杣木浩一のエッセイ「宮脇愛子さんとの出会い」第3回
ドローイングの数々
〈うつろひ〉は英訳で”a moment of movement”と併記していた。
初期、二系のドローイングがあった。一つは運動力そのものの心象的定着、いま一つは景観写生だったが、数少ない。両者が融合されているものもあった。
愛子さんは、ドローイングにおいては、コンテを持った右手を左腰元ちかく身を構える。で、画面左下を起点に紙に当て、いったん強い筆圧で手前に引いた線を右斜め弧線を跳ね上げ、ただちに元に「往還」した。一瞬である。アルシュ紙には張りとたわみある右上がりの楕円弧が定着され、嵩じて2本線が描かれることもあった。
80年代前期は、白い丸テーブルの上にアルシュ紙やМBM紙を敷いて、もっぱらこの描き方をくりかえした。
※90年代に入って、この中から気に入ったものをシルク版画化したものだから、収納スチール棚がどんどん嵩ばり、アトリエ半分のスペースを占領してしまった。やがて90年代後期になると、コンテドローイングからあの、しなった楕円弧の「往還」が失せる。右上へつよく弾きあげる紙との束の間の「接線」のみが定着されるようになる。
*
和紙に撥墨ドローイングの日々。
宮脇愛子はまず大判の硯に墨を摩ることからはじめた。墨をたっぷりふくんだ筆の穂先を和紙に打つ。穂先から墨が撥ね垂れる芯と際の妙が彩色されていく。2、3、4、5、、、和紙のうえを視線が動く。目が手の先を行き、穂先が後を追う。横長の紙上を左から右へ穂先の着点をはかりつつ撥墨していく。
さいしょ礬水引きした麻紙を使っていたが、やがて数寄屋大工中村工務店が奈良から取り寄せた、淡い中間トーンの青系、茶系の色調の泥紙を好んで用いた。この撥墨ドローイングもお気に入りをシルク版刷りされた。
そして、シルク版のうえに、さらに跳ね上げるコンテ線を描き加えることもあった。さまざまに描かれた画面を見てきたがつまるところ宮脇愛子が〈うつろひ〉に観、顕わしたものは、「彫刻」でも「ドローイング」でも、穏顕一瞬のひらめき ” a moment of movement “だったのだろう。

【図11】軽井沢のアトリエにおける墨のドローイング
*
〈うつろひ〉と身
1987年、神奈川県民ホールギャラリーの展示「現代作家シリーズ'87――田中稔之・宮脇愛子」では、天井付設の照明ではやや貧相だったので、(株)ヤマギワの協力を得て、スタッフが床置きの強い照明器具を試みたが、最終的に愛子さんが調光して纏めた。二階分吹き抜けの高い空間にワイヤー弧線の実体と光と影が交錯するいささか劇的な空間だった。
その会場に古武術研究家の甲野善紀(1949~)が刀をたずさえ袴姿であらわれたことがあった。甲野善紀は、闇と光にしつらえた〈うつろひ〉空間を巡っていたが、ある地点で足を止めた。それから軽く腰を落としワイヤーの弧線とみずからの身体を交感しているかのように黙想し、鯉口をきると束に右手をそえ、静かに抜刀した。その場に居合わせた者たちの眼は研ぎ澄まされ光る刃に注がれた。〈うつろひ〉ワイヤー弧の空間は、腕先に刀身の長さを足しても甲野善紀をすっぽり包み込むじゅうぶんな圏域だった。甲野は抜き身のまま残身し、ややあって納刀した。この間、ほんのわずかなときではあった。一連の所作は周囲の眼を意識してのパフォーマンスだったのだろうか?どうもそうではなく、〈うつろひ〉の空間がひとりの武道家を喚起した、いわゆる武道の形ともちがう臨機応変な身のさばきだったように思える。刀法とは能う限り短絡回路で機を制す体術なのだろうだが、甲野が、〈うつろひ〉に身を置いたときに、芸術と武術がショートしたのだろうか。
この3年まえ1984年、日仏学院〈うつろひ〉ワイヤー弧線において、田中泯(1945~)がミニマルダンスを舞った。日も落ちた小雨寒気のなか、全裸でじっと湯気吐き息づく田中泯の不動の身体。その静止の持続と微動の瞬間の鮮やかな緊張を彷彿させた。

