太田岳人のエッセイ「よりみち未来派」第26回
『未来派・飛行機・ダンス』発刊に寄せて――横田さやかさんインタビュー(1)
太田岳人
前回記事の最後の「予告」でも言及した通り、未来派についての新しい研究書が4月に公刊された。横田さやか氏の『未来派・飛行機・ダンス イタリアの前衛芸術における飛ぶ身体と踊る身体』(三元社)【図1】がそれである。横田さんの略歴については出版情報と併せて以下の本文を見ていただきたいが、私と彼女は研究会でたびたび顔を合わせる間柄で、常々その論考も参照させていただいている。本著は、これまでの日本ではほとんど着目されてこなかった、ダンスというジャンルを切り口にした未来派の研究書で、彼女が東京外国語大学とイタリアのボローニャ大学の双方から博士号を取得した博士論文をもとにしたものであり、その出版は大変貴重なものである。自分も、そうしたものを完成させなければならないという責任の重大さを改めて感じずにはいられない。

図1:横田さやか『未来派・飛行機・ダンス イタリアの前衛芸術における飛ぶ身体と踊る身体』(三元社、2024年)表紙 ※ 筆者蔵。
今回(および次回)の記事は、この『未来派・飛行機・ダンス』の公刊を記念した横田さんへのインタビューとなる。本連載では以前、未来派の若き翻訳者である新福麗音さんへのインタビューも行っているが、今回のそれも同じように、こちらが用意した質問項目に一つずつお答えいただくという形式により、5月中旬にZoomを通じて行われた。内容には、直接は著作に関係しない「よりみち」も含みつつ、まだ本をお持ちではない方にも興味深い内容であるので、広くお読みいただければ幸いである。2時間あまりに及んだ話の内容のまとめ、およびこちらで付した参考図版についての責任は、すべて筆者に属する。
―――――
――まず、あなたが未来派と出会ったきっかけについてお聞かせください。
――大きく言うと二つありまして、一つは卒業論文のテーマに、ニューヨーク・シティ・バレエ団の振付師、ジョージ・バランシンを扱ったことです。バランシンの振り付けの概念を研究するにつれ、音楽と美術をも巻き込んだ舞踊の革新がどうして起きたのかルーツを理解したくなり、時代をさかのぼって調べていったのがきっかけとなりました。もう一つのきっかけは、それと並行して研究計画を立てる時、前衛の時代を調べたらどうかと先生方にご助言をいただいたことです。卒論の研究に使用した言語は英語で、イタリアの地域研究と直接的な関係はなかったのですが、第二外国語としてイタリア語を勉強していたこともあり、舞踊とともにイタリアも研究したいと考え、東京外国語大学大学院修士課程から、未来派のダンスという研究テーマで調査を始めました。
修士論文で未来派ダンスをテーマに、できる範囲の研究を進めた結果「なにかしらあった」ことは分かったのですけど、その詳細については日本ではなにも明らかにされていないことも分かりました(笑)。それで、一次資料調査ができる環境に身を置かなくてはならないと考え、博士課程在籍中にイタリアに留学しました。最初はミラノ大学に一年間通った後、ボローニャ大学の大学院に入りました。ボローニャ大学は、東京外国語大学と共同指導・共同学位授与制度の協定が結ばれただけでなく、イタリアの中でも舞踊研究が初めて確立された学術機関です。そこで舞踊学を専門とする先生に指導教員になっていただき、博士課程研究が成就しました。
ちなみに、舞踊学という分野はイタリアにおいても伝統のある学術領域ではありません。長きにわたり舞踊に言及するのは主に音楽学の領域の批評家で、オペラなどの付属物くらいにしか扱われないこともありました。アメリカのダンス・スタディーズの発展を受けて、学術領域として独立したのは1980年代以降です。現在のボローニャ大学では日本の舞踊の研究もおこなわれていて、大野一雄のアーカイヴが設立されています。
――未来派はあらゆる芸術のジャンルを包含しようとしたグループと言えるでしょうが、その中でもダンスにあなたが注目したのはなぜでしょうか。
未来派について調べ始めた初期の段階で、この前衛芸術運動には、理論においても実践においてもダイナミズムが通奏低音のように流れていること、創作された作品も創作をする人間も激しい動きの中にあることが、抽象的に理解できました。そうだとするならば、身体芸術こそこの運動の神髄と言えるのではないかと思い、研究の主眼を置くことにしました。一方で、先ほども言及しましたが、舞踊に関しては先行研究が極めて少なかったんですね。日本にはまったくありませんでしたし、イタリアで調査を初めても少ない。アーカイヴ化されている資料もありましたが、整理が進んでおらず、考察もなお不十分であることが明らかになりました。おかげでますます知りたくなり、自分で調べないことには答えが見つからなかったのです。もはや逃れられなくなり、宿命のような感じでした(笑)。
未来派と舞踊の関係についての関心は、舞踊学がイタリアで確立する1980年代から始まっています。例えば1986年にヴェネツィアで開催された「Futurismo e Futurismi」〔未来派と未来派たち〕展は、未来派再考察の集大成として企画されたものの、未来派の時代区分のあいまいさなどのあらが指摘されたのですが、そうした指摘の一つは舞踊研究からのものでした――マリネッティが舞踊言語についても重要な示唆をもたらしたにもかかわらず、展示はそれを等閑視している、と。そうした指摘をした研究者のひとり、パトリツィア・ヴェロリ(Patrizia Veroli)は、自分の足で一次資料となる新聞・雑誌等を漁って、未来派の舞踊が実際にどのようなものだったかを再構築しました。またエリーザ・ヴァッカリーノ(Elisa Vaccarino)という舞踊研究者は、女性舞踊家ジャンニーナ・チェンシ(Giannina Censi/1913-1995)【図2】が持っていた書簡やチラシなどの史料を、MART(トレント・ロヴェレート近現代美術館)のアーカイヴに入れる作業を進めました。こうした研究者たちが舞踊の専門知識をもとにした調査を行ったことにより、1990年代に一つの成果がもたらされています。

