連載「瑛九 - フォト・デッサンの射程」

第6回「Dreams Never End...-第33回瑛九展・湯浅コレクション(その2)」

梅津 元


 Dreams Never End ...。第5回はジョイ・ディヴィジョンのヴォーカリストであるイアン・カーティスへの追悼曲「Elegia」で幕を閉じた。イアン亡き後、残されたメンバーは、ニュー・オーダーとして再出発する。ならば、第6回は、ニュー・オーダーのファースト・アルバム『Movement』(1981)から始めるべきなのだろうか。そうかもしれない、ジョイ・ディヴィジョンの世界に限りなく近く、いまだ「喪」の中で制作されたかのような『Movement』の1曲目は「Dreams Never End」なのだから。
 「夢は決して終わらない」というタイトルでありながら、ピーター・フックによるヴォーカルは、イアンの亡霊が地の底で歌っているように響く。「ミーニョとヒーチョの家」は解体されるが、ミーニョこと都さんの夢も、ヒーチョこと杉田秀夫/瑛九の夢も、決して終わらない。瑛九の作品が、記憶の中のミーニョとヒーチョが、私たちのうちに、生き続ける限り。私たちの前から姿を消してしまう「ミーニョとヒーチョの家」を、いつまでも、記憶にとどめておくために、この曲を贈る、「Dreams Never End」。

2023年11月25日、見学会

 いま、この原稿を書いているのは、2023年12月20日。だが、ニュー・オーダーの楽曲の助けを借りたイントロは、11月26日に書いている。11月25日に開催された「瑛九アトリエ見学会」の感触が残っているうちに書き始めなければ、そう思っていた。前回、第5回で記した「さいたま国際芸術祭2023」の市民プログラムとして開催されたシンポジウム「瑛九再考」(11月12日)に関連し、特別企画「瑛九アトリエ見学会」が開催された。
 2019年、これが最後になる可能性が高いと伝えられながら、瑛九の自宅アトリエの調査に参加することができず、強い後悔の念にかられていた、そう、やはり、regret。そのこともあり、解体が決まってしまい、本当に最後の見学の機会なのだという切迫した気持ちから、無理を承知で、なんとか浦和へ出向いた。前回綴ったように、私は、「瑛九のアトリエ」と呼ばれている家を、「ミーニョとヒーチョの家」と呼びたいと考えた。言葉は、特に、ある事象を名指す時の「呼び名」は、とても重要だと思う、その事象に対する意識に作用するから、そんなことを考えているうちに、浦和駅に到着した。
 主催者に聞いたところ、この日の見学会の参加者は50名を越えているという。大久保静雄さんをはじめ、シンポジウム「瑛九再考」の機会にお目にかかることができた方々もいらっしゃれば、コロナ禍をはさみ、お目にかかるのが本当に久しぶりの方々との再会もあり、得難い機会となった。そのこと自体、没後60年以上を経てなお持続している瑛九と都さんの求心力を示している。途中、瑛九が暮らしていた当時から続くお店の説明などを受けながらゆっくりと歩き、30分程で「ミーニョとヒーチョの家」に到着する。
 鬱蒼と生い茂る樹木は、瑛九が暮らしていた時とは違うのではないかと、大久保さんが話してくださった。「瑛九とその周辺」(1986年)の準備以来、度々この家に訪れた大久保さんの記憶に照らした、実感のこもった貴重な話である。確かにそうだろう、瑛九が暮らしていた当時とは変わっているところも多いだろう。それにしても、これが最後となる「ミーニョとヒーチョの家」の訪問を、私を瑛九に導いてくださった大久保さんと一緒に果たしているという事実に、深い感慨を覚えてしまう貴重な時間だった。
 第5回では、1997年に私が初めてこの家を訪れた時のことと、その時に都さんから伺ったお話を、記録にとどめる意味でも、記述してみた。この連載では、折に触れて、そう多くはないが、都さんと直接お会いすることができた時のことを、記したいと思っている。そのためにも、ここで、都さんご自身が語る言葉を共有できる記事を思い起こすことは、意味があるのではないかと思う。そのように思ったきっかけは、もちろん、この日の「ミーニョとヒーチョの家」への訪問にあった。

