栗田秀法「現代版画の散歩道」
第5回 村上早

村上早《カフカ》2014年 銅版、雁皮刷り(リフトグランド)
イメージサイズ:100.0×135.0cm
シートサイズ:126.0×161.0cm
大きな作品である。大型銅版画と云えば、古くは山口啓介による《方舟》などの巨大な終末論的なエッチング作品が思い起こされるが、本作品は趣をまったく異にしている。布の掛けられた大きな円形テーブルの上に少女がうつぶせになって横たわっている。黒の上衣を身に着けたこの人物は、手前に突き出された格好になった左ひじに重ねられた右手の上に頭を置いている。頭部がどうなっているかは判然としないが、髪の毛が激しく反時計回りに渦巻くように逆立っている。背中の真ん中あたりからは大きな蝉の羽のようなものが生え、その下にはわずかに黒いスカートのようなものがのぞいている。そこから左足がくるぶしから下のみ姿を現し、右足は膝上から下の部分がテーブルの上に垂れ下がっている。
本作品は腐蝕銅版画であるものの、通常のエッチング作品とは異なり、太めの筆でのびやかに描かれたような印象を与える。これは砂糖の飽和溶液等の水溶性の物質で銅の版面上に直接描画するというリフトグランド・エッチングという手法によるもので、絵柄の上にグランドを引き、乾燥後に水洗いすると砂糖が溶解してその上のグランドがもち上げられることで腐食が可能となる。ちなみにこの作家は白のポスターカラーを常用しているようである。アクアチントの併用と相まって、ニードル等で描画するエッチングの線描の世界とは全く異なる、リトグラフ顔負けの絵画性豊かな世界が現出している。他方、6枚のシートで構成された大画面の継ぎ目の何か所かに意図的にズレを設けることでその切断感が画面に不安感を強めている。
いささか特殊な手法が採用されたのには、作家の独自のヴィジョンや世界観との密接な関連がある。題名に「カフカ」とあるように、目覚めると寝台の上で巨大な虫に変身していた『変身』の主人公グレーゴル=ザムザが下敷きにされている。おそらくこの作家は疎外された人間の心が宿す孤独や不安を制作のバネにするタイプの芸術家なのであろう。自ら語るところを敷衍すると、銅版画の傷は被虐あるいは加虐から生じる心の傷であり、摺り取られるインクは血で、摺り取るものは包帯やガーゼなのだという。制作行為はある意味で自己治癒、自己救済の儀式なのであり、心のわだかまりが昇華される場でもあったのである。
筆者がこの作家の作品をまとめてみる機会を得たのは「第3回PATinKyoto 京都版画トリエンナーレ2022」の会場においてであった。独自の表現世界の鮮烈さにおいてリトグラフの松元悠とともに会場で異彩を放っていたことは記憶に新しい。《カフカ》は大学卒業の年に制作されたもので、このような早さで自らのヴィジョンを十全に表現できる技法に出会い、ものにすることができたことは驚きである。傍から見ると銅版画の技法や表現の制約をやすやすと乗り越えて見せてくれたようにも見え、銅版画の可能性がまだまだ大きく開かれていることを改めて意識させてくれる。村上は、本作の後、腐蝕液を直接筆につけて描くスピットバイトの手法を併用したり、色彩を取り入れたり、表現の幅を広げていく。この作品の翌年から数々の受賞を重ね、2019年には上田市立美術館で個展を開催する機会が与えられた。その翌年度には東京国立近代美術館に《カフカ》や≪まわる≫を含む4点が収蔵されている。
作家として華々しいデビューを飾ったとはいえ、その表現世界に向き合う姿勢は現在も変わりない。作家から紡ぎ出された数々のイメージは、幼少時に心臓病を患い生死の境をさまよった経験、実家の動物病院で動物の苦しみや死を目にした経験をもつこの作者ならではの他の借り物でない命に対する強い思いに裏打ちされており、見る者の心を捉えて離さない。以前、村上の作品にしばしば登場し、自在なポーズをとる童子形の少女を見たとき、たまの「電車かもしれない」のPV(イラストレーション:近藤聡乃)が頭に浮かんできたことがあった。けれども今回改めて村上の一連の作品を見てみると、人物の顔や表情が描かれていない点で大いに異なっていた。動物の顔はちゃんと描かれている場合が多いのにもかかわらず、である。腐食の痕跡の線条が織りなす巧みなポーズと姿勢だけで観者に情感を呼び起こすことを可能とする描写力にも舌を巻かざるを得ない。人物がうつ伏せの場合には顔は見えないが、そのことがかえって見る者の感情移入を誘う見事な仕掛けになっている。30才を超えたばかりのこの作家の今後を引き続き注視していきたい。
