太田岳人のエッセイ「よりみち未来派」第27回
『未来派・飛行機・ダンス』発刊に寄せて――横田さやかさんインタビュー(2)
太田岳人
前回の記事では、今年4月に未来派についての研究書『未来派・飛行機・ダンス イタリアの前衛芸術における飛ぶ身体と踊る身体』(三元社)を公刊された、横田さやかさんへのイ
ンタビューを掲載した。今回の記事はその後半部分にあたるもので、ダンスという分野に特有の調査の難しさや、未来派の中でもあまり知られていない時代を取り上げる意義といった点について、さらに語っていただいている。まだ前回の記事をお読みでない方には、そちらとあわせてお読みいただきたい。前回同様、インタビュー内容のまとめ、および注や図版についての責任はすべて筆者に属する。
―――――
――ダンスという分野は、造形芸術などと比較すると、形に残りにくい部分が多いと私には考えられますが、チェンシの研究をされる上で難しかったことなどはありますか。
本当に史料が乏しくて、非常に難しかったです。まず、ジャンニーナ・チェンシの存在が再発見されたのは1979年で、それまで未来派そのものが等閑に付されていたのと同じように、チェンシについても語られることはありませんでした。それ以降も、現在まで映像記録は見つかっていません。この時代、舞踊は映像に残されていなかったかというと、もっと早い時期のイサドラ・ダンカンやロイ・フラーのものは残っているので、誰かが撮影していた可能性は十分に考えられます。しかし、芸術史や文化史における未来派の価値が長らく認められてこなかったため、そうした映像記録も紛失してしまったか、あるいは未だにアーカイヴ化されず眠ったままであると考えられます。
よって、チェンシ自身がどのように踊ったかを語る視覚史料は写真に限られます。写真に残された、身体の使い方や手先、指先の形などからは、彼女が十分に熟練したダンサーであったことがわかります【図1】。チェンシによる回想も残されていますが、回想は主観に基づくので、それを裏づける新聞記事や公演のチラシ、舞台評などの一次史料を掘り起こす必要がありました。

図1:サンタクローチェ・スタジオ撮影《航空ダンスAerodanzaのポーズをとるジャンニーナ・チェンシ》、1931年(17.5×12.5cm、トレント・ロヴェレート近現代美術館、ロヴェレート)
※ Giovanni Lista, Cinema e fotografia futurista, Milano: Skira, 2001より。
一方で、チェンシが踊った「航空ダンス」の振り付けについては、彼女が現役を引退した後に開いていたバレエ教室の教え子たちの映像があります。「未来派のダンスを自分たちも踊ってみたいから教えてください」と頼み、1980年代にそれが発表会やテレビのスタジオで実現することになりました。チェンシの教え子たちによるダンスの「再現」、すなわち演目の再上演の映像からある程度オリジナルの振り付けを推測することは可能です。ただし、それらはあくまでも「翻案」としてとらえなければなりません。実はチェンシ自身も、「航空ダンス」で表現される、飛行士の経験する興奮、恐怖、酩酊する身体感覚はひとりひとり異なるものだから、それぞれの「航空ダンス」も違ってよいのだと考えていました。彼女には、自分が踊った通りに踊らせる意図はなかったようです。
――この著作では、従来の未来派に関するものと比べ、1920-30年代における芸術運動の状況も大きく取り上げられています。この時代は、古典的な言い方に従えば「第二未来派」、あるいは「英雄時代」の後になります。本著では、こうした区分は基本的に否定されるべきものとして取り扱われていますが、この時代の未来派特有の面白さはどこにあるでしょうか。
未来派の創造には、理論を先に立ち上げるというやり方があります。その場合、理論が実践を伴う場合もあれば、それを必要としない場合もあり、さらには実践まで時間を要した場合もあります。第一次世界大戦期以降は、自動車による走行や飛行機による飛行体験が、一般の人々にも体験可能になった時代であり、そこで未来派の理論もさらに実践可能になってきたわけです。だからこそ、1920年代以降が面白いと私は見ています。芸術の実践が、地上のダイナミズムから空中のダイナミズムへ、テキストとカンヴァスから劇場空間へと展開していく時代でもあります。
理論と実践に時間差が起こる理由としては、ヨーロッパの他の列強国にはない、イタリアにおける地域性の問題もありました。統一国家とは名ばかりで、各地で話される言葉が違い、ミラノやローマやナポリなどにそれぞれの文化はあっても、個々で行われていることをお互いに知らない――それが当時のイタリアの状況でした。そこにマリネッティが、手紙・新聞・雑誌を駆使し、パフォーマンスを行い、十年でイタリア半島全土にひとつの芸術思潮を浸透させてしまいました【図2】。これは見落としてはならない成果であると思います。

