梅津元「瑛九-フォト・デッサンの射程」
第14回「Turn My Way-第33回瑛九展・湯浅コレクション(その7)」
Turn My Way、前回の「Crystal」と同じく、ニュー・オーダーが2001年にリリースしたアルバム『Get Ready』の収録曲である。前回、『Get Ready』からの選曲となったのは、思いがけないことだったのだが、それは、1回だけの寄り道のつもりだったスピンオフが、思いがけず、3回にわたったことと、どこかで連動しているのだろう。3回にわたるスピンオフを終えて、本筋へと戻る今回は、まさに、「Turn My Way」の回なのだから。
なぜか道を見失ってしまった、あの場所に戻らねば、というフレーズが、胸に刺さる。確かに、いま、本来の場所、つまり、「湯浅コレクション」に戻らなければ、先に進むことが出来なくなってしまう気がしている。同時に、スピンオフに入る前の記述を、さらには、私がこれまで書いて来たことを、見直さなければならなくなる、そんな予感さえ、ある。そのような心情を見透かすように、最後に待ち構えているフレーズは、「I thought that I was right」、自分は正しいと思っていた、なのである。
「瑛九-まなざしのその先に-」横須賀美術館
3回にわたることになったスピンオフの渦中に、思いがけない幸運が訪れた。前回、追記として一言だけ書くことができた、横須賀美術館における瑛九の個展「瑛九-まなざしのその先に-」のことである。横須賀美術館が瑛九の個展を準備しているという話は聞いていたが、具体的な会期は知らないままだったため、私にとっては、そうか、この会期だったのか、もう始まるのか、という、とてつもなく幸運な出来事である。
そもそも、「連載」という形で文章を書くのは、今回が初めてであるため、執筆が続く中で、色々なことを考えてしまう。瑛九について書いているのだから、瑛九にまつわる出来事が何か起きているのならば、そのことに触れないのは不自然ではないか、そんな気持ちに駆られて、その時々に、思いを綴ってきた、迷走だらけではあったけれど。だからこそ、横須賀美術館における瑛九展にまつわる出来事についても、書いておきたい。今回の第14回の公開は10月24日、瑛九展の会期は11月4日まで、つまり、次回15回が公開される時には、すでにこの展覧会は終了してしまっている。
展覧会全体については、展覧会の担当学芸員である栗林陵さんのエッセイや、ときの忘れもののスタッフである松下さんのレポートを参照いただきたい。瑛九の全貌を体感することのできる素晴らしい展覧会となっているので、11月4日の閉幕までに、ひとりでも多くの方に見ていただきたい。ここで、この展覧会にまつわる出来事として、どうしても書いておかねばならないと私が強く思っているのは、開幕初日、9月14日に行われた、宮崎県立美術館の学芸員である小林美紀さんによるレクチャー「瑛九の目」のことである。
今回、「湯浅コレクション」に戻るにあたり、小林さんのレクチャーのことを書いている、いや、書かせてもらえていることに、必然以上の巡り合わせを感じざるをえない。2023年の6月、「第33回瑛九展 湯浅コレクション」を見に行き、私の中で何かが覚醒したことを、第1回で書いている。この時、小林さんとの再会を果たしており、そのことも含めて、この連載の仕事に向き合い、「書かねばならない」と思うに至ったのである。
だからこそ、「湯浅コレクション」に戻るこのタイミングで、小林さんのレクチャーを聞くことができたことへの感謝の気持ちが強くなる。ここで、どうしても書いておきたいのは、小林さんが、その感動的なレクチャーの最後に、瑛九が死の直前にスケッチブックに描いた、「絶筆詩」と呼ばれる、絵でもあり、詩でもある、《ヒミツ》を、読んでくださったことである。
《ヒミツ》
小林さんは、その前に、瑛九の声が録音された記録があるはずだが、見つからない、瑛九の声を聞くことができない、ということを、力説されていた。瑛九の調査に小林さんがどれほどのエネルギーを注いできたかを、注いでいるかを、これからも注ぐであろうことを、このうえなくよく知る身としては、小林さんの深い気持ちが滲み出るその語り方に、深い感銘を受けた。そして、録音された瑛九の声の記録についての山田光春の記述を読んだ時の記憶が、よみがえってきた。小林さんの語り口からも、以下の光春の文章からも、瑛九の声の記録が行方不明であることの無念さが、ひしひしと伝わってくる。