図2:サンタクローチェ・スタジオ撮影《航空ダンスAerodanzaのポーズをとるジャンニーナ・チェンシ》、1931年(17.5×12.5cm、トレント・ロヴェレート近現代美術館、ロヴェレート)
※ Giovanni Lista, Cinema e fotografia futurista, Milano: Skira, 2001より。
――『未来派・飛行機・ダンス』では、マリネッティの文章や造形作家の芸術作品、あるいは彼らが参加したパフォーマンスの多くが取り上げられています。横田さんの目から見て、彼らのパフォーマンス(性)は、同時代の他のアヴァンギャルド運動とどのような共通点、あるいは相違点があるでしょうか。
イタリアの未来派は、同時代のアヴァンギャルドのキュビスム、表現主義、ダダ、バウハウス、シュルレアリスムなどと、芸術表現におけるパフォーマンス性という点で普遍性があると見ています。一方で未来派は、芸術だけではなく生活における革新を謳うものだったので、それゆえにあらゆる身近な事柄がパフォーマンスのテーマになったと考えています。そこでは、精神をも巻き込んだ身体性が際立ってきます。この点については、未来派がいろいろな宣言において「機械崇拝」を謳っているため、彼らは人間の身体を排除したものと解釈されがちですが、むしろ機械との融合における、精神や魂と身体の進化を目指したと言えるでしょう。イーヴォ・パンナッジ(Ivo Pannaggi/1901-1981)【図3】とヴィニーチョ・パラディーニ(Vinicio Paladini/1902-1971)の宣言も、他のアヴァンギャルドとの違いとしてこの点を明言しています。

図3:パンナッジ(1901-1981)《機械的バレエ:人物Balletto meccanico: figura》、1924年(フォトモンタージュ、現存しない)
※Giovanni Lista, Dal futurismo all’immaginismo: Vinicio Paladini, Bologna: Il cavaliere azzurro, 1988より。
それぞれの国の文化史への影響という点から見ると、未来派は一都市にとどまることなく、文化の中心がなかったイタリア半島において、全国的な現象になったことも一つの特徴だと思います。それは未来派の宣伝手法のおかげで、広範にメッセージを届けられたからでしょう。この点に関してひとつ補足したいのですけど、同時代のドイツの舞踊家たちなどと異なり、イタリア全土に伝播したとはいえ未来派はマス・ダンスを一切目指していませんでした。マリネッティはあれほど宣伝戦略に長けた人なのだから、未来派のやり方でそれを目指したならば、効果的な成果を上げたかもしれませんが、彼にマス芸術への関心はなかったようです。なので、こうした未来派のパフォーマンスは、ファシズムの全体主義的イベントに転用されてもいません。
――『未来派・飛行機・ダンス』では、1930年代に未来派へ参加したジャンニーナ・チェンシがキーパーソンの一人となっています。未来派は「創立宣言」などの文言から、「女性蔑視」を訴えた芸術運動であると理解されることも多いですが、実際の状況はどうだったとお考えですか。
大前提として、当時の社会構造は男性優位です。真面目な男性がマチズモを常識として成長する時代ですから、未来派が仮に男性中心主義だったとしても、彼ら特有の傾向としては批判できないと思います。反対に未来派は、芸術を実践する場を与えていたという点で、女性に公平でした。確かに宣言文はもっぱら男性たちが書いていましたが、そうした言説と異なる状況や実態があったことについて、一次資料や証言によって明らかにされています。1980年に開催された「L’altra metà dell’avanguardia」〔「アヴァンギャルドのもう半分」〕展では、フェミニズム研究の視点から、1910年代から30年代にかけての女性芸術家がいかに自立して未来派などに参加していたかが提示されました。また、研究者のクラウディア・サラーリス(Claudia Salaris)は、マリネッティの態度を「反フェミニズム」ではなく「反センチメンタリズム」であると定義しています。彼の言葉づかいは意図的に人目を引く「炎上」を引き起こすものであった一方、その攻撃対象はあくまで「女性に帰せられていた要素」であり、「女性そのもの」ではなかったということです。

