梅津元「瑛九-フォト・デッサンの射程」

第8回「Ceremony-第33回瑛九展・湯浅コレクション(その4)」

梅津 元


 Ceremony、ついに、この曲がやってきた。自分で選んでいるのに「やってきた」とはどういうことかと思われてしまうかもしれないが、この連載で取り上げているニュー・オーダーの曲は、いつも、どういうわけか、曲の方が私のもとにやってくる、という感じなのだ。だから、いよいよ、ニュー・オーダーのデビュー曲であるCeremony がやってきたのかと、気持ちが高まる。
 「ミーニョとヒーチョの家」は解体されてしまった、都夫人が亡くなってしまった、この連載で綴ってきた、そうした出来事は、それぞれに、重い意味を持つ区切りであり、そこに儀式的な意味合いはあるだろう。「ミーニョとヒーチョの家」で執り行われた瑛九の葬儀についても触れている、それらの出来事はCeremony でもあるだろう。
 だが、この曲には、特別な意味がある。いつの頃からか、レクチャーやトークなど、人の集まるところで話をする時、Ceremony を聴くようになった、それこそ、儀式のように。気持ちを落ち着けると同時に、思考にエンジンをかけることができるからである。そう、この連載の第2回第4回で掲載した「第23回 瑛九展」のギャラリー・トークの前にも、Ceremony を聴いていたのだった。

微細な色の粒子、その定位

 日付はわからない、いまのところ。都さんが、「寄贈します」と、瑛九のフォト・デッサンを持参してくださった日のことである。この連載が開始されてから、色々な出来事の記憶を辿り、記録が残されている場合はそれを参照している。当初、都さんが、寄贈しますと作品を持参してくださったのは、埼玉県立近代美術館において開催された「光の化石」の会期中だったのではないかと思っていた(1997年6月14日~7月27日)。だが、記録を調べてみると、前回(第7回)で記したとおり、「光の化石」の閉幕前日に、入院中の都さんを訪ねているため、それは、私の思い違いであることが判明した。
 だが、1997年度の寄贈作品として受け入れが完了していることから、都さんがいらしてくださったのは、1997年の8月以降、1998年2月までの間であることは、ほぼ間違いない。その作品は、セピア調のフォト・デッサンに、吹き付けによって着彩されたもので、繊細でデリケートで、この上なく、美しいものだった。印画紙の上から着彩が施されたフォト・デッサンは、それなりの数が制作されているが、この時の都さんが持参してくださった作品は、中でも、質の高い作品であった。都さんは、この時、この作品が気に入っていて、長年、手元で大事に保管してきたのだと、お話してくださった。

 だから、この作品に対しては、個人的に思い入れがあり、時間をかけてよく眺めたものである。微細な色の粒子は、印画紙の上から吹き付けられているにもかかわらず、印画紙の奥に沈殿しているように見える時がある。まるで、印画紙の奥底に「埋め込まれて」しまったような、微細な色の粒子。そんな風に見えるときは、斜めから見たり、作品と目の距離を変えたり、色々な見方を試すことになる。
 だが、その不思議な感じを確かめようと、別な時に見てみると、微細な色の粒子は、明らかに印画紙の上から吹き付けられているように見え、それ以外の感覚が全く生じない時もある。しかも、微細な色の粒子が、印画紙の奥に沈殿しているような見え方を経験しているので、色の粒子が表面に付着しているとは感じられず、印画紙の奥に沈殿していた微細な色の粒子が、特殊な方法によって「掘り起こされた」ように感じる。
 展示の条件や照明など鑑賞条件が異なると作品の印象は変わることがあり、見え方に変化があることは、一般論として、あり得ることである。だが、この作品について、個人的な見解を示すならば、「微細な色の粒子の見え方が一定ではない」ことは、経験的に確かなことである。時には印画紙の奥底に「埋め込まれ」、時には印画紙の奥底から「掘り出される」、その微細な色の粒子は、果たして、どこに定位しているのだろう。

重層するフレーム

 前回、第7回は、植物の葉をモチーフとしたフォト・デッサンについて書いてみたが、書ききれていないこともある。まず、次の作品をご覧いただきたい。

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fig.1:《アパートの窓》 制作年不詳

 型紙による構図が画面全体の基調をなしており、明るく抜けているエリアでは、植物の葉のイメージが確認できる。その点では、前回紹介した《題不詳》や《作品(23)》と、同じ特徴が指摘できる。だが、さらによくこの作品を見てみると、気になってくることがある。画面の左側に注目すると、型紙によって明るく抜けているエリアにおいて、植物の葉のイメージの背後に、おぼろげながら、何らかのイメージが見えている。
 この連載で繰り返し述べているように、出来上がっている画像から制作の工程や技法を辿ることは極めて難しい。そのため、このおぼろげなイメージが、どのような技法を用いて、どのような工程によって表出しているのかを探ることは難しい。だが、それでも、推測の域を出ないながらも、考えてみたいことがある。それは、このおぼろげなイメージが、印画紙の上でのみ形成された可能性よりも、カメラを用いて現実の対象を撮影することによって得られた像である可能性の方が高いのではないか、ということである。