図2:マリオ・カスタニェーリ(1892-1940)撮影、「第1回未来派全国会議Primo Congresso Nazionale Futurista」の際、ミラノのダル=ヴェルメ劇場で開催された「イタリア性の促進者マリネッティに捧げる全国式典」風景、1924年。
※ 兵庫県立近代美術館(編)『イタリア未来派写真展』(1987年)より。
この時期の未来派の「作品の価値」についてですが、たとえばトゥリオ・クラーリ(Tullio Crali/1910-2000)の絵画【図3】は、画家として比肩する者のいないピカソのそれと比べれば、より高い価値があるとはみなされません。でも私が思うのは「じゃあピカソは空を飛んだ?」ということです(笑)。ピカソは空を飛んだ視点で絵画を描こうとはしなかったけれど、未来派の画家はそれをした――この実践力だけでも、私は彼らが革新的だったと思うし、1920年代以降も未来派は、衰退したどころか発展を続けたと見ています。マリネッティは実際に飛行機を体験する前に、「未来派創立宣言」で飛行機のプロペラの爆音に言及していますし、画家たちも空を飛び、チェンシも同様に飛行の体感を自分の振り付けに生かすようになります。芸術に存在しなかった前代未聞の体験と媒体を使った創作を行ったことに、圧倒的な価値があると私は考えています【図4】。

図3:クラーリ《女性航空ダンサーAerodanzatrice》、1931年(キャンバスに油彩、50×71cm、パオロ・サンツィン・コレクション、ラ=スペツィア)
※ Marino de Grassi (et al.), Futurismo giuliano-gli anni trenta: omaggio a Tullio Crali, Mariano del Friuli (GO): Edizioni della Laguna, 2009より。

図4:チェーザレ・チェラーティ(1899-1969)《プロペラ:自由写真の航空コンポジションEliche: aerocomposizione fotolibera》、1931年(14.5×19cm、トレント・ロヴェレート近現代美術館、ロヴェレート)
※ Giovanni Lista, Cinema e fotografia futurista, Milano: Skira, 2001より。
――現在の日本において、未来派の紹介や研究をする上で、あなたが課題と感じている事について教えてください。
先行研究を読む際には、それらが未来派の何かを述べ定義するにあたって、どこまで一次史料を精査しているのかに注目しています。そうではない研究手法もあってよいと思うのですが、あらゆる一次史料を漁るタイプの研究者こそが、この芸術運動の実態と変容をめぐり再発見し続けてきました。私の未来派研究のアプローチのアンチテーゼとしては、本書ではポール・ヴィリリオの解釈に触れています。彼の理論は説得力があり正しいと思うけれども、未来派の扱い方が自分の言いたいことありきで、未来派の言葉遣いを摘まみ上げて表面的に扱っているに過ぎない印象を受けます。
私が最近痛感するのは、日本語圏の学術的議論の場において「イタリア未来派」とは何なのか、まったく共有されていない現状です。どの言語を介して日本語で論じるのか、どの学術領域において考察するかによって、「未来派」像はいかようにでも姿を変えます。たとえば美術史家は美術における運動、文学研究者は文学における運動として言及する中で、共通見解とされているはずの対象がゆるやかに異なるようです。未来派を総体的に見る視座を共有することが課題です。
――あなたにとって、現代における未来派の意義とはどのようなものでしょうか。
そもそも「イタリア未来派とは何か」を考える際に、私が掲げたいキーワードは二つあります。本書『未来派・飛行機・ダンス』で私は、イタリア未来派を総括するならば、それはあらゆる芸術分野と人の生活を巻き込んだ「現象」であったことを強調しました。イタリア語の“fenomeno”という言葉はジョヴァンニ・リスタも意識的に使っていますが、この「現象」はいくらマチズモの様相を呈しファシズムと時代を共にしたとしても、それは多面体の一面にすぎません。また、同時代から現代に至るまで、革新を志す芸術創作に「触媒」として影響を残す存在でもありました。未来派芸術運動が別のものに変容した、あるいは衰退したといった線引きに相反して、常に何かを発生させる起爆剤として、クリエイターたちにもヒントを与え続けています。とくに後者の特徴は、現代における意義だといえます。
先に名前を挙げたクラーリのように、戦後も自分は未来派の一員であると言い、手紙を批評家に書き送り続けたほど、自分の生きざまと未来派が分離せず、アイデンティティとなっていた芸術家がいました【図5】。ちょっと侮蔑するニュアンスで、なお若かった当時の彼を未来派の「生き残り」と呼んだ相手には、我々は「生き残り」ではないと彼は反論していました。それがまさに、未来派という「現象」が「触媒」として今なお有効である一例ではないかと思います――「生き残った」のではなく、「生き続けている」のだと。

