまう。「日々是好物」の言葉遊びも茶道を嗜む彼女ならばこその着眼、マン・レイの生き方にも通ずると思うのである。

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会場ホワイエ

展示は「オブジェを軸に」凡そ160点の作品と資料をマン・レイの人生に沿って、画家として出発したニューヨークから、写真家として注目されたパリを経て、再制作を含むオブジェのシリーズが開花したハリウッド・パリ時代へと続く3章で構成されている。

 カタログに寄稿した関係で、小生も7日(金)の内覧会に参加、会場パチリの許可もいただいた(感謝)。


1. ウインドウショッピング

 第1章は五番街のショーケースをうっとり眺める感覚。オブジェが宝石や時計のように小部屋で美しく輝いている。まず、ゆったりとした天井のカーブに包まれ、画家を志した青年マン・レイの油彩(改名前でサインはE.R.)を眼にする。叙情的なブルー漂う海岸の情景、これ好きなんですよ。右奥の壁面には、ダニエル画廊での初個展(1915年)に出品された油彩『二人』(1914年、セゾン現代美術館蔵)が100年の時を超えて当時のカタログと共に展示され(奇跡と思いませんか)、その横には同画廊扱い(こちらは初個展での展示を示す資料未見)の『トーテム』(1914年、東京富士美術館蔵)も掛けられている。キュビスムの画家として出発した作家が年長の妻に影響され独自の人物表現を獲得する経緯を、他の2作品『スパニッシュ・ダンサー』と『室内または静物+部屋』(どちらも1918年、東京富士美術館蔵)が補完し上手く伝えている。展覧会の会場構成はある種の表現、インスタレーションの場と言えようか。白い壁面に効果的な青色のサインが心地よく、中央のウインドウに誘われる。ティファニーを覗くホリー(オードリ・ヘップバーン)になった気分。

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左から『室内または静物+部屋』(1918年)、『スパニッシュ・ダンサー』(1918年)、『うずくまる裸体』(1912年頃)、『杭のある海の風景』(1911年)、『木と帆船』(1910年)、

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左からカタログ展示ケース、『トーテム』(1914年)、『二人』(1914年)

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『マン・レイの素描と絵画展』カタログ(1915年)

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展示室 第1章「アメリカのマン・レイ」

 マン・レイの私生活と密接に結びついたオブジエは写真に撮られたものの、多くが失われた。作品として残す意識などなく、日用品のように使われ、壊れ、処分された (アメリカ的な消費、あるいは、ユーモアを含んだ話し言葉なのかもしれない)。このチープな楽しみ方が、後世の観客には刺激的でこたえられない。再制作で木製部分が金属に変えられていたりするとイメージが純化され、別の魅力を発揮させる。宝石になるんですよ。

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ケース内左から『チェス・セット』(1920/62-66年)、『プリアポスの文鎮』(1920/66年)、『イジドール・デュカスの謎』(1920/71年)、『夢/育児法』(1920/64年)、『ニューヨーク17』(1917/66年)、『ただそれだけでⅠ』(1918/66年)、『ただそれだけでⅡ』(1918/66年)

 展示ではオブジェを捉えた写真が外側に掛けられ、対話を豊潤にさせている。再制作で黄金に輝くのは、不用品の寄せ集めと、アトリエの壁に単に掛けられていただけの大型コンパスで「ただそれだけ」と人を困惑させるオブジェ発見への好例。銀色の細長い材料を黒色のクランプで留めた『ニューヨーク17』(1917/66年、DIC川村記念美術館蔵)からも摩天楼に囲まれた作家の生活を連想(五番街にしばらく住んでいたのです)。再制作品の金属感が、手の痕跡を消し去って、拝金主義の街を後にした気持ちを語る。さらに、成長する植物のような緑色に塗られた子供の「手」と『育児学』との関連を解こうとケースを覗いていると、作者が実際に観た夢の世界に入り込んでしまった。こうして、個別に書き出すと際限がない。
 ケースの閉じられた世界とゆったりした会場が一体となって、古い鉄道の駅に入り込んだ感覚。色彩の画家だと自らを評したマン・レイの世界が、ニューヨークの街の色になっている。彼はしたかったのだろうな── 今展の会場では実現されたが、現実には上手く出来なかった。