飛石

 fig.1 をご覧いただきたい。これは、見学会の際に撮影した庭の飛石である。これが最後の機会なのだから、しっかり見て記憶にとどめたい、その思いが強く、撮影のことはほとんど記憶にない。時折、気の向くままに撮影しただけで、見直すとピンボケや光量不足も多く、まともに撮れていない写真ばかりである。その中で、庭に入るところから建物の近くまで続く飛石を、何枚か撮影している。何かが気になって撮影したはずなのだが、見学中は、その何かを思い出すことは出来なかった。

作成1
左から:fig.1:庭の飛石 2023年11月25日撮影、fig.2:庭で新聞を読む瑛九(1953年頃)

 後日、この日の見学会で撮影した写真を見直していて、ようやく思い出した。この飛石のところに立っている瑛九の姿を。その姿をおさめた写真を、果たして、どこで見たのか。最も可能性が高いのは、「生誕100年記念 瑛九展」の時の調査の際、宮崎県立美術館で見せてもらった数々のアルバムである。だが、その時には膨大な量の写真やスクラップを短期間に見ており、その中の1枚を鮮明に記憶しているとは思えない。ほどなく、雑誌に掲載された記事かもしれないとぼんやり思ったその時、ようやく、都さんへのインタビュー記事の頁に掲載されていた写真だったのではないかと、思い出すことができた。
 そのインタビューは、「都夫人インタビュー 瑛九という人」と題された記事であり、2001年刊行の『版画芸術』112号に掲載されている(74-77頁)。そして、その記事の冒頭に掲載されているのが、fig.2 の瑛九の写真である(74頁に掲載)。キャプションには、「庭で新聞を読む瑛九(1953年頃)」と記載されている。
 この写真は、庭の奥の方、つまり家屋の近くから、庭が面している道路の方に向けて撮影されている。fig.1 は、この写真とちょうど正反対の方向から撮影されたものということになる。この飛石が、写真の中の瑛九が立っている飛石と同じかどうかは、わからない。けれども、大久保さんによる貴重な指摘からわかる、庭の植栽の大きな変化に比べると、変化の度合いは相対的に低いのではないかと感じられる。

 こうして、何気なく撮った飛石のおかげで、都さんのインタビューを思い出すことができた。このような形で、都さんご自身が語る言葉が活字になっている記事はそう多くない。しかも、瑛九が没してから約40年を経た時期の取材であり、貴重な記事である。興味のある方には、ぜひ、ご一読いただきたい。そして、この記事を読まれる方は、きっと気がつくであろう。この記事で都さんが語っている話は、渋谷和良さんが「瑛九再考」のシンポジウムの中でお話されたことと、シンポジウムの最後に発言を求められた私が話したこと(補足を含めて第5回に改めて記述している)と、かなり重なっている。
 また、この都さんへのインタビューが掲載されている『版画芸術』112号は瑛九を特集しており、五十殿利治さんによる論考と、デモクラート美術家協会のメンバーとして若い頃にこの家を訪れていた細江英公さんへのインタビュー記事が、あわせて掲載されている。なお、『版画芸術』にはオリジナル版画が封入されているが、この号に封入されているオリジナル版画は、渋谷和良さんによるものである。シンポジウム「瑛九再考」において中心的な役割を果たし、この見学会後に立ち上げられた「瑛九アトリエを生かす会」の事務局長に就任された、まさに、その方である。

ガラスの窓、その光

 さて、「ミーニョとヒーチョの家」の見学では、まず、庭にある飛石を契機に、飛石に立つ瑛九の姿を思い出し、その写真が掲載されていた都さんのインタビュー記事を思い出すことができた。そこで、次は、建物についてであるが、思うところが多すぎて、気持ちの整理もつかず、まとまった感想をここで記述することは到底できそうにない。けれども、飛石と同様、当日撮影した写真を見直すと、この家の窓に何かしらの反応を示していたことがわかる。だから、ここでは、当日撮影した窓の写真を紹介してみたい。
 ここでも注意が必要なことは、2023年11月25日に見学した建物の窓が、瑛九が暮らしていた当時と違っているだろう、ということである。例えば、庭に面した出入り口の引き戸について言えば、湯浅英夫が撮影した写真に写っている窓と、見学会で見た建物の窓が違っていることは明らかである。瑛九がこの家で生活したのは1952年から1960年のはじめまでなのだから、当然のことだろう。そのことは十分に理解した上で、以下、撮影できた窓に、便宜的にAからEまでのアルファベットを振り、それぞれの写真を紹介する。

