<2023年4月5日に海野弘が心不全のため、83歳で他界いたしました。
葬儀等は、誠に勝手ながら家族のみにて執り行いました。
尚、お供えやご香典につきましてはご辞退させていただきたくお願い申し上げます。
生前、お仕事をさせていただいた方々、著作を読んでいただいた方々に、
心より感謝を申し上げます。
どうもありがとうございました。
家族一同
海野弘 Official Websaiteより>
海野弘先生が亡くなられました。
精力的な執筆活動にはいつも刺激され、まだまだご活躍するに違いないと思っていたので83歳の逝去は残念でなりません。
海野先生からいただいたご恩を偲び、少し昔話をさせてください。
亭主は1985年に倒産してすべてを失い、数千冊はあった本も売り払い、江古田の風呂無しのアパートに引っ越しました。もっとも隣が風呂屋だったので不便はなかった。
社長は唐牛眞喜子さんの世話で、健太郎さんや堀江謙一さんたちが作ったヨット会社に勤め、亭主はミニストップでバイトしながら破産の後始末に追われる毎日でした。江古田は学生街だったので古本屋も多かった。すべてを売り払ったにもかかわらず100円の文庫本を買い始め、ガランとした部屋にまた少しづつ本が・・・。
それまで時代小説など読んだことはありませんでしたが初めて山本周五郎を読みました。市井の人々の哀歓を描く物語に触れ、己のイケイケ人生を慙愧の念で振り返りました。
同じころ、海野弘先生の名著『一九二〇年代の画家たち』(新潮選書、1985年)が刊行されました。亭主のそれからを変えた一冊となりました。
描かれたのはヴァン・ドンゲン、A・M・カサンドル、ジェラルド・マーフィ、ゲオルゲ・グロッス、オットー・ディックス、フランス・マゼレール、クリスチャン・シャッド、マックス・ベックマン、ハンナ・ヘッヒ、カール・フブーフ、そしてジャン=エミール・ラブルールでした。
いずれも1920年代の光と影をまとった華やかな中にも一抹の哀愁を漂わせた作品をつくった画家たちでした。
なかでも、ロワール川河畔の街ナントの画家、ジャン=エミール・ラブルールに亭主は夢中になりました。
とはいえ、この本を読んだときにはラブルールの実作は一点も見ていません。
破産の始末が一段落し、管財人から「ワタヌキさん、そろそろ次の人生を考えなさい」と言われ、就職口を探して右往左往したのですが、前歴が前歴だけにどこも取ってくれない。途方に暮れていたとき、たまたま朝日新聞の広告で知った外資専門の人材紹介会社に飛び込み、フランス人の経営する会社がちょうど人を探していたらしく紹介されました。まったくの偶然ですがそこのボスは破産管財人(弁護士)の友人でした。運よく入社できたのですがフランス語はもちろん、英語すら話せない亭主にボスは優しくも語学堪能な秘書をつけてくれたのでした。それからは頻繁にフランスに出張するようになりました。破産の身なので居住地以外に出るときは裁判所の許可が必要でした。東京地裁に海外出張の上申書を出し、管財人から「逃亡のおそれなし」というお墨付きをもらっての渡航でした。
パリでは足繫くルドセーヌの画廊街に通いました。
海野先生の著書に導かれ、ナントの美術館まで出かけ、収蔵庫でラブルールの作品の数々を見せていただきました。一般には忘れられかけていたラブルールのリバイバルの機運が盛り上がってきた時期にあたりますが、それでも日本からわざわざラブルールを見に来る人なんかいなかった。鬚面の学芸員の喜ぶまいことか。
ナントの美術館にはラブルールとともにローランサンの油彩が飾ってありました。
生前はフランス版画界の重鎮だったラブルールがローランサンに版画の手ほどきをしたということもそのとき知ったのでした。
ボスを口説き、銅版、木版など100点ほどを買い集め、青山の小さな画廊で展覧会をひらいたのが1989年でした。
海野先生に初めて手紙を書き、カタログにご執筆いただきました。
亭主が今まで編集したカタログの中でも会心の作、北澤敏彦さんと組んだ懐かしい仕事です。
『ジャン=エミール・ラブルール版画展』図録
1989年
ギャラリーアバンギャルド 発行
86ページ 29.7x22.0cm
制作:ピエール・ボードリ
編集:高梨智、白石理恵子、加藤協子
編集協力:中原千里(パリ)、吉岡淳子
執筆:海野弘
翻訳:ジャン・カンピニョン、内山義雄、市川飛砂
デザイン:北澤敏彦+株式会社ディス・ハウス
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ジャン=エミール・ラブルール
アール・デコの風俗画家
海野弘
ラブルールとジャズ・エイジ