(くりた ひでのり)
●栗田秀法先生による連載「現代版画の散歩道」は毎月25日の更新です。次回は2024年10月25日を予定しています。どうぞお楽しみに。
■栗田秀法
1963年愛知県生まれ。 1986年名古屋大学文学部哲学科(美学美術史専攻)卒業。1989年名古屋大学大学院文学研究科哲学専攻(美学美術史専門)博士後期課程中途退学。 愛知県美術館主任学芸員、名古屋芸術大学美術学部准教授、名古屋大学大学院人文学研究科教授を経て、現在、跡見学園女子大学文学部教授、名古屋大学名誉教授。博士(文学)。専門はフランス近代美術史、日本近現代美術史、美術館学。
著書、論文:『プッサンにおける語りと寓意』(三元社、2014)、編著『現代博物館学入門』(ミネルヴァ書房、2019)、「戦後の国際版画展黎明期の二つの版画展と日本の版画家たち」『名古屋芸術大学研究紀要』37(2016)など。
展覧会:「没後50年 ボナール展」(1997年、愛知県美術館、Bunkamura ザ・ミュージアム)、「フランス国立図書館特別協力 プッサンとラファエッロ 借用と創造の秘密」(1999年、愛知県美術館、足利市立美術館)、「大英博物館所蔵フランス素描展」(2002年、国立西洋美術館、愛知県美術館)など
●本日のお勧め作品は村上早です。
《カフカ》
2014年
銅版、雁皮刷り(リフトグランド)
イメージサイズ:100.0×135.0cm
シートサイズ:126.0×161.0cm
A.P.
サインあり
《浮くくま》
2014年
銅版画
25.0×25.0cm
Ed.15
サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
*画廊亭主敬白
村上早さんのことを知ったのは2022年、東京国立近代美術館の新収蔵作品展でした。同郷ということもあり、地元の画廊に頼んで「カフカ」をコレクションしました。
お目にかかったこともありませんが、久々に出現した版画表現の逸材であることは間違いありません。
2015年の第一回から欠かさず参加してきた「ART FAIR ASIA FUKUOKA 2024 アートフェアアジア福岡」にスタッフ4人が出張してきました。
最初の頃は会場はホテル、ブース代は宿泊料+α程度、夫婦二人の旅費と、壁に釘は打てないから大きな作品は持ち込めないので輸送費は段ボール4~5個で宅急便で1万円もかからなかった。数点売れればおつりが来て、結構豪遊できた。
それが今回は100軒前後が参加する大フェアに。ブース代は高騰、広いブースを埋めるには相応の作品も必要で、作品や展示台、工具などなど、なんと段ボール42個の大荷物でした。飛行機代もホテル代も桁違いに高くなった。
コストを考えると相当の売り上げがないと赤字です。
社長も亭主も「だからたくさん売ってこい」などとは言いませんが、どうも顔には書いてあったみたいで(笑)スタッフは豪遊どころじゃあなかったらしい。
奮闘の甲斐あって多くのお客様(特に九州は人情厚い)と暖かな交流ができたようです。
「さきほど夜タクシーで納品してきました。小さなお子様がいらっしゃる30代の若いご夫婦。今日は何か作品を買うと決めてフェアに来たそう。ご自宅に伺って箱から作品を出すと奥様は涙を流して喜んでくださいました。」(松下の報告メールより)
嬉しいですね。

ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
第5回 村上早