2. カフェでラムのお湯割り

 通路を抜けた先に『天文台の時間──恋人たち』(1934/65年、個人蔵)の大きな写真、後方から漏れる光が秋空の変化を誘うようでドラマチック。時代と場所が変わり会場は第2章の「パリのマン・レイ」となっている。

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展示室 第2章「パリのマン・レイ」

 小生が寄稿したのはアイロンの滑らかな面に鋲を貼り付けた『贈り物』と、メトロノームの振り子に切り抜いた眼の写真を留めた『破壊すべきオブジェ』にまつわる二つの事件。会場に1921年の案内状と1932年の雑誌が展示されるのを想定し、臨場感を伝えたいと願った。一次資料から失われたオリジナルが蘇り「ラムのお湯割り」で温まるサティとマン・レイの会話が聞こえるなんて連想は、大袈裟だろうか。

 一般的に展覧会の企画意図を現実の展示空間で実現出来た例は少ない。一般書籍扱いの展覧会カタログとテキスト、図版の齟齬も数多い。しかし、今展の会場は違うのですな、円柱台座に置かれた複数のアイロン(3個)とメトロノーム(4個)が、それぞれに自立して美しく、もう一人の寄稿者・木水千里が「意図的に差異を呼び込むことによって、いわばオリジナルから派生した『変奏』というべき新たなオリジナル作品を作るのである」(『カタログ』122頁)と指摘する眼を、わたしたちも獲得することになる。これが、楽しいのですよ。

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『贈り物』の写真、カタログ、『贈り物』のオブジェ再制作3点(手前から1921/74年、1921/63年、1921/72年)を見比べる

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『ダダ マン・レイ展』案内状(1921年)

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左から『天文台の時間 恋人たち』(1934/65年)、エドワード・W・ティテュ編『ジス・クオーター(シュルレアリスム特集号)』(1932年)

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オブジェの変奏4種、左から『永遠のモティーフ』(1923/70-71年)、『破壊されざるオブジェ』(1923/75年)、『永遠のモティーフ』(1923/70年)、『破壊されざるオブジェ』(1923/65年)

 会場ではレイヨグラフのシリーズやソラリゼーションの技法を用いたものの他、『アングルのヴァイオリン』『黒と白』『眠るモデル』などの有名な写真、『ひとで』などの前衛映画も上映され、広範囲に渡るマン・レイの仕事を紹介。『ガラスの涙』の写真と『我々すべてに欠けているもの』(1927/73年、セゾン現代美術館蔵)のシャボンに見立てたガラス玉が共演、オブジェ解釈の糸口が複数示されている。油彩と写真の影響も気になって、1920~30年代のパリで遊んでいる感覚にとらわれた。


3. パレッターブル

 角を曲がるとカリフォルニアの陽光。会場の白い壁面が上品で、パリからやってきた友人と木陰で世間話をしている場面。この第3章「オブジェの展開」が今展を特徴づける真骨頂。1940年のドイツ軍侵攻で作品の全てをフランスに残し失意のまま帰国したマン・レイが、鳥の巣づくりのようにアトリエにオブジェを持ち込む。油彩の再制作とは異なる手軽さが、やはり「私生活と密接に結び」つき、「楽しませ、当惑させ、困らせ、内省を促すように作られている」。