「ところでこれを郡司三郎が録音したものも、放送局で使われた音盤もその後散逸し、彼の声の録音されたものはそれ以外にはないので、人なつっこい口調で語った彼の声を耳にすることは、残念ながら今日ではできなくなっている。」
(出典:山田光春『瑛九 評伝と作品』青龍洞、1976年、384頁。)
上記引用の最初の方の「これ」は、1956年の正月に、瑛九が宮崎放送の「声の年賀状」というラジオ番組で15分の放送をし、それを郡司三郎が録音したもののことを示す。光春は、瑛九の父である杉田直の日記に、この放送と録音のことが記されていることを、直の日記からの引用も含めて、記述している。そのような事情であるが故に、瑛九と深い親交のあった山田光春が記した「人なつっこい口調で語った彼の声」という言葉は、極めて貴重である。小林さんも、瑛九と直接の親交があった方々への調査によって得られた、瑛九の声、話し方について、朗読の前に話しており、この上なく貴重な証言である。
そして、小林さんは、このように話したのである、宮崎弁で、宮崎のイントネーションで、読みます、と。当たり前のようであるが、これこそが、この日の朗読の貴重さを、物語る。つまり、宮崎の方でなければ、瑛九のこの痛切な絶筆詩を、瑛九の気持ちに寄り添って読むことはできないのである。単なる朗読、単なる音読、となってしまうのである。だからこそ、小林さんが読み上げる、瑛九の絶筆詩《ヒミツ》が、まるで、レコード盤に刻まれる溝のように、私の耳に、脳に、心に、深く、深く、刻み込まれたのである。その朗読を、レコード盤を再生するように、脳裏で再生することができる。


fig.1, 2:《ヒミツ》(上が[1]、下が[2]) スケッチブックより 1960年 宮崎県立美術館蔵
ナンタラコトダベエ
この絶筆詩《ヒミツ》について、山田光春が書き記している経緯を紹介しておきたい。以下は、瑛九が東京・神田の同和病院に入院している時の記述からの引用である。
「三月を迎えてからの瑛九の病状は、体温も三十六度から八度辺りまでを往復していて、さしたる変化は見られなかったので、都をはじめとする周囲の者たちに、このまま持ち前の旺盛な精神を発揮して、次第に快方に向かうのではなかろうかとの、明るい希望を抱かせるようになっていた。そして、そうした日々のしばらく続いた七日の朝には、粥と味噌汁の朝食をおいしそうに食べた彼が、その後一日中、絵が描きたい、絵が描きたいと訴えつづけ、時々涙を流しているので、それを見た都は街に買いものに出た時、小さなスケッチブックと一箱の色鉛筆とを手にして来て彼に渡した。それを受けとった瑛九は大へん喜び、早速黒い鉛筆をとって、小さな円形の連鎖で画面をうずめた一枚のデッサンを描きあげ、その夜は静かに眠った。
翌八日の朝、早く眼をさました瑛九は、次ぎ次ぎと赤、青、黄、緑などの色筆を手にとって、スケッチブックの二頁にわたって次の詩を書いた。」
(出典:山田光春『瑛九 評伝と作品』青龍洞、1976年、457頁。)
以下は、光春による記述をベースに、若干の修正を施し、[1](fig.1)の右端に記載されている題名と日付を追加したものである。[1](fig.1)は右から左へ、[2](fig.2)は左から右へ、描かれている。
ヒミツ 三ガツ八ニチレイメイ
1
くまんバチガ
マイアサ サシタドガ
イタカ イタカ
ナイテイマシタ
クマンバチハ
白衣ノ天使
ガ サスノデス
ナンタラコトダベエ
2
ソレデモ アルアサハ
カナシクテ
アマリアマリ カナシクテ
イタイ イタイ
クマンバチガ
クレバイイト
イノッタノデス
「クマンバチ」とは、注射のことである。[1] では、その注射の痛さに泣いてしまうこと、その泣くほど痛い注射を「白衣ノ天使」が射すことを、「ナンタラコトダベエ」と記している。小林さんは、朗読の際、この[1] の最後の「ナンタラコトダベエ」を、少し、間をあけ、少し、力を込めて、読み上げていた。その声が、その音が、その空気の震えが、いまでも、私の鼓膜を震わせているようだ、脳裏に、くっきりと、その空気の震えが、その音が、その声が、響いている。
光春によれば、瑛九の病状は、この絶筆詩-光春は「美しい詩であり絵であるもの」と記している-を書いた日、3月8日の午後、急変したという。そして、3月10日の朝、都さんに、早く退院して大きな作品が描きたいという言葉を残した後、危険な状態となり、ついに帰らぬ人となってしまう。瑛九の壮絶な最後について、光春は、以下のように記している(文中の「小田」は同和病院の医師の名前)。
