「往復書簡/Correspondence—孫世代から見た磯崎新 #0建築をめぐるコミュニケーションをさがして」を見て
松畑強
私の言おうと欲するのは、死者の生命を考えることは、生者の生命を考えることよりも論理的に一層困難であることは、有り得ないということである。死は観念である。
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磯崎新をめぐり、DISTANCE. Media上で展開された日本と北米の若い建築家間の応答と、その成果の展示についての、個人的レヴューを以下に記したい。
「孫世代から見た磯崎新」という標題が示すように、磯崎新(1931-2022)から2世代後、つまり1991年前後に生まれた建築家達のあいだで「往復書簡」は交わされている。この往復書簡というアイデアは編集者の服部真吏によるという。建築家は、日本からは、山田紗子+鈴木心、井上岳/GROUP、佐藤研吾ら、北米からはオーウェン・ニコルズ+クララ・サイム(チボムーニー)、マイケル・アベル+ナイル・グリーンバーグ(ANY)、フランシスコ・キニョネス+ネイサン・フリードマン(デパルタメント・デル・ディストリクト)らとなっている。このうち、オーウェン・ニコルズとナイル・グリーンバーグは、私とGSAPP(コロンビア大学)の同窓にあたるようだ。またDISTANCE. Media未掲載(本稿執筆時)のものに、板坂留五とサム・クロヴィス+ジョージア・バロニアン(クローヴィスバロニアン)によるものがある。
展示は東京の磯崎の「デビュー作」新宿ホワイトハウス(2023年9月8日-10月8日)と、ニューヨークのa83ギャラリー(2023年10月13日-11月5日)の2箇所で行われる。

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往復書簡と展示を、掲載順にみていく。まず山田紗子+鈴木心らとチボムーニーによるプロジェクトから。
「1階床板を剥すと土が見えた」「ニューヨークの建物内で土を見るには、ウォルター・デ・マリアの展示に行かなくては。ところで我々のニューヨークのa83ギャラリーに本棚があるといい。東京のギャラリーにもいいだろ。ただし制作費は日本側持ちで」といった感じの、すれ違いから応答は始まる。
話が収束し始めるのは、群馬県立近代美術館(1974)で仮想立方体を講堂内面に射影する磯崎の手つき(fig.1、Estate of Isozaki、展示会ハンドアウトから)に、ニコルズが言及するところからである。ニコルズの言及に鈴木は、「磯崎の実験にはまだ別の試みがあると思う。色彩は重要なキーワードかもしれない。色彩は明確な形を持っていないが、効果があり、マッシヴな物より力強い。この時、2次元と3次元で多くの摩擦が始まる。磯崎はそれを知っており、ゆえに彼はしばしばそれを用いる」と、いささか唐突な応答を与える。

fig.1
「色彩は明確な形を持っていないが、効果があり、マッシヴな物より力強い」。工学的に説明すれば、「色彩」とは光の知覚によるもので、長波光を赤く短波光を青や紫と人間は知覚し、これら周波の外側は赤外線や紫外線と名付けられ、人間の眼球はそれらを知覚できない。色彩とは、一つには人間における光の知覚の現れ方である。
人間の眼球網膜で受容された光は意外に遅い速度で脳に伝達され、そこで色彩を含む視覚像が再構成される。他方で意外に遅い伝達速度など、人間の生理も色彩知覚に影響する。たとえば一定周波の光を一定時間眼球に与えると、眼球の知覚は与えられた光の補色側に傾斜し、与えられていないにも関わらず補色側の色彩を人間は「知覚」する。ジェームズ・タレルのような作家は、人間のこの生理現象を利用した作品を制作している。
もちろん、磯崎も色彩に言及することはある。磯崎的色彩でまず想起されるのは、福岡相互銀行本店(1972)外壁やロサンゼルス現代美術館(1986)外壁で用いられたインド砂岩の、印象的な赤色ではないだろうか。磯崎は福岡相互銀行本店設計に際し「この街には色彩がない」と述べたとされ、つまり設計にあたって明確にインド砂岩の赤色を意識していたことになろう。同じく福岡市に設計された秀巧社ビル(1976)の内装では、群馬と同じくスーパーインポーズの手法によって、内部に色彩によるグラフィックな処理がなされてはいる。
とはいえ鈴木の応答にニコルズは、アンリ・マティスのウルトラマリンブルーの話とジョセフ・アルバースの色彩論という、これもまたいささか唐突な応答を加えていくことになる。マティスのウルトラマリンブルーの話とは、10センチ四方のウルトラマリンブルーをより青くするため、その横に1メートル四方のウルトラマリンブルーを塗るというもので、これは同じ色でも塗布面積によって色の深みが異なって見えるという、人間の色彩錯視を利用した話である。またアルバースの色彩論は、ロバート・ヴェンチューリの『建築の多様性と対立性』冒頭で、クルト・ゲーデルの定理やT. S. エリオットの詩とともに、複合性と対立性を説明するために引用されるものである。ここでニコルズがアルバースを引用してくるのは、彼が米国で教育されたことが大きいと推測する。
ともあれしかし、色彩原論的議論や狭義の磯崎的色彩に束縛される必要は必ずしもなく、磯崎の群馬県立美術館講堂におけるスーパーインポーズの扱いの変奏は、ここ新宿ホワイトハウスにおいて具体的なあり方を見出していくことになる。
群馬においては、仮想の立方体から射影された影が講堂の内面に線として投影され、仮想立方体は講堂の空間ヴォリューム表面に解体されていた。
ここでの彼らのプロジェクトでは、新宿ホワイトハウスの吹抜け=ホワイトキューブ天井の一角あたりに青緑塗装して色面を作り、そこから位置をややずらしてピンク色の光をプロジェクターで照射することで、色面による仮想の直方体ヴォリュームを、ホワイトキューブの一角に立ち上げるというものである。(fig.2 展覧会ハンドアウトより)。群馬で解体された立方体が、ここでは複合色面によるヴォリュームとして再構成されることになろう。