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展示室 第3章「オブジェの展開」

 今展のオブジェたちが生気を発しているのは、杉浦花奈子の中に生れた「いとしさ」のたまものと思う。繰り返すが、会場構成の気配りから、それを感じる。オブジェの設置角度やケース空間とのバランス、台座の高低差。カタログの頁が会場で再現されているようにも思う。書籍『セルフ・ポートレイト』が斜めに置かれていると、オブジェのように見えるし、『マン・レイ(手・光線)』(1935/71年、東京富士美術館蔵)の黄色いビリヤード玉と写真に写るレンズの絞りを合わせるマン・レイの仕草が、「いとしさ」と繋がる演出。これには唸ります。

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「『我が愛しのオブジェ』とエフェメラ」 ポスター2点の下にカタログや案内状など各種。ケース上段左のカタログはジュリアン・レヴィ画廊(1945年)、プリンストン大学美術館(1963年)

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「マン・レイの自画像」のコーナー、モニターで手書きアルバム『我が愛しのオブジェ』(1944年、ストックホルム近代美術館蔵)を紹介。

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「ポスター」左から上段: ニューヨーク文化センター(1974年)、高輪美術館(1981年)、パリ国立近代美術館(1972年)、下段: スティーヴン・ウィルツ画廊(1982年)、フランソワーズ・トゥルニエ画廊(1972年)、ヘイワード・ギャラリー(1978年)

 手前味噌のお叱りを承知で報告するが、今展のように珍しい一次資料の表面と裏面が同時に展示される例は少ない(2部必要)。デュシャンが選んだ口づけを交わす映画のひとコマ、ブロンズ彫刻へと進展する自画像のデッサンなど、50年に渡って収集に努めた品物を改めて楽しむ、小生の心は会場をスキップしているのです。

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左から『フランスのバレエ』(1956/71年)、『だまし卵』(1963年)

 青色のパネルに取付けた便座をドアノッカーに見立てた『だまし卵』(1963年、DIC川村記念美術館蔵)に当惑しながらマン・レイを呼ぶ、「やあ、今日は誘ってくれて有難う」(想像)。丸テーブルに並ぶチェスの駒、別のテーブルでは青く塗られたバケットが「パン・パン」と「消防車のサイレンの擬音」を奏でる。うるさいが明るい笑い声。1958~1973年にわたって作られたオブジェは色調が同じなので、チャートを用いているのかと、考えた。いや、口に頬張った。オブジェそれぞれに言葉遊びが絡むので知識も必要。この部分についてはカタログ102頁、108頁を読んでもらいたい。

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左から『チェス・セット』(1947年)、『永遠の魅力』(1948/71年)、『チェス・ゲーム』(1962/71年)

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『ブルー・ブレッド』をモティーフとしたオブジェの後方で「変奏」たちが共演する。

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『パレッターブル』(1941/71年)、後方に『無名画家へのモニュメント』(1955/71年)、『イッツ・スプリングタイム』(1961/71年)の他、DIC川村記念美術館蔵の『赤いアイロン』(1966)年と『筒の中の柄または「主なき槌」』(1967年)

 変化をもたせた飾り台には、ケースから開放されたオブジェが並んでいる。その一つはパレットの形をしたテーブル『パレッターブル』(造語)で、もとは子供の玩具のようだった。「主人は客を童心に戻すように促し、ハープやギターを奏で、再婚した夫人のジュリエットが美しく踊る。引き締まった身体の彼女は踊り子で、画家の心を穏やかにさせる存在。小生は単純なマン・レイ愛好家なので、新鮮な洋梨か桃か、どちらを先に食べようかと、酔っ払いながら思うのだった」── なんて、夢を観てしまった。


