井戸沼紀美のエッセイ「二十二日の半券」第17回
『あの夏の子供たち』
ここ数年、映画の中で誰かが不慮の死を遂げる展開に違和感を覚えることが多かった。映画を観た後「あの人は生きていても良かったのでは?」「感動や衝撃のために死が利用されていない……?」などと一人でぐるぐる考えてしまうことはしばしばで、時には「私だけが作品の意図を汲み取れていないのかもしれない」と落ち込んだりもした。国立国会図書館で田嶋陽子さんの著書『フイルムの中の女 : ヒロインはなぜ殺されるのか』(1991)を読んで「30年も経ったのに全然状況が変わっていない」と落胆した経験も、自分の映画の観方に影響しているのかもしれない(※1)。
そんな中で観た『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2023)が痛快だったのは、同作がヒロインの不条理な死を「ありがちな描写」として一蹴していたから。同作はヒロインどころかヒロインを狙う敵すら死なせず、みんな生かしてラストに突き進む。この作品が今年の『アカデミー賞』を席巻したのだという事実に、気分が高揚した。
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』予告編
もちろん、登場人物が死なない映画はすべて最高で、誰かが死ぬ映画はすべて最悪だと言いたい訳じゃない。あらゆるニュアンスをバッサリと捨てる二項対立は好きではないし、日々の暮らしはいつだって割り切れないことで溢れている。つまり中には、死や悲劇を内包していたとしても、違和感を覚えないどころか、心にずっと留めておきたいような映画も存在している。私にとってはその代表がミア・ハンセン=ラブ監督の作品たちだ。
例えば『あの夏の子供たち』(2009)。劇中、多額の借金を抱える映画プロデューサー・グレゴワールがピストルで自殺してしまう(※2)。映画は残された家族の悲しみを散々映し出すし、それらの感情はスクリーンごしに痛いほど伝わってくる。しかし観た後、グレゴワールの死が悲惨なものだとか、それらが御涙頂戴のために用意された物語だと微塵も感じないのはなぜか。それはハンセン=ラブが「いなくなってしまったこと」よりも「存在したこと、存在し続けること」を強く信じているからではないかと思う。
『あの夏の子供たち』予告編
映画の前半、監督はスーパーボールが跳ね返るような瑞々しさでグレゴワールを映し出す。彼がいたことを証明するかのように、一瞬の手つきや表情を追いかける。中盤に自殺シーンがあることで、トーンは一気に静まるものの、映画はその静寂を決して容易い感傷に渡さない。
「死は人生の否定じゃない。数ある出来事の一つ」。
残された家族は言い聞かせるようにそう唱えながら、少しずつ日常を取り戻す。そしてある日。夕食を食べていると、突然アパートの電気が消える。ふざけて屋外に出てみても、あたりは真っ暗。このときスクリーンも、フィルムの劣化や映写ミスを疑ってもおかしくないほどの彩度で、観客も登場人物たちの姿をほとんど認識できない。少しのあいだ戸惑っていると、ふと、画面に決して大袈裟ではない、小さな小さな星が映る。
その後すぐに停電は終わり、街もスクリーンもパッと明るさを取り戻していく。けれどあの一瞬の弱い光が、映画全体の印象として、いつまでも身体の中に残っている。思えばグレゴワールが残した借金まみれの映画会社は「ムーン・フィルム」という名前で、彼の精神はまだこの世界に息づいていると、なんだか心から信じられたのだ。
「悲劇的な終わりを迎える映画を作ることはできません。
私の作品はいつでも光に向かって進むし、
それは私にとって、かけがえのない原動力なんです。」
5月5日から公開中の映画『それでも私は生きていく』(英題:One Fine Morning)のプレス資料に、ミア・ハンセン=ラブのそんな言葉が紹介されていた(※3)。監督は自身の父親が病を患っている最中に同作の脚本を執筆し、結果的にその父はコロナ禍で亡くなってしまったのだという。しかしそうした背景があってもなお、ハンセン=ラブはまだ、一度生まれた愛や美学や魂が簡単に消え去ることはないと信じ切っていた。
例えフィクションの中だとしても、簡単に存在を消し去ることは出来ない。やっぱり私は、そうした前提で撮られた映画にどうしても惹かれてしまう。