fig.3_窓A_20231125
fig.3:窓A

fig.4_窓B_20231125
fig.4:窓B

 「fig.3:窓A」は、模様が入っておらず、半透明のガラスである。版画の作業場であった場所に設えられている窓で、柔らかな光が入ってくる様子が伺える。「fig.4:窓B」は、凹凸のパターンのある、よく見かけるタイプのガラスである。光は透過するが、外から家の内部が見えないようになっている。ただし、窓に接近した事物は、おぼろげながら、その輪郭が見えるようになる。この写真は建物の内側から外に向けて撮影されたものだが、窓の近くに立たれている方(渋谷和良さん)の姿を確認することができる。

fig.5_窓Cの1_20231125
fig.5:窓Cの1

fig.6_窓Cの2_20231125
fig.6:窓Cの2

fig.7_窓D_20231125
fig.7:窓D

 「fig.5:窓Cの1」は、小さな台所のある位置に設えられた窓であり、昭和の建物を彷彿とさせる紅葉の模様の板ガラスが使われている。「fig.6:窓Cの2」からは、「fig.3:窓A」と同じように、この窓を通して柔らかな光が差し込んでくる様子が伺える。「fig.7:窓D」は、波打つパターンが魅力的である。格子状の枠は木製であり、かなり古い時代の窓ではないかと推測される。

fig.8_窓Eの1_20231125
fig.8:窓Eの1

fig.9_窓Eの2_20231125
fig.9:窓Eの2

 「fig.8:窓Eの1」は、光が少ない建物の中から撮影しているためフォーカスも甘く窓のディテールはよく見えていない。光の関係で、窓の外にある柵が窓に溶け込んでしまうような様子が魅力的である。この窓を透過する光の魅力は、窓の近くから撮影した「fig.9:窓Eの2」において、さらに増幅されている。この写真を見ると、ガラスの種類は「fig.4:窓B」と同じであることがわかる。

「湯浅コレクション」より 《(夜の散歩)》 制作年不詳 

 「ミーニョとヒーチョの家」の見学に際して、ほぼ無意識に撮影した写真を見直して、ガラスの窓に、そのガラスの窓を透過する光に、そのガラスの窓に映る像に、気持ちを奪われていたことを自覚する。繰り返すが、それらの窓は、この家に暮らしていた瑛九が見ていた窓とは違っているだろう。けれども、窓の数や窓のある位置には大きな変更はなかったのではないかと、これも推測に過ぎないが、想像できる。
 そうであるならば、この家で暮らした瑛九が、この建物の窓を透過する光を受けとめ、この建物の窓に映る像に囲まれて生活していた様子を、ある程度までは、想像することができる。そのことが、とても重要である。何もかも、実証的に示さなければ、明確な確証がなければ、ものが言えないわけではない。想像力、それは、時には根拠のない言動をもたらす負の動機にもなりえてしまうけれど、想像力が本来の力を発揮することができれば、実証的な証拠をいくら積み上げてもたどり着くことができない感覚としての真実を、一撃のもとに鷲掴みにすることができるはずである。そのことにこそ、賭けてみたい。
 光に鋭敏な反応を示す瑛九は、浦和のこの家で暮らす前から、どこでどのように過ごしていたとしても、その場所での光の諸相を、視覚のみによってではなく、肌で風を感じるように、全身で敏感に受けとめていたはずだ。その感覚の、ほんのわずかな片鱗を、「ミーニョとヒーチョの家」が、まだこの世界に存在していた時に、感じることができた、そのことに、深く感謝している。感謝?誰に?。いや違う、その問いは、人間中心主義の悪癖に由来する。問いの立て方が、すでにして間違っている。その感謝は、人に向けられているのではない。その感謝は、「ミーニョとヒーチョの家」に捧げられるべきなのだ。