4. ミスター・ナイフとミス・フォーク

 さて、館内のレストラン ベルヴェデーレでランチをしていると、学生時代にロサンゼルスでホームステイをしたことのある友人から、「フォークの向きが違うけど、どちらが正しいの」と問われた。会場の最終コーナーに置かれた『ミスター・ナイフとミス・フォーク』のオリジナル(1944年、東京富士美術館蔵)と再制作(1944/73年、セゾン現代美術館蔵)の差異である。友人は最初「オリジナルが違っている」と言った。小生は「食べる前と食事中だろうか」と返答したが、確証はない。「メキシコに近いから豆料理が多いよね」と会話は続いたのだけど、作品がマン・レイによる「変奏」なのか、第三者による「錯誤」なのか、コレクターとしては、そこに反応してしまうのである。「新たなオリジナル作品」としての認定はフォークが簡易に固定されているだけに難しい(冒頭写真参照)。
 
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左から『こんにちは、マックス・エルンスト』(1974年)、ケース内にルネ・クルヴェル著/マックス・エルンスト画『ミスター・ナイフとミス・フォーク』(1931年)、ルネ・クルヴェル著『バビロン』(1927年)、『ミスター・ナイフとミス・フォーク』(1944/73年)、同上オリジナル(1944年)、

 記憶する手元資料では、展示品の限定番号3以外はすべて内向きにフォークが固定されていたので、「錯誤」説に傾いたが、テーブルマナーの本によると、高価な銀食器の刻印を見せるのを目的としてセットされ、フランスでは内向きが多く、アメリカでは外向きが多いと云う。友人は後者だったのですな。それで、後日、オブジェのレゾネを編纂中の専門家に問い合わせたところ、作家持ちも含め確認出来る10例の内、6例が下向きとの回答を得た。なので、「変奏」説を採用することにした。このような追跡に誘い込ませるオブジェの魅力は、同病の方としか共有できないだろう。分かっております。


5. デザート

 今展は、50点程のオブジェを通観することで多様なマン・レイの内面に迫り、発展や進化の結果ではなく都度関連性なく現れた仕事が、着想の面白さに味付けされた「変奏」でありつつ、一貫した作家の関心事に裏付けられたものであったことを、ユーモアとともに示している。これは、芸術の仕組みからの開放。複数のシリーズ作品を展示することで、オリジナルについての新しい概念を問題提起する試み。木水千里がテキスト「モダニズムの完成としてのマン・レイのレプリカ」で鋭く論を展開している。これらは、四季の変化に包まれた環境でのみ可能であるのは、改めて言うまでもなく、展覧会を実現させたDIC川村記念美術館と関係者の方々に感謝申し上げたい。

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最終コーナー 左から『月夜の夜想曲』(1961年頃)、『非売品』(1969+年)、『ダダ・メイド』(1957年)、出口に『「永遠のモティーフ」を頭の上に乗せたマン・レイ』(1972年)

 身近な日用品を組み合わせ自由に楽しみ、題名と作品を詩的に繋げ、気に入った服装で、仲間と美味しいものを食べ笑う。閉塞感漂う2022年の日本に住むわたしたちすべてを幸福にしてくれた。彼の言葉に従えば「画家というのはわたしたちの社会の構成員のなかで、いちばん役に立つとは言えないにしても、いちばん害の少い人種」(『セルフ ポートレイト』千葉成夫訳)、マン・レイが生きていれば、にこやかに賛同してくれたと思う。

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綿貫夫妻と筆者

 会場で綿貫夫妻とお会いした。出口でパチリをしていると通りかかった人が、気軽に声をかけてくださり、小生も記録に収まる。良い記念となった。写真は一期一会ですな。

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 コーネルの部屋を抜け館内の茶席で、一服。「風の強い雨模様の日」だったので、庭の緑は水煙の中。マン・レイがリブレリ・シスで個展を開いた日と同じと思いながら、黒楽茶碗とお抹茶の色彩対比を楽しむ。展覧会にちなんだ和菓子は「包光(デュカス)」と名付けられた金沢の「和菓子 村上」とのコラボの品、付されたカードには「マン・レイのある作品をモチーフにした練り切り。いったい何が包まれているのでしょうか」とある。形が美しく梱包の紐ともマッチし、大きさも丁度良い。この品質であれば、ニューヨーク近代美術館が失敗した再制作(1967年)と違ってオーラが発せられる。美味しく頂いたから、「謎」はお腹の中なんだけど。