【図12】
※駒場東大大学院、数理科学棟の中庭にある〈うつろひ〉設置現場(1995)に、ロビーからガラス越しにわれわれの作業を見ていた中学生のような風貌の女子が立ち入ってきた。そしてワイヤー架橋している宮脇愛子の周りをちょろちょろ付いて離れなかったことがある。周囲に聞けば彼女は東大に在籍する名物院生とのことだった。
*

【図13】(1989) 山田脩二(写真家、瓦焼き)、丸山穆子(きよこ)、杣木浩一、宮脇愛子
山田脩二さんが磯崎アトリエで建築の打合せを終えて、愛子さんを訪ねたときだろう日常のスナップショットである。山田脩二さんはもともと磯崎さんの建築写真が縁で、愛子さんの〈うつろひ〉写真も撮っていた。最も初期の『美術手帖』(1981.4月号)掲載によって、〈うつろひ〉をあまねく知らしめることとなった東京湾岸での撮影では、夕暮れにたわみ映るほそい線形の特質をよくとらえている。

【図14】撮影出発にあたり、駒込アトリエの屋上に基盤とピアノ線を運び上げ、愛子さんと2人でワイヤーの立ち上げを試行していた。
このスナップ写真日付の1989年には、すでに「カメラマン」から淡路島の「カワラマン」(1984)へと転じていた。燻し銀に焼き上げた見事な『瓦展』を愛子さんと見に行ったことがある。突然の山田脩二さんの来訪に話も弾み、丸山さんがお酒をすすめると躊躇なく一人手酌をはじめられた。
丸山さんは愛子さんの女子大の2年先輩で、斎藤義重夫人と親しく、美術界隈はもとより交友範囲がとてもひろい方だった。ざっくばらんでハートある人柄だったので、ややもするとコンセートレートの極みで立ち振る舞う愛子さんの張った空気をなごませる存在でもあった。
夫は浜口雄幸首相を狙撃した佐郷屋留雄の系統「全愛連」(※全日本愛国者団体会議)の副議長だった。日教組の集会には街宣車をくり出すいわゆる右翼だったが、丸山夫人はというと裕仁天皇を「おてんちゃん」と言ってはばからない人だから、あまりのギャップには愛子さんも苦笑していた。丸山夫妻は、杣木には気さくに接してくれたので、八王子城址の美大から港区磯崎邸に降りて来たばかりの山猿はおおいに助けられた。磯崎さん愛子さんを海外出張に送り出したあとは、スタッフ一同、丸山さんの手料理で酒をあけ、日ごろの労をねぎらうのが習いだった。まれにお会いするご主人は杣木のふるさと国上のとなりの弥彦村の出身だったせいか、親しく「さぁ、のみなさい」と盃をすすめられた。
愛子さんの玄米菜食から磯崎・愛子夫妻の目にかなう日常什器にいたるまで、難なく対応できる方だったので、夫妻が本郷から南青山へ転居したころから、乞われて二人の食事の世話までするようになった。愛子さんのポーランド仕込みのウォッカなど割らずにストレートのまま呑む人なので、磯崎さんが心配して大分焼酎、吉四六を勧めた。
磯崎・愛子夫妻は海外の出先でワイン、パルメザンチーズの大きなブロックなどなど、じつにこまめに求めて来た。愛子さんレシピで丸山さんが地粉で焼き上げた「鰻」や「長ネギ」のキッシュ、「紅玉」のタルトの味は最高だった。自分はもっぱら、磯崎さんが褒めているのやら「杣木のコーヒーはバカ熱い!」と言うエスプレッソを淹れる役回りであった。イタリア住まいした愛子さんから、アベックで抽出できる珍しい形のエスプレッソマシーンなどいくつか頂いた。
*
ニューヨークからの電話
毎年の軽井沢山荘の山開き、什器の開封、配置、食材の手配は、愛子さんが独身の山荘時代から勝手知ったる丸山さんの指揮ではじまった。
磯崎さんもこまめに厨房にたち、たっぷりの塩加減でパスタを茹でたり、キャベツを炒めたりした。朝食中に黒電話が鳴り、向こうは英語の主で、磯崎さんにとり次いだが、なぜか” I was ”と応答しつづける磯崎さんを傍らの愛子さんがたしなめた。ニューヨークからディスコの依頼主が山荘の磯崎さんを探しだしての電話だった。Studio54のスティーブ・ルベルかイアン・シュレーガーからだったのだろう。磯崎さんが1985年のニューヨークを一世風靡したディスコクラブ「パラディアム」設計の端緒だった。
1986年に入り用のパンフを運んで来てくれればタダで寝泊まりできるという条件で、友人と全寿千(ジョン・スーチョン1947~)のアパートを根城にしてニューヨークの美術館、ギャラリー巡りをしたことがある。ダウンタウンを散策していると、あれは?目の前をおおきな図面を抱えた磯崎アトリエの渡辺真理さんが行くではないか!思わず声をかけ、チャイナタウンで一休みし、青島ビールで喉を潤した。その夜は願ってもなく渡辺真理さんから、われわれ2人を「パラディアム」に案内していただけるという幸運に浴した。
*

