10代で「瑛九」と出会った湯浅英夫
宮崎県立美術館 小林 美紀
瑛九と深い関わりがあった宮崎県の人に、湯浅英夫(写真家)、鈴木素直(特別支援学校教諭)がいる。瑛九と彼らの出会いは新制宮崎大宮高等学校生の時であり、共に瑛九宅を訪れていた同級の鈴木素直と、高校でのエスペラント同好会を立ち上げた人物でもある。瑛九は湯浅たちからの依頼で高校生の同好会にミヤ子夫人と連れだって参加し、エスペラントをわかりやすく教えていたのであった。
湯浅英夫について、瑛九夫妻との関係を踏まえつつ紹介したい。湯浅英夫は、1929(昭和4)年12月25日、父湯浅寿平、母カヨの長男として母親の実家がある鹿児島県曽於郡財部町(現在の曽於市財部町)に生まれた。しかしながら戸籍上は1930(昭和5)年1月8日生になっている。父寿平はもともと宮崎市青島で青島屋という鮮魚販売店を営んでいたが、カヨとの縁により宮崎市丸山(当時の町名は西丸山町)に同名の店をかまえるようになり、その関係で1936(昭和11)年4月に宮崎県青年学校教員養成所附属の小学校(現宮崎大学教育学部附属小学校)に入学した。その鮮魚店は、現在の宮崎公立大学(旧宮崎大学教育学部)敷地の東側文化公園前通りを隔てた南東角にあり、鮮魚販売をしながら仕出しなども行っていたという。1942(昭和17)年には宮崎市立商業学校に入学、卒業後九州電力宮崎支店へ入社したがその年の11月には生母カヨが早逝し、1年で退職することとなった。その後新制高校が発足したのをきっかけに、現在の宮崎県立宮崎大宮高等学校2年に編入学した。その時に、1歳違いの鈴木素直と同級生となり、2人は友人として長くつきあうこととなる。鈴木は、後に宮崎から瑛九を発信し続けた人物である。

※セルフ・ポートレイト(撮影:湯浅英夫)
瑛九夫人であるミヤ子は、宮崎で味噌と醤油を製造販売する商家に生まれた。やがて一家で現在の宮崎市花殿町に移住したが、湯浅の実家がある丸山町とは、近所であったこともあり、湯浅とは小学校の頃から面識があったようである。兄が1人、自身も7女と姉妹が多いミヤ子にとって、年の離れた弟のような存在だったのか、「ひでちゃん」と呼んで声をかけていた。
湯浅と鈴木が高校2年生の時は、活字を求めて古本屋を訪ねることも多かったという。時は過ぎ、太宰治の死が話題になっていた頃の帰り道で、湯浅の方に「ひでちゃん」と声をかけてきた若い夫人がいた。湯浅が礼を返したのは瑛九の夫人となったミヤ子であった。二人は、「たくさん本があるからうちへ遊びにおいで」との誘いにつられ、杉田眼科医院の瑛九宅へ遊びに行った。そこで瑛九と初めて出会うこととなる。大量の本に驚いたのもあったが、瑛九の語る話題は本よりも面白く、さらに瑛九とミヤ子夫人の会話が、今までに聞いたことのないような言語で会話していることに興味を引かれたという。その言語がエスペラントであると聞き、興味をもった二人は、瑛九夫妻に依頼し、宮崎大宮高等学校内でエスペラント講習会を開催した。「同好会などとにかくわりと自由に作ることができた」(鈴木素直談)ので、二人はエスペラント同好会を立ち上げた。湯浅は「Studanto En Nova Sento(新しい感覚の学生)」という機関紙まで作成している。記念すべき第1号には、瑛九(杉田秀夫名義)も寄稿しており、「会話について」と題して「勇気を 我々は日本語でさえ思っていることを親しくない人の前で話せない場合が多い。(中略)しかし最初は勇気を。ちうちよするな。エラーロは気にするな。文法はあとでよい。まちがいのない人は何もしない人だけです」と失敗など気にせずエスペラントでの会話をするよう呼びかけている。興味をもった高校生も増え、自分たちが学んだことなどを機関紙に寄稿していった。同好会を作った二人は独自の機関紙も作り、校内展覧会なども開いていた。