図5:第二次世界大戦後、ミラノ・ブルー画廊で開催された未来派の展覧会で、詩人フランチェスコ・カンジュッロ(1884-1977/中央)と語りあうクラーリ(左)、1970年
※ Claudio Rebeschini (a cura di), Crali aeropittore/futurista, Milano: Electa, 1994より。
―――――
筆者によるインタビューは以上となるが、今後も『未来派・飛行機・ダンス イタリアの前衛芸術における飛ぶ身体と踊る身体』には、書評紙や研究誌における書評や、合評会における討論が望まれているだろう。また、前回は紹介できなかったが、You Tube上の「本チャンネル」によるインタビューでは、横田さん本人が自著を語っている映像も見ることができるので、そちらも読書の参考にしていただきたい。
―――――
(おおた たけと)
・太田岳人のエッセイ「よりみち未来派」は隔月・偶数月の12日に掲載します。次回は2024年10月12日の予定です。
■太田岳人
1979年、愛知県生まれ。2013年、千葉大学大学院社会文化科学研究科修了。日本学術振興会特別研究員を経て、今年度は千葉大学・東京医科歯科大学・東京工業大学ほかで非常勤講師の予定。専門は未来派を中心とするイタリア近現代美術史。
E-mail: punchingcat@hotmail.com
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『未来派・飛行機・ダンス』発刊に寄せて――横田さやかさんインタビュー(2)
太田岳人
前回の記事では、今年4月に未来派についての研究書『未来派・飛行機・ダンス イタリアの前衛芸術における飛ぶ身体と踊る身体』(三元社)を公刊された、横田さやかさんへのイ
ンタビューを掲載した。今回の記事はその後半部分にあたるもので、ダンスという分野に特有の調査の難しさや、未来派の中でもあまり知られていない時代を取り上げる意義といった点について、さらに語っていただいている。まだ前回の記事をお読みでない方には、そちらとあわせてお読みいただきたい。前回同様、インタビュー内容のまとめ、および注や図版についての責任はすべて筆者に属する。
―――――
――ダンスという分野は、造形芸術などと比較すると、形に残りにくい部分が多いと私には考えられますが、チェンシの研究をされる上で難しかったことなどはありますか。
本当に史料が乏しくて、非常に難しかったです。まず、ジャンニーナ・チェンシの存在が再発見されたのは1979年で、それまで未来派そのものが等閑に付されていたのと同じように、チェンシについても語られることはありませんでした。それ以降も、現在まで映像記録は見つかっていません。この時代、舞踊は映像に残されていなかったかというと、もっと早い時期のイサドラ・ダンカンやロイ・フラーのものは残っているので、誰かが撮影していた可能性は十分に考えられます。しかし、芸術史や文化史における未来派の価値が長らく認められてこなかったため、そうした映像記録も紛失してしまったか、あるいは未だにアーカイヴ化されず眠ったままであると考えられます。
よって、チェンシ自身がどのように踊ったかを語る視覚史料は写真に限られます。写真に残された、身体の使い方や手先、指先の形などからは、彼女が十分に熟練したダンサーであったことがわかります【図1】。チェンシによる回想も残されていますが、回想は主観に基づくので、それを裏づける新聞記事や公演のチラシ、舞台評などの一次史料を掘り起こす必要がありました。