【図15】1989年11月、パリデファンス新凱旋門広場の〈うつろひ〉
これがはじめての愛子さんとの渡欧だった。パリ郊外の新興商業地区に新設された、オットー・フォン・シュプレッケルセン設計になる、新凱旋門は一辺が約110mの中空のキューブである。その広場中央通りとややズレた軸線は凱旋門を越えて、同寸のルーブル方形中庭に向いている。その右側に位置して、星座になぞらえた20数本の高さ4mのネオパリエを張りこんだ白い円柱が立てられた。円柱上に架橋するワイヤー径も6mm、8mm、10mm、12mmと多種用いた。柱に近接して見上げると、ワイヤーラインはまさに空に向けて描かれていた。
柱上のワイヤー差し込み基盤を俯瞰する高さまで足場を組み、愛子さんも上り、安全帯も付けずに高所作業をしたものだ。とりわけ初めての12mm径ワイヤーは長く重くて抗力も強かった。
パリ到着の夜、歴史の匂いがするレストラン「ジャコバン」に連れていってくれた。ワインと生牡蠣をごちそうになった。室内照明はテーブルの蝋燭だけ。おおむねパリの店舗は灯りと闇のバランスがとても上手かった。日本の真昼のような蛍光とはおおきな趣味のへだたりを感じた。
デファンスの〈うつろひ〉は、それまででは最大の規模だったので1か月ちかい工期を要した。
*