また、湯浅は瑛九が作っていた宮崎エスペラント会(MES)の機関紙「La Ĝoĵo」(ラ ジョーヨ)の編集を引き継ぎ、発行をしていた。1948(昭和23)年11月号からエスペラント会の各グループが担当することになり、この号は大宮高校の同好会のメンバー10名が原稿などを主に執筆した。「編集に先立って」として巻頭に書かれた文章では、水曜日と金曜日に「s-rino Sugita」と活動していることを伝えている。(大宮高校での活動であるので、この場合の「sugita」は瑛九であると思われる。)高校生たちは、エスペラントへの思いや、海外との文通や講習会といった活動の記録をエスペラント混じりの文章を書き、熱心な活動を行っている様子を伝えている。瑛九や鈴木ともエスペラントで書簡を交わし合い、瑛九にならってエスペラントによる外国人との文通もしていた。

※瑛九 アトリエにて 湯浅英夫撮影
高校生によるエスペラントの会は宮崎大宮高等学校のみならず、宮崎大淀高等学校(現在は宮崎工業高等学校などに分離)でも講習会をやるようになった。記録写真には宮崎大淀高等学校の教室にて同好会のメンバーと写る瑛九夫妻と、なぜか大宮高校生の鈴木素直や湯浅英夫も写っていた。その後も二人は頻繁に瑛九宅を訪ね、エスペラントのみならず、文学などの話を興味深く聞いていた。湯浅は瑛九に勧められた本(『問題の教師』『問題の子ども』を書いたニイルの本など)を熱心に読みふけったとラジオ番組でのインタビューで答えている。瑛九が勧めた本は、文学以外にも、教育学など多岐にわたっていたという。
1949(昭和24)年、画家の塩月桃甫、作家の中村地平、当時の副知事や宮崎市長などを会員とした「瑛九後援会」が発足。瑛九の作品展などを開催し、頒布も行っていた。翌年4月のエスペラント会報誌「La Ĝoĵo」(No.16 湯浅と鈴木が編集)では、記事の中で2月に瑛九の油彩やフォト・デッサンなどが約120点展示された展覧会があったことを紹介している。1950(昭和25)年に開催した瑛九個展(宮崎県教育会館)では、準備等をエスペラント部員が手伝っているので、この個展を伝えるものであると思われる。また、湯浅はこの号の編集を終えたら、仕事のため大阪へ転居することを伝えていた。
1950(昭和25)年の5月に、瑛九の勧めもあり、大阪の工藤写真館に就職する。この就職について、実業家であり写真家でもあった天野龍一は、湯浅に宛てた書簡で「就職が大変困難な今日この頃第一の目的とした工藤氏方に入ることが出来たのは貴君の運が良かったと存じます」と書いている。さらに、作家活動をしたいという希望があるようだが、それは「瑛九氏に感化されたものであろう」として、まずは商業写真家としての技術を確実に身につけるようにすることが第一であるとしている。工藤写真館時代においても、瑛九との手紙のやりとりをしており、現状について報告や相談をしていた。

※瑛九 アトリエにて 湯浅英夫撮影
1951(昭和26)年4月、湯浅と鈴木は「瑛九・勝田寛一展」(大阪市立美術館 8日~17日)を手伝い、会場スナップを残している。瑛九は公募展拒否を主張したため勝田らと結成間近であった「新世代」を離れていた。その月のうちに、瑛九は泉茂らと自由と独立の精神による制作を目指し、公募展を否定する美術団体「デモクラート美術家協会」を立ち上げ、6月には第1回のデモクラート展を開催している。翌年には瑛九の上京に合わせ、東京でもデモクラート美術家協会の活動を広げていた。湯浅は1953(昭和28)年1月にデモクラート美術家協会に入会、東京でのデモクラート展に「盲目」という作品を出品したが、12月には退会している。