図1:サンタクローチェ・スタジオ撮影《航空ダンスAerodanzaのポーズをとるジャンニーナ・チェンシ》、1931年(17.5×12.5cm、トレント・ロヴェレート近現代美術館、ロヴェレート)
※ Giovanni Lista, Cinema e fotografia futurista, Milano: Skira, 2001より。
一方で、チェンシが踊った「航空ダンス」の振り付けについては、彼女が現役を引退した後に開いていたバレエ教室の教え子たちの映像があります。「未来派のダンスを自分たちも踊ってみたいから教えてください」と頼み、1980年代にそれが発表会やテレビのスタジオで実現することになりました。チェンシの教え子たちによるダンスの「再現」、すなわち演目の再上演の映像からある程度オリジナルの振り付けを推測することは可能です。ただし、それらはあくまでも「翻案」としてとらえなければなりません。実はチェンシ自身も、「航空ダンス」で表現される、飛行士の経験する興奮、恐怖、酩酊する身体感覚はひとりひとり異なるものだから、それぞれの「航空ダンス」も違ってよいのだと考えていました。彼女には、自分が踊った通りに踊らせる意図はなかったようです。
――この著作では、従来の未来派に関するものと比べ、1920-30年代における芸術運動の状況も大きく取り上げられています。この時代は、古典的な言い方に従えば「第二未来派」、あるいは「英雄時代」の後になります。本著では、こうした区分は基本的に否定されるべきものとして取り扱われていますが、この時代の未来派特有の面白さはどこにあるでしょうか。
未来派の創造には、理論を先に立ち上げるというやり方があります。その場合、理論が実践を伴う場合もあれば、それを必要としない場合もあり、さらには実践まで時間を要した場合もあります。第一次世界大戦期以降は、自動車による走行や飛行機による飛行体験が、一般の人々にも体験可能になった時代であり、そこで未来派の理論もさらに実践可能になってきたわけです。だからこそ、1920年代以降が面白いと私は見ています。芸術の実践が、地上のダイナミズムから空中のダイナミズムへ、テキストとカンヴァスから劇場空間へと展開していく時代でもあります。
理論と実践に時間差が起こる理由としては、ヨーロッパの他の列強国にはない、イタリアにおける地域性の問題もありました。統一国家とは名ばかりで、各地で話される言葉が違い、ミラノやローマやナポリなどにそれぞれの文化はあっても、個々で行われていることをお互いに知らない――それが当時のイタリアの状況でした。そこにマリネッティが、手紙・新聞・雑誌を駆使し、パフォーマンスを行い、十年でイタリア半島全土にひとつの芸術思潮を浸透させてしまいました【図2】。これは見落としてはならない成果であると思います。

図2:マリオ・カスタニェーリ(1892-1940)撮影、「第1回未来派全国会議Primo Congresso Nazionale Futurista」の際、ミラノのダル=ヴェルメ劇場で開催された「イタリア性の促進者マリネッティに捧げる全国式典」風景、1924年。
※ 兵庫県立近代美術館(編)『イタリア未来派写真展』(1987年)より。
この時期の未来派の「作品の価値」についてですが、たとえばトゥリオ・クラーリ(Tullio Crali/1910-2000)の絵画【図3】は、画家として比肩する者のいないピカソのそれと比べれば、より高い価値があるとはみなされません。でも私が思うのは「じゃあピカソは空を飛んだ?」ということです(笑)。ピカソは空を飛んだ視点で絵画を描こうとはしなかったけれど、未来派の画家はそれをした――この実践力だけでも、私は彼らが革新的だったと思うし、1920年代以降も未来派は、衰退したどころか発展を続けたと見ています。マリネッティは実際に飛行機を体験する前に、「未来派創立宣言」で飛行機のプロペラの爆音に言及していますし、画家たちも空を飛び、チェンシも同様に飛行の体感を自分の振り付けに生かすようになります。芸術に存在しなかった前代未聞の体験と媒体を使った創作を行ったことに、圧倒的な価値があると私は考えています【図4】。

図3:クラーリ《女性航空ダンサーAerodanzatrice》、1931年(キャンバスに油彩、50×71cm、パオロ・サンツィン・コレクション、ラ=スペツィア)
※ Marino de Grassi (et al.), Futurismo giuliano-gli anni trenta: omaggio a Tullio Crali, Mariano del Friuli (GO): Edizioni della Laguna, 2009より。