fig.2
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井上岳とANYによる介入は、新宿ホワイトハウスに対し直接的になされる。まず井上が「どの部分をリノヴェーションしたいか」と問い、グリーンバーグは「柱の挿入」と、これに応える。「リノヴェーション」と「柱」。プロジェクトは『修繕柱』と名付けられ、この線に沿って、あまりすれ違わずに進んでいく。
新宿ホワイトハウスは1957年竣工の在来木造家屋である。6間(5.46メートル)スパンのホワイトキューブの吹抜けを単純に設けるのは構造的に無理があり、外から見ると棟が下がっているのが視認できる。屋根は緩勾配であり、成も水平剛性も不足している。構造だけを考えるなら、要点となる部分をピンポイントで鉄材補強していくのが合理的と考えられるが、「柱」の挿入にはまた別の意味があるだろう。
柱は日本においても西洋においても、祝福され、英雄的なものとして意味付けられることが多い。日本語の「大黒柱」は家屋を支える最も重要な柱であるとともに、家族を支える重要人物という意味でも用いられる。彼らのプロジェクトではこれがアイロニカルに換骨奪胎され、柱のようなもの、偽の柱、構造的には役に立たないものとして、新宿ホワイトハウスの吹抜に挿入される。紙管のまわりにベニアが巻きつけられた柱は、天井と床にゴムブロックで接し、構造的にはさして意味のない「修繕柱」である(fig.3 twitter.com/inoue_gkから)。

fig.3
このリノヴェーションに際し、磯崎の1、テンタティヴ形態、2、主体と客体の互換性、3、場所の虚構化、の概念を井上は挙げている。それゆえこの『修繕柱』は仮設的、着脱可能で、東京でもニューヨークでも使用でき、さらに本数や形態や設置位置もその都度、テンタティヴに決定されるようだ。当初のドローイングでは、磯崎のレスポンシヴ・ハウス(1969)平面のような平面形をした『修繕柱』が描かれている(fig.4 展示会ハンドアウトから)。

fig.4
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佐藤研吾とデパルタメント・デル・ディストリクトの応答は、「中心の不在」、「住宅は建築ではない」といった磯崎の議論から始まり、やがてエレクトリック・ラビリンス(1968、fig.5展示会ハンドアウトから)、レスポンシヴ・ハウス(1968、fig.6展示会ハンドアウトから)、1970年万博広場およびパフォーマンス・ロボット「デメ」と「デク」(1970、fig.7展示会ハンドアウトから)、ナイトクラブ・パラディアム(1985、fig.8展示会ハンドアウトから)などの磯崎作品にある、行為的・応答的側面へと収束していく。

fig.5

fig.6

fig.7

fig.8
新宿ホワイトハウスはそもそも、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズの拠点として、彼らの行為的・応答的パフォーマンスを触発する場所として、さらに吹抜け部分はその行為的空間の中心として設計されたものであった。この点で磯崎のこれら作品の行為的・応答的側面は、じつは新宿ホワイトハウスからの変奏と見做せなくもなかろう。
ここで歴史的に振り返るなら、ネオダダ・オルガナイザーズのパフォーマンスは、同時代・米国のジョン・ケージのチャンス・オペレーションなどとも並行的で、この考えは1960年代に入ってフルクサスの「イヴェント」へも連なっていく。ジョン・ケージのチャンス・オペレーションは鈴木大拙の影響、言い換えるなら日本や東洋の思想が影響しているとされ、フルクサスには、小杉武久、刀根康尚、ナム・ジュン・パイクなど、日本人やコリアンのメンバーも多く含まれていた。さらに視点を英国まで拡げるなら、セドリック・プライスの『ファン・パレス』(1960-66、fig.9、Samantha Hardingham ed. Cedric Price Works 1952-2003, A Forward Minded Retrospective, Architectural Association London, Canadian Centre for Architecture Montreal, 2016から)も、こうした大きな潮流のなかに位置付けられる。

fig.9
つまるところ、新宿ホワイトハウスに始まる磯崎のこれら一連の行為的・応答的作品は、この世界的潮流のなかで先行しつつ、重要な一角を占めていたと見做し得るだろう。
「ネオダダの活動はむしろ始めは、都市の外部空間で過激な活動を行うことでした。けれどもその活動の過激さ故に、時には都市空間で実施することが難しくなっていったことがありました。そこでの活動表現をこのホワイトハウスの中で実現させようとしていたのだと思います」と、佐藤は述べる。ネオダダ・オルガナイザーズの活動ゆえ、外部都市に内閉的たらざるを得ないものだったとすると、外部都市のノイズを新宿ホワイトハウスに導入する試みを、佐藤らは提案する。
新宿のサウンドスケープを採集し、それを編集したものを、天井裏に隠したスピーカーからフレキダクトを通して、新宿ホワイトハウス内に轟かせるというものである(fig.10 twitter.com/kengo_satoから)。磯崎はかつて空調ダクトを、内臓器官を髣髴させるような手つきで設計していた。サウンドスケープを吹き出すこのフレキダクトは、磯崎の空調ダクトを別の手つきで反芻したものにも見えてもくる。

