日本を代表する銅版画家といえばパリで孤高の生涯を終えた長谷川潔、戦後日本美術復活のプリンスと謳われた駒井哲郎、そして1966年の第33回ヴェネツィア・ビエンナーレ大賞で一気にスターとなった池田満寿夫の三人。
池田さんが先輩二作家と決定的に違ったのは色彩銅版画に独自の境地を開いたことです。

池田さん(1934~1997)が生涯に制作した1000点余の版画(その多くが銅版画)の中で最も評価(人気)の高い作品が1965年の「聖なる手1」であることは異論がないでしょう。
画廊亭主は生前の池田さんにはあまり縁が無かったのですが、パリ時代にあの天下のベルグランを出し抜いて「聖なる手1」を入手したことは以前このブログ(2008年03月11日ブログ<作者不詳~その二>に書いたことがあります。
さらに縁がなかったといいながら、佐藤陽子さんのコンサートのツマで、富山の美術館に呼ばれ池田さんについて講演したことさえあります(2010年06月29日ブログ<池田満寿夫展にて~富山県立近代美術館>)
限定僅か20部の作品、それも作家の生涯の代表作を二度も扱う幸運を天上の池田さん、佐藤さんに感謝せねばなりませんね。
今回は池田さんが亡くなるまで(没後も)手もとにおいていた作品の中から、1957年の初期銅版「白い岩石」から1988年のリトグラフ「ルナパーク」まで12点を厳選し展示します。

東京藝大を目指し、画家を志していた池田満寿夫さんが銅版画を手がけたのは瑛九の勧めによるものでした。
池田さんは著書『私の調書・私の技法』(1976年、美術出版社)でその頃のことを回顧して、銅版画家への歩みを記しています。

<瑛九にはじめて会ったのは、多分それは冬だったと思うが、蕨の友人のところへアイ・オーたちと行った時、浦和に瑛九が住んでいるから、これから尋ねてみようとさそわれたからだった。それまでアイ・オーの口からしばしば瑛九の伝説について聞かされていたのだが、特に心をうばわれるほどの関心を持ったわけでもなかった。その夜の最初の訪問も、ただがやがやと喋っただけで、格別の印象を受けなかった。しかしこの不意の青年たちの訪問に対して瑛九の応対ぶりが非常に丁寧で、しかもくったくがなく、対等 に応じてくれたのが心に残った。(同書55ページより)>

<五六年の夏頃、久保貞次郎の主催した「絵を安く売る展覧会」にアイ・オーが私を推薦し、その最初の参加者による公開審査会ではじめて久保氏に私は紹介された。瑛九も来ていたが瑛九に会ったのはその時で二度目だった。(同書55ページより)>

<この会を機会にして久保氏と瑛九とへ急激に私は接近していった。そしてその夏、山田温泉で開催され た創造美育の全国ゼミナールへ久保氏の提案でアルバイトとしてやとわれ、はじめて創美なるものを知り、その運動と内容の実体を知るに至った。その経験はまったく私にとってとてつもない出来事だったといえる。そのゼミには瑛九をはじめアイ・オー、泉茂、加藤正、磯辺行久吉原英雄などのデモクラート美術協会のメンバーが参加し、私はその機会に瑛九に説得されてデモクラートのメンバーに正式に加盟させられ、さっそくデモクラート主催の銅版画講習会に助手としてかり出されたのであった。私自身小型プレス機を持っていたにはいたが、それはあっけない挫折の、いまいましい古道具品としてしか意味を持たないものだった。正統なやり方で銅版を刷るのを見たのはその講習会がはじめてだった。恐ろしくややこしく思われていた銅版の手続きが瑛九の指導によると信じられないくらい簡単に処理されて行った。自信を得たわけではないが最初の手掛りをつかむことはできた。色彩銅版画集を出したのはそれから四ヵ月たってからである。(同書56ページより)>