 「ミーニョとヒーチョの家」において、感覚の隅々まで行き渡る光を体感することができた。見学会の日に私が見た窓を瑛九が見ていたわけではないのだとしても、窓の位置が大きく変わっていないことを前提にすれば、ガラスの窓を通して屋内に注がれる光を、瑛九は感じていたはずである。そのことを、この建物の中で実感できる、それだけでも、ほかにかえることのできない、実に豊かな体験なのである。その蠱惑的な光をもたらす「ガラスの窓」は、「湯浅コレクション」の中の一点を、くっきりと浮かび上がらせている。
 その一点とは、《(夜の散歩)》(制作年不詳/cat.no.29)である。なお、今回の第33回瑛九展に出品されたフォト・デッサンには、もう一点、同じタイトルの作品が含まれているが、その作品は1951年に制作されたものである(cat.no.14)。以下、《(夜の散歩)》とタイトルのみが記述される場合、《(夜の散歩)》(制作年不詳/cat.no.29)を示す。では、なぜ、《(夜の散歩)》が、「ガラスの窓」との関連において、くっきりと浮かび上がってくるのか。それは、この作品に用いられている主たる材料が、「ガラスの棒」だからである。

夜の散歩
fig.10:《(夜の散歩)》 制作年不詳

 では、より具体的に、《(夜の散歩)》を見てみよう。画面の8割ほどの面積を、棒状の形状の連続が占めている。画面の下方を基準にすれば、その棒状の形状は、画面の上方では、少し右に傾いている。さらに、そこに、いくつかの不定形の白の領域が見られる。さらによく見ると、その白ほど明確ではないかが、同様に不定形の黒の形も、見え隠れしている。美術批評の基本であるところのディスクリプションを試みようとしても、あまり意味をなさないことが、すぐにわかる。(一般論として妥当するかどうかは別として、少なくとも、私が行うディスクリプションの場合、そうである、という意味において。)
 それは、印画紙の微妙な階調に匹敵する言語が開拓されていないからである。人ごとではない。言語において印画紙に相当する何かを開拓すること、その作業を、瑛九のフォト・デッサンを記述対象として、与う限り、遂行すること。それは、この連載の、ひとつの、そして、最も中心となるべき課題である。だが、この作品に直球で挑むには、私の言語の球威も制球も、全く不足している。だからこそ、それと意識されずに「ガラスの棒」へと接近できるように、「ガラスの窓」という変化球を多投してみたのだ。
 そのことの効果は、少しはあるだろう。《(夜の散歩)》に用いられているガラスの棒は、写真の現像や焼き付けの過程において必要な、薬品を攪拌する作業に用いられるものである。その棒が、隙間なく並べられることで、「ガラスの面」が成立していることに、注目したい。物理的には1本1本の棒であるとしても、それらが隙間なく並置されることで成り立つ「面」は、凹凸のあるガラス、例えば、「fig.4:窓B」と「fig.8:窓Eの1」に使われているガラスの特徴と、少し似通っている。

 《(夜の散歩)》における「ガラスの面」が「ガラスの窓」と近似していることは、この作品において、型紙に由来すると推測される白の領域が、ギザギザとした輪郭とともに、印画紙に定着されていることに、明確に現れている。そのような輪郭のギザギザは、「fig.4:窓B」において、ガラスの向こう側の人の輪郭がガラスの凹凸によってぼやけたように映っていること、さらに、「fig.9:窓Eの2」においては、ガラスの向こう側の柵が、ガラスの凹凸がもたらす光の効果によってガラスと同化してしまうことと、近い。
 そうであるにも関わらず、《(夜の散歩)》は、光の効果を示した作品と呼ぶことには抵抗があるほど、黒みが強い作品である。それも無理はない、印画紙の上に置かれた物体が、光を透過すればするほど、その物体に当てられた光が透過し、印画紙は黒くなるからである。印画紙に白があるのは、光を透過しない不透明な物体が置かれる場合である。従って、光を透過しやすいガラスを主たる材料として制作された《(夜の散歩)》は、黒味が強いフォト・デッサンとなるのである。

 だが、「ガラスの窓」という変化球の効果も、そろそろ、尽きてきたようだ。ここまできたら、別の種類の直球、すなわち、別の種類の「ガラスの棒」を、投げるしかない。以下、「ガラスの棒」を用いた3点のフォト・デッサンを見てみよう。