fig.10
こうした外部音響とは別に、外部が視覚的にも導入される。OHPによって壁面に投影される、繁華街新宿のアイコンとしてのネズミのシルエットがそれである。このOHPによるシルエットは、明るい昼間はよく見えず、夕方から暗くなってくるとはっきり目に付くものであり、言い換えるなら、夜行性のネズミに対応して登場してくるシルエットである(fig.11 twitter.com/kengo_satoから)。

fig.11
いずれにせよこれらサウンドスケープの装置とネズミ・アイコンの投影装置が、1970年万博におけるデメとデクのように、新宿ホワイトハウスに挿入される。
ところで、デパルタメント・デル・ディストリクトは、メキシコの建築事務所という。先に見た米国のチボムーニーやANYがどこか一歩引いた感じで往復書簡を交わしていたのに対し、あるいは次に見るクローヴィスバロニアンにいたっては、随分引いた感じで往復書簡を交わしていたのに対し、彼らが行為的・応答的プロジェクトをめぐる往復書簡において、応答的になっている点は興味深い。
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板坂留五とクローヴィスバロニアンの往復書簡は、大分県立図書館ブラウジングコーナーのカーペットなどの話から始まる。途中のクローヴィスバロニアンの応答は、読む者をいささかひやひやさせなくもない。
カーペットと修繕のアイデアから床をめぐるトピックへ進んでいき、現場訪問時に撮影した写真に触発され、あるとき2階奥にある窓に焦点は最終的に移っていく。擦ガラスを入れた既存木製引違い窓の外側に、フロートガラスを入れたアルミの大型滑出し窓を設置することで、既存引違い窓を開きながら窓全体を閉めることなく、外の景色を望める窓ができる。またここにかけられたレースのカーテンは、最初の主題だった床カーペットのテキスタイルの、変奏と見做すこともできるだろう(fig.12 instagram.com/rui_architectsから)。

fig.12
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チボムーニーやANYの応答を見ていると、海外での磯崎受容でシルクスクリーンが決定的な役割を果たしていることに、目が行く。磯崎の海外でのイメージは、まずシルクスクリーンによって決定されたといっても過言ではなかろう。
実際の建築物は土地に固着した物体である。これが海外に伝達されるのは2次元のイメージを通してであり、磯崎の場合、シルクスクリーンによるイメージは、同じくプリントの一種である日本の浮世絵を彷彿させるものとして、対外的にはあったかもしれない。「日本的なるもの」を考察する磯崎は、このことをある時点である程度は意識したのではないか、と推測する。
さらに初期のシルクスクリーンではアクソノメトリック図の影部分に薄墨がかけられ、次第に描かれるようになる透視図の影部分は、濃く塗りつぶされることが多くなるように見える。影のこの印象的扱いも、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』にしばしば言及する磯崎としては、ある程度は意識的だった可能性がある(fig.13、ときの忘れものより)。

fig.13 “Palau d'Esports Sant Jordi Barcelona”より≪Preliminary studies≫
シルクスクリーンという技法にはまた、磯崎にとって別の含みもあったように思う。1982年に発表された「還元」シリーズについて磯崎は、「いずれもその建築の基本コンセプトを抽象化し、視覚化してある。実際にできた建築は三次元的な存在だし、内部に空間をかかえこんでいるから、その見え方も体験のしかたも違っている。しかし、それが構想されるときには、手がかりとなるひとつの形式を導入しなければならない。版画で表現しようとしているのは、その部分である。だから、建築が、建築家の手からうまれでていくその瞬間のイメージの視覚化といっていい」(『堀内正和・磯崎新展』、奈良・西田画廊、1982、ときの忘れものブログでの再録)と、述べている。
建築表象のイメージではなく、「建築の基本コンセプトを抽象化し、視覚化」するものとしてのシルクスクリーン。もっと述べれば、基本コンセプトを抽象化、視覚化するものとしての「還元」である。そしてこの「還元」は抽象化だけでなく、物象=対象化された形式としてもあっただろうことは、容易に想像できる。
この引用文の前で、磯崎はシルクスクリーンについて「こんなあほらしく手のかかる仕事」とも述べている。浮世絵が絵師だけでなく、彫師や擦師らの手を経て制作されるように、シルクスクリーンもまた、最初のイメージ制作者の手を離れ、「あほらしく手のかかる仕事」をへて制作される。言い換えるなら、建築設計者はこの制作過程で「疎外」されるものとしてあり、このあり方は、ハンス・ホラインやライムント・アブラハムらの肉筆ドローイングとは、きわめて対照的なものとしてあるだろう。
還元、抽象化、それに疎外、物象=対象化、解体などは、シルクスクリーンだけでなく、磯崎のこの時代の建築作品のあり方とも共通しており、これらのプロセスを通して磯崎は自らの建築を掴み取っていったようにも見えるのである。
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ここで厚かましくも私のデビュー作についても言及させていただく。先に見た群馬県立美術館講堂内の、仮想立方体と講堂内面へのその射影やスーパーインポーズに見る磯崎の手つきは、2次元と3次元、視覚表象とヴォリュームのあいだの、知覚と物とのあいだの、込み入った関係を示唆するものとしても読める。
建築は視覚的でもあり物的でもある。『物|遠近法』と青臭く名付けたられた拙作(fig.14、2003)は、こうした磯崎的問題構制を意識したものでもあった。見られる対象としては、スラントやテーパーによって遠近法的錯視が与えられ、敷地前を流れる多摩川を見る装置としては、全面ガラスカーテンウォールがスクリーンとして与えられ、物としてこれを成立させるために栗と鋼によるハイブリッドブレースが物的に用いられる。このハイブリッドブレースが支持する大梁は大きくオーヴァーハングしている。