 そのように感じるのは、最初は、画面の左側に意識が向くからである。明暗の階調があり、画像として見れば構図があり、被写体に由来すると思われる構造物らしき何かが、おぼろげながら見え隠れしている。そのことから、この画像が、撮影によって得られたものなのではないかという推測を生む。そして、そのような見え方に馴染んでくると、画面の左側だけではなく、画面の中央や右側も、同様な感覚においてとらえることができてくる。最初に左側がその意識をもたらすのは、画面の左側は明るく抜けたエリアが相対的に広く、画面の右側は、逆に、黒味のエリアの方が相対的に広いからである。
 要するに、型紙のレイヤーと、植物の葉のレイヤーの背後に、カメラによって撮影されたとみなすことができるおぼろげなイメージが見え隠れしている、ということである。この記述は、しかし、感覚的なものであり、カメラによって撮影されたとみなすことができるおぼろげなイメージが、「背後」に見え隠れしている、という表現には、本来的には妥当性がない。なぜなら、「背後」と感じてしまうのは、「おぼろげなイメージ」と記述したように、像にフォーカスがあっていないように見えるからである。

 フォトグラムにおいては、印画紙の上に配置される物体が、印画紙に密着していれば、クリアで明快な輪郭が生じる。逆に、印画紙から離れた物体は、印画紙の上に、輪郭がぼやけた像として定着される。その感覚が無意識に働くからこそ、上述した「おぼろげなイメージ」は、型紙のレイヤーと植物の葉のレイヤーの「背後」に存在しているように、見えてしまうのである。だが、その「おぼろげなイメージ」が、そもそも、フォトグラムの原理によってではなく、カメラを用いた撮影が介在する、別な原理やシステムによって形成されていたとすれば、この画像は、どのように見ればよいのだろうか。
 この論点は、実は、『眠りの理由』にすでに見いだせる。この連載では、議論の輪郭をわかりやすくするために、まず、瑛九のフォト・デッサンを大きく3種類に大別した。その上で、『眠りの理由』は、「型紙を用いた瑛九流のフォトグラムと見なすことが可能である」という見解を示してきた。その見解は、『眠りの理由』に含まれる10点の作品の総体をひとつの「類型」として把握しようとするならば、概ね妥当である。だが、作品に即して具体的な検証をすると、「型紙を用いた瑛九流のフォトグラム」と見なすことができない作例が、『眠りの理由』にも含まれていることがわかる。

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fig.2:《フォト・デッサン(『眠りの理由』より)》 1936年

 この作品では、左側が下がるように傾いた矩形のイメージが、画面の中央に大きく見えている。左側を下にして見ると、家族写真のようなイメージであることがわかる。そのイメージは、階調が浅くはなっているが、ポジ像であるから、ネガ像が印画紙の上に配置され、光によってポジ像として印画紙に定着されたと推測することができる。このイメージでは、《アパートの窓》よりもはっきりと、カメラによって撮影された画像が用いられていることがわかる。撮影された画像と、型紙、そして印画紙の上に持ち込まれる何らかの物体、それらが複合的に関係する中で、この画像が成立している。

 ここで、上述の撮影された写真が、家族写真のようなイメージであることに注目すると、瑛九の初期のフォト・デッサンが想起される。続いて、その作品を見てみよう。

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fig.3:《多摩園》 制作年不詳 宮崎県立美術館蔵

 この作品は、本連載の第1回で紹介をした『みづゑ』1936年3月号に掲載された「瑛九氏のフォト・デッサン」に4点が掲載されたタイプ、すなわち、カメラによって撮影されたガラス乾板への加工によるイメージ形成を特徴とするタイプである。全面を覆う赤い色彩は、印画紙の上からの着彩によるものではなく、調色によるものと推測できる。瑛九のフォト・デッサン全体を見ても、珍しい方法である。印画紙の上に色の粒子が付着しているわけではなく、印画紙の化学的な変化のうちに、色彩が出現している。