図4:バルバラ(1915-2001)《祭りの最中の地中海の港 Porto mediterraneo in festa》、1939年(キャンバスに油彩、143×109cm、個人蔵)
※Massimo Duranti (a cura di), Aeropittura e aeroscultura futuriste, Perugia: Fabrizio Fabbri, 2005より。
女性芸術家の活動をめぐり実際にどんなことがあったか、1990年代のバルバラ(Barbara、本名オルガ・ビリェーリOlga Biglieri/1915-2002)【図4】による興味深い回想があります。バルバラは、飛行免許を取りつつ絵画を学んでいました。ある時彼女は、絵の師匠には内緒で飛行機からの眺めを描き、その額装をミラノのブレラ美術学校界隈の額縁屋に頼んだのですが、作品を受け取りに行くと、その額縁屋に「マリネッティさんが、この絵を描いたのは誰だと知りたがっている」と言われます。まだ未来派には属していなかったバルバラが、マリネッティの滞在するホテルを訪ねると、そこでマリネッティは「次の未来派展にあなたも作品を出しなさい」と声をかけ、作品に署名を入れるよう促します。そこで彼は「未来派の女性たちは名字を使わない」、名字は夫のアイデンティティに属するものだから、そうではない「芸術家個人としての名を使いなさい」と勧めたそうです。それから彼女は「未来派の夕べ」にも顔を出し、客席から見ていたのですが、マリネッティたちが「この中に若い女性の未来派画家がいる、さあ出てこい!」と呼びかけ、バルバラを舞台上に引き上げました――この証言は、女性に門戸を開き、人前で芸術家として自己紹介させるという未来派の姿勢がわかる、大変貴重なものだと思います。
(つづく)
(おおた たけと)
・太田岳人のエッセイ「よりみち未来派」は隔月・偶数月の12日に掲載します。次回は2024年8月12日の予定です。
■太田岳人
1979年、愛知県生まれ。2013年、千葉大学大学院社会文化科学研究科修了。日本学術振興会特別研究員を経て、今年度は千葉大学・東京医科歯科大学・東京工業大学ほかで非常勤講師の予定。専門は未来派を中心とするイタリア近現代美術史。
E-mail: punchingcat@hotmail.com
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〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
『未来派・飛行機・ダンス』発刊に寄せて――横田さやかさんインタビュー(1)
太田岳人
前回記事の最後の「予告」でも言及した通り、未来派についての新しい研究書が4月に公刊された。横田さやか氏の『未来派・飛行機・ダンス イタリアの前衛芸術における飛ぶ身体と踊る身体』(三元社)【図1】がそれである。横田さんの略歴については出版情報と併せて以下の本文を見ていただきたいが、私と彼女は研究会でたびたび顔を合わせる間柄で、常々その論考も参照させていただいている。本著は、これまでの日本ではほとんど着目されてこなかった、ダンスというジャンルを切り口にした未来派の研究書で、彼女が東京外国語大学とイタリアのボローニャ大学の双方から博士号を取得した博士論文をもとにしたものであり、その出版は大変貴重なものである。自分も、そうしたものを完成させなければならないという責任の重大さを改めて感じずにはいられない。

