〈発想〉について 第2回(全5回)
関根伸夫 (1976年執筆の再録)
ある少年の日、荒川辺の小さな村で生息していた私は、堤防の上で粘土をこねて人形をつくるのに夢中だった。種々の豊かな雑草におおわれた道は、それでも轍に踏み切られて赤い土膚を見せて、目が届かなくなるほど蜒々と続いていた。何げなく他人(ひと)に聞いた話が、ひどく私には気になっていた。「粘土で作った人形は、夜のうちに道を歩いていっちゃうんだ。」骨組に細い枝を折って使い、芝の細い葉でからげてそれに粘土を塗り固める作業は、注意深い配慮の結果だ。こうすれば粘土は落ちついて歪まないし、充分二本の足で立たせることができる。大きい人形二体と小さい奴を一体作りあげて、周到にも、小さな奴は大きい奴に蔦でもって結んだ。土人形はみごとに完成して、適度の間隔をあけて、今にも草におおわれた赤膚の小路を歩き出さんばかりであった。
夕刻から降り出した雨は激しかった。土人形が雨で破壊され、流される心配を、さまざまな幻想と空想が襲い、その夜は遅くまで寝苦しかった。
次の日の朝はまばゆい太陽の輝きを受けて清々しい夏の緑の姿態をさらしていた。あたり一面に木々が、草花が、空が、生動する様が、つまり、自然と私が一体的躍動感を伴って存在しているというその時の感慨は、現在の私の鮮烈な記憶の中の確実な光景である。もう太陽もかなり上空に来てしまったという後悔を繰り返しつつ、一気に駆け登った堤防の上の道には、昨日の土人形の姿は消え失せていた。
実地検証は難かしい仕事だった。人が踏みつぶしたか、持ち去ったか、あるいは雨か、何かの動物か、車か、これらの思いつく限りの可能性を確かめねばならなかった。これらのどの設定も、現場の状況はもの語っていないように思われた。どれもが不確実なのだ。しかし、土人形は確かに夜のうちに歩いて行ってしまったのだ、という納得は安易すぎて、ロマンチックな気はずかしさが先に立って私には出来なかった。「土塊が歩くはずがない。」
次の日も、その翌日もこの実験は続けられた。他人(ひと)にこの試みを告げるわけにはゆかない必然を自分は負っているように思われた。しかし、ことごとく土人形は失われてしまうのだった。何故失われ、消滅してしまうのか、原因は黙として解明出来なかった。
この小事件と光景に対して、私はいまなお合点のゆく判断を持たないでいる。納得ゆく理屈や説明を付け加えることは厭わしい。何故というと、その出会った光景や経験は私にとっての〈原体験〉あるいは〈原光景〉と呼ぶべき性質(たち)のものだからである。時として、私は作品を構想している過程の中で、こういった原光景を追体験しているのと同種の感情に犯されていることがある。あの切ない感情も、楽しい経験も、私の感受性を支えている一部である。身体性に刻み込まれた生生しい痕跡は、すぐにも噴き出そうとする鮮烈な原光景の中にある。こんな幼稚な体験や危険な思いのために、今もなお土塊を握っているのだとしたら何か滑稽ではずかしい。「土人形が歩き去ることはない」と思いつつ、「歩き出す」期待のために作るのだとしたら。 つづく