 さて、この作品を紹介するのは、前述した『眠りの理由』に収録されている作品(fig.2)と、比較するためである。どちらも、複数の人物が見えており、家族写真のようなイメージといえる。だから、このふたつのイメージは、同じような時期に撮影されたものである可能性が高い。fig.2 は、カメラによって撮影されたと推測される矩形のイメージが、印画紙の矩形の内側に、導入されている。それに対して、《多摩園》(fig.3)は、画面をなす矩形は、カメラによって撮影されたイメージそのものの輪郭である。
 であるならば、fig.2 の印画紙の矩形の内側に見えるイメージは、《多摩園》のように、それ自体がひとつのイメージとして扱われてもおかしくない。逆に、《多摩園》のイメージは、fig.2 の内側に導入されている矩形のイメージのように扱われる可能性がある。このように考えると、『眠りの理由』に含まれるfig.2 には、すでに、瑛九のフォト・デッサンの重要な特徴である、フレームが重なるような構造、画像の中に画像が導入されているような重層的な構造が、見いだせるのである。

埋め込み-「型紙」と「光による描画」

 《多摩園》は、「撮影されたガラス乾板への加工」と「焼き付けされた印画紙の上からの描画」の、両方が確認できる。4人の人物が確認できるが、4人とも、顔が明確に見えなくなるような加工が施されていることに注目したい。なぜなら、顔は、その人物を特定する上で、最も重要であり、また、その人物の内面や感情が、表情として表出する機能を備えているからである。したがって、顔を把握しにくくする加工には、その人物のアイデンティティーや個性を軽減し、「人格」から「人体」へと誘導する効果があるといえる。
 このことから、瑛九のフォト・デッサンやコラージュにおいて重要な、あることが、想起されはしないだろうか。瑛九のコラージュには、顔が不在である作品が存在する(fig.4、fig.5)。複数のイメージを切り貼りする技法からすれば当然であるが、そうした作品では、人体は操作可能な「かたち」として扱われる。また、フォト・デッサンにおいては、型紙が想起されるだろう。型紙における「人」の表現は、まさに「人型」であり、体の輪郭が平面的に切り取られ、切り抜かれる。そこに、個人を象徴する「顔」は不在である。

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左:fig.4:《作品(Ⅲ)》1939年 右:fig.5:《作品(Ⅳ)》1937年 いずれも埼玉県立近代美術館蔵

 もちろん、型紙においても、目、鼻、口など、顔を構成する要素が表現されている場合は多々見受けられる。しかし、それは、カメラによって撮影された人物の顔や、写実的に描かれた絵画的手法による顔の表現とは、全く異なっている。型紙に見られる、目、鼻、口などの顔のパーツは、ここに目がある、ここに鼻がある、ここに口がある、そのことを示す記号のような働きをするにすぎない。そこに個性はなく、人格はなく、アイデンティティーは見出せない。
 瑛九のフォト・デッサンの特徴のひとつである「型紙」は、何に由来するのか。それを、杉田秀夫の伝記的な情報に求めることはもちろん有効な方法である。だが、ここでは、表現が成立する過程を原理的に考察することから、型紙の由来を考えてみたい。すでに述べてきたように、人の形の型紙は、人物を撮影したガラス乾板への加工によって「人格」から「人体」への変容を導こうとする欲求や衝動に、その根拠を持つのではないだろうか。

 《多摩園》のもうひとつの特徴である、「焼き付けされた印画紙の上からの描画」もまた、型紙と同様に、表現が成立する過程を原理的に考察することによって、有効な論点が導かれる。具体的なイメージとは別なレイヤーとしてとらえることができる、印画紙の上からの描画、主として黒い描線は、瑛九のフォト・デッサンに特徴的な、フリーハンドで自由に画面上を行き交う線的な要素を、想起させはしないだろうか。そう、懐中電灯による描画のような線である。
 そうであるならば、瑛九において、「撮影されたガラス乾板への加工」と「焼き付けされた印画紙の上からの描画」は、どちらも、フォト・デッサンという技法への「埋め込み」によって内面化されていることがわかる。そして、「埋め込み」によって内面化された技法は、さらに多様な技法の開拓を導き、「明確な原理に根ざした作画システム」の構築へと深められていることがわかる。さしあたり、ここでは「埋め込み」という言葉で記述をしてみたが、この局面は、瑛九のフォト・デッサンの全体を考察する上で、極めて重要な論点を示しているに違いない。

Morning(朝の想い)

 ここで、ようやく、今回取り上げる作品へと到達することができる。今回取り上げる、「第33回瑛九展・湯浅コレクション」に出品されたフォト・デッサンは、《Morning(朝の想い)》と題された作品である。