湯浅は芸術写真家への憧れを強く持っていたが、瑛九の話などを聞くにつれ、悩むようになっていた。そのことは当時の書簡にも頻繁に出てきている。瑛九に自作の写真を見てもらうこともあった。瑛九からの手紙には、それらの写真についての批評が書かれていた。芸術性を意識して撮影した作品は、瑛九から見透かされ、駄目出しをされてしまうが、瑛九自身が被写体になった写真はほめられるといった状態であった。瑛九から「自分のところへ来て勉強すればいい」との誘いを受け、1952(昭和27)年7月から浦和のアトリエに寄寓した。しかしながら、実際にやったことといえば、家事の手伝いや雑用などと、瑛九のエッチング制作を手伝う毎日であった。勉強するつもりで瑛九宅へやってきた湯浅だったが、肝心の写真については学ぶ機会はほとんどなかった。しかしながら、この経験で芸術家として生きることの難しさを瑛九の生活から実感をもって知ることができ、営業写真家として進むことを決心したのであった。
1956(昭和31)年、岡福江と結婚。それまで西丸山の自宅2階に暗室を作り、依頼された仕事をしていたが、3年後には宮崎市黒迫通り(現在の宮崎市中央通り)にスタジオ・ユアサを設立、商業写真家としてスタートした。1965(昭和40)年には大工町に移転。数名のスタッフを抱え、当時九州ではどこにもなかったドイツ製のカメラ「リンホフ」を使って建築写真を撮っていた。建築写真は企業などからの依頼を受け、撮影をして回っていた。建築写真には宮崎県内でも他に先んじて取り組んでいた。スタジオでの写真はほとんど人物であり、ポートレートである。大阪で修業をした技術や、瑛九に培われた芸術へのこだわりなど、今までの経験を活かし撮影を行った。カラー写真が主流になってきている時代に、白黒写真の普及にも努めた。
1970年代の備忘録では、国立近代美術館による瑛九作品の購入や九州での作品展、県美術館(県総合博物館のことと思われる)のこけら落としの件での関係者浦和訪問、八幡美術館からの瑛九作品出品依頼などについても書いている。瑛九の没後も、ミヤ子夫人とは湯浅の家族も含めて交流があり、夫人から依頼された物品を送ったことなどの記録もしている。
瑛九夫妻と高校生の時から交流し、瑛九の生前も没後も、瑛九の写真や、展覧会等の記録写真などを撮り続けた湯浅であったが、1974(昭和49)年、病気のため45歳という若さで逝去した。

※瑛九 アトリエにて 湯浅英夫撮影
【引用】
・『Studanto En Nova Sento(新しい感覚の学生)』※宮崎大宮高等学校エスペラント同好会 No.1
【参考文献・資料】
・「湯浅英夫年譜」(鈴木素直作成、出川ひろみ補足)
・「デモクラート展開催記録および会員の動き」(『デモクラート1951~1957 ―解放された戦後美術―』カタログ 宮崎県立美術館ほか 1999年 p.184)
•「郷土をつくる 宮日広親会の会員紹介〈74〉スタジオ・ユアサ」(『宮崎日日新聞』 1971年12月28日)
・「瑛九の思い出(『放送対話集 宮崎 1968-1971』 1972年 鉱脈社 pp.250-254)
・『La Ĝoĵo』※宮崎エスペラント会 No.14、No.16
•『瑛九 評伝と作品』山田光春 1976年 青龍洞 pp.346-354
(こばやし みき)
■小林美紀(こばやし みき)
1970年、宮崎県生まれ。1994年、宮崎大学教育学部中学校教員養成課程美術科を卒業。宮崎県内で中学校の美術科教師として教壇に立つ。2005年~2012年、宮崎県立美術館学芸課に配属。瑛九展示室、「生誕100年記念瑛九展」等を担当。2012年~2019年、宮崎大学教育学部附属中学校などでの勤務を経て、再び宮崎県立美術館に配属、今に至る。
*画廊亭主敬白
本日から画廊では33回目となる瑛九展を開催します。
84頁からなる大カタログも刊行しました。
シリーズ企画というのは経験則的にいうと5回目くらいがピークで10回を迎えると大体ネタが尽きてしまう。そこで止めるか、新たな展開を試みるかは一にも二にも作家・作品の魅力(力)にかかってきます。画廊が惚れ、お客さまに愛してもらえるかが勝負の分かれ目でしょうか。
