太田岳人のエッセイ「よりみち未来派」第19回

若き未来派愛好家に聞く――新福麗音さんインタビュー(1)

太田岳人


最近、マリネッティの詩を独自で翻訳・装丁し、インターネット上で頒布している人物がいるのを発見したのだが、いったいどういう人なのだろう――研究者同士の会合で、そんな謎が生まれていたという一件を、本連載の第13回で紹介した。その記事では、私家版が販売されている古書店に出かけ自分も実物を購入したというところまで書いたのだが、その後しばらくして私は、訳者である新福麗音(れお)さんと実際に接触することができた。新福さんは1994年、鹿児島生まれ。現在は都内某所の古書店に勤務されている。彼の訳書は勤務先にも置かれているが(店長のご厚意とのこと)、「ヤフオク!」の個人ページを通じて直接取り引きすることが可能である。また、ツィッターのアドレスには、しばしば訳詩集の制作風景などがアップされている。

独立した立場で未来派に高い関心を持ち自ら翻訳を手掛けている、新福さんのような若い世代の方の声をお届けしたいと考えた私は、インタビューを依頼しこのたび3月に実現することができた。今回の記事では、貴重なお話の前半部分を紹介したい。インタビューは、私が事前に用意した8つほどの質問に一つずつお答えいただくという形で、新福さんの勤務先近くの喫茶店で行なわれた。2時間あまりの内容からのまとめ、および注や図版についての責任は、すべて筆者に属する。

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――まず、あなたが未来派と出会ったきっかけについてお聞かせください。

未来派の作品との出会いは、実はものすごく早かったんです。子供のころから僕は車が大好きで、小学生からモトクロスバイクに熱中していましたし、高校では整備士の資格も取りました。それで、車の出てくるTVゲームも親に買ってもらっていたんですけど、ゲームの中で出てくるトロフィー、確か『グランツーリスモ』シリーズだったと思いますが、そのトロフィーのデザインがまさしく、ボッチョーニの《空間における連続性の唯一の形態》だったんです【注1】。その時は未来派のものと知るよしもなかったんですが、力強くて動きを感じられるところがカッコいいと思っていました。小学校3、4年生の時です。

それから20才くらいになって、モータースポーツからはいったん離れていたんですけど、そのタイミングで文学や芸術にのめりこみました。最初は寺山修司、シュルレアリスムやダダイスムなどから入ったんですが、そこでボッチョーニと再会しました。稲垣足穂の本で、初めて未来派とはどういうものかを知ったんです。足穂はセヴェリーニがお気に入りみたいで、ボッチョーニについてはあまりよく書かれていなかったですけど(笑)。それで、美術史の本とかもどんどん読むようになりました。なんと言うか、モトクロスにのめりこんでいたので、マリネッティの文章で「カーブを曲がるたびに死が手を差し伸べてきた」といったフレーズが出てくると「わかる!」みたいな。なによりも、自分の少年の頃に熱中していたものと今の自分が熱中しているものが、うまくつながってくれたって感覚があって、それがうれしかったですね。

――未来派のどんな点(人物、作品、志向など)があなたを引きつけるのでしょうか。

まず気質的な点で言うと、外向的で無遠慮なところではないでしょうか。自分がそういう人間じゃなかったので、ある種あこがれに似たものがあるかもしれません。芸術という武器で、芸術以外のあらゆる分野に殴り込みをかけるようなイメージがあって。タイトルを忘れてしまったけど、デペロがこう、げんこつを振りあげている写真【図1】があるじゃないですか。あのイメージが、僕の中での未来派のイメージなんです。

図1 デペロ《自画像(拳を振りあげた自画像)》、1915年図1 デペロ《自画像(拳を振りあげた自画像)》、1915年

あとは「未来派の夕べ」での、マリネッティの姿勢ですね【図2】。たとえば「野次に感謝します」と言ったりとか、「このようなすばらしい名誉は互いに分けあうものだ」と、投げつけられた腐ったトマトを仲間にもなすりつけるとか(笑)。恐ろしいですけど、元気をもらえますね。学ぶところがあるというか、勇気づけられるものがある。自分がそうなりたいというわけでもないんですけど(笑)。

図2 ボッチョーニ《「未来派の夕べ」を描いた漫画》、1912年図2 ボッチョーニ《「未来派の夕べ」を描いた漫画》、1912年

――未来派の中で特に誰が「推し」のアーティストですか。

「推し」と言ったらマリネッティなのは間違いないです。それ以外で言うと、いわゆる第一世代の画家は特別かもしれないですね。僕はフランス語で未来派を読むので、フランスに精通していたセヴェリーニに親近感がありますし、さっき言ったようにボッチョーニにもなじみ深いものがあります。さらに、バッラの旺盛な創作意欲に敬意を表して、僕は「薔流薇書院」と自分の本に銘打っています。昔の本を見ると、「バッラ」ではなく「バㇽラ」と、表記に小さな「ル」が入っているんですよね。