ジャン=エミール・ラブルールは、港、船、街角、カフェ、水夫、花売り娘、警官、おしゃべりをしている人、歩いている人、といったさりげない日常の都市風景を描いた。そのさりげなさの故に、人々に愛されたが、美術史から忘れられてしまった。<1920年代>という、モダン都市が成立した時代の魅力が再発見され、その時代のスタイル<アール・デコ>が甦ってきた時、ラブルールもその楽しげな世界を見せてくれるようになった。
ラブルールの絵は、エリック・サティ、ジャン・コクトー、ココ・シャネルといった人々と同時代の精神を呼吸している。それは<20年代>のモダンでシックな精神である。自動車が走り、人々は豪華列車や豪華船、そして飛行機で世界中を旅行してまわるようになる。モダンなホテルやレストラン、そしてモダンなファッションの女たちが、現代都市の生活スタイルと風景をつくりあげるのだ。
<20年代>はジャズ・エイジともいわれた。ジャズに象徴されるアメリカ文化がヨーロッパにも流れこんできて、ブームとなった時代であった。ラブルールも<アメリカ>に熱狂した。たとえば、「カクテル」という絵がある。カクテルもジャズとともにアメリカからやってきたものである。ワインやビールに代って、カクテルは<20年代>のはやりの飲物になる。シェーカーで混ぜて、泡の消えないうちに飲むといったスピーディな感覚がこの時代にふさわしかった。ラブルールはそのような時代感覚、モダン風俗の記録者として、あらためて評価されつつある。
ラブルールが忘れられていたのには、いくつかの理由があるだろう。一つには、彼が版画や本の挿絵を主な舞台としてきたために、タブローを中心とする美術史であつかわれなかったからである。もう一つには、イズムやコンセプトによってモダン・アートの展開がとらえられてきたため、イズムやエコールの表現に影響はされてはきたが、特定なエコールに属さず、あくまで具体的な都市のディテールにこだわったラブルールは美術史に入らなかったのである。
(海野弘『ジャン=エミール・ラブルール版画展』図録2頁より)
ジャン=エミール・ラブルール
「カクテル」
1931年 銅版(エングレービング)
20.0×19.2cm
Ed.51 signed
この作品はラブルールの20年代から30年代への微妙な転換を示している。グラビュール・オー・ビュランであるが、エッチング的な微妙な陰影が加えられている。背景の影のぼかしなどを見ればわかるように、線はわずかではあるがにじんでいる。またレモンなどの肌の描写もビュランでは珍しいものだ。20年代のビュランの明澄性をのこしながら、エッチング的な密度があらためてとりあげられている。20年代に抽象化され、様式化された形は、ここでふたたび写実性をとりもどし、奥行をもっている。
カクテルは20年代のテーマであるが、ここで問題なのは、グラス、シェーカー、ボトル、レモンといった物(オブジェ)とその集積である。カウンターに並んだこれらのオブジェの向うに女と二人の男の顔が見える。人間的なものへの興味より、オブジェへの興味が前面にあらわれる。バーの上にひしめいているオブジェの表現は、シュルレアリスムとの関わりをほのめかしている。
(海野弘『ジャン=エミール・ラブルール版画展』図録60頁より)
その後、亭主は退職して『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』の編纂事業に携わることになるのですが、編集者に招いたのが元『美術手帖』の三上豊さんと、『三彩』の最後の編集長・柴田卓さんでした。
海野弘先生の『一九二〇年代の画家たち』は当初『三彩』に連載されたのですが、その担当が柴田さんだったとあとで知り、驚きました。
ラブルールのご縁で『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』では海野弘先生に編集委員になっていただき、たくさんの原稿を書いていただきました。

海野弘「パブロワの来日」
『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』45頁より *画面を二度クリックすると拡大します。
1995年に同書が刊行となり、編集チームを解散、社長とふたりでギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」を開きました。第一回展、第二回展につづき、第三回展の木版画セレクションでは大切にしていたラブルールを展示しました。
「ときの忘れもの」という名前の由来をよく聞かれるのですが、<美術史に入らなかった>ラブルールのようなとき(歴史、時代)の彼方に忘れ去られた作家を掬い上げる仕事をしたいと思ったからです。