図4:チェーザレ・チェラーティ(1899-1969)《プロペラ:自由写真の航空コンポジションEliche: aerocomposizione fotolibera》、1931年(14.5×19cm、トレント・ロヴェレート近現代美術館、ロヴェレート)
※ Giovanni Lista, Cinema e fotografia futurista, Milano: Skira, 2001より。
――現在の日本において、未来派の紹介や研究をする上で、あなたが課題と感じている事について教えてください。
先行研究を読む際には、それらが未来派の何かを述べ定義するにあたって、どこまで一次史料を精査しているのかに注目しています。そうではない研究手法もあってよいと思うのですが、あらゆる一次史料を漁るタイプの研究者こそが、この芸術運動の実態と変容をめぐり再発見し続けてきました。私の未来派研究のアプローチのアンチテーゼとしては、本書ではポール・ヴィリリオの解釈に触れています。彼の理論は説得力があり正しいと思うけれども、未来派の扱い方が自分の言いたいことありきで、未来派の言葉遣いを摘まみ上げて表面的に扱っているに過ぎない印象を受けます。
私が最近痛感するのは、日本語圏の学術的議論の場において「イタリア未来派」とは何なのか、まったく共有されていない現状です。どの言語を介して日本語で論じるのか、どの学術領域において考察するかによって、「未来派」像はいかようにでも姿を変えます。たとえば美術史家は美術における運動、文学研究者は文学における運動として言及する中で、共通見解とされているはずの対象がゆるやかに異なるようです。未来派を総体的に見る視座を共有することが課題です。
――あなたにとって、現代における未来派の意義とはどのようなものでしょうか。
そもそも「イタリア未来派とは何か」を考える際に、私が掲げたいキーワードは二つあります。本書『未来派・飛行機・ダンス』で私は、イタリア未来派を総括するならば、それはあらゆる芸術分野と人の生活を巻き込んだ「現象」であったことを強調しました。イタリア語の“fenomeno”という言葉はジョヴァンニ・リスタも意識的に使っていますが、この「現象」はいくらマチズモの様相を呈しファシズムと時代を共にしたとしても、それは多面体の一面にすぎません。また、同時代から現代に至るまで、革新を志す芸術創作に「触媒」として影響を残す存在でもありました。未来派芸術運動が別のものに変容した、あるいは衰退したといった線引きに相反して、常に何かを発生させる起爆剤として、クリエイターたちにもヒントを与え続けています。とくに後者の特徴は、現代における意義だといえます。
先に名前を挙げたクラーリのように、戦後も自分は未来派の一員であると言い、手紙を批評家に書き送り続けたほど、自分の生きざまと未来派が分離せず、アイデンティティとなっていた芸術家がいました【図5】。ちょっと侮蔑するニュアンスで、なお若かった当時の彼を未来派の「生き残り」と呼んだ相手には、我々は「生き残り」ではないと彼は反論していました。それがまさに、未来派という「現象」が「触媒」として今なお有効である一例ではないかと思います――「生き残った」のではなく、「生き続けている」のだと。

図5:第二次世界大戦後、ミラノ・ブルー画廊で開催された未来派の展覧会で、詩人フランチェスコ・カンジュッロ(1884-1977/中央)と語りあうクラーリ(左)、1970年
※ Claudio Rebeschini (a cura di), Crali aeropittore/futurista, Milano: Electa, 1994より。
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筆者によるインタビューは以上となるが、今後も『未来派・飛行機・ダンス イタリアの前衛芸術における飛ぶ身体と踊る身体』には、書評紙や研究誌における書評や、合評会における討論が望まれているだろう。また、前回は紹介できなかったが、You Tube上の「本チャンネル」によるインタビューでは、横田さん本人が自著を語っている映像も見ることができるので、そちらも読書の参考にしていただきたい。
―――――
(おおた たけと)
・太田岳人のエッセイ「よりみち未来派」は隔月・偶数月の12日に掲載します。次回は2024年10月12日の予定です。
■太田岳人
1979年、愛知県生まれ。2013年、千葉大学大学院社会文化科学研究科修了。日本学術振興会特別研究員を経て、今年度は千葉大学・東京医科歯科大学・東京工業大学ほかで非常勤講師の予定。専門は未来派を中心とするイタリア近現代美術史。
E-mail: punchingcat@hotmail.com
●本日のお勧め作品は、倉俣史朗です。

1982年デザイン(2019年製造)
金属、ファブリック
W62.0×D92.0×H65.5cm (SH38.0cm)
Ed.33
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●「杣木浩一×宮脇愛子」展カタログを刊行

執筆:杣木浩一
図版:26点掲載(杣木浩一13点、宮脇愛子13点)
編集:尾立麗子(ときの忘れもの)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
価格:1,100円(税込み)+送料250円
オンラインでも販売中です。
●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。

TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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