fig.14
1974年に竣工した磯崎の北九州市立美術館は、文化的インフラの貧弱な地方都市の中学生だった私にとって、中学2年と3年の週末の多くをそこで過ごした場所であり、その大胆にオーヴァーハングした特長的な二つのシリンダーは、オブセッションのように記憶に残るものだった。
一つの意味において、私のデビュー作は磯崎新へのオマージュでもある。
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主催者は今回の企画について、「この《新宿ホワイトハウス》で、東京を拠点とするGROUPとカリフォルニアとテキサスを拠点とするclovisbaronianは、建築に関する国を超えたコミュニケーションを巡る展覧会を考えた。言うまでもなく、ホワイトハウスという名前はアメリカの大統領官邸のことで、戦後日本のアメリカに対する憧れを示唆している。それから半世紀以上を経て、価値観や技術、生活は大きく変わったが、依然として日本とアメリカ(の建築)は物理的、文化的な距離を隔てている。今日、どのようなコミュニケーションが行えるか」と、その主旨を提起している。
「戦後日本のアメリカに対する憧れ」。ハリー・ハルトゥーニアンは戦後日本を分析した一文で、戦後占領政策より、東西冷戦下で形成されたケネディ=ライシャワー・ドクトリン等が、日米関係に強力に作用したと分析していた。日米安保体制はその制度的現れの一つと見做すことができ、占領軍は以降米軍としてそのまま駐留し続け、緩勾配屋根をもち白くペンキ塗装された米軍住宅は、アメリカ大統領官邸の出先のホワイトハウスとして建ち続けることになる。1962年、吉村益信は新宿ホワイトハウスをたたんで渡米する。磯崎は吉村のように「渡米」することはなかったが、米国でも多くの仕事をなし、米国では高く評価されている。
続く文章、「それから半世紀以上を経て、価値観や技術、生活は大きく変わったが、依然として日本とアメリカ(の建築)は物理的、文化的な距離を隔てている。今日、どのようなコミュニケーションが行えるか」。その通りとは思う。ただ孫世代も半世紀以上続くこの構造にこだわるのかな、とも思う。
ともあれ、孫世代による新たなコミュニケーションと実践が始まった。
磯崎自身についてみるなら、最晩年は東京に愛弟子の青木宏を置きつつ、自身は胡倩とともに磯崎新+胡倩工作室を上海に開設し、おもにそこで活動する。お爺さんは、戦後日本の外部へと抜け出し、南宋の文人墨客のようになったようにも、見えなくもない。
(まつはた つよし)
「往復書簡/Correspondence」
●東京会場
会期/Date: 2023/9/8(金)~10/8(日)
会場/Venue: WHITEHOUSE
住所/Address: 東京都新宿区百人町1-1-8 WHITEHOUSE
出展者/artists and architects:
一般社団法人コロガロウ/佐藤研吾建築設計事務所
山田紗子建築設計事務所
板坂留五
GROUP
ANY
Chibbernoonie
Departamento del Distrito
sam clovis + georgina baronian & associates
●NY会場
会期/Date: 2023/10/13(金)~11/5(日)
会場/Venue: a83
住所/Address: 83 Grand St, New York, NY 10013 USA
出展者/artists and architects:
一般社団法人コロガロウ/佐藤研吾建築設計事務所
山田紗子建築設計事務所
板坂留五
GROUP
青柳菜摘
河野未彩
布施琳太郎
三野新
村田啓
ARCHI HACH
ANY
Chibbernoonie
Departamento del Distrito
sam clovis + georgina baronian & associates
会場構成/Exhibition design: sam clovis + georgina baronian & associates
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■松畑 強(まつはた つよし)
建築家。1961年生まれ。85年京都大学工学部卒業。87年同大学院修士修了。87-92年株式会社日建設計勤務。93年コロンビア大学GSAPP修了。現在、松畑強建築事務所主宰。主な作品に[物|遠近法] [The MAZE] [K邸]など。
主な著訳書にB.コロミーナ『マスメディアとしての近代建築』、K.M.ヘイズ『ポストヒューマニズムの建築』、K.フランプトン『テクトニック・カルチャー』(共訳)、『建築とリアル』など。
●本日のお勧め作品は磯崎新です。

0001-006
「ヴィッラYa」
1978年
シルクスクリーン
イメージサイズ:47.0×47.0cm
シートサイズ:65.0×50.0cm
Ed.75
サインあり
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