海野先生の著書によってラブルールを知り、思いもかけないフランス通いが始まり、いくつもの偶然(幸運)に導かれ新しい道を歩き始めることができました。
いただいたご恩に感謝するとともに、謹んでご冥福をお祈りいたします。
ありがとうございました。
葬儀等は、誠に勝手ながら家族のみにて執り行いました。
尚、お供えやご香典につきましてはご辞退させていただきたくお願い申し上げます。
生前、お仕事をさせていただいた方々、著作を読んでいただいた方々に、
心より感謝を申し上げます。
どうもありがとうございました。
家族一同
海野弘 Official Websaiteより>
海野弘先生が亡くなられました。
精力的な執筆活動にはいつも刺激され、まだまだご活躍するに違いないと思っていたので83歳の逝去は残念でなりません。
海野先生からいただいたご恩を偲び、少し昔話をさせてください。
亭主は1985年に倒産してすべてを失い、数千冊はあった本も売り払い、江古田の風呂無しのアパートに引っ越しました。もっとも隣が風呂屋だったので不便はなかった。
社長は唐牛眞喜子さんの世話で、健太郎さんや堀江謙一さんたちが作ったヨット会社に勤め、亭主はミニストップでバイトしながら破産の後始末に追われる毎日でした。江古田は学生街だったので古本屋も多かった。すべてを売り払ったにもかかわらず100円の文庫本を買い始め、ガランとした部屋にまた少しづつ本が・・・。
それまで時代小説など読んだことはありませんでしたが初めて山本周五郎を読みました。市井の人々の哀歓を描く物語に触れ、己のイケイケ人生を慙愧の念で振り返りました。
同じころ、海野弘先生の名著『一九二〇年代の画家たち』(新潮選書、1985年)が刊行されました。亭主のそれからを変えた一冊となりました。
描かれたのはヴァン・ドンゲン、A・M・カサンドル、ジェラルド・マーフィ、ゲオルゲ・グロッス、オットー・ディックス、フランス・マゼレール、クリスチャン・シャッド、マックス・ベックマン、ハンナ・ヘッヒ、カール・フブーフ、そしてジャン=エミール・ラブルールでした。
いずれも1920年代の光と影をまとった華やかな中にも一抹の哀愁を漂わせた作品をつくった画家たちでした。
なかでも、ロワール川河畔の街ナントの画家、ジャン=エミール・ラブルールに亭主は夢中になりました。
とはいえ、この本を読んだときにはラブルールの実作は一点も見ていません。
破産の始末が一段落し、管財人から「ワタヌキさん、そろそろ次の人生を考えなさい」と言われ、就職口を探して右往左往したのですが、前歴が前歴だけにどこも取ってくれない。途方に暮れていたとき、たまたま朝日新聞の広告で知った外資専門の人材紹介会社に飛び込み、フランス人の経営する会社がちょうど人を探していたらしく紹介されました。まったくの偶然ですがそこのボスは破産管財人(弁護士)の友人でした。運よく入社できたのですがフランス語はもちろん、英語すら話せない亭主にボスは優しくも語学堪能な秘書をつけてくれたのでした。それからは頻繁にフランスに出張するようになりました。破産の身なので居住地以外に出るときは裁判所の許可が必要でした。東京地裁に海外出張の上申書を出し、管財人から「逃亡のおそれなし」というお墨付きをもらっての渡航でした。
パリでは足繫くルドセーヌの画廊街に通いました。

ナントの美術館にはラブルールとともにローランサンの油彩が飾ってありました。
生前はフランス版画界の重鎮だったラブルールがローランサンに版画の手ほどきをしたということもそのとき知ったのでした。
ボスを口説き、銅版、木版など100点ほどを買い集め、青山の小さな画廊で展覧会をひらいたのが1989年でした。
海野先生に初めて手紙を書き、カタログにご執筆いただきました。
亭主が今まで編集したカタログの中でも会心の作、北澤敏彦さんと組んだ懐かしい仕事です。

1989年
ギャラリーアバンギャルド 発行
86ページ 29.7x22.0cm
制作:ピエール・ボードリ
編集:高梨智、白石理恵子、加藤協子
編集協力:中原千里(パリ)、吉岡淳子
執筆:海野弘
翻訳:ジャン・カンピニョン、内山義雄、市川飛砂
デザイン:北澤敏彦+株式会社ディス・ハウス





ジャン=エミール・ラブルール
アール・デコの風俗画家
海野弘
ラブルールとジャズ・エイジ
ジャン=エミール・ラブルールは、港、船、街角、カフェ、水夫、花売り娘、警官、おしゃべりをしている人、歩いている人、といったさりげない日常の都市風景を描いた。そのさりげなさの故に、人々に愛されたが、美術史から忘れられてしまった。<1920年代>という、モダン都市が成立した時代の魅力が再発見され、その時代のスタイル<アール・デコ>が甦ってきた時、ラブルールもその楽しげな世界を見せてくれるようになった。