村上早《カフカ》2014年 銅版、雁皮刷り(リフトグランド)
イメージサイズ:100.0×135.0cm
シートサイズ:126.0×161.0cm
大きな作品である。大型銅版画と云えば、古くは山口啓介による《方舟》などの巨大な終末論的なエッチング作品が思い起こされるが、本作品は趣をまったく異にしている。布の掛けられた大きな円形テーブルの上に少女がうつぶせになって横たわっている。黒の上衣を身に着けたこの人物は、手前に突き出された格好になった左ひじに重ねられた右手の上に頭を置いている。頭部がどうなっているかは判然としないが、髪の毛が激しく反時計回りに渦巻くように逆立っている。背中の真ん中あたりからは大きな蝉の羽のようなものが生え、その下にはわずかに黒いスカートのようなものがのぞいている。そこから左足がくるぶしから下のみ姿を現し、右足は膝上から下の部分がテーブルの上に垂れ下がっている。
本作品は腐蝕銅版画であるものの、通常のエッチング作品とは異なり、太めの筆でのびやかに描かれたような印象を与える。これは砂糖の飽和溶液等の水溶性の物質で銅の版面上に直接描画するというリフトグランド・エッチングという手法によるもので、絵柄の上にグランドを引き、乾燥後に水洗いすると砂糖が溶解してその上のグランドがもち上げられることで腐食が可能となる。ちなみにこの作家は白のポスターカラーを常用しているようである。アクアチントの併用と相まって、ニードル等で描画するエッチングの線描の世界とは全く異なる、リトグラフ顔負けの絵画性豊かな世界が現出している。他方、6枚のシートで構成された大画面の継ぎ目の何か所かに意図的にズレを設けることでその切断感が画面に不安感を強めている。
いささか特殊な手法が採用されたのには、作家の独自のヴィジョンや世界観との密接な関連がある。題名に「カフカ」とあるように、目覚めると寝台の上で巨大な虫に変身していた『変身』の主人公グレーゴル=ザムザが下敷きにされている。おそらくこの作家は疎外された人間の心が宿す孤独や不安を制作のバネにするタイプの芸術家なのであろう。自ら語るところを敷衍すると、銅版画の傷は被虐あるいは加虐から生じる心の傷であり、摺り取られるインクは血で、摺り取るものは包帯やガーゼなのだという。制作行為はある意味で自己治癒、自己救済の儀式なのであり、心のわだかまりが昇華される場でもあったのである。
筆者がこの作家の作品をまとめてみる機会を得たのは「第3回PATinKyoto 京都版画トリエンナーレ2022」の会場においてであった。独自の表現世界の鮮烈さにおいてリトグラフの松元悠とともに会場で異彩を放っていたことは記憶に新しい。《カフカ》は大学卒業の年に制作されたもので、このような早さで自らのヴィジョンを十全に表現できる技法に出会い、ものにすることができたことは驚きである。傍から見ると銅版画の技法や表現の制約をやすやすと乗り越えて見せてくれたようにも見え、銅版画の可能性がまだまだ大きく開かれていることを改めて意識させてくれる。村上は、本作の後、腐蝕液を直接筆につけて描くスピットバイトの手法を併用したり、色彩を取り入れたり、表現の幅を広げていく。この作品の翌年から数々の受賞を重ね、2019年には上田市立美術館で個展を開催する機会が与えられた。その翌年度には東京国立近代美術館に《カフカ》や≪まわる≫を含む4点が収蔵されている。
作家として華々しいデビューを飾ったとはいえ、その表現世界に向き合う姿勢は現在も変わりない。作家から紡ぎ出された数々のイメージは、幼少時に心臓病を患い生死の境をさまよった経験、実家の動物病院で動物の苦しみや死を目にした経験をもつこの作者ならではの他の借り物でない命に対する強い思いに裏打ちされており、見る者の心を捉えて離さない。以前、村上の作品にしばしば登場し、自在なポーズをとる童子形の少女を見たとき、たまの「電車かもしれない」のPV(イラストレーション:近藤聡乃)が頭に浮かんできたことがあった。けれども今回改めて村上の一連の作品を見てみると、人物の顔や表情が描かれていない点で大いに異なっていた。動物の顔はちゃんと描かれている場合が多いのにもかかわらず、である。腐食の痕跡の線条が織りなす巧みなポーズと姿勢だけで観者に情感を呼び起こすことを可能とする描写力にも舌を巻かざるを得ない。人物がうつ伏せの場合には顔は見えないが、そのことがかえって見る者の感情移入を誘う見事な仕掛けになっている。30才を超えたばかりのこの作家の今後を引き続き注視していきたい。