第1回瑛九展は1996年3月 6日~3月23日、青山の一軒家時代でした。あれから27年、よくもまあ飽きもせず33回も続けてこられたものだ(自画自賛)。
没後60数年も経て、なお新発掘の作品が出現する。
旧蔵者の湯浅英夫さんの名は瑛九研究者なら誰もが知っています。評伝や展覧会カタログに掲載されることの多いアトリエ(浦和)の瑛九の姿を撮影されたのが湯浅さんでした。
亭主もお名前は存じ上げていたのですが、お会いしたことはありません。
亭主が美術界に入ったのが1974年、久保貞次郎先生に導かれて瑛九の名を知り、宮崎のご遺族を訪ね、瑛九の友人、支援者たちにも数多くお目にかかることができました。
しかし、亭主が初めて宮崎に伺ったのと入れ違いに、湯浅さんは45歳という短い生涯を閉じられました。湯浅さんのご遺族とのありがたいご縁を繋いでくださった宮崎県立美術館の小林美紀先生には心より感謝申し上げます。
ぜひ多くの方に見ていただきたい展示です。
●展覧会に合わせてカタログを刊行しました。
『第33回瑛九展/湯浅コレクション』図録
発行日:2023年6月2日
発行:有限会社ワタヌキ/ときの忘れもの
図版:40点
写真:15点
執筆:大谷省吾(東京国立近代美術館)、小林美紀(宮崎県立美術館)、工藤香澄(横須賀美術館)
翻訳:小川紀久子、新澤悠(ときの忘れもの)
編集:Curio Editors Studio
デザイン:柴田卓
体裁:B5判、84頁、日本語・英語併記
価格:2,750円(税込)+送料250円
◆「第33回瑛九展/湯浅コレクション」
前期=2023年6月2日(金)~6月17日(土)/後期=6月20日(火)~6月24日(土)
11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊
カタログを刊行しました。詳しくは5月20日ブログをお読みください。

宮崎県立美術館 小林 美紀
瑛九と深い関わりがあった宮崎県の人に、湯浅英夫(写真家)、鈴木素直(特別支援学校教諭)がいる。瑛九と彼らの出会いは新制宮崎大宮高等学校生の時であり、共に瑛九宅を訪れていた同級の鈴木素直と、高校でのエスペラント同好会を立ち上げた人物でもある。瑛九は湯浅たちからの依頼で高校生の同好会にミヤ子夫人と連れだって参加し、エスペラントをわかりやすく教えていたのであった。
湯浅英夫について、瑛九夫妻との関係を踏まえつつ紹介したい。湯浅英夫は、1929(昭和4)年12月25日、父湯浅寿平、母カヨの長男として母親の実家がある鹿児島県曽於郡財部町(現在の曽於市財部町)に生まれた。しかしながら戸籍上は1930(昭和5)年1月8日生になっている。父寿平はもともと宮崎市青島で青島屋という鮮魚販売店を営んでいたが、カヨとの縁により宮崎市丸山(当時の町名は西丸山町)に同名の店をかまえるようになり、その関係で1936(昭和11)年4月に宮崎県青年学校教員養成所附属の小学校(現宮崎大学教育学部附属小学校)に入学した。その鮮魚店は、現在の宮崎公立大学(旧宮崎大学教育学部)敷地の東側文化公園前通りを隔てた南東角にあり、鮮魚販売をしながら仕出しなども行っていたという。1942(昭和17)年には宮崎市立商業学校に入学、卒業後九州電力宮崎支店へ入社したがその年の11月には生母カヨが早逝し、1年で退職することとなった。その後新制高校が発足したのをきっかけに、現在の宮崎県立宮崎大宮高等学校2年に編入学した。その時に、1歳違いの鈴木素直と同級生となり、2人は友人として長くつきあうこととなる。鈴木は、後に宮崎から瑛九を発信し続けた人物である。

※セルフ・ポートレイト(撮影:湯浅英夫)
瑛九夫人であるミヤ子は、宮崎で味噌と醤油を製造販売する商家に生まれた。やがて一家で現在の宮崎市花殿町に移住したが、湯浅の実家がある丸山町とは、近所であったこともあり、湯浅とは小学校の頃から面識があったようである。兄が1人、自身も7女と姉妹が多いミヤ子にとって、年の離れた弟のような存在だったのか、「ひでちゃん」と呼んで声をかけていた。