【図16】宮脇愛子のデファンス広場における〈うつろひ〉竣工と、彼女の還暦を祝して
EPADEが『宮脇愛子回顧展』(ギャラリー・アール・デファンス)を企画開催した(1990)。日本の磯崎アトリエからもスタッフたちが訪れた。左から今永夫妻、滝田淳(P.コワルスキー助手)、杣木、青木淳、堀正人夫妻、宮脇愛子、イザベル・カマール、松田昭一。地下駐車場跡の天井高が低く広い空間を黒く塗った漆黒の空間にスポット照射したワイヤーリフレクションで〈うつろひ〉フォームが鋭利に浮かび上がった。
一方、駐車場の残り半分、黒と対比してまっ白く塗られた空間には20メートルの宮脇愛子ドキュメント台をしつらえた。宮脇愛子のこれまでの歩みを辿ることができるA4写真、貴重な図録、マン・レイはじめ瀧口修造らオリジナル書簡を、愛子さんみずからレイアウトして好評を博した。ジュリエット・マン・レイ(1911-1991)、ロベルト・マッタ(1911-2002)、ピュートル・コワルスキー(1927-2004)らも馳せた。
*
1982-1983前述した磯崎アトリエのバイトでは、直接の担当が青木淳さん。磯崎さんが杣木に課したことは『SD特集磯崎新』1984年1月号のための文献整理である。打ち合わせで青木淳さんは、建築、編集には門外漢の杣木にも、家庭教師のようにとても分かりやすく説明してくれた。
秘書の網谷淑子さんが、ニコニコ笑いながら段ボール箱を抱えてきた。すごい量の磯崎さんの掲載紙である。これを仕分けカード化するのに数か月を要した。国内外の、磯崎さんが書いたもの、書かれたもの、レクチャー、はては映画まで、1976年から1983年までの磯崎新の業績が自ずと杣木にも叩き込まれるというわけだ。この経験は直近、凝りに凝った杉浦康平デザイン愛子さん最初の『うつろひ作品集』(美術出版社1986)の画像掘り出し作業に生かされた。
それから後年、椎名節さんが愛子さんから聞き取り取材した労作『宮脇愛子ドキュメント』(美術出版社1992)。この校正を任されてしまった。おびただしい画像の年代区分、人物特定にいたる編集作業をまるで見通したような磯崎さんのもくろみ=教育だったのだろうか。英文併記だったので、芸大の加藤磨珠枝さんにもお手伝い願ったが、なにしろ、このときは磯崎、宮脇夫妻は長期海外に出てしまったので、確認判断にホントに骨が折れた記憶がある。
(そまき こういち)
■杣木浩一
1952年新潟県に生まれる。1979年東京造形大学絵画専攻卒業。1981年に東京造形大学聴講生として成田克彦に学び、1981~2014年に宮脇愛子アトリエ。2002~2005年東京造形大学非常勤講師。
1979年真和画廊(東京)での初個展から、1993年ギャラリーaM(東京)、2000年川崎IBM市民文化ギャラリー(神奈川)、2015年ベイスギャラリー(東京)など、現在までに20以上の個展を開催。
主なグループ展に2001年より現在まで定期開催中の「ABST」展、1980年「第13回日本国際美術展」(東京)、1985年「第3回釜山ビエンナーレ」(韓国)、1991年川崎市市民ミュージアム「色相の詩学」展(神奈川)、2003年カスヤの森現代美術館「宮脇愛子と若手アーチストたち」展(神奈川)、2018年池田記念美術館「八色の森の美術」展(新潟)など。制作依頼、収蔵は1984年 グラスアート赤坂、1986年 韓国々立現代美術館、2002 年グランボア千葉ウィングアリーナ、2013年B-tech Japan Bosendorfer他多数。
・杣木浩一のエッセイ「宮脇愛子さんとの出会い」第4回は9月8日の更新を予定しています。どうぞお楽しみに。
◆「杣木浩一×宮脇愛子」展
会期:2024年8月20日(火)~8月31日(土)※日・月・祝日休廊


作家の体調不良により、8月24日(土)15時~16時半のギャラリートークと同日17時~19時のパーティーは中止となりました。
ご予約いただいた皆様にお詫び申し上げます。
●「杣木浩一×宮脇愛子」展カタログを刊行
ときの忘れもの 2024年 25.7×17.2㎝ 24P
執筆:杣木浩一
図版:26点掲載(杣木浩一13点、宮脇愛子13点)
編集:尾立麗子(ときの忘れもの)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
価格:1,100円(税込み)+送料250円
オンラインでも販売中です。
●本日のお勧め作品は、宮脇愛子です。
宮脇愛子
《Work》
2013
ミクストメディア
イメージサイズ:50.0×43.0cm
シートサイズ:53.5×46.0cm
サインと年記あり
「Golden Egg(A)」
1982年 ブロンズ
H4.5×21×12cm
限定 50部
本体に刻サイン、共箱(箱にペンサイン)
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。

〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
ドローイングの数々
〈うつろひ〉は英訳で”a moment of movement”と併記していた。
初期、二系のドローイングがあった。一つは運動力そのものの心象的定着、いま一つは景観写生だったが、数少ない。両者が融合されているものもあった。
愛子さんは、ドローイングにおいては、コンテを持った右手を左腰元ちかく身を構える。で、画面左下を起点に紙に当て、いったん強い筆圧で手前に引いた線を右斜め弧線を跳ね上げ、ただちに元に「往還」した。一瞬である。アルシュ紙には張りとたわみある右上がりの楕円弧が定着され、嵩じて2本線が描かれることもあった。
80年代前期は、白い丸テーブルの上にアルシュ紙やМBM紙を敷いて、もっぱらこの描き方をくりかえした。
※90年代に入って、この中から気に入ったものをシルク版画化したものだから、収納スチール棚がどんどん嵩ばり、アトリエ半分のスペースを占領してしまった。やがて90年代後期になると、コンテドローイングからあの、しなった楕円弧の「往還」が失せる。右上へつよく弾きあげる紙との束の間の「接線」のみが定着されるようになる。
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和紙に撥墨ドローイングの日々。
宮脇愛子はまず大判の硯に墨を摩ることからはじめた。墨をたっぷりふくんだ筆の穂先を和紙に打つ。穂先から墨が撥ね垂れる芯と際の妙が彩色されていく。2、3、4、5、、、和紙のうえを視線が動く。目が手の先を行き、穂先が後を追う。横長の紙上を左から右へ穂先の着点をはかりつつ撥墨していく。
さいしょ礬水引きした麻紙を使っていたが、やがて数寄屋大工中村工務店が奈良から取り寄せた、淡い中間トーンの青系、茶系の色調の泥紙を好んで用いた。この撥墨ドローイングもお気に入りをシルク版刷りされた。
そして、シルク版のうえに、さらに跳ね上げるコンテ線を描き加えることもあった。さまざまに描かれた画面を見てきたがつまるところ宮脇愛子が〈うつろひ〉に観、顕わしたものは、「彫刻」でも「ドローイング」でも、穏顕一瞬のひらめき ” a moment of movement “だったのだろう。

【図11】軽井沢のアトリエにおける墨のドローイング
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〈うつろひ〉と身
1987年、神奈川県民ホールギャラリーの展示「現代作家シリーズ'87――田中稔之・宮脇愛子」では、天井付設の照明ではやや貧相だったので、(株)ヤマギワの協力を得て、スタッフが床置きの強い照明器具を試みたが、最終的に愛子さんが調光して纏めた。二階分吹き抜けの高い空間にワイヤー弧線の実体と光と影が交錯するいささか劇的な空間だった。
その会場に古武術研究家の甲野善紀(1949~)が刀をたずさえ袴姿であらわれたことがあった。甲野善紀は、闇と光にしつらえた〈うつろひ〉空間を巡っていたが、ある地点で足を止めた。それから軽く腰を落としワイヤーの弧線とみずからの身体を交感しているかのように黙想し、鯉口をきると束に右手をそえ、静かに抜刀した。その場に居合わせた者たちの眼は研ぎ澄まされ光る刃に注がれた。〈うつろひ〉ワイヤー弧の空間は、腕先に刀身の長さを足しても甲野善紀をすっぽり包み込むじゅうぶんな圏域だった。甲野は抜き身のまま残身し、ややあって納刀した。この間、ほんのわずかなときではあった。一連の所作は周囲の眼を意識してのパフォーマンスだったのだろうか?どうもそうではなく、〈うつろひ〉の空間がひとりの武道家を喚起した、いわゆる武道の形ともちがう臨機応変な身のさばきだったように思える。刀法とは能う限り短絡回路で機を制す体術なのだろうだが、甲野が、〈うつろひ〉に身を置いたときに、芸術と武術がショートしたのだろうか。
この3年まえ1984年、日仏学院〈うつろひ〉ワイヤー弧線において、田中泯(1945~)がミニマルダンスを舞った。日も落ちた小雨寒気のなか、全裸でじっと湯気吐き息づく田中泯の不動の身体。その静止の持続と微動の瞬間の鮮やかな緊張を彷彿させた。