※1:『フイルムの中の女 : ヒロインはなぜ殺されるのか』は今年の4月『新版 ヒロインは、なぜ殺されるのか』(KADOKAWA)として再発売された。
※2:グレゴワールのモデルとなったのはハンセン=ラブの第一長編『すべてが許される』(2006)をプロデュースする予定だったものの、2005年に自殺したアンベール・バルザン。
※3:映画『それでも私は生きていく』は5月5日(金・祝)より新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座ほか全国で順次公開中。
(いどぬま きみ)
■井戸沼紀美
福島県生まれ、都内在住。明治学院大学卒。これまでに『ジョナス・メカスとその日々をみつめて』(2014年)、『ジョナス・メカス写真展+上映会』(2015年)、『肌蹴る光線』(2018年~)などの上映イベントを企画した。
・井戸沼紀美のエッセイ「二十二日の半券」は隔月、奇数月の22日に更新します。次回は2023年7月22日掲載予定です。
●ジョナス・メカスの映像作品27点を収録した8枚組のボックスセット「JONAS MEKAS : DIARIES, NOTES & SKETCHES VOL. 1-8 (Blu-Ray版/DVD版)」を販売しています。
映像フォーマット:Blu-Ray、リージョンフリー/DVD PAL、リージョンフリー
各作品の撮影形式:16mmフィルム、ビデオ
制作年:1963~2014年
合計再生時間:1,262分
価格等については、3月4日ブログをご参照ください。
『あの夏の子供たち』
ここ数年、映画の中で誰かが不慮の死を遂げる展開に違和感を覚えることが多かった。映画を観た後「あの人は生きていても良かったのでは?」「感動や衝撃のために死が利用されていない……?」などと一人でぐるぐる考えてしまうことはしばしばで、時には「私だけが作品の意図を汲み取れていないのかもしれない」と落ち込んだりもした。国立国会図書館で田嶋陽子さんの著書『フイルムの中の女 : ヒロインはなぜ殺されるのか』(1991)を読んで「30年も経ったのに全然状況が変わっていない」と落胆した経験も、自分の映画の観方に影響しているのかもしれない(※1)。
そんな中で観た『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2023)が痛快だったのは、同作がヒロインの不条理な死を「ありがちな描写」として一蹴していたから。同作はヒロインどころかヒロインを狙う敵すら死なせず、みんな生かしてラストに突き進む。この作品が今年の『アカデミー賞』を席巻したのだという事実に、気分が高揚した。
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』予告編
もちろん、登場人物が死なない映画はすべて最高で、誰かが死ぬ映画はすべて最悪だと言いたい訳じゃない。あらゆるニュアンスをバッサリと捨てる二項対立は好きではないし、日々の暮らしはいつだって割り切れないことで溢れている。つまり中には、死や悲劇を内包していたとしても、違和感を覚えないどころか、心にずっと留めておきたいような映画も存在している。私にとってはその代表がミア・ハンセン=ラブ監督の作品たちだ。
例えば『あの夏の子供たち』(2009)。劇中、多額の借金を抱える映画プロデューサー・グレゴワールがピストルで自殺してしまう(※2)。映画は残された家族の悲しみを散々映し出すし、それらの感情はスクリーンごしに痛いほど伝わってくる。しかし観た後、グレゴワールの死が悲惨なものだとか、それらが御涙頂戴のために用意された物語だと微塵も感じないのはなぜか。それはハンセン=ラブが「いなくなってしまったこと」よりも「存在したこと、存在し続けること」を強く信じているからではないかと思う。
『あの夏の子供たち』予告編
映画の前半、監督はスーパーボールが跳ね返るような瑞々しさでグレゴワールを映し出す。彼がいたことを証明するかのように、一瞬の手つきや表情を追いかける。中盤に自殺シーンがあることで、トーンは一気に静まるものの、映画はその静寂を決して容易い感傷に渡さない。
「死は人生の否定じゃない。数ある出来事の一つ」。
残された家族は言い聞かせるようにそう唱えながら、少しずつ日常を取り戻す。そしてある日。夕食を食べていると、突然アパートの電気が消える。ふざけて屋外に出てみても、あたりは真っ暗。このときスクリーンも、フィルムの劣化や映写ミスを疑ってもおかしくないほどの彩度で、観客も登場人物たちの姿をほとんど認識できない。少しのあいだ戸惑っていると、ふと、画面に決して大袈裟ではない、小さな小さな星が映る。
その後すぐに停電は終わり、街もスクリーンもパッと明るさを取り戻していく。けれどあの一瞬の弱い光が、映画全体の印象として、いつまでも身体の中に残っている。思えばグレゴワールが残した借金まみれの映画会社は「ムーン・フィルム」という名前で、彼の精神はまだこの世界に息づいていると、なんだか心から信じられたのだ。
「悲劇的な終わりを迎える映画を作ることはできません。
私の作品はいつでも光に向かって進むし、
それは私にとって、かけがえのない原動力なんです。」
5月5日から公開中の映画『それでも私は生きていく』(英題:One Fine Morning)のプレス資料に、ミア・ハンセン=ラブのそんな言葉が紹介されていた(※3)。監督は自身の父親が病を患っている最中に同作の脚本を執筆し、結果的にその父はコロナ禍で亡くなってしまったのだという。しかしそうした背景があってもなお、ハンセン=ラブはまだ、一度生まれた愛や美学や魂が簡単に消え去ることはないと信じ切っていた。
例えフィクションの中だとしても、簡単に存在を消し去ることは出来ない。やっぱり私は、そうした前提で撮られた映画にどうしても惹かれてしまう。


※1:『フイルムの中の女 : ヒロインはなぜ殺されるのか』は今年の4月『新版 ヒロインは、なぜ殺されるのか』(KADOKAWA)として再発売された。
※2:グレゴワールのモデルとなったのはハンセン=ラブの第一長編『すべてが許される』(2006)をプロデュースする予定だったものの、2005年に自殺したアンベール・バルザン。
※3:映画『それでも私は生きていく』は5月5日(金・祝)より新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座ほか全国で順次公開中。
(いどぬま きみ)
■井戸沼紀美
福島県生まれ、都内在住。明治学院大学卒。これまでに『ジョナス・メカスとその日々をみつめて』(2014年)、『ジョナス・メカス写真展+上映会』(2015年)、『肌蹴る光線』(2018年~)などの上映イベントを企画した。
・井戸沼紀美のエッセイ「二十二日の半券」は隔月、奇数月の22日に更新します。次回は2023年7月22日掲載予定です。
●ジョナス・メカスの映像作品27点を収録した8枚組のボックスセット「JONAS MEKAS : DIARIES, NOTES & SKETCHES VOL. 1-8 (Blu-Ray版/DVD版)」を販売しています。

各作品の撮影形式:16mmフィルム、ビデオ
制作年:1963~2014年
合計再生時間:1,262分
価格等については、3月4日ブログをご参照ください。
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