p133下
fig.11:《作品(13)》 制作年不詳 埼玉県立近代美術館蔵

p133 - コピー
fig.12:《題名不詳》 制作年不詳 東京都写真美術館蔵

p135
fig.13:《踊る人》 1953年頃 MEM INC.蔵

 ここで、4種類の直球、すなわち、4種類の「ガラスの棒」を見比べることによって、《(夜の散歩)》の特徴を明らかにすることができるだろう。この4点の中で、制作方法が最も単純な作品は、fig.11 の《作品(13)》である。前回、第5回において、クリシェ=ヴェールという技法を参照しながら、瑛九のフォト・デッサンの技法は、「引き算」によって、その原理が明快になるのではないかと記述したことが、ここでも妥当するだろう。
 つまり、《(夜の散歩)》から、ガラス棒以外の要素をすべてはぎとってしまえば、《作品(13)》に近い画像が出現するはずである。もちろん、ガラス棒の太さや長さや並べ方などによって、具体的に出現する個々のイメージは、それぞれに異なるだろう。だが、同様の原理で制作された作品は、一定の振れ幅に包含されるはずである。つまり、振れ幅のある同一性が認められるのであり、その振れ幅のある同一性は、制作を支える原理が同一であることに由来するのである。

 次に、fig.12 の《題名不詳》についてであるが、この作品は、その制作技法において、《作品(13)》と《(夜の散歩)》の中間に位置している。ガラス棒の本数は《作品(13)》よりも少ないが、それぞれの角度が異なっており、そこに、構図への意識を読み取ることができる。角度を変化させることから読み取れる構図への意識は、《(夜の散歩)》におけるガラス棒の傾けられた配列とも共通しているだろう。
 さらに、《作品(13)》は、ガラス棒のみが材料であるが、《題名不詳》では、白い紐状の形を画面に出現させている何らかのモノが組み合わされている。その紐状の形は、印画紙上で白く出現しているため、光を通さない不透明な材質である。輪郭が毛羽立っていないことから、紐やロープなどではなく、ゴムやビニールなど円滑な表面を持つものと推測される。さらに注目すべきは、その白い形とガラス棒が交差する12の地点である。この12の地点のすべてにおいて、白い形の輪郭は、同じではない。そのことは、印画紙の上でのガラス棒と白い形をもたらすモノの位置関係が、12の地点のすべてにおいて同じとはいえないことを示している。
 印画紙の上に密着している物体は、その輪郭をくっきりと結ぶ。印画紙から離れた位置にある物体は、その輪郭が、程度の差はあれ、おぼろげになる。例えば、一番左のガラス棒の中央近く、左に向いたU字のような白い形は、ガラス棒と交差する地点において、その輪郭が曖昧になっている。つまり、この地点においては、ガラス棒が印画紙に密着しており、白い形のもとになったモノは、ガラス棒の上に置かれていたと推測できる。もちろん、作品から技法を解析する試みは推測の域を出ない。作品を見ることがもたらす想像力の飛躍、知覚と認識に根ざした跳躍、それこそが、作品と向き合う醍醐味なのである。

 一方、fig.13 の《踊る人》は、ガラス棒と型紙の関係が、《(夜の散歩)》と逆転している作例とみなせる。つまり、《(夜の散歩)》はガラス棒が画面の基調をなし、そこに溶け込むように型紙がもたらす白い形態が見えているのであるが、《踊る人》は型紙が画面の基調をなし、そこにレースやガラス棒などがもたらす効果が見られるのである。ここで、注意しなければならないのは、同じ型紙といっても、《(夜の散歩)》と《踊る人》では、タイプが異なることである。
 《(夜の散歩)》において、型紙に由来すると推測される白い形は、光を透過していない。つまり、その白い形と同じ形の型紙が用いられているはずである。従って、《(夜の散歩)》の型紙は、隙間なく並べられたガラス棒の下に置かれ、印画紙に密着していたはずである。しかし、《踊る人》では、黒味の画面に人の形が明るく抜けており、その人の形の内側を中心に、レースやガラス棒の効果が見えている。つまり、《踊る人》で使われた型紙は、大きな矩形の紙を用いて、画面に見えている人の形をくり抜いて作られた型紙であることがわかる。そして、そのくり抜かれた人の形の内側では、レースやガラス棒などが鮮明な像を結ぶことになるのである。
 原理的に考えて、極めて単純なことであるが、一枚の四角い紙から何かの形を切り抜けば、その切り抜いた形そのものと、その形が切り抜かれた四角い紙の、ふたつの紙が同時にできる。瑛九は、最初から意図的であったかどうかは別として、こうしてできる両方の型紙をうまく使っている。これこそ、瑛九の真骨頂である、「やってみてわかること」の、極めてシンプルな、具体的な、実践例である。話を《踊る人》に戻すと、ともにガラス棒と型紙を用いた作品でありながら、《踊る人》と《(夜の散歩)》では、ガラス棒と型紙の関係が相補的になっているのである。