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fig.6:《Morning(朝の想い)》 制作年不詳

 まるで「夢」のようである。
 まるで「無意識」のようである。

 一般的に、「夢」や「無意識」は対象化すること自体が難しく、それらを表象する試みの多くは、主観的な表現に偏るか、文学的な情緒に逃げ込むか、概念的な操作に終始するか、あるいはそうした表現を組み合わせたような傾向に留まりがちである。だが、この《Morning(朝の想い)》には、そうした傾向は感じられない。人の体を示す型紙には、そこはかとなく艶かしさが漂い、レースの効果は美しく、幻惑的な感覚に満ちている。だが、主観的な表現とは感じられず、文学的な情緒に逃げ込んでいるようにも感じられない。単純化された形態の型紙は、確かに記号的な傾向を示してはいるが、だからといって、概念的な操作に終始している作品では、決してない。
 一見すると、ロマンティックな雰囲気のイメージに見えるのは確かであり、瑛九が古賀春江や三岸好太郎を好んでいたことが想起されるかもしれないが、情緒的な雰囲気に回収されてしまうことはない。何かが意識ののぼり、前景化する、しかし、それは定着することなく、明滅する光のうちに、流れてゆく、そうして、また、別の何かが意識にのぼり、同じ経過が繰り返される。すべてが流動する、非実体的な感覚世界のうちに、表象が困難な「夢」や「無意識」が、オートマティックに表出している。

 感覚的な記述を試みたが、そうした感覚は、人の形の型紙に由来するイメージを浮遊させている、画面の右側から放射状に散りばめられているように見える多数の黒い班点と、おぼろげに見えている細長い棒状の矩形のイメージがもたらしている。画面の全体に、イメージがブレたような感覚が漂い、空間は浅いようで深くも見える。人の形を縁取るような太い黒は、全体に浮遊するようなこの画面に強さを与え、甘く淡いイメージへと溶け出しかねないこの作品を、見る側の視覚と知覚に強く刻印する。しかし、その黒の強さは、絵画におけるクロワゾニズムとは、全く対極的である。クロワゾニズムの絵画おいて、形態の輪郭を強調する強い黒い線は、例外はもちろんあるにせよ、主として、色彩との関係において、その機能を発揮している。
 ところが、《Morning(朝の想い)》における型紙の輪郭をなぞるような黒は、光のグラデーションとして出現し、型紙に由来する人の形を、くっきりと浮かび上がらせると同時に、画面に溶け込ませているのである。さらにいえば、その強い黒は、型紙としての統一的な形、つまり人の形を強調するのではなく、その反対に、型紙によって生まれる明るいエリアを、人の形への統合から解き放ち、抽象的な「光の溜まり」の生成へと導いているようにさえ、見えてくる。
 ここで、ひとまずの対比のために、クロワゾニズムの絵画を挙げてみたが、より原理的な考察のためには、瑛九自身による絵画を参照すべきだろう。《Morning(朝の想い)》は、画面全体が「響いている」作品である。その響くような流動的な感覚は、瑛九の点描の絵画に見られる流動的なタイプの作品と響き合っているように感じられる。例えば、以下の2点は、《Morning(朝の想い)》から型紙の要素を取り除いた時に出現する、流動的な感覚と共鳴しているように感じられないだろうか。

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fig.7:《題不明》 1958年 宮崎県立美術館蔵

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fig.8:《嵐》 1958年 宮崎県立美術館蔵

「埋め込み」と「掘り起こし」 

 《Morning(朝の想い)》は制作年不明であるが、1958年以前の制作であることは、ほぼ間違いない。であるならば、時系列からいえば、瑛九において、フォト・デッサンの《Morning(朝の想い)》のような表現が、油彩画である上記の2点に、何がしかの影響を与えたと推測することも可能である。しかし、ここでは、時系列を追うことや伝記的な情報に裏付けを求めるのではなく、あくまでも、表現が成立する原理について考察したい。
 この第8回では、瑛九のフォト・デッサンについて、これまで思いつかなかった論点をつかまえられそうな予感に襲われた。それは、連載が続くことにより、思考が深まり、いままで考えたことのない領域へと分け入ることができるようになってきたからではないかと思われる。その領域における思考からもたらされたのが、「埋め込み」と「掘り起こし」である。その予感に従い、重要な論点を示してみたい。