【図12】
※駒場東大大学院、数理科学棟の中庭にある〈うつろひ〉設置現場(1995)に、ロビーからガラス越しにわれわれの作業を見ていた中学生のような風貌の女子が立ち入ってきた。そしてワイヤー架橋している宮脇愛子の周りをちょろちょろ付いて離れなかったことがある。周囲に聞けば彼女は東大に在籍する名物院生とのことだった。
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【図13】(1989) 山田脩二(写真家、瓦焼き)、丸山穆子(きよこ)、杣木浩一、宮脇愛子
山田脩二さんが磯崎アトリエで建築の打合せを終えて、愛子さんを訪ねたときだろう日常のスナップショットである。山田脩二さんはもともと磯崎さんの建築写真が縁で、愛子さんの〈うつろひ〉写真も撮っていた。最も初期の『美術手帖』(1981.4月号)掲載によって、〈うつろひ〉をあまねく知らしめることとなった東京湾岸での撮影では、夕暮れにたわみ映るほそい線形の特質をよくとらえている。

【図14】撮影出発にあたり、駒込アトリエの屋上に基盤とピアノ線を運び上げ、愛子さんと2人でワイヤーの立ち上げを試行していた。
このスナップ写真日付の1989年には、すでに「カメラマン」から淡路島の「カワラマン」(1984)へと転じていた。燻し銀に焼き上げた見事な『瓦展』を愛子さんと見に行ったことがある。突然の山田脩二さんの来訪に話も弾み、丸山さんがお酒をすすめると躊躇なく一人手酌をはじめられた。
丸山さんは愛子さんの女子大の2年先輩で、斎藤義重夫人と親しく、美術界隈はもとより交友範囲がとてもひろい方だった。ざっくばらんでハートある人柄だったので、ややもするとコンセートレートの極みで立ち振る舞う愛子さんの張った空気をなごませる存在でもあった。
夫は浜口雄幸首相を狙撃した佐郷屋留雄の系統「全愛連」(※全日本愛国者団体会議)の副議長だった。日教組の集会には街宣車をくり出すいわゆる右翼だったが、丸山夫人はというと裕仁天皇を「おてんちゃん」と言ってはばからない人だから、あまりのギャップには愛子さんも苦笑していた。丸山夫妻は、杣木には気さくに接してくれたので、八王子城址の美大から港区磯崎邸に降りて来たばかりの山猿はおおいに助けられた。磯崎さん愛子さんを海外出張に送り出したあとは、スタッフ一同、丸山さんの手料理で酒をあけ、日ごろの労をねぎらうのが習いだった。まれにお会いするご主人は杣木のふるさと国上のとなりの弥彦村の出身だったせいか、親しく「さぁ、のみなさい」と盃をすすめられた。
愛子さんの玄米菜食から磯崎・愛子夫妻の目にかなう日常什器にいたるまで、難なく対応できる方だったので、夫妻が本郷から南青山へ転居したころから、乞われて二人の食事の世話までするようになった。愛子さんのポーランド仕込みのウォッカなど割らずにストレートのまま呑む人なので、磯崎さんが心配して大分焼酎、吉四六を勧めた。
磯崎・愛子夫妻は海外の出先でワイン、パルメザンチーズの大きなブロックなどなど、じつにこまめに求めて来た。愛子さんレシピで丸山さんが地粉で焼き上げた「鰻」や「長ネギ」のキッシュ、「紅玉」のタルトの味は最高だった。自分はもっぱら、磯崎さんが褒めているのやら「杣木のコーヒーはバカ熱い!」と言うエスプレッソを淹れる役回りであった。イタリア住まいした愛子さんから、アベックで抽出できる珍しい形のエスプレッソマシーンなどいくつか頂いた。
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ニューヨークからの電話
毎年の軽井沢山荘の山開き、什器の開封、配置、食材の手配は、愛子さんが独身の山荘時代から勝手知ったる丸山さんの指揮ではじまった。
