佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」第77回

カタチ感覚のチューニング


最近、ニューヨーク(正確にはその隣町らしい)から、ウチの事務所に建築を学びに学生がやってきた。生まれは中国で、どうもここ数年アメリカ、ヨーロッパを遊動し、この日本滞在が終わった後はそのままイタリアに行くらしい。いろいろ話をしてみると、実は建築よりもハイキングが好きで、メディテーションについて、特に自然あるいは環境と身体との応答感覚あたりに興味がありそうだ。そんな人が直感かつ衝動的にコンタクトしてきたということはやはり、断片的であれ、自分たちの出力がどのように外から見えているのか、自分自身の朧げな輪郭を把握することもできる。
アメリカの大学での教育成果なのかはわからないが、その学生は物事のロジックを一つ一つ、とても丁寧に確かめながら作業をしている。おかげでこちらも拙い英語の連続ではあるが、どうにか言葉、もはや関連し得るワードの羅列に近い文言を捻り出して伝える。とはいえその学生に何かデザインの作業、課題を出すにしても、こちらはもちろんはっきりとした答えがあるわけではない。ロジックという筋道がほぼ見えていないモヤモヤとした状態で、それこそ霧の如く掴みどころのない文言を並べていく。ただし私の英語の語彙力に限界もあるので、初歩的な単語の組み合わせによってそのモヤモヤを作り出していく。おそらくその言葉はかなりシュールなものとして受け取られているはずだ。そんな文言を散弾させていくうちに、どこかでその学生の理解に至る。不可思議な言葉の組み合わせを単なる破綻と考えるか、詩のような瓦解ギリギリの可能性として感じ取るか。なんとなく、創作、何らかの新たな気付きはそんな所から生まれる気もしている。これは発話した自分自身にとっても同じだ。

ボンヤリとした直感に対して、いくつかの言葉を捻り出しながらそのイメージの所在を確かめていくことは、なんとなく紙の上で鉛筆を動かしている感覚に似ている。はっきりとした形が無い中で、薄らとした鉛筆線を何度も重ねながら、形の輪郭を浮かび上がらせていく。そこでは鉛筆線が向かう先について微かな確信めいた感覚と不安が常に同居し続けつつ、けれども結局は、鉛筆の先端と紙とが擦れ合う摩擦と鉛筆の重心移動とが押し合って生まれる偶有的な振る舞いに任せてしまう。いわゆる自動筆記のように自分自身を陶酔させている訳ではないが、スケッチの最中は、外側からの力学、偶有性によって自分の感覚が広がっていく期待を持ち続けている。

5月の中ほどに友人の林剛平さんに村で久しぶりに会った。藍の蒅(すくも)を持ってきていて、歓藍社の染め場、ロコハウスで藍建てをしようとしていた。そのとき剛平さんから「インドから帰ってきて研吾さんは元気になった気がする」と言われた。確かにそうかもしれない。すでに帰国してから二週間ほど経っていて、帰国後そのままゴールデンウィークに入ったものの溜まっていた仕事に追われ続けていて結局忙殺されかけてもいたが、少なくともインドで得て来た気持ちの高揚感は消え切ってはいなかったようだ。実際、ほんの少しだけ身の回りを綺麗にしたり、ちゃんと食べ物を食べたりの日常生活が以前よりも整っている気がする(性根がズボラなのでそんなには変わらないが)。ただ自分の場合、気持ち、気分の上がり沈みは、その時に自分が考えているカタチのアイデア、思いついたアイデアの質がそのまま反映される気がしている。「ああ今自分の感覚は鋭いぞ」と感じられれば気分は上がり、「どうも鈍いな」と分かればなんとなく気分が塞がる。我ながら何とも偏狂的ではあるが、とても明快である。ヒリヒリするほどにモノやヒトの生活が剥き出しなインドへの旅によって、当然ながら自分のカタチへの感覚は研ぎ直されたのだろう。それによっていくらか気分が向上し、生活も整い出したのだろう。

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(藍建ての初期工程。蒅に灰汁を足し、足で踏んでいっているところ)

カタチへの感覚、カタチ感覚とはとてもピュアな物言いだが、結局のところこの辺りを突き詰めて考えていくことが、今のところ自分が取り組む建築にとって大事なのだろうとも考えている。一時期は「造形感覚」という言葉を多用していた。けれども最近は「カタチ」というくらいにより気楽に広々と捉えることができている。「カタチ」というと菊竹清訓さんの「か・かた・かたち」の中での<かたち>、ある種の形而下の現象段階のみと誤解されてしまいそうなので、もっと別の言葉を探さないといけないかもしれない。比較的身近な手がかりがあるとすれば、むしろ丸山欣也さんや象設計集団あたりの、吉阪研究室の濃厚な人々が描き残していた辺りだろう。インドであればかなりわかりやすい形で、B.V.ドーシやC.コリアがそこに迫ってくるはずだ。とは言え、ひとまず元気にもなったので、なるべくもっと古いモノへ、遠くのモノへ想像を向けてみることにする。最近福島県内で現場が始まったプロジェクトもあるので、実践のなかで感覚を遠くへ飛ばす試みをしていく。

(さとう けんご)

佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。福島・大玉村で藍染の活動をする「歓藍社」所属。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。「一般社団法人コロガロウ」設立。2022年3月ときの忘れもので二回目となる個展「佐藤研吾展 群空洞と囲い」を開催。

・佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。

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