(せきね のぶお)
*「版画センターニュース」第13号より再録
現代版画センター機関誌・1976年4月1日発行
■関根伸夫(せきね のぶお) (1942~2019)
1942年9月12日埼玉県生まれ。1962年多摩美術大学油画入学、1966年多摩美術大学大学院油画研究科入学、斎藤義重、高松次郎に師事(1968年修了)。1968年に第8回現代日本美術展《位相No.6》、神戸須磨離宮公園現代彫刻展《位相―大地》、第5回長岡現代美術館賞展《位相―スポンジ》などで次々と受賞。日本発の現代美術ムーブメント[もの派]を代表する作家として活躍する。1970年第35回ヴェネチア・ビエンナーレではステンレスの柱の上に自然石を置いた《空相》を発表し、高い評価を得る。これを機に渡欧(1971年帰国)。ヨーロッパの建築空間に触発され、1973年環境美術研究所を設立。1972年埼玉県志木市庁舎モニュメント《空相》を制作、以後各地で多くのパブリック・アートを展開した(2010年閉所)。1977年デンマーク・ルイジアナ美術館にセキネ・コーナーが完成。2010年上海へ移住。2012年ロサンゼルス南部のパロスバーデス半島に移住し制作活動を行なう。2019年 5月13日ロサンゼルス郊外のトーランス市の病院にて永逝(享年76)。
出品リストNo.9
関根伸夫
《Project》(レゾネNo.251)
1971
シルクスクリーン
60.0×48.0cm/70.0×50.0cm
Ed.100
サインあり
出品リストNo.11
関根伸夫
《菜の花や月は東に日は西に》
1972
水彩
28.0×48.5cm/35.0×51.5cm
サインあり
*画廊亭主敬白
明日2月1日は倉俣史朗先生の命日です(1934年11月29日 - 1991年2月1日)。
前日までお元気だったと聞いています。
もう32年前ですが、急逝の報に呆然としていた植田実先生、テレビには出ないと言っていた磯崎新先生が倉俣先生の追悼番組に出演したこと、1991年のあれこれを思い出します。
来年は生誕90年、いくつかの美術館で回顧展が計画されているようです。
ときの忘れものも倉俣先生の遺したスケッチ、ドローイングをシルクスクリーンに起こし版画集「カイエ」を出版中です。3月にはアートフェア東京で展示、さらに4月末からは軽井沢の現代美術館で倉俣史朗展を開催予定です。
どうぞご期待ください。
●関根伸夫展カタログのご案内
『関根伸夫展―旅する人』カタログ
発行日:2023年1月20日
発行:ときの忘れもの
図版:22点
執筆:関根伸夫「<発想>について」(1976年執筆)
編集:尾立麗子
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
体裁:25.6×17.1cm、32頁、
日本語・英語併記
価格:880円(税込)+送料250円
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。