図1:横田さやか『未来派・飛行機・ダンス イタリアの前衛芸術における飛ぶ身体と踊る身体』(三元社、2024年)表紙 ※ 筆者蔵。
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図2:サンタクローチェ・スタジオ撮影《航空ダンスAerodanzaのポーズをとるジャンニーナ・チェンシ》、1931年(17.5×12.5cm、トレント・ロヴェレート近現代美術館、ロヴェレート)
※ Giovanni Lista, Cinema e fotografia futurista, Milano: Skira, 2001より。
――『未来派・飛行機・ダンス』では、マリネッティの文章や造形作家の芸術作品、あるいは彼らが参加したパフォーマンスの多くが取り上げられています。横田さんの目から見て、彼らのパフォーマンス(性)は、同時代の他のアヴァンギャルド運動とどのような共通点、あるいは相違点があるでしょうか。
イタリアの未来派は、同時代のアヴァンギャルドのキュビスム、表現主義、ダダ、バウハウス、シュルレアリスムなどと、芸術表現におけるパフォーマンス性という点で普遍性があると見ています。一方で未来派は、芸術だけではなく生活における革新を謳うものだったので、それゆえにあらゆる身近な事柄がパフォーマンスのテーマになったと考えています。そこでは、精神をも巻き込んだ身体性が際立ってきます。この点については、未来派がいろいろな宣言において「機械崇拝」を謳っているため、彼らは人間の身体を排除したものと解釈されがちですが、むしろ機械との融合における、精神や魂と身体の進化を目指したと言えるでしょう。イーヴォ・パンナッジ(Ivo Pannaggi/1901-1981)【図3】とヴィニーチョ・パラディーニ(Vinicio Paladini/1902-1971)の宣言も、他のアヴァンギャルドとの違いとしてこの点を明言しています。

図3:パンナッジ(1901-1981)《機械的バレエ:人物Balletto meccanico: figura》、1924年(フォトモンタージュ、現存しない)
※Giovanni Lista, Dal futurismo all’immaginismo: Vinicio Paladini, Bologna: Il cavaliere azzurro, 1988より。
それぞれの国の文化史への影響という点から見ると、未来派は一都市にとどまることなく、文化の中心がなかったイタリア半島において、全国的な現象になったことも一つの特徴だと思います。それは未来派の宣伝手法のおかげで、広範にメッセージを届けられたからでしょう。この点に関してひとつ補足したいのですけど、同時代のドイツの舞踊家たちなどと異なり、イタリア全土に伝播したとはいえ未来派はマス・ダンスを一切目指していませんでした。マリネッティはあれほど宣伝戦略に長けた人なのだから、未来派のやり方でそれを目指したならば、効果的な成果を上げたかもしれませんが、彼にマス芸術への関心はなかったようです。なので、こうした未来派のパフォーマンスは、ファシズムの全体主義的イベントに転用されてもいません。
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図4:バルバラ(1915-2001)《祭りの最中の地中海の港 Porto mediterraneo in festa》、1939年(キャンバスに油彩、143×109cm、個人蔵)
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女性芸術家の活動をめぐり実際にどんなことがあったか、1990年代のバルバラ(Barbara、本名オルガ・ビリェーリOlga Biglieri/1915-2002)【図4】による興味深い回想があります。バルバラは、飛行免許を取りつつ絵画を学んでいました。ある時彼女は、絵の師匠には内緒で飛行機からの眺めを描き、その額装をミラノのブレラ美術学校界隈の額縁屋に頼んだのですが、作品を受け取りに行くと、その額縁屋に「マリネッティさんが、この絵を描いたのは誰だと知りたがっている」と言われます。まだ未来派には属していなかったバルバラが、マリネッティの滞在するホテルを訪ねると、そこでマリネッティは「次の未来派展にあなたも作品を出しなさい」と声をかけ、作品に署名を入れるよう促します。そこで彼は「未来派の女性たちは名字を使わない」、名字は夫のアイデンティティに属するものだから、そうではない「芸術家個人としての名を使いなさい」と勧めたそうです。それから彼女は「未来派の夕べ」にも顔を出し、客席から見ていたのですが、マリネッティたちが「この中に若い女性の未来派画家がいる、さあ出てこい!」と呼びかけ、バルバラを舞台上に引き上げました――この証言は、女性に門戸を開き、人前で芸術家として自己紹介させるという未来派の姿勢がわかる、大変貴重なものだと思います。
(つづく)
(おおた たけと)
・太田岳人のエッセイ「よりみち未来派」は隔月・偶数月の12日に掲載します。次回は2024年8月12日の予定です。
■太田岳人
1979年、愛知県生まれ。2013年、千葉大学大学院社会文化科学研究科修了。日本学術振興会特別研究員を経て、今年度は千葉大学・東京医科歯科大学・東京工業大学ほかで非常勤講師の予定。専門は未来派を中心とするイタリア近現代美術史。
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●本日のお勧め作品は、一原有徳です。

1977年
銅版
43.8×31.7cm
Ed. 100
サインあり
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◆本日から「靉嘔展」を開催しています

会期:2024年6月12日(水)~6月22日(土)11時~19時 *日・月・祝日休廊


●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。

TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
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