 ちなみに、宮崎県立美術館には、瑛九が使っていたガラス棒が収蔵されている。「生誕100年記念 瑛九展」の際には、《作品(13)》、《題名不詳》、《踊る人》、3点とも出品されており、参考資料としてガラス棒も展示されている。この時の記憶をたどると、一口にガラス棒といっても、その長さや太さに、思った以上のバリエーションがあるものだなと感じたことを思い出す。考えてみれば、ここで見てきた4点だけでも、印画紙上に出現しているガラス棒の形状は、確かに様々である。

fig.14_ガラス棒_宮崎県美_展示_2011
fig.14:ガラス棒 宮崎県立美術館蔵

 最後に《(夜の散歩)》に戻ろう。ここで見てきたガラス棒を用いた4点の中で、比較的シンプルに見える《題名不詳》でさえも、注意深く見れば、奥深さを湛えており、その技法の解析も容易ではない。複雑な構成と微妙な階調を湛えた《(夜の散歩)》や《踊る人》の技法の解析が、容易ならざることは、ご理解いただけるだろう。しかし、ここでの記述の目的は、技法の解析ではない。ディスクリプションの限界から、同種の別作品を例に、技法への注目を促したのは、《(夜の散歩)》の奥深さを照らし出すためである。
 あくまでも、個人的な印象であるが、《作品(13)》と《題名不詳》は、一般的なフォトグラムの範疇で語ることも可能な作品であり、瑛九においては、習作的な位置付けの作品とみなせるように思う。それに対して、《踊る人》と《(夜の散歩)》は、ガラス棒や型紙などの材料に依存することなく、複雑な構成と豊かな階調を湛えた、これぞフォト・デッサンというべき素晴らしいクオリティである。湯浅コレクションが、いかに高い質の作品を含んでいるか、その事実を、《(夜の散歩)》は、私たちに、確かに、伝えてくれる。この作品一点だけでも、私を覚醒させるには、十分だったことだろう。

I’m so tired, I’m so tired.

 2023年が終わろうとしている。ニュー・オーダーのファースト・アルバム『Movement』が鳴り続けている。時折、耳に飛び込んでくる、I’m so tired, I’m so tired.、「The Him」のエンディングの歌詞。なぜ、この歌詞だけ耳に飛び込んでくるのだろう、いや、違う、そうか、regret の時もそうだったのか。偶然、regret が耳に飛び込んできたのではなかったのだ。多種多様な歌詞の中で、あるフレーズや、ある単語が、私の耳をとらえる。そこには、その時の私の心情や状況が、ストレートに反映してしまっている。つまり、私の心情や状況に呼応するフレーズや単語を、私の耳が聴き取ってしまうのだった。
 2023年が終わろうとしている、ニュー・オーダーとともに。そして、私は、確かに、とても疲れている。それでも、最後まで聴き通せば、希望はある。B面が終わったら、レコード盤をひっくり返し、また、『Movement』のA面に、針を入れる。そうすれば、そう、流れてくるのは、響いてくるのは、聴こえてくるのは、Dreams Never End、なのだから。

図版出典
fig.1, fig.3~fig.9:筆者撮影(2023年11月25日)
fig.2:『版画芸術』112号、2001年、74頁
fig.11~fig.13:『生誕100年記念 瑛九展』宮崎県立美術館ほか、2011年

(うめづ げん)

梅津 元(うめづ げん)
1966年神奈川県生まれ。1991年多摩美術大学大学院美術研究科修了。専門は芸術学。美術、写真、映像、音楽に関わる批評やキュレーションを中心に領域横断的な活動を展開。主なキュレーション:「DE/construct: Updating Modernism」NADiff modern & SuperDeluxe(2014)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17)など。1991年から2021年まで埼玉県立近代美術館学芸員 。同館における主な企画(共同企画を含む):「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000)、「アーティスト・プロジェクト:関根伸夫《位相-大地》が生まれるまで」(2005)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(2018)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。

・梅津元のエッセイ「瑛九-フォト・デッサンの射程」。次回更新は2024年3月24日を予定しています。どうぞお楽しみに。

●本日のお勧め作品は、瑛九です。
f2da44a3《題不詳》
フォト・デッサン
27.4×21.8cm
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