ガウディの街バルセロナより
その8 ガウディの城
丹下敏明
1984年1月に磯崎さんに会ってから、政治的にも技術的にも超ややっこしいバルセロナ・オリンピックの体育館の建設に係わるようになって、超忙しい毎日を繰り返して、ガウディとの係わりはすっかり遠のいてしまった。とにかく体育館計画以外、別な事に割くような時間は全く無かった。毎日毎日の忙しさに土日と言えば体を休めるのと小さな子供と遊ぶことぐらいしかできなかった。
そんな中で幸いにも89年には名古屋でデザイン博が開かれることになり、そのなかで松坂屋が1つのパビリオンの出展を決めていた。そして何故かガウディの展覧会をやるということになっていた。当時はガウディの展覧会はどこでやっても客が入るという人気のあるテーマであったので、仕掛け人がいたのだろう。
オーガナイザーからはプロデューサーとして磯崎さんに声が掛かった。78年に磯崎さんらの監修で『ガウディ全作品』という全2巻の本が六曜社から出ているだけではなく、磯崎さんはガウディのエッセイを60年代から雑誌などに多数発表しているので、ガウディ通として知られていたので、適任者と言える。デザイン博のメイン会場の一つは名古屋城で、松坂屋は天守閣のなかでこれをやろうという事になっていた。しかし、名古屋城は床面積で6千平米近くあって、これはとてもガウディだけを展示することは難しい、展示するために借りることができるものをガウディはそんなに残していないから無理な話だ。そこでガウディと同時代の建築、アートという事に巾を広げてガウディとモデルニスモにするという事に落ち着いたが、パビリオンは「ガウディの城」とされた。
結局アトリエ側は私が担当することになった。そして磯崎さんは石山修武さんを誘いチームに加えた。そこで、私がスペインから展示するものを集めて送り、石山さんがそれを日本で形にするという振り分けになった。更に石山さんは妹尾河童さん、山口勝弘さんを誘いデザイン・チームを作った。
何より素晴らしかったのは、石山さんがデザインした天守閣の脇に設置したシンボル・タワーであった。当時、まだ65年前後にあったサグラダ・ファミリア建設続行反対運動がくすぶっていて、石山さんはこの出来事をよく知っていたからだろう、コルゲート板で全く違ったサグラダ・ファミリアを作って見せた。石山さんのアイディアは天守閣より高いのを考えられていたのだが、これは空港管制塔から許可が下りなかったけれど、素晴らしい出来で、会期終了後も残したい、ダメならバルセロナに送って、サグラダ・ファミリアの身廊内に置きたいと密かに思っていた。

1.石山さんがデザインしたシンボル・タワー
妹尾河童さんは、ガウディやその時代のバルセロナの作品や街を切り取って、会場に張り付けた。入場者にバルセロナの世紀末の街を歩くような錯覚を起こさせている。そこで、私はサグラダ・ファミリアの現場で使っていない脚立や板をもらって送った。圧巻は床にポリウレタンでピンコロ石を再現したことだろうか。若いピカソなどが集まったビア・ガーデン「四匹の猫」も再現され、文化財という事で実際には飲酒できなかったが、よくある大理石板に鉄細工の脚というテーブルからトーネット椅子、果てはスペインでよく飲まれている酒類からバーによくあるごたごたとしたものなども送って、まるでバルセロナにいるような雰囲気が作られた。そして、バルセロナから大道芸人も送りこんで、これがまたバルセロナの雰囲気を一層リアルにした。

2.設営に現れた妹尾さんと妹尾組の人たち

3.サグラダ・ファミリアの工房が再現

4. 「4匹の猫」の椅子、テーブル、タイルはバルセロナから送られる
メディア・アートの先駆者としてすでに評価が高く、当時は筑波大学教授をされていた山口勝弘さんはガウディの作品をビデオで膨大な量を記録し、これを分解、張り合わせて作品を作った。今では誰も驚かないこの映像はアナログで撮影していたのでどう編集したのか、今ではどこにでもあるけれど会場では、当時としては新鮮だったビデオウォール(実際には50台のモニターを繋いだ)を使ってこれを見せ、山口さんの映像の世界が「ガウディ・マグマの世界」として展開された。常に先を見ていたガウディにこの映像作家の職人の仕事を見せたかった。