湯浅と鈴木が高校2年生の時は、活字を求めて古本屋を訪ねることも多かったという。時は過ぎ、太宰治の死が話題になっていた頃の帰り道で、湯浅の方に「ひでちゃん」と声をかけてきた若い夫人がいた。湯浅が礼を返したのは瑛九の夫人となったミヤ子であった。二人は、「たくさん本があるからうちへ遊びにおいで」との誘いにつられ、杉田眼科医院の瑛九宅へ遊びに行った。そこで瑛九と初めて出会うこととなる。大量の本に驚いたのもあったが、瑛九の語る話題は本よりも面白く、さらに瑛九とミヤ子夫人の会話が、今までに聞いたことのないような言語で会話していることに興味を引かれたという。その言語がエスペラントであると聞き、興味をもった二人は、瑛九夫妻に依頼し、宮崎大宮高等学校内でエスペラント講習会を開催した。「同好会などとにかくわりと自由に作ることができた」(鈴木素直談)ので、二人はエスペラント同好会を立ち上げた。湯浅は「Studanto En Nova Sento(新しい感覚の学生)」という機関紙まで作成している。記念すべき第1号には、瑛九(杉田秀夫名義)も寄稿しており、「会話について」と題して「勇気を 我々は日本語でさえ思っていることを親しくない人の前で話せない場合が多い。(中略)しかし最初は勇気を。ちうちよするな。エラーロは気にするな。文法はあとでよい。まちがいのない人は何もしない人だけです」と失敗など気にせずエスペラントでの会話をするよう呼びかけている。興味をもった高校生も増え、自分たちが学んだことなどを機関紙に寄稿していった。同好会を作った二人は独自の機関紙も作り、校内展覧会なども開いていた。また、湯浅は瑛九が作っていた宮崎エスペラント会(MES)の機関紙「La Ĝoĵo」(ラ ジョーヨ)の編集を引き継ぎ、発行をしていた。1948(昭和23)年11月号からエスペラント会の各グループが担当することになり、この号は大宮高校の同好会のメンバー10名が原稿などを主に執筆した。「編集に先立って」として巻頭に書かれた文章では、水曜日と金曜日に「s-rino Sugita」と活動していることを伝えている。(大宮高校での活動であるので、この場合の「sugita」は瑛九であると思われる。)高校生たちは、エスペラントへの思いや、海外との文通や講習会といった活動の記録をエスペラント混じりの文章を書き、熱心な活動を行っている様子を伝えている。瑛九や鈴木ともエスペラントで書簡を交わし合い、瑛九にならってエスペラントによる外国人との文通もしていた。

※瑛九 アトリエにて 湯浅英夫撮影
高校生によるエスペラントの会は宮崎大宮高等学校のみならず、宮崎大淀高等学校(現在は宮崎工業高等学校などに分離)でも講習会をやるようになった。記録写真には宮崎大淀高等学校の教室にて同好会のメンバーと写る瑛九夫妻と、なぜか大宮高校生の鈴木素直や湯浅英夫も写っていた。その後も二人は頻繁に瑛九宅を訪ね、エスペラントのみならず、文学などの話を興味深く聞いていた。湯浅は瑛九に勧められた本(『問題の教師』『問題の子ども』を書いたニイルの本など)を熱心に読みふけったとラジオ番組でのインタビューで答えている。瑛九が勧めた本は、文学以外にも、教育学など多岐にわたっていたという。
1949(昭和24)年、画家の塩月桃甫、作家の中村地平、当時の副知事や宮崎市長などを会員とした「瑛九後援会」が発足。瑛九の作品展などを開催し、頒布も行っていた。翌年4月のエスペラント会報誌「La Ĝoĵo」(No.16 湯浅と鈴木が編集)では、記事の中で2月に瑛九の油彩やフォト・デッサンなどが約120点展示された展覧会があったことを紹介している。1950(昭和25)年に開催した瑛九個展(宮崎県教育会館)では、準備等をエスペラント部員が手伝っているので、この個展を伝えるものであると思われる。また、湯浅はこの号の編集を終えたら、仕事のため大阪へ転居することを伝えていた。