松畑強
私の言おうと欲するのは、死者の生命を考えることは、生者の生命を考えることよりも論理的に一層困難であることは、有り得ないということである。死は観念である。
三木清『人生論ノート』
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磯崎新をめぐり、DISTANCE. Media上で展開された日本と北米の若い建築家間の応答と、その成果の展示についての、個人的レヴューを以下に記したい。
「孫世代から見た磯崎新」という標題が示すように、磯崎新(1931-2022)から2世代後、つまり1991年前後に生まれた建築家達のあいだで「往復書簡」は交わされている。この往復書簡というアイデアは編集者の服部真吏によるという。建築家は、日本からは、山田紗子+鈴木心、井上岳/GROUP、佐藤研吾ら、北米からはオーウェン・ニコルズ+クララ・サイム(チボムーニー)、マイケル・アベル+ナイル・グリーンバーグ(ANY)、フランシスコ・キニョネス+ネイサン・フリードマン(デパルタメント・デル・ディストリクト)らとなっている。このうち、オーウェン・ニコルズとナイル・グリーンバーグは、私とGSAPP(コロンビア大学)の同窓にあたるようだ。またDISTANCE. Media未掲載(本稿執筆時)のものに、板坂留五とサム・クロヴィス+ジョージア・バロニアン(クローヴィスバロニアン)によるものがある。
展示は東京の磯崎の「デビュー作」新宿ホワイトハウス(2023年9月8日-10月8日)と、ニューヨークのa83ギャラリー(2023年10月13日-11月5日)の2箇所で行われる。

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往復書簡と展示を、掲載順にみていく。まず山田紗子+鈴木心らとチボムーニーによるプロジェクトから。
「1階床板を剥すと土が見えた」「ニューヨークの建物内で土を見るには、ウォルター・デ・マリアの展示に行かなくては。ところで我々のニューヨークのa83ギャラリーに本棚があるといい。東京のギャラリーにもいいだろ。ただし制作費は日本側持ちで」といった感じの、すれ違いから応答は始まる。
話が収束し始めるのは、群馬県立近代美術館(1974)で仮想立方体を講堂内面に射影する磯崎の手つき(fig.1、Estate of Isozaki、展示会ハンドアウトから)に、ニコルズが言及するところからである。ニコルズの言及に鈴木は、「磯崎の実験にはまだ別の試みがあると思う。色彩は重要なキーワードかもしれない。色彩は明確な形を持っていないが、効果があり、マッシヴな物より力強い。この時、2次元と3次元で多くの摩擦が始まる。磯崎はそれを知っており、ゆえに彼はしばしばそれを用いる」と、いささか唐突な応答を与える。

fig.1
「色彩は明確な形を持っていないが、効果があり、マッシヴな物より力強い」。工学的に説明すれば、「色彩」とは光の知覚によるもので、長波光を赤く短波光を青や紫と人間は知覚し、これら周波の外側は赤外線や紫外線と名付けられ、人間の眼球はそれらを知覚できない。色彩とは、一つには人間における光の知覚の現れ方である。
人間の眼球網膜で受容された光は意外に遅い速度で脳に伝達され、そこで色彩を含む視覚像が再構成される。他方で意外に遅い伝達速度など、人間の生理も色彩知覚に影響する。たとえば一定周波の光を一定時間眼球に与えると、眼球の知覚は与えられた光の補色側に傾斜し、与えられていないにも関わらず補色側の色彩を人間は「知覚」する。ジェームズ・タレルのような作家は、人間のこの生理現象を利用した作品を制作している。
もちろん、磯崎も色彩に言及することはある。磯崎的色彩でまず想起されるのは、福岡相互銀行本店(1972)外壁やロサンゼルス現代美術館(1986)外壁で用いられたインド砂岩の、印象的な赤色ではないだろうか。磯崎は福岡相互銀行本店設計に際し「この街には色彩がない」と述べたとされ、つまり設計にあたって明確にインド砂岩の赤色を意識していたことになろう。同じく福岡市に設計された秀巧社ビル(1976)の内装では、群馬と同じくスーパーインポーズの手法によって、内部に色彩によるグラフィックな処理がなされてはいる。
とはいえ鈴木の応答にニコルズは、アンリ・マティスのウルトラマリンブルーの話とジョセフ・アルバースの色彩論という、これもまたいささか唐突な応答を加えていくことになる。マティスのウルトラマリンブルーの話とは、10センチ四方のウルトラマリンブルーをより青くするため、その横に1メートル四方のウルトラマリンブルーを塗るというもので、これは同じ色でも塗布面積によって色の深みが異なって見えるという、人間の色彩錯視を利用した話である。またアルバースの色彩論は、ロバート・ヴェンチューリの『建築の多様性と対立性』冒頭で、クルト・ゲーデルの定理やT. S. エリオットの詩とともに、複合性と対立性を説明するために引用されるものである。ここでニコルズがアルバースを引用してくるのは、彼が米国で教育されたことが大きいと推測する。
ともあれしかし、色彩原論的議論や狭義の磯崎的色彩に束縛される必要は必ずしもなく、磯崎の群馬県立美術館講堂におけるスーパーインポーズの扱いの変奏は、ここ新宿ホワイトハウスにおいて具体的なあり方を見出していくことになる。
群馬においては、仮想の立方体から射影された影が講堂の内面に線として投影され、仮想立方体は講堂の空間ヴォリューム表面に解体されていた。
ここでの彼らのプロジェクトでは、新宿ホワイトハウスの吹抜け=ホワイトキューブ天井の一角あたりに青緑塗装して色面を作り、そこから位置をややずらしてピンク色の光をプロジェクターで照射することで、色面による仮想の直方体ヴォリュームを、ホワイトキューブの一角に立ち上げるというものである。(fig.2 展覧会ハンドアウトより)。群馬で解体された立方体が、ここでは複合色面によるヴォリュームとして再構成されることになろう。