5.山口勝弘さんの「ガウディ・マグマの世界」を流す50台のモニター
妹尾組が設営の備品として欲しそうなものはコンテナーに入れて船便で送ったけれども、ガウディやモデルニスモの作品は当時のイベリア航空が混載定期便をマドリッドから成田まで飛ばしていて、このジャンボ機の半分を使って送った。ガウディのよく知られた家具は市の近代美術館のコレクションから全て借りて、他に何かないかと探している間に、カサ・バトリョが保険会社によって買い取られ、事務所となった時に40枚のドアを外し、コンテナーに捨てたのを市役所が拾って保管していることが分かり、これを借りることにした。保管されていたのは現在の国立カタルーニャ美術館の地下で、がれきの間にカサ・バトリョのドアが40枚ずさんに放り出されていた。これは酷い、このままなら腐るという状態であり、スポンサーに許可を得て補修費を主催者側が負担するから博覧会に貸し出すという交渉に成功した。現在では全て補修されているけれども当時は悲惨な状態だった。
サグラダ・ファミリアからは中世のカテドラルでは石工が柱のデザインを石盤に刻んだとされているが、ガウディも同じことをしているのでこれを借りた。聖器室の家具をガウディはかなり早い時期に作っているが、これもスペイン戦争時に焼けてしまい、扉に張り付いていた金物だけが残されているが、これもカサ・バトリョと同じ方法で2枚のドアを復元してもらった。石膏の部分模型、縮尺模型は色々なものを作ってもらった。型が残されているので石膏を流してもらい、会期後も返さなくてよいという事にしてもらい、会期後は早稲田に寄贈されたと聞いている。

6.ゴミの山にあったのを修復したカサ・バトリョのドア

7.カサ・バトリョのベンチ、サグラダ・ファミリア聖器室のドアなどが展示を待つ

8.ガウディが石に刻んだサグラダ・ファミリアの柱の形状

9.サグラダ・ファミリアの地下聖堂天井のヴォールトから下がる彫刻作品
そして、カサ・ミラはちょうどオーナーの不動産屋が建物を手放したばかりで、これを買ったのが地元の銀行。しかも運が良かったのはその銀行の頭取を知っていたので何か貸してもらうように頼んだ。現場で担当者と落ち合ったら、頭取から言われているから何でも欲しいものを言ってくれという事で、こちらも図々しくガウディが地下に車の駐車場を設計していたが、そのアクセスとなるパティオにあるスロープに落下防止用に作られている鉄細工を貸してくれと頼んだ。バルコニーの鉄細工も面白いけども、あれは展示で結構難しいだろうと思いぐっと我慢。借りた鉄細工は巾4m以上あるし、柱に取り付けられているので、外すのは結構大変だった。

10.借り出したがほとんど展示されなかったカサ・ミラの鉄細工
ドメネクやプーチがデザインした家具も借りたが、ドメネクのリェオ・モレーラのダイニングの素晴らしい家具を借りることになったが、置かれてた場所はアーコーブになっていて、しかも床から天井までステンド・ガラスで覆われている。これは外すのは無理で、ステンドのレプリカを作って、そこに借りた家具を展示することにした。ドメネクはスペイン一の大富豪でガウディともかかわりのあるコミージャスでかなりの仕事を残しているが、そこの教会のドアも借りた。高さが4.5mある2枚の観音開きの教会入口ドアだった。木の下地に細工のされたブロンズ版が張り付いている。教会では作者のサインを入れることは無いというのが常識だが、ドメネクはこれを無視するという異例の作品だ。さて、現場に入ると日本での受け側は名古屋市美術館で、クレームが出た。こんな大きなものを手に触れないように展示するのはあり得ない。せい高なので倒れてけが人が出たらどうするという事だ。結局この2枚のドアは展示されることがなく、再びコミージャスに戻されてしまった。