「しかし、彼がそのしづかな眠りに入って行くまでを見守った小田は、その最後の姿に、図り知れないほどの大きな希いと深い悩みとを持った勝れた人物が、その不可能にも近い悲願を達成するために、自分に課せられたどのような苦しみにも耐えて、自らの生をこの世に繋ぎとめるために闘い抜こうとする、底知れず深くて烈しい苦悶の様を眼のあたりに見たと言っている。」
(出典:山田光春『瑛九 評伝と作品』青龍洞、1976年、459頁。)
まるで瑛九が降臨したかのような、小林さんによる《ヒミツ》の朗読、宮崎弁による朗読に、今まで感じたことのないほどの深い感動を覚え、私は涙を堪えるのに必死だった。この連載において、光春による評伝の記述を参照することは、あまりなかった。しかし、宮崎弁による、小林さんの迫真の朗読を全身で受けとめた、あの震えるような感動から、瑛九の壮絶な最後を言葉にした光春の記述を思い起こしてしまい、ここに記しておきたいと思うに至ったのである。
Turn My Way - 杉田秀夫の場合
瑛九という装置がとまり、杉田秀夫という人間の肉体に死が訪れた、その瞬間を折り返し点として、瑛九の芸術を、杉田秀夫の人生を、そこから、逆照射してみる。そのために、杉田秀夫の最初期の取り組みから、再び、始めよう。その意味で、横須賀美術館の瑛九展に出品されている作品の中に、一点、気になる作品があった。その作品は、出品番号[PD13] のフォト・デッサンである。

fig.3:《題名不詳》 1930年頃 東京都写真美術館蔵
会場でこの作品を見てからキャプションを見て、思わず、声をあげそうになってしまった。なぜ、それほど驚いたのか、この連載を読んでくださっている方は、おわかりいただけたのではないだろうか、そう、この作品の制作年が、「1930年頃」と記載されていることに、驚いたのである。
この連載の中で紹介しているように、杉田秀夫の名前で発表された「フォトグラムの自由な制作のために」(『フォトタイムス』1930年8月号)と「フォトグラムはいかに前進すべきか-フォトグラム試作報告-」(『フォトタイムス』1931年2月号)の2本の論考には、それぞれ、5点のフォトグラムの試作が掲載されている。この10点は、最初期のフォト・デッサンとして、極めて重要な作例である。しかしながら、この10点の試作は、現在に至るまで、見つかっていない。そのため、もし、1930年頃に制作されたフォト・デッサンが存在するのならば、その作品は、極めて貴重な作例ということになる。
だからこそ、横須賀美術館の展覧会場で、キャプションに「1930年頃」の制作という記載がある作品を見つけ、驚いたのである。さらに、そのキャプションには、所蔵先として、「東京都写真美術館」という記載があることに、驚きが増す。かなり前になるが、東京都写真美術館所蔵のフォト・デッサンを調査した際、1930年頃の制作とされる作品は所蔵されていなかったと記憶しているからである。
この点について、展覧会担当の栗林学芸員に確認したところ、制作年の表記を改める旨の連絡が所蔵先からあったとのことである。確かに、図録では、この作品は「制作年不詳」とされている。今後、より具体的なことがわかれば、次回以降、報告したいと考えている。このように、制作年が「1930年頃」とされている作品が、スピンオフから「湯浅コレクション」へと戻るきっかけとなったのは、必然であるように思う。
なぜなら、スピンオフへと展開するきっかけとなった作品は、「現代美術の父 瑛九展」(1979年)の図録に掲載されている、制作年が「1931年」とされているフォト・デッサンだったからである。(このことについては、スピンオフの最初の回である第11回を参照いただきたい。)こうして、スピンオフへの突入と、スピンオフからの帰還が、ともに、1930-31年頃の最初期のフォト・デッサンを契機として果たされたことになる。
「I thought that I was right」
次に紹介したいのは、「湯浅コレクション」へと戻るための橋渡しの役割を果たしてくれる、制作年が「1932年」とされているフォト・デッサンである。その作品を見てみよう。

fig.4:《作品(71)》 1932年 埼玉県立近代美術館蔵
この作品の制作年は、私自身が、「光の化石」(1997年)に出品するにあたり、「1932年」と改めた経緯がある。それまでは、制作年は不詳となっていた。そのように判断した理由は、ふたつある。ひとつ目は、画面全体の階調に、あまり差がないことである。このことは、この作品が制作される際に、画面に当てられる光の量や時間が、うまくコントロールできなかったことを示しているように思われる。具体的に言えば、1936年の『眠りの理由』よりも前に制作されたのではないか、そう判断したのである。『眠りの理由』に収録されている作品では、光の量と時間は、うまくコントールされているからである。