1950(昭和25)年の5月に、瑛九の勧めもあり、大阪の工藤写真館に就職する。この就職について、実業家であり写真家でもあった天野龍一は、湯浅に宛てた書簡で「就職が大変困難な今日この頃第一の目的とした工藤氏方に入ることが出来たのは貴君の運が良かったと存じます」と書いている。さらに、作家活動をしたいという希望があるようだが、それは「瑛九氏に感化されたものであろう」として、まずは商業写真家としての技術を確実に身につけるようにすることが第一であるとしている。工藤写真館時代においても、瑛九との手紙のやりとりをしており、現状について報告や相談をしていた。

※瑛九 アトリエにて 湯浅英夫撮影
1951(昭和26)年4月、湯浅と鈴木は「瑛九・勝田寛一展」(大阪市立美術館 8日~17日)を手伝い、会場スナップを残している。瑛九は公募展拒否を主張したため勝田らと結成間近であった「新世代」を離れていた。その月のうちに、瑛九は泉茂らと自由と独立の精神による制作を目指し、公募展を否定する美術団体「デモクラート美術家協会」を立ち上げ、6月には第1回のデモクラート展を開催している。翌年には瑛九の上京に合わせ、東京でもデモクラート美術家協会の活動を広げていた。湯浅は1953(昭和28)年1月にデモクラート美術家協会に入会、東京でのデモクラート展に「盲目」という作品を出品したが、12月には退会している。
湯浅は芸術写真家への憧れを強く持っていたが、瑛九の話などを聞くにつれ、悩むようになっていた。そのことは当時の書簡にも頻繁に出てきている。瑛九に自作の写真を見てもらうこともあった。瑛九からの手紙には、それらの写真についての批評が書かれていた。芸術性を意識して撮影した作品は、瑛九から見透かされ、駄目出しをされてしまうが、瑛九自身が被写体になった写真はほめられるといった状態であった。瑛九から「自分のところへ来て勉強すればいい」との誘いを受け、1952(昭和27)年7月から浦和のアトリエに寄寓した。しかしながら、実際にやったことといえば、家事の手伝いや雑用などと、瑛九のエッチング制作を手伝う毎日であった。勉強するつもりで瑛九宅へやってきた湯浅だったが、肝心の写真については学ぶ機会はほとんどなかった。しかしながら、この経験で芸術家として生きることの難しさを瑛九の生活から実感をもって知ることができ、営業写真家として進むことを決心したのであった。
1956(昭和31)年、岡福江と結婚。それまで西丸山の自宅2階に暗室を作り、依頼された仕事をしていたが、3年後には宮崎市黒迫通り(現在の宮崎市中央通り)にスタジオ・ユアサを設立、商業写真家としてスタートした。1965(昭和40)年には大工町に移転。数名のスタッフを抱え、当時九州ではどこにもなかったドイツ製のカメラ「リンホフ」を使って建築写真を撮っていた。建築写真は企業などからの依頼を受け、撮影をして回っていた。建築写真には宮崎県内でも他に先んじて取り組んでいた。スタジオでの写真はほとんど人物であり、ポートレートである。大阪で修業をした技術や、瑛九に培われた芸術へのこだわりなど、今までの経験を活かし撮影を行った。カラー写真が主流になってきている時代に、白黒写真の普及にも努めた。
1970年代の備忘録では、国立近代美術館による瑛九作品の購入や九州での作品展、県美術館(県総合博物館のことと思われる)のこけら落としの件での関係者浦和訪問、八幡美術館からの瑛九作品出品依頼などについても書いている。瑛九の没後も、ミヤ子夫人とは湯浅の家族も含めて交流があり、夫人から依頼された物品を送ったことなどの記録もしている。
瑛九夫妻と高校生の時から交流し、瑛九の生前も没後も、瑛九の写真や、展覧会等の記録写真などを撮り続けた湯浅であったが、1974(昭和49)年、病気のため45歳という若さで逝去した。

※瑛九 アトリエにて 湯浅英夫撮影
【引用】
・『Studanto En Nova Sento(新しい感覚の学生)』※宮崎大宮高等学校エスペラント同好会 No.1
【参考文献・資料】
・「湯浅英夫年譜」(鈴木素直作成、出川ひろみ補足)
・「デモクラート展開催記録および会員の動き」(『デモクラート1951~1957 ―解放された戦後美術―』カタログ 宮崎県立美術館ほか 1999年 p.184)
•「郷土をつくる 宮日広親会の会員紹介〈74〉スタジオ・ユアサ」(『宮崎日日新聞』 1971年12月28日)
・「瑛九の思い出(『放送対話集 宮崎 1968-1971』 1972年 鉱脈社 pp.250-254)
・『La Ĝoĵo』※宮崎エスペラント会 No.14、No.16
•『瑛九 評伝と作品』山田光春 1976年 青龍洞 pp.346-354
(こばやし みき)
■小林美紀(こばやし みき)
1970年、宮崎県生まれ。1994年、宮崎大学教育学部中学校教員養成課程美術科を卒業。宮崎県内で中学校の美術科教師として教壇に立つ。2005年~2012年、宮崎県立美術館学芸課に配属。瑛九展示室、「生誕100年記念瑛九展」等を担当。2012年~2019年、宮崎大学教育学部附属中学校などでの勤務を経て、再び宮崎県立美術館に配属、今に至る。
*画廊亭主敬白
本日から画廊では33回目となる瑛九展を開催します。
84頁からなる大カタログも刊行しました。
シリーズ企画というのは経験則的にいうと5回目くらいがピークで10回を迎えると大体ネタが尽きてしまう。そこで止めるか、新たな展開を試みるかは一にも二にも作家・作品の魅力(力)にかかってきます。画廊が惚れ、お客さまに愛してもらえるかが勝負の分かれ目でしょうか。
第1回瑛九展は1996年3月 6日~3月23日、青山の一軒家時代でした。あれから27年、よくもまあ飽きもせず33回も続けてこられたものだ(自画自賛)。
没後60数年も経て、なお新発掘の作品が出現する。
旧蔵者の湯浅英夫さんの名は瑛九研究者なら誰もが知っています。評伝や展覧会カタログに掲載されることの多いアトリエ(浦和)の瑛九の姿を撮影されたのが湯浅さんでした。
亭主もお名前は存じ上げていたのですが、お会いしたことはありません。
亭主が美術界に入ったのが1974年、久保貞次郎先生に導かれて瑛九の名を知り、宮崎のご遺族を訪ね、瑛九の友人、支援者たちにも数多くお目にかかることができました。
しかし、亭主が初めて宮崎に伺ったのと入れ違いに、湯浅さんは45歳という短い生涯を閉じられました。湯浅さんのご遺族とのありがたいご縁を繋いでくださった宮崎県立美術館の小林美紀先生には心より感謝申し上げます。
ぜひ多くの方に見ていただきたい展示です。
●展覧会に合わせてカタログを刊行しました。

発行日:2023年6月2日
発行:有限会社ワタヌキ/ときの忘れもの
図版:40点
写真:15点
執筆:大谷省吾(東京国立近代美術館)、小林美紀(宮崎県立美術館)、工藤香澄(横須賀美術館)
翻訳:小川紀久子、新澤悠(ときの忘れもの)
編集:Curio Editors Studio
デザイン:柴田卓
体裁:B5判、84頁、日本語・英語併記
価格:2,750円(税込)+送料250円
◆「第33回瑛九展/湯浅コレクション」
前期=2023年6月2日(金)~6月17日(土)/後期=6月20日(火)~6月24日(土)
11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊
カタログを刊行しました。詳しくは5月20日ブログをお読みください。

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