fig.2
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井上岳とANYによる介入は、新宿ホワイトハウスに対し直接的になされる。まず井上が「どの部分をリノヴェーションしたいか」と問い、グリーンバーグは「柱の挿入」と、これに応える。「リノヴェーション」と「柱」。プロジェクトは『修繕柱』と名付けられ、この線に沿って、あまりすれ違わずに進んでいく。
新宿ホワイトハウスは1957年竣工の在来木造家屋である。6間(5.46メートル)スパンのホワイトキューブの吹抜けを単純に設けるのは構造的に無理があり、外から見ると棟が下がっているのが視認できる。屋根は緩勾配であり、成も水平剛性も不足している。構造だけを考えるなら、要点となる部分をピンポイントで鉄材補強していくのが合理的と考えられるが、「柱」の挿入にはまた別の意味があるだろう。
柱は日本においても西洋においても、祝福され、英雄的なものとして意味付けられることが多い。日本語の「大黒柱」は家屋を支える最も重要な柱であるとともに、家族を支える重要人物という意味でも用いられる。彼らのプロジェクトではこれがアイロニカルに換骨奪胎され、柱のようなもの、偽の柱、構造的には役に立たないものとして、新宿ホワイトハウスの吹抜に挿入される。紙管のまわりにベニアが巻きつけられた柱は、天井と床にゴムブロックで接し、構造的にはさして意味のない「修繕柱」である(fig.3 twitter.com/inoue_gkから)。

fig.3
このリノヴェーションに際し、磯崎の1、テンタティヴ形態、2、主体と客体の互換性、3、場所の虚構化、の概念を井上は挙げている。それゆえこの『修繕柱』は仮設的、着脱可能で、東京でもニューヨークでも使用でき、さらに本数や形態や設置位置もその都度、テンタティヴに決定されるようだ。当初のドローイングでは、磯崎のレスポンシヴ・ハウス(1969)平面のような平面形をした『修繕柱』が描かれている(fig.4 展示会ハンドアウトから)。

fig.4
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佐藤研吾とデパルタメント・デル・ディストリクトの応答は、「中心の不在」、「住宅は建築ではない」といった磯崎の議論から始まり、やがてエレクトリック・ラビリンス(1968、fig.5展示会ハンドアウトから)、レスポンシヴ・ハウス(1968、fig.6展示会ハンドアウトから)、1970年万博広場およびパフォーマンス・ロボット「デメ」と「デク」(1970、fig.7展示会ハンドアウトから)、ナイトクラブ・パラディアム(1985、fig.8展示会ハンドアウトから)などの磯崎作品にある、行為的・応答的側面へと収束していく。

fig.5

fig.6

fig.7

fig.8
新宿ホワイトハウスはそもそも、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズの拠点として、彼らの行為的・応答的パフォーマンスを触発する場所として、さらに吹抜け部分はその行為的空間の中心として設計されたものであった。この点で磯崎のこれら作品の行為的・応答的側面は、じつは新宿ホワイトハウスからの変奏と見做せなくもなかろう。
ここで歴史的に振り返るなら、ネオダダ・オルガナイザーズのパフォーマンスは、同時代・米国のジョン・ケージのチャンス・オペレーションなどとも並行的で、この考えは1960年代に入ってフルクサスの「イヴェント」へも連なっていく。ジョン・ケージのチャンス・オペレーションは鈴木大拙の影響、言い換えるなら日本や東洋の思想が影響しているとされ、フルクサスには、小杉武久、刀根康尚、ナム・ジュン・パイクなど、日本人やコリアンのメンバーも多く含まれていた。さらに視点を英国まで拡げるなら、セドリック・プライスの『ファン・パレス』(1960-66、fig.9、Samantha Hardingham ed. Cedric Price Works 1952-2003, A Forward Minded Retrospective, Architectural Association London, Canadian Centre for Architecture Montreal, 2016から)も、こうした大きな潮流のなかに位置付けられる。

fig.9
つまるところ、新宿ホワイトハウスに始まる磯崎のこれら一連の行為的・応答的作品は、この世界的潮流のなかで先行しつつ、重要な一角を占めていたと見做し得るだろう。
「ネオダダの活動はむしろ始めは、都市の外部空間で過激な活動を行うことでした。けれどもその活動の過激さ故に、時には都市空間で実施することが難しくなっていったことがありました。そこでの活動表現をこのホワイトハウスの中で実現させようとしていたのだと思います」と、佐藤は述べる。ネオダダ・オルガナイザーズの活動ゆえ、外部都市に内閉的たらざるを得ないものだったとすると、外部都市のノイズを新宿ホワイトハウスに導入する試みを、佐藤らは提案する。
新宿のサウンドスケープを採集し、それを編集したものを、天井裏に隠したスピーカーからフレキダクトを通して、新宿ホワイトハウス内に轟かせるというものである(fig.10 twitter.com/kengo_satoから)。磯崎はかつて空調ダクトを、内臓器官を髣髴させるような手つきで設計していた。サウンドスケープを吹き出すこのフレキダクトは、磯崎の空調ダクトを別の手つきで反芻したものにも見えてもくる。