●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

関根伸夫 (1976年執筆の再録)
ある少年の日、荒川辺の小さな村で生息していた私は、堤防の上で粘土をこねて人形をつくるのに夢中だった。種々の豊かな雑草におおわれた道は、それでも轍に踏み切られて赤い土膚を見せて、目が届かなくなるほど蜒々と続いていた。何げなく他人(ひと)に聞いた話が、ひどく私には気になっていた。「粘土で作った人形は、夜のうちに道を歩いていっちゃうんだ。」骨組に細い枝を折って使い、芝の細い葉でからげてそれに粘土を塗り固める作業は、注意深い配慮の結果だ。こうすれば粘土は落ちついて歪まないし、充分二本の足で立たせることができる。大きい人形二体と小さい奴を一体作りあげて、周到にも、小さな奴は大きい奴に蔦でもって結んだ。土人形はみごとに完成して、適度の間隔をあけて、今にも草におおわれた赤膚の小路を歩き出さんばかりであった。
夕刻から降り出した雨は激しかった。土人形が雨で破壊され、流される心配を、さまざまな幻想と空想が襲い、その夜は遅くまで寝苦しかった。
次の日の朝はまばゆい太陽の輝きを受けて清々しい夏の緑の姿態をさらしていた。あたり一面に木々が、草花が、空が、生動する様が、つまり、自然と私が一体的躍動感を伴って存在しているというその時の感慨は、現在の私の鮮烈な記憶の中の確実な光景である。もう太陽もかなり上空に来てしまったという後悔を繰り返しつつ、一気に駆け登った堤防の上の道には、昨日の土人形の姿は消え失せていた。
実地検証は難かしい仕事だった。人が踏みつぶしたか、持ち去ったか、あるいは雨か、何かの動物か、車か、これらの思いつく限りの可能性を確かめねばならなかった。これらのどの設定も、現場の状況はもの語っていないように思われた。どれもが不確実なのだ。しかし、土人形は確かに夜のうちに歩いて行ってしまったのだ、という納得は安易すぎて、ロマンチックな気はずかしさが先に立って私には出来なかった。「土塊が歩くはずがない。」
次の日も、その翌日もこの実験は続けられた。他人(ひと)にこの試みを告げるわけにはゆかない必然を自分は負っているように思われた。しかし、ことごとく土人形は失われてしまうのだった。何故失われ、消滅してしまうのか、原因は黙として解明出来なかった。
この小事件と光景に対して、私はいまなお合点のゆく判断を持たないでいる。納得ゆく理屈や説明を付け加えることは厭わしい。何故というと、その出会った光景や経験は私にとっての〈原体験〉あるいは〈原光景〉と呼ぶべき性質(たち)のものだからである。時として、私は作品を構想している過程の中で、こういった原光景を追体験しているのと同種の感情に犯されていることがある。あの切ない感情も、楽しい経験も、私の感受性を支えている一部である。身体性に刻み込まれた生生しい痕跡は、すぐにも噴き出そうとする鮮烈な原光景の中にある。こんな幼稚な体験や危険な思いのために、今もなお土塊を握っているのだとしたら何か滑稽ではずかしい。「土人形が歩き去ることはない」と思いつつ、「歩き出す」期待のために作るのだとしたら。 つづく
(せきね のぶお)
*「版画センターニュース」第13号より再録
現代版画センター機関誌・1976年4月1日発行
■関根伸夫(せきね のぶお) (1942~2019)
1942年9月12日埼玉県生まれ。1962年多摩美術大学油画入学、1966年多摩美術大学大学院油画研究科入学、斎藤義重、高松次郎に師事(1968年修了)。1968年に第8回現代日本美術展《位相No.6》、神戸須磨離宮公園現代彫刻展《位相―大地》、第5回長岡現代美術館賞展《位相―スポンジ》などで次々と受賞。日本発の現代美術ムーブメント[もの派]を代表する作家として活躍する。1970年第35回ヴェネチア・ビエンナーレではステンレスの柱の上に自然石を置いた《空相》を発表し、高い評価を得る。これを機に渡欧(1971年帰国)。ヨーロッパの建築空間に触発され、1973年環境美術研究所を設立。1972年埼玉県志木市庁舎モニュメント《空相》を制作、以後各地で多くのパブリック・アートを展開した(2010年閉所)。1977年デンマーク・ルイジアナ美術館にセキネ・コーナーが完成。2010年上海へ移住。2012年ロサンゼルス南部のパロスバーデス半島に移住し制作活動を行なう。2019年 5月13日ロサンゼルス郊外のトーランス市の病院にて永逝(享年76)。

関根伸夫
《Project》(レゾネNo.251)
1971
シルクスクリーン
60.0×48.0cm/70.0×50.0cm
Ed.100
サインあり

関根伸夫
《菜の花や月は東に日は西に》
1972
水彩
28.0×48.5cm/35.0×51.5cm
サインあり
*画廊亭主敬白
明日2月1日は倉俣史朗先生の命日です(1934年11月29日 - 1991年2月1日)。
前日までお元気だったと聞いています。
もう32年前ですが、急逝の報に呆然としていた植田実先生、テレビには出ないと言っていた磯崎新先生が倉俣先生の追悼番組に出演したこと、1991年のあれこれを思い出します。
来年は生誕90年、いくつかの美術館で回顧展が計画されているようです。
ときの忘れものも倉俣先生の遺したスケッチ、ドローイングをシルクスクリーンに起こし版画集「カイエ」を出版中です。3月にはアートフェア東京で展示、さらに4月末からは軽井沢の現代美術館で倉俣史朗展を開催予定です。
どうぞご期待ください。
●関根伸夫展カタログのご案内

発行日:2023年1月20日
発行:ときの忘れもの
図版:22点
執筆:関根伸夫「<発想>について」(1976年執筆)
編集:尾立麗子
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
体裁:25.6×17.1cm、32頁、
日本語・英語併記
価格:880円(税込)+送料250円
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。


●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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