<瑛九はいい作品なら絶対に自分が売ってあげる、もし売れなかったら自分が全部買ってやると私にいった。瑛九自身、貧乏暮らしをしていたのだから、その励ましは少々滑稽だったが心にせまる迫力を持っていた。いきなり色彩銅版からはじめたのも瑛九の助言に従ったからである。当時、日本ではまだ、だれも色彩銅版を本格的にしていなかった。色刷りの銅版であるというだけでなんらかの注目をあびる可能性があると瑛九が私のために作戦を組 んだのである。まず君は今のルンペン的生活を変えなければならない。才能は認める。しかしその才能がだらしのない生活によって破壊されるのを惜しむ。自分がチャンスをつくってあげるから今できる最善の努力をしてみることだ。抽象で銅版をやること。これらの瑛九の忠告が私に最初の五点の色彩銅版画をつくらせた。(同書57ページより)>

池田満寿夫《白い岩石》
池田満寿夫 初期銅版画 34点 (33)1957年 エッチング、アクアチント
イメージサイズ:11.7×18.0cm
限定20部 自筆サインあり *レゾネNo.18


池田満寿夫《戸口へ急ぐ貴婦人たち》
池田満寿夫_戸口へ急ぐ貴婦人たち
1963年 ドライポイント、ルーレット
イメージサイズ:36.0×33.5cm
限定20部 自筆サインあり *レゾネNo.260


池田満寿夫《タエコの朝食》
池田満寿夫_タエコの朝食tri
1963年 ドライポイント、ルーレット、エッチング
イメージサイズ:36.0×37.0cm
限定20部 自筆サインあり *レゾネNo.278


池田満寿夫《聖なる手Ⅰ
池田満寿夫_聖なる手 1
1965年 ドライポイント、ルーレット
イメージサイズ:36.0×33.4cm
限定20部 自筆サインあり *レゾネNo.376


No.20 池田満寿夫《スポットライト》
池田満寿夫_スポットライト
1981年 ドライポイント、アクアチント、ソフトグランド・エッチング
イメージサイズ:35.5×29.0cm
限定80部 自筆サインあり *レゾネNo.724

ぜひ皆さんのコレクションに加えてください。

*画廊亭主敬白
先日、久しぶりにいらしたお客様に「あらワタヌキさんどうしたの。そんなに痩せちゃって」と驚かれました。5月の入院騒ぎあたりから何となく食が細くなり、外食をほとんどしなくなり、飲む機会も無し。気が付けばズボンはぶかぶか、ベルトの穴が足らなくなるほど細くなってしまった。
こりゃあまずいねということで、数か月ぶりに中華料理店に。酢豚に餃子に春巻き、ニラレバ炒め(レバーなんて何年ぶり)とむしゃむしゃばりばり食べました。食べたら歩かなくちゃと昨日は1万歩!。まあ三日坊主にならないようにしないとね。
ところで本日は7月2日、敬愛する恩地孝四郎の誕生日であります。
また亭主絶賛の映画「執炎」(蔵原惟繕監督)の浅丘ルリ子さんも7月2日生まれです。
さらに(蛇足ですが)本日亭主は79歳を迎えました。
いつまで画商&版元らしい仕事をつづけられるかわかりませんが、ご贔屓にしてくださるお客様がいるかぎり若い人に助けてもらいながら、(体は動かないので)無い知恵をしぼりたいと思っています。

第34回瑛九展/瑛九と池田満寿夫
2024年7月3日(水)~7月13日(土) 11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊

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368_a1951年故郷宮崎を去り、浦和に移住した瑛九は銅版画の制作に没頭します。浦和のアトリエには靉嘔、磯辺行久、河原温、池田満寿夫たち若い作家が集まり熱い議論を交わします。1956年池田は瑛九の勧めで初めて色彩銅版画に取り組み、1966年の第33回ヴェネツィア・ビエンナーレで大賞を受賞、一躍、世界のスターへの道を辿り、生涯1000点あまりの版画をのこしました。
今年は池田満寿夫の生誕90年の年にあたります。
瑛九の希少な自刷り銅版画「春」「鳥の精」、池田満寿夫の「タエコの朝食」「聖なる手」など代表作をご覧いただきます。
浦和にあった瑛九のアトリエ(没後都夫人が守ってきた。2023年に取壊し)の庭の檀の木と靉嘔や池田満寿夫たちが踏みしめた敷石を、ときの忘れものの庭に移植しましたので、合わせてご覧ください。
出品全作品の画像とデータは6月29日のブログに掲載しました。