fig.10
こうした外部音響とは別に、外部が視覚的にも導入される。OHPによって壁面に投影される、繁華街新宿のアイコンとしてのネズミのシルエットがそれである。このOHPによるシルエットは、明るい昼間はよく見えず、夕方から暗くなってくるとはっきり目に付くものであり、言い換えるなら、夜行性のネズミに対応して登場してくるシルエットである(fig.11 twitter.com/kengo_satoから)。

fig.11
いずれにせよこれらサウンドスケープの装置とネズミ・アイコンの投影装置が、1970年万博におけるデメとデクのように、新宿ホワイトハウスに挿入される。
ところで、デパルタメント・デル・ディストリクトは、メキシコの建築事務所という。先に見た米国のチボムーニーやANYがどこか一歩引いた感じで往復書簡を交わしていたのに対し、あるいは次に見るクローヴィスバロニアンにいたっては、随分引いた感じで往復書簡を交わしていたのに対し、彼らが行為的・応答的プロジェクトをめぐる往復書簡において、応答的になっている点は興味深い。
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板坂留五とクローヴィスバロニアンの往復書簡は、大分県立図書館ブラウジングコーナーのカーペットなどの話から始まる。途中のクローヴィスバロニアンの応答は、読む者をいささかひやひやさせなくもない。
カーペットと修繕のアイデアから床をめぐるトピックへ進んでいき、現場訪問時に撮影した写真に触発され、あるとき2階奥にある窓に焦点は最終的に移っていく。擦ガラスを入れた既存木製引違い窓の外側に、フロートガラスを入れたアルミの大型滑出し窓を設置することで、既存引違い窓を開きながら窓全体を閉めることなく、外の景色を望める窓ができる。またここにかけられたレースのカーテンは、最初の主題だった床カーペットのテキスタイルの、変奏と見做すこともできるだろう(fig.12 instagram.com/rui_architectsから)。

fig.12
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チボムーニーやANYの応答を見ていると、海外での磯崎受容でシルクスクリーンが決定的な役割を果たしていることに、目が行く。磯崎の海外でのイメージは、まずシルクスクリーンによって決定されたといっても過言ではなかろう。
実際の建築物は土地に固着した物体である。これが海外に伝達されるのは2次元のイメージを通してであり、磯崎の場合、シルクスクリーンによるイメージは、同じくプリントの一種である日本の浮世絵を彷彿させるものとして、対外的にはあったかもしれない。「日本的なるもの」を考察する磯崎は、このことをある時点である程度は意識したのではないか、と推測する。
さらに初期のシルクスクリーンではアクソノメトリック図の影部分に薄墨がかけられ、次第に描かれるようになる透視図の影部分は、濃く塗りつぶされることが多くなるように見える。影のこの印象的扱いも、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』にしばしば言及する磯崎としては、ある程度は意識的だった可能性がある(fig.13、ときの忘れものより)。

fig.13 “Palau d'Esports Sant Jordi Barcelona”より≪Preliminary studies≫
シルクスクリーンという技法にはまた、磯崎にとって別の含みもあったように思う。1982年に発表された「還元」シリーズについて磯崎は、「いずれもその建築の基本コンセプトを抽象化し、視覚化してある。実際にできた建築は三次元的な存在だし、内部に空間をかかえこんでいるから、その見え方も体験のしかたも違っている。しかし、それが構想されるときには、手がかりとなるひとつの形式を導入しなければならない。版画で表現しようとしているのは、その部分である。だから、建築が、建築家の手からうまれでていくその瞬間のイメージの視覚化といっていい」(『堀内正和・磯崎新展』、奈良・西田画廊、1982、ときの忘れものブログでの再録)と、述べている。
建築表象のイメージではなく、「建築の基本コンセプトを抽象化し、視覚化」するものとしてのシルクスクリーン。もっと述べれば、基本コンセプトを抽象化、視覚化するものとしての「還元」である。そしてこの「還元」は抽象化だけでなく、物象=対象化された形式としてもあっただろうことは、容易に想像できる。
この引用文の前で、磯崎はシルクスクリーンについて「こんなあほらしく手のかかる仕事」とも述べている。浮世絵が絵師だけでなく、彫師や擦師らの手を経て制作されるように、シルクスクリーンもまた、最初のイメージ制作者の手を離れ、「あほらしく手のかかる仕事」をへて制作される。言い換えるなら、建築設計者はこの制作過程で「疎外」されるものとしてあり、このあり方は、ハンス・ホラインやライムント・アブラハムらの肉筆ドローイングとは、きわめて対照的なものとしてあるだろう。
還元、抽象化、それに疎外、物象=対象化、解体などは、シルクスクリーンだけでなく、磯崎のこの時代の建築作品のあり方とも共通しており、これらのプロセスを通して磯崎は自らの建築を掴み取っていったようにも見えるのである。
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ここで厚かましくも私のデビュー作についても言及させていただく。先に見た群馬県立美術館講堂内の、仮想立方体と講堂内面へのその射影やスーパーインポーズに見る磯崎の手つきは、2次元と3次元、視覚表象とヴォリュームのあいだの、知覚と物とのあいだの、込み入った関係を示唆するものとしても読める。
建築は視覚的でもあり物的でもある。『物|遠近法』と青臭く名付けたられた拙作(fig.14、2003)は、こうした磯崎的問題構制を意識したものでもあった。見られる対象としては、スラントやテーパーによって遠近法的錯視が与えられ、敷地前を流れる多摩川を見る装置としては、全面ガラスカーテンウォールがスクリーンとして与えられ、物としてこれを成立させるために栗と鋼によるハイブリッドブレースが物的に用いられる。このハイブリッドブレースが支持する大梁は大きくオーヴァーハングしている。