(くりた ひでのり)
●栗田秀法先生による連載「現代版画の散歩道」は毎月25日の更新です。次回は2024年10月25日を予定しています。どうぞお楽しみに。
■栗田秀法
1963年愛知県生まれ。 1986年名古屋大学文学部哲学科(美学美術史専攻)卒業。1989年名古屋大学大学院文学研究科哲学専攻(美学美術史専門)博士後期課程中途退学。 愛知県美術館主任学芸員、名古屋芸術大学美術学部准教授、名古屋大学大学院人文学研究科教授を経て、現在、跡見学園女子大学文学部教授、名古屋大学名誉教授。博士(文学)。専門はフランス近代美術史、日本近現代美術史、美術館学。
著書、論文:『プッサンにおける語りと寓意』(三元社、2014)、編著『現代博物館学入門』(ミネルヴァ書房、2019)、「戦後の国際版画展黎明期の二つの版画展と日本の版画家たち」『名古屋芸術大学研究紀要』37(2016)など。
展覧会:「没後50年 ボナール展」(1997年、愛知県美術館、Bunkamura ザ・ミュージアム)、「フランス国立図書館特別協力 プッサンとラファエッロ 借用と創造の秘密」(1999年、愛知県美術館、足利市立美術館)、「大英博物館所蔵フランス素描展」(2002年、国立西洋美術館、愛知県美術館)など
●本日のお勧め作品は村上早です。

2014年
銅版、雁皮刷り(リフトグランド)
イメージサイズ:100.0×135.0cm
シートサイズ:126.0×161.0cm
A.P.
サインあり

2014年
銅版画
25.0×25.0cm
Ed.15
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
*画廊亭主敬白
村上早さんのことを知ったのは2022年、東京国立近代美術館の新収蔵作品展でした。同郷ということもあり、地元の画廊に頼んで「カフカ」をコレクションしました。
お目にかかったこともありませんが、久々に出現した版画表現の逸材であることは間違いありません。
2015年の第一回から欠かさず参加してきた「ART FAIR ASIA FUKUOKA 2024 アートフェアアジア福岡」にスタッフ4人が出張してきました。
最初の頃は会場はホテル、ブース代は宿泊料+α程度、夫婦二人の旅費と、壁に釘は打てないから大きな作品は持ち込めないので輸送費は段ボール4~5個で宅急便で1万円もかからなかった。数点売れればおつりが来て、結構豪遊できた。
それが今回は100軒前後が参加する大フェアに。ブース代は高騰、広いブースを埋めるには相応の作品も必要で、作品や展示台、工具などなど、なんと段ボール42個の大荷物でした。飛行機代もホテル代も桁違いに高くなった。
コストを考えると相当の売り上げがないと赤字です。
社長も亭主も「だからたくさん売ってこい」などとは言いませんが、どうも顔には書いてあったみたいで(笑)スタッフは豪遊どころじゃあなかったらしい。
奮闘の甲斐あって多くのお客様(特に九州は人情厚い)と暖かな交流ができたようです。
「さきほど夜タクシーで納品してきました。小さなお子様がいらっしゃる30代の若いご夫婦。今日は何か作品を買うと決めてフェアに来たそう。ご自宅に伺って箱から作品を出すと奥様は涙を流して喜んでくださいました。」(松下の報告メールより)
嬉しいですね。

ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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