ラブルールの絵は、エリック・サティ、ジャン・コクトー、ココ・シャネルといった人々と同時代の精神を呼吸している。それは<20年代>のモダンでシックな精神である。自動車が走り、人々は豪華列車や豪華船、そして飛行機で世界中を旅行してまわるようになる。モダンなホテルやレストラン、そしてモダンなファッションの女たちが、現代都市の生活スタイルと風景をつくりあげるのだ。
<20年代>はジャズ・エイジともいわれた。ジャズに象徴されるアメリカ文化がヨーロッパにも流れこんできて、ブームとなった時代であった。ラブルールも<アメリカ>に熱狂した。たとえば、「カクテル」という絵がある。カクテルもジャズとともにアメリカからやってきたものである。ワインやビールに代って、カクテルは<20年代>のはやりの飲物になる。シェーカーで混ぜて、泡の消えないうちに飲むといったスピーディな感覚がこの時代にふさわしかった。ラブルールはそのような時代感覚、モダン風俗の記録者として、あらためて評価されつつある。
ラブルールが忘れられていたのには、いくつかの理由があるだろう。一つには、彼が版画や本の挿絵を主な舞台としてきたために、タブローを中心とする美術史であつかわれなかったからである。もう一つには、イズムやコンセプトによってモダン・アートの展開がとらえられてきたため、イズムやエコールの表現に影響はされてはきたが、特定なエコールに属さず、あくまで具体的な都市のディテールにこだわったラブルールは美術史に入らなかったのである。
(海野弘『ジャン=エミール・ラブルール版画展』図録2頁より)

「カクテル」
1931年 銅版(エングレービング)
20.0×19.2cm
Ed.51 signed
この作品はラブルールの20年代から30年代への微妙な転換を示している。グラビュール・オー・ビュランであるが、エッチング的な微妙な陰影が加えられている。背景の影のぼかしなどを見ればわかるように、線はわずかではあるがにじんでいる。またレモンなどの肌の描写もビュランでは珍しいものだ。20年代のビュランの明澄性をのこしながら、エッチング的な密度があらためてとりあげられている。20年代に抽象化され、様式化された形は、ここでふたたび写実性をとりもどし、奥行をもっている。
カクテルは20年代のテーマであるが、ここで問題なのは、グラス、シェーカー、ボトル、レモンといった物(オブジェ)とその集積である。カウンターに並んだこれらのオブジェの向うに女と二人の男の顔が見える。人間的なものへの興味より、オブジェへの興味が前面にあらわれる。バーの上にひしめいているオブジェの表現は、シュルレアリスムとの関わりをほのめかしている。
(海野弘『ジャン=エミール・ラブルール版画展』図録60頁より)
その後、亭主は退職して『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』の編纂事業に携わることになるのですが、編集者に招いたのが元『美術手帖』の三上豊さんと、『三彩』の最後の編集長・柴田卓さんでした。
海野弘先生の『一九二〇年代の画家たち』は当初『三彩』に連載されたのですが、その担当が柴田さんだったとあとで知り、驚きました。
ラブルールのご縁で『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』では海野弘先生に編集委員になっていただき、たくさんの原稿を書いていただきました。

海野弘「パブロワの来日」
『資生堂ギャラリー七十五年史 1919~1994』45頁より *画面を二度クリックすると拡大します。
1995年に同書が刊行となり、編集チームを解散、社長とふたりでギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」を開きました。第一回展、第二回展につづき、第三回展の木版画セレクションでは大切にしていたラブルールを展示しました。
「ときの忘れもの」という名前の由来をよく聞かれるのですが、<美術史に入らなかった>ラブルールのようなとき(歴史、時代)の彼方に忘れ去られた作家を掬い上げる仕事をしたいと思ったからです。
海野先生の著書によってラブルールを知り、思いもかけないフランス通いが始まり、いくつもの偶然(幸運)に導かれ新しい道を歩き始めることができました。
いただいたご恩に感謝するとともに、謹んでご冥福をお祈りいたします。
ありがとうございました。
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