fig.14
1974年に竣工した磯崎の北九州市立美術館は、文化的インフラの貧弱な地方都市の中学生だった私にとって、中学2年と3年の週末の多くをそこで過ごした場所であり、その大胆にオーヴァーハングした特長的な二つのシリンダーは、オブセッションのように記憶に残るものだった。
一つの意味において、私のデビュー作は磯崎新へのオマージュでもある。
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主催者は今回の企画について、「この《新宿ホワイトハウス》で、東京を拠点とするGROUPとカリフォルニアとテキサスを拠点とするclovisbaronianは、建築に関する国を超えたコミュニケーションを巡る展覧会を考えた。言うまでもなく、ホワイトハウスという名前はアメリカの大統領官邸のことで、戦後日本のアメリカに対する憧れを示唆している。それから半世紀以上を経て、価値観や技術、生活は大きく変わったが、依然として日本とアメリカ(の建築)は物理的、文化的な距離を隔てている。今日、どのようなコミュニケーションが行えるか」と、その主旨を提起している。
「戦後日本のアメリカに対する憧れ」。ハリー・ハルトゥーニアンは戦後日本を分析した一文で、戦後占領政策より、東西冷戦下で形成されたケネディ=ライシャワー・ドクトリン等が、日米関係に強力に作用したと分析していた。日米安保体制はその制度的現れの一つと見做すことができ、占領軍は以降米軍としてそのまま駐留し続け、緩勾配屋根をもち白くペンキ塗装された米軍住宅は、アメリカ大統領官邸の出先のホワイトハウスとして建ち続けることになる。1962年、吉村益信は新宿ホワイトハウスをたたんで渡米する。磯崎は吉村のように「渡米」することはなかったが、米国でも多くの仕事をなし、米国では高く評価されている。
続く文章、「それから半世紀以上を経て、価値観や技術、生活は大きく変わったが、依然として日本とアメリカ(の建築)は物理的、文化的な距離を隔てている。今日、どのようなコミュニケーションが行えるか」。その通りとは思う。ただ孫世代も半世紀以上続くこの構造にこだわるのかな、とも思う。
ともあれ、孫世代による新たなコミュニケーションと実践が始まった。
磯崎自身についてみるなら、最晩年は東京に愛弟子の青木宏を置きつつ、自身は胡倩とともに磯崎新+胡倩工作室を上海に開設し、おもにそこで活動する。お爺さんは、戦後日本の外部へと抜け出し、南宋の文人墨客のようになったようにも、見えなくもない。
(まつはた つよし)
「往復書簡/Correspondence」
●東京会場
会期/Date: 2023/9/8(金)~10/8(日)
会場/Venue: WHITEHOUSE
住所/Address: 東京都新宿区百人町1-1-8 WHITEHOUSE
出展者/artists and architects:
一般社団法人コロガロウ/佐藤研吾建築設計事務所
山田紗子建築設計事務所
板坂留五
GROUP
ANY
Chibbernoonie
Departamento del Distrito
sam clovis + georgina baronian & associates
●NY会場
会期/Date: 2023/10/13(金)~11/5(日)
会場/Venue: a83
住所/Address: 83 Grand St, New York, NY 10013 USA
出展者/artists and architects:
一般社団法人コロガロウ/佐藤研吾建築設計事務所
山田紗子建築設計事務所
板坂留五
GROUP
青柳菜摘
河野未彩
布施琳太郎
三野新
村田啓
ARCHI HACH
ANY
Chibbernoonie
Departamento del Distrito
sam clovis + georgina baronian & associates
会場構成/Exhibition design: sam clovis + georgina baronian & associates
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■松畑 強(まつはた つよし)
建築家。1961年生まれ。85年京都大学工学部卒業。87年同大学院修士修了。87-92年株式会社日建設計勤務。93年コロンビア大学GSAPP修了。現在、松畑強建築事務所主宰。主な作品に[物|遠近法] [The MAZE] [K邸]など。
主な著訳書にB.コロミーナ『マスメディアとしての近代建築』、K.M.ヘイズ『ポストヒューマニズムの建築』、K.フランプトン『テクトニック・カルチャー』(共訳)、『建築とリアル』など。
●本日のお勧め作品は磯崎新です。

0001-006
「ヴィッラYa」
1978年
シルクスクリーン
イメージサイズ:47.0×47.0cm
シートサイズ:65.0×50.0cm
Ed.75
サインあり
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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