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抹茶と上生菓子「包光(デュカス)」

 どこから、オブジェの魅力を感受できたのだろう、作品の言葉遊びに着目した杉浦花奈子は「マン・レイの視点と構成の仕方はむしろ『見立て』や『取合せ』といった茶道の粋な遊びに近いのではないでしょうか」と書いている。そして、わたしたちは無償の遊び故の難しさを知っている──本稿執筆時に京都国立博物館で開催中の『茶の湯』展を観覧したが、ひとり図抜けて、千利休が居るのだと思った。シャープな姿形がマン・レイのオブジェと繋がる。これだと、マン・レイは益々、日本で人気者となるだろう、「最後に笑うのはマン・レイではないか、但しマン・レイらしく」(瀧口修造)とは、名言ですな。


6. スーベニール

 前述したように今展のカタログは、一般書籍扱いで求龍堂から刊行された。展示品やテキストがリズムよく展開する絵本のような書容。このブログでの会場写真を参照しながら、多元的に楽しんでくれたら、寄稿者として嬉しい。

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展覧会公式カタログ『マン・レイのオブジェ 日々是好物|いとしきものたち』求龍堂刊、デザイン: 加藤賢策、守谷めぐみ、26 x 19.2 cm 208 pp.

 個人的な補足をすると、カタログの36頁で始まったチェスの試合は、「エンドゲーム」に向かって会場の小部屋で展開。154頁の駒配置が現実世界に繋がるのですよ、いたるところにこうした仕掛けがあって、ちょっとミステリー。さらに加えれば、画像と作品が一致し、出品作品リストにエディション番号が記されているのに好感を持った。番号毎の所在、形態の差異についての情報は「新しいオリジナル」の研究に欠かせないのです。

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左から『筒の中の柄または「主なき槌」』、『ニューヨーク 1917』、『破壊されざるオブジェ』、『夢/育児法』、『赤いアイロン』

 送迎バスの時間が迫りミュージアムショップでオブジェを求めた。帰宅し食卓で並べると美術館の展示台に早変わり、カラフルにそれぞれが来歴を語って、パーティのように賑やか。金槌氏が「Le manche dans la manche」と卑猥なダジャレを連発するものだから、一同大笑い。紙製だから立たせるだけでも大仕事(ハハ) お後がよろしいようで。


(いしはら てるお)

【お知らせ】
誠に勝手ながら、11月29日(火)は17時閉廊とさせていただきます。
ご迷惑をお掛けしますが、ご理解とご協力の程宜しくお願い申し上げます。

*画廊亭主敬白
石原さんの連載が第17回をもっていったん終了します。
ブログ執筆の常連であり、通算で67回目の投稿となりました。
毎回、丁寧に取材され、推敲に推敲を重ねた論考はいずれきちんした本にまとめられことでしょう。
石原さんはかつて、
わたしはマン・レイに狂っています。アメリカで生まれフランスで亡くなった、著名な芸術家の人生とわたしの人生を重ねて考えてしまう、困った病原菌に侵されています。今のところ特効薬が見付かっていないので、彼の油彩や写真やオブジェ、それに書かれた書物、展覧会アイテムに全身を侵され、朽ち果てる末路------>と自己紹介されていました。
詳しくは<「マン・レイになってしまった人」に全員酔っ払う>をお読みください。
奇しくも本日11月18日はマン・レイの命日です。
そしてまた私たちの恩人であり、マン・レイのコレクターでもあった秋田の船木仁先生が亡くなったのが1986年(昭和61年)11月18日でした。
マン・レイの死後、ちょうど10年目の今日でした。
船木先生については、のちほど書かせていただきます。
石原さん、長期の連載、ありがとうございました。
復活の日を信じて楽しみにお待ちしています。