磯崎さんもこまめに厨房にたち、たっぷりの塩加減でパスタを茹でたり、キャベツを炒めたりした。朝食中に黒電話が鳴り、向こうは英語の主で、磯崎さんにとり次いだが、なぜか” I was ”と応答しつづける磯崎さんを傍らの愛子さんがたしなめた。ニューヨークからディスコの依頼主が山荘の磯崎さんを探しだしての電話だった。Studio54のスティーブ・ルベルかイアン・シュレーガーからだったのだろう。磯崎さんが1985年のニューヨークを一世風靡したディスコクラブ「パラディアム」設計の端緒だった。
1986年に入り用のパンフを運んで来てくれればタダで寝泊まりできるという条件で、友人と全寿千(ジョン・スーチョン1947~)のアパートを根城にしてニューヨークの美術館、ギャラリー巡りをしたことがある。ダウンタウンを散策していると、あれは?目の前をおおきな図面を抱えた磯崎アトリエの渡辺真理さんが行くではないか!思わず声をかけ、チャイナタウンで一休みし、青島ビールで喉を潤した。その夜は願ってもなく渡辺真理さんから、われわれ2人を「パラディアム」に案内していただけるという幸運に浴した。
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【図15】1989年11月、パリデファンス新凱旋門広場の〈うつろひ〉
これがはじめての愛子さんとの渡欧だった。パリ郊外の新興商業地区に新設された、オットー・フォン・シュプレッケルセン設計になる、新凱旋門は一辺が約110mの中空のキューブである。その広場中央通りとややズレた軸線は凱旋門を越えて、同寸のルーブル方形中庭に向いている。その右側に位置して、星座になぞらえた20数本の高さ4mのネオパリエを張りこんだ白い円柱が立てられた。円柱上に架橋するワイヤー径も6mm、8mm、10mm、12mmと多種用いた。柱に近接して見上げると、ワイヤーラインはまさに空に向けて描かれていた。
柱上のワイヤー差し込み基盤を俯瞰する高さまで足場を組み、愛子さんも上り、安全帯も付けずに高所作業をしたものだ。とりわけ初めての12mm径ワイヤーは長く重くて抗力も強かった。
パリ到着の夜、歴史の匂いがするレストラン「ジャコバン」に連れていってくれた。ワインと生牡蠣をごちそうになった。室内照明はテーブルの蝋燭だけ。おおむねパリの店舗は灯りと闇のバランスがとても上手かった。日本の真昼のような蛍光とはおおきな趣味のへだたりを感じた。
デファンスの〈うつろひ〉は、それまででは最大の規模だったので1か月ちかい工期を要した。
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【図16】宮脇愛子のデファンス広場における〈うつろひ〉竣工と、彼女の還暦を祝して
EPADEが『宮脇愛子回顧展』(ギャラリー・アール・デファンス)を企画開催した(1990)。日本の磯崎アトリエからもスタッフたちが訪れた。左から今永夫妻、滝田淳(P.コワルスキー助手)、杣木、青木淳、堀正人夫妻、宮脇愛子、イザベル・カマール、松田昭一。地下駐車場跡の天井高が低く広い空間を黒く塗った漆黒の空間にスポット照射したワイヤーリフレクションで〈うつろひ〉フォームが鋭利に浮かび上がった。
一方、駐車場の残り半分、黒と対比してまっ白く塗られた空間には20メートルの宮脇愛子ドキュメント台をしつらえた。宮脇愛子のこれまでの歩みを辿ることができるA4写真、貴重な図録、マン・レイはじめ瀧口修造らオリジナル書簡を、愛子さんみずからレイアウトして好評を博した。ジュリエット・マン・レイ(1911-1991)、ロベルト・マッタ(1911-2002)、ピュートル・コワルスキー(1927-2004)らも馳せた。
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1982-1983前述した磯崎アトリエのバイトでは、直接の担当が青木淳さん。磯崎さんが杣木に課したことは『SD特集磯崎新』1984年1月号のための文献整理である。打ち合わせで青木淳さんは、建築、編集には門外漢の杣木にも、家庭教師のようにとても分かりやすく説明してくれた。