第二世代については僕もまだ勉強不足で、人をあまり知らないのですが、作品だけで論じるならドットーリの「航空絵画」は好きです。バッラとつながりを感じますし、ベネデッタ・カッパの絵もこういう感じかな。一方、クラーリの「航空絵画」はまた臨場感が違いますね。この画家のこのタイトルということであれば、バッラだったら《自動車の速度+光+騒音》【図3】です。でも彼は洋服や家具もつくるし、「宇宙の未来派再構築」宣言(1915年)では、「未来派玩具」のアイデアまで出してますからね。

図3 バッラ《自動車の速度+光+騒音》、1913年図3 バッラ《自動車の速度+光+騒音》、1913年

――あなたの周りに、未来派に興味を持ってくれている人はいますか。

未来派に興味を持っているかどうかですと、いるようないないようなという感じです(笑)。僕は恋人と共訳をしたりもしているのですが、これは僕一人がマリネッティをメインでやるのと違い(自信があるわけじゃないですけど)、自分だけでは作品に入りこみにくい作家を取り上げる場合、一緒に翻訳しようと。一方、古本屋で働いていると、そこに来るお客さんの中にはいますね。

「未来派宣言」を訳したことがあったんですけど、それは比較的若い方が手に取ってくれたような印象があります。ファシズムへの関心もあるんでしょうけど、ニック・ランドの「加速主義」というものがあって、そちらに関心を抱いている方は、加速主義のルーツの一つということで読んでくれたようです【注2】。僕や周りの人間は、美術というより文学の方に寄っているので、マリネッティを読むというのは、トリスタン・ツァラとか前衛詩を経由してということになりますね。

(つづく)

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【掲載図版】
図1:デペロ(1892-1960)《自画像(拳を振りあげた自画像Autoritratto con pugno)》、1915年(未来派デペロ芸術の家、ロヴェレート)
※Maurizio Scudiero, Depero: casa d’arte futurista, Firenze: Cantini, c1990より。

図2:ボッチョーニ(1882-1916)《「未来派の夕べ」を描いた漫画Una serata futurista》、1912年
※Enrico Crispolti, Futurismo: i grandi temi, 1909-1944, Milano: Mazzotta, 1997より。

図3:バッラ(1871-1958)《自動車の速度+光+騒音Velocità d'automobile+luce+rumore》、1913年(キャンバスに油彩、87×130cm、チューリヒ美術館)
※Fabio Benzi, Giacomo Balla: genio futurista, Milano: Electa, 2007より。

【注】
注1:新福さんの世代から、小学生時代の彼がプレイしていたゲームは『グランツーリスモ4』(2004年発売)あたりと思われるが、ウェブ検索をかけても画像が見当たらず(ある意味当たり前だが、車の画像ばかり出てくる)、残念ながら確認できなかった。ご存じの方はお知らせいただきたい。しかし、2018年に行われた『グランツーリスモ』の「eスポーツ」大会においては、ボッチョーニの作品をモデルとしたトロフィーが本当に制作・贈呈されたとのことである。

注2:「現代思想」潮流に私はうといので、ニック・ランドや「加速主義」の存在についてはほとんど知らなかった。ただし、私の学生時代に「自分は未来派を勉強しています」という話をすると、一部からは「現代思想」との関連をどう考えるかと、ポール・ヴィリリオとかジル・ドゥルーズとか、フランス語圏の哲学者の名前を次々と振られることはしばしばあった。かの分野の人気者にも、世代交代があることが漠然と感じられる。

おおた たけと

・太田岳人のエッセイ「よりみち未来派」は隔月・偶数月の12日に掲載します。次回は2023年6月12日の予定です。

■太田岳人
1979年、愛知県生まれ。2013年、千葉大学大学院社会文化科学研究科修了。日本学術振興会特別研究員を経て、今年度は千葉大学・東京医科歯科大学・東京工業大学で非常勤講師の予定。専門は未来派を中心とするイタリア近現代美術史。
E-mail: punchingcat@hotmail.com

●本日のお勧め作品はドメニコ・ベッリです。
DSCF6991Dベッリ宇宙の恋人たちドメニコ・ベッリ 
「GLI AMANTI OEL COSMO 宇宙の恋人たち」 
1970年 油彩 
94.0x67.0cm Signed

ドメニコ・ベッリ(Domenico Belli)は1909年ローマ生まれ。1929年ジャコモ・バッラのアトリエに入り、未来派の活動に参加。ローマの「ブロッコ・ディ・フトゥルシムルタニスティ(未来同時主義者集団)」でアウグスト・ファヴァッリ、ブルーノ・ターノらと活動する。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1930,32,34,36)、未来派航空絵画展(1933~38)、ローマ・クアドリエンナーレ(1935,39)、ウンベルト・ボッチョーニへの未来派的オマージュ展(1933,ミラノPesaro Gallery)他に出品。1934年~42年A.G.ブラガリアがディレクターを務めたテアトロ・デッレ・アルティ(芸術座)において、広報・舞台美術を担当した。戦後もプラート・15人の未来派芸術家展(1970)など未来派展に出品を続け、1983年ローマ近郊のラヴィーノで没。