11. 設営中のカサ・リェオ・モレーラのアーコーブのステンドのレプリカ
もう一つ事件があった。それはカサ・ミラの鉄細工で、キューレーターは入場者が触ると展示品が劣化するのでこれは展示できないということだ。この鉄細工は車も走るところに置かれているので、人が触っても、蹴っ飛ばしても壊れないし、むしろこれに触って、ガウディを知ってほしいと思っていたのだがダメだという。これには抵抗したけども、オープン前の防災上の検査があり、これでまた問題になった。倒れたら入場者がけがをするというらしい。石山さんは鉄骨を組んで、後ろはワイヤーで留めてあり絶対倒れないようにしてくれていたが、ダメの一点張り。後で聞いてみると私がバルセロナに戻った翌日に会場から撤去されたそうだ。
「ガウディの城」はこうして入場者数1.80万を数え11月26日に閉幕した。
(たんげとしあき)
■丹下敏明(たんげとしあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作 (カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984~2022年 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画(現在進行中)などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画 (全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展 (バルセロナ・アパレハドール協会展示会場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展(サン・ジョアン・デスピ)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社(1976年)、『ガウディの生涯』彰国社(1978年)、『スペイン建築史』相模書房(1979年)、『ポルトガル』実業之日本社(1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社(1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会(1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版(1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社(1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社(2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社(2022年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は2023年7月16日です。どうぞお楽しみに。
その8 ガウディの城
丹下敏明
1984年1月に磯崎さんに会ってから、政治的にも技術的にも超ややっこしいバルセロナ・オリンピックの体育館の建設に係わるようになって、超忙しい毎日を繰り返して、ガウディとの係わりはすっかり遠のいてしまった。とにかく体育館計画以外、別な事に割くような時間は全く無かった。毎日毎日の忙しさに土日と言えば体を休めるのと小さな子供と遊ぶことぐらいしかできなかった。
そんな中で幸いにも89年には名古屋でデザイン博が開かれることになり、そのなかで松坂屋が1つのパビリオンの出展を決めていた。そして何故かガウディの展覧会をやるということになっていた。当時はガウディの展覧会はどこでやっても客が入るという人気のあるテーマであったので、仕掛け人がいたのだろう。
オーガナイザーからはプロデューサーとして磯崎さんに声が掛かった。78年に磯崎さんらの監修で『ガウディ全作品』という全2巻の本が六曜社から出ているだけではなく、磯崎さんはガウディのエッセイを60年代から雑誌などに多数発表しているので、ガウディ通として知られていたので、適任者と言える。デザイン博のメイン会場の一つは名古屋城で、松坂屋は天守閣のなかでこれをやろうという事になっていた。しかし、名古屋城は床面積で6千平米近くあって、これはとてもガウディだけを展示することは難しい、展示するために借りることができるものをガウディはそんなに残していないから無理な話だ。そこでガウディと同時代の建築、アートという事に巾を広げてガウディとモデルニスモにするという事に落ち着いたが、パビリオンは「ガウディの城」とされた。
結局アトリエ側は私が担当することになった。そして磯崎さんは石山修武さんを誘いチームに加えた。そこで、私がスペインから展示するものを集めて送り、石山さんがそれを日本で形にするという振り分けになった。更に石山さんは妹尾河童さん、山口勝弘さんを誘いデザイン・チームを作った。
何より素晴らしかったのは、石山さんがデザインした天守閣の脇に設置したシンボル・タワーであった。当時、まだ65年前後にあったサグラダ・ファミリア建設続行反対運動がくすぶっていて、石山さんはこの出来事をよく知っていたからだろう、コルゲート板で全く違ったサグラダ・ファミリアを作って見せた。石山さんのアイディアは天守閣より高いのを考えられていたのだが、これは空港管制塔から許可が下りなかったけれど、素晴らしい出来で、会期終了後も残したい、ダメならバルセロナに送って、サグラダ・ファミリアの身廊内に置きたいと密かに思っていた。

1.石山さんがデザインしたシンボル・タワー
妹尾河童さんは、ガウディやその時代のバルセロナの作品や街を切り取って、会場に張り付けた。入場者にバルセロナの世紀末の街を歩くような錯覚を起こさせている。そこで、私はサグラダ・ファミリアの現場で使っていない脚立や板をもらって送った。圧巻は床にポリウレタンでピンコロ石を再現したことだろうか。若いピカソなどが集まったビア・ガーデン「四匹の猫」も再現され、文化財という事で実際には飲酒できなかったが、よくある大理石板に鉄細工の脚というテーブルからトーネット椅子、果てはスペインでよく飲まれている酒類からバーによくあるごたごたとしたものなども送って、まるでバルセロナにいるような雰囲気が作られた。そして、バルセロナから大道芸人も送りこんで、これがまたバルセロナの雰囲気を一層リアルにした。

2.設営に現れた妹尾さんと妹尾組の人たち

3.サグラダ・ファミリアの工房が再現

4. 「4匹の猫」の椅子、テーブル、タイルはバルセロナから送られる
メディア・アートの先駆者としてすでに評価が高く、当時は筑波大学教授をされていた山口勝弘さんはガウディの作品をビデオで膨大な量を記録し、これを分解、張り合わせて作品を作った。今では誰も驚かないこの映像はアナログで撮影していたのでどう編集したのか、今ではどこにでもあるけれど会場では、当時としては新鮮だったビデオウォール(実際には50台のモニターを繋いだ)を使ってこれを見せ、山口さんの映像の世界が「ガウディ・マグマの世界」として展開された。常に先を見ていたガウディにこの映像作家の職人の仕事を見せたかった。