 瑛九は、カメラによって撮影された人物のイメージを、ガラス乾板上で加工することが多い。この手法は、カメラによる撮影を経由しないフォト・デッサンにおいては、型紙を使う制作技法への「埋め込み」へと内面化されたのではないだろうか。また、瑛九は、ガラス乾板への加工を施したイメージを印画紙に焼き付けた作品では、印画紙の上からペンなどで描画することが多い。この手法は、懐中電灯やペンライトなどを用いる、光による描画技法への「埋め込み」へと内面化されたのではなだろうか。
 このように、印画紙の能力を最大限に活用する技法としてのフォト・デッサンにおいては、写真にまつわる様々な工程に介入することを試みた多様な技法が「埋め込み」によって内面化され、印画紙上での表現へと一元化されているように思われる。そして、1958年制作の油彩画2点を紹介した局面において示したように、印画紙上での表現へと一元化されたフォト・デッサンから、瑛九は、絵画制作に寄与する何かの「掘り起こし」を、試みたのではないだろうか。

 いつか、それが熟成され、発酵され、「掘り起こし」が可能になることを全く知らずに、瑛九は、印画紙上での試行錯誤を、「埋め込み」によって内面化しているようにみえる。そして、「埋め込み」によって内面化された技法は、驚くほどの広がりと深さをみせ、瑛九独自の多種多様な技法の開花をもたらした。そして、瑛九は、印画紙に備わる能力を最大限にひきだす制作を徹底したことにより、フォト・デッサンへの「埋め込み」がいつのまにか形作っていた豊かな鉱脈から、絵画制作を展開させる原動力となる何かの「掘り起こし」が可能であると、自覚したのではなかったか。

 そのような思考を導いてくれたのは、《Morning(朝の想い)》に漂う、「夢」のような、「無意識」のような、流動的な光の響きである。明と暗の無限の階調を示す光の響きに「埋め込み」された何かが、流動し明滅する新たな光の「掘り起こし」を可能にし、その新たな光は、いつか、多声的な響きをもたらす色彩として出現することが予感される。《Morning(朝の想い)》の流動的な光の響きは、瑛九の絵画と、確かに共鳴している。

Ceremony by Joy Division [Still]

 この回を締めくくるために、再び、Ceremony がやってきた。やはり、Ceremony は特別な曲であり、この曲に釣り合うような締めくくりの曲は、やってこなかった。冒頭で、Ceremony はニュー・オーダーのデビュー曲であると書いた、それは間違いではないが、正確ではない。Ceremony は、そもそも、ジョイ・ディヴィジョンがレコーディングした最後の曲である。だが、イアン・カーティスの死により、残されたメンバーによってレコーディングされ、ニュー・オーダーのデビュー曲として1981年2月にリリースされた。
 ジョイ・ディヴィジョンによるCeremony は、1981年10月にリリースされた、2枚組のコンピレーション・アルバム『Still』に収録されたライブ音源によって、聴くことができる。イアン・カーティスのヴォーカルは不安定でくぐもっており、イアンのその後を知る人間には、あまりに悲痛に響く。闇の中でもがくイアンの姿を想像すると、闇の中で光と格闘する瑛九の姿が思い浮かぶ。
 それはちがう、そんな声が、あちこちから聞こえてくるようだ、それはそうだろう、確かに違う。けれども、わかっていてもなお、《Morning(朝の想い)》の、その流動的な光の響きがCeremony を連れてきたのだから、そんな、「夢」のような、「無意識」のような、明滅する光の中でまどろむ時間に、少しの間、耽溺することを、どうか、許してほしい。

図版出典
fig.1, 6:「第33回瑛九展・湯浅コレクション」より
fig.2, 3, 7, 8:『生誕100年記念 瑛九展』宮崎県立美術館ほか、2011年
fig.4, 5:『光の化石-瑛九とフォトグラムの世界』埼玉県立近代美術館、1997年

(うめづ げん)

■梅津 元
1966年神奈川県生まれ。1991年多摩美術大学大学院美術研究科修了。専門は芸術学。美術、写真、映像、音楽に関わる批評やキュレーションを中心に領域横断的な活動を展開。主なキュレーション:「DE/construct: Updating Modernism」NADiff modern & SuperDeluxe(2014)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17)など。1991年から2021年まで埼玉県立近代美術館学芸員 。同館における主な企画(共同企画を含む):「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000)、「アーティスト・プロジェクト:関根伸夫《位相-大地》が生まれるまで」(2005)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(2018)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。

・梅津元のエッセイ「瑛九-フォト・デッサンの射程」。次回更新は2024年5月24日を予定しています。どうぞお楽しみに。

●本日のお勧め作品は、瑛九です。
qei_159《子供》
フォト・デッサン
25.2×18.9cm
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