秘書の網谷淑子さんが、ニコニコ笑いながら段ボール箱を抱えてきた。すごい量の磯崎さんの掲載紙である。これを仕分けカード化するのに数か月を要した。国内外の、磯崎さんが書いたもの、書かれたもの、レクチャー、はては映画まで、1976年から1983年までの磯崎新の業績が自ずと杣木にも叩き込まれるというわけだ。この経験は直近、凝りに凝った杉浦康平デザイン愛子さん最初の『うつろひ作品集』(美術出版社1986)の画像掘り出し作業に生かされた。
それから後年、椎名節さんが愛子さんから聞き取り取材した労作『宮脇愛子ドキュメント』(美術出版社1992)。この校正を任されてしまった。おびただしい画像の年代区分、人物特定にいたる編集作業をまるで見通したような磯崎さんのもくろみ=教育だったのだろうか。英文併記だったので、芸大の加藤磨珠枝さんにもお手伝い願ったが、なにしろ、このときは磯崎、宮脇夫妻は長期海外に出てしまったので、確認判断にホントに骨が折れた記憶がある。
(そまき こういち)
■杣木浩一
1952年新潟県に生まれる。1979年東京造形大学絵画専攻卒業。1981年に東京造形大学聴講生として成田克彦に学び、1981~2014年に宮脇愛子アトリエ。2002~2005年東京造形大学非常勤講師。
1979年真和画廊(東京)での初個展から、1993年ギャラリーaM(東京)、2000年川崎IBM市民文化ギャラリー(神奈川)、2015年ベイスギャラリー(東京)など、現在までに20以上の個展を開催。
主なグループ展に2001年より現在まで定期開催中の「ABST」展、1980年「第13回日本国際美術展」(東京)、1985年「第3回釜山ビエンナーレ」(韓国)、1991年川崎市市民ミュージアム「色相の詩学」展(神奈川)、2003年カスヤの森現代美術館「宮脇愛子と若手アーチストたち」展(神奈川)、2018年池田記念美術館「八色の森の美術」展(新潟)など。制作依頼、収蔵は1984年 グラスアート赤坂、1986年 韓国々立現代美術館、2002 年グランボア千葉ウィングアリーナ、2013年B-tech Japan Bosendorfer他多数。
・杣木浩一のエッセイ「宮脇愛子さんとの出会い」第4回は9月8日の更新を予定しています。どうぞお楽しみに。
◆「杣木浩一×宮脇愛子」展
会期:2024年8月20日(火)~8月31日(土)※日・月・祝日休廊


作家の体調不良により、8月24日(土)15時~16時半のギャラリートークと同日17時~19時のパーティーは中止となりました。
ご予約いただいた皆様にお詫び申し上げます。
●「杣木浩一×宮脇愛子」展カタログを刊行

執筆:杣木浩一
図版:26点掲載(杣木浩一13点、宮脇愛子13点)
編集:尾立麗子(ときの忘れもの)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
価格:1,100円(税込み)+送料250円
オンラインでも販売中です。
●本日のお勧め作品は、宮脇愛子です。

《Work》
2013
ミクストメディア
イメージサイズ:50.0×43.0cm
シートサイズ:53.5×46.0cm
サインと年記あり

1982年 ブロンズ
H4.5×21×12cm
限定 50部
本体に刻サイン、共箱(箱にペンサイン)
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。

〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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