5.山口勝弘さんの「ガウディ・マグマの世界」を流す50台のモニター
妹尾組が設営の備品として欲しそうなものはコンテナーに入れて船便で送ったけれども、ガウディやモデルニスモの作品は当時のイベリア航空が混載定期便をマドリッドから成田まで飛ばしていて、このジャンボ機の半分を使って送った。ガウディのよく知られた家具は市の近代美術館のコレクションから全て借りて、他に何かないかと探している間に、カサ・バトリョが保険会社によって買い取られ、事務所となった時に40枚のドアを外し、コンテナーに捨てたのを市役所が拾って保管していることが分かり、これを借りることにした。保管されていたのは現在の国立カタルーニャ美術館の地下で、がれきの間にカサ・バトリョのドアが40枚ずさんに放り出されていた。これは酷い、このままなら腐るという状態であり、スポンサーに許可を得て補修費を主催者側が負担するから博覧会に貸し出すという交渉に成功した。現在では全て補修されているけれども当時は悲惨な状態だった。
サグラダ・ファミリアからは中世のカテドラルでは石工が柱のデザインを石盤に刻んだとされているが、ガウディも同じことをしているのでこれを借りた。聖器室の家具をガウディはかなり早い時期に作っているが、これもスペイン戦争時に焼けてしまい、扉に張り付いていた金物だけが残されているが、これもカサ・バトリョと同じ方法で2枚のドアを復元してもらった。石膏の部分模型、縮尺模型は色々なものを作ってもらった。型が残されているので石膏を流してもらい、会期後も返さなくてよいという事にしてもらい、会期後は早稲田に寄贈されたと聞いている。

6.ゴミの山にあったのを修復したカサ・バトリョのドア

7.カサ・バトリョのベンチ、サグラダ・ファミリア聖器室のドアなどが展示を待つ

8.ガウディが石に刻んだサグラダ・ファミリアの柱の形状

9.サグラダ・ファミリアの地下聖堂天井のヴォールトから下がる彫刻作品
そして、カサ・ミラはちょうどオーナーの不動産屋が建物を手放したばかりで、これを買ったのが地元の銀行。しかも運が良かったのはその銀行の頭取を知っていたので何か貸してもらうように頼んだ。現場で担当者と落ち合ったら、頭取から言われているから何でも欲しいものを言ってくれという事で、こちらも図々しくガウディが地下に車の駐車場を設計していたが、そのアクセスとなるパティオにあるスロープに落下防止用に作られている鉄細工を貸してくれと頼んだ。バルコニーの鉄細工も面白いけども、あれは展示で結構難しいだろうと思いぐっと我慢。借りた鉄細工は巾4m以上あるし、柱に取り付けられているので、外すのは結構大変だった。

10.借り出したがほとんど展示されなかったカサ・ミラの鉄細工
ドメネクやプーチがデザインした家具も借りたが、ドメネクのリェオ・モレーラのダイニングの素晴らしい家具を借りることになったが、置かれてた場所はアーコーブになっていて、しかも床から天井までステンド・ガラスで覆われている。これは外すのは無理で、ステンドのレプリカを作って、そこに借りた家具を展示することにした。ドメネクはスペイン一の大富豪でガウディともかかわりのあるコミージャスでかなりの仕事を残しているが、そこの教会のドアも借りた。高さが4.5mある2枚の観音開きの教会入口ドアだった。木の下地に細工のされたブロンズ版が張り付いている。教会では作者のサインを入れることは無いというのが常識だが、ドメネクはこれを無視するという異例の作品だ。さて、現場に入ると日本での受け側は名古屋市美術館で、クレームが出た。こんな大きなものを手に触れないように展示するのはあり得ない。せい高なので倒れてけが人が出たらどうするという事だ。結局この2枚のドアは展示されることがなく、再びコミージャスに戻されてしまった。

11. 設営中のカサ・リェオ・モレーラのアーコーブのステンドのレプリカ
もう一つ事件があった。それはカサ・ミラの鉄細工で、キューレーターは入場者が触ると展示品が劣化するのでこれは展示できないということだ。この鉄細工は車も走るところに置かれているので、人が触っても、蹴っ飛ばしても壊れないし、むしろこれに触って、ガウディを知ってほしいと思っていたのだがダメだという。これには抵抗したけども、オープン前の防災上の検査があり、これでまた問題になった。倒れたら入場者がけがをするというらしい。石山さんは鉄骨を組んで、後ろはワイヤーで留めてあり絶対倒れないようにしてくれていたが、ダメの一点張り。後で聞いてみると私がバルセロナに戻った翌日に会場から撤去されたそうだ。
「ガウディの城」はこうして入場者数1.80万を数え11月26日に閉幕した。
(たんげとしあき)
■丹下敏明(たんげとしあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作 (カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984~2022年 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画(現在進行中)などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画 (全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展 (バルセロナ・アパレハドール協会展示会場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展(サン・ジョアン・デスピ)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社(1976年)、『ガウディの生涯』彰国社(1978年)、『スペイン建築史』相模書房(1979年)、『ポルトガル』実業之日本社(1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社(1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会(1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版(1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社(1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社(2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社(2022年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は2023年7月16日です。どうぞお楽しみに。
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