ふたつ目は、この作品の印画紙の裏面に、「Q.Ei」のサインと「32」という書き込みがあることである。この「32」を、当時の私は、「1932」ではないかと読み取ったのである。だが、「光の化石」の図録に以下のように書いたように、この判断には矛盾もある。
「この作品の裏面にQ.Eiのサインと32という書き込みがある。この書き込みがなされたのは、初めて瑛九という作家名が用いられた1936年以降のはずであり、慎重に判断されるべきではあるが、この作品が1932年制作であれば、『眠りの理由』でデビューする前の貴重な作例ということになる。」
(出典:『光の化石』埼玉県立近代美術館、1997年、74頁。)
もし、「32」が「1932」という制作年を示す書き込みなのだとすれば、それは、1932年の制作の時点で書き込まれた可能性が高い。事後になってしまえば、瑛九自身でさえも、手元にあるフォト・デッサンの、どの作品が何年の制作であるか、ということを、正確に判断することは困難になってゆくはずだからである。だが、上記の引用にもあるとおり、瑛九の名前が使われるのは、1936年からである。従って、「Q.Ei」は、1936年以降に書き込まれたことになる。
サインについては、真贋を示すために、制作された時点ではなく、事後に書き込まれるケースが多々あるため、この点は説明がつく。従って、当時の私の判断は、「32」は1932年に書き込まれ、「Q.Ei」は1936年以降に書き込まれたのではないか、そのように推測したのである。だが、この判断は、推測を重ねた結果得られるものでしかなく、より冷静に、「1932年頃」としておくべきだったと、今では思っている。
当時のことを思い出してみると、裏面の書き込みよりも、作品の画像と印画紙の状態から、『眠りの理由』よりも前の制作なのではないかという判断を導いたことを、記憶している。印画紙はセピア調で、1930年代に制作されたフォト・デッサンと同様の質感であった。そして、光の量と時間のコントロールがうまくできていないことは、技術的にまだ習熟段階であったことを示しているのではないか、そのように判断したのである。その前提のもとに、裏面の「32」という書き込みを、「1932年」と結びつけたのである。
「I thought that I was right」、そう、今回やってきたニュー・オーダーの「Turn My Way」の最後のフレーズが、私を直撃する、自分は正しいと思っていた。だが、それが間違っていたとまでは言わないまでも、この作品の制作年を「1932年」とするためには、さらなる調査が必要であり、少なくとも、1997年の時点においては、「1932年頃」とするのが妥当であったと、今は思う。瑛九のフォト・デッサンのレゾネ的な目録化と、現存するフォト・デッサンの網羅的な調査が、切実に求められている。
湯浅コレクション
こうしてようやく、湯浅コレクションへと戻ってくることができた。今回取り上げる作品を見てみよう。

fig.5:《題不詳》 制作年不詳
前述したように、スピンオフから、このフォト・デッサンへの橋渡しをしてくれたのが、fig.4 である。なぜかといえば、fig.4 とfig.5 は、どちらも、矩形の中に円形がみえる、同様の構図だからである。つまり、矩形に円形という基本的な構図を採用しているfig.5 は、光の量と時間のコントロールがうまくできなかったfig.4 の構図を意識して、成功に導こうとする意図があったのではないか、そのように考えることができるのである。今回は、このように、ようやく湯浅コレクションへと戻ってくることができたところまでとしたい。この作品については、型紙の問題もふまえ、次回、具体的に論じてみたい。
Run Wild
冒頭の「Turn My Way」と同様、2001年にリリースされたアルバム『Get Ready』に、最後の曲として収録されているのが、「Run Wild」である。『Get Ready』は、アグレッシヴなギターのサウンドに特徴があるアルバムだが、最後を飾る「Run Wild」は、アコースティックな響きの、静かで、牧歌的な曲であり、驚きを感じる。そして、この曲は、ルー・リードの「Walk on the Wild Side」を思い起こさせる、極私的な感想にすぎないけれど。
「Walk on the Wild Side」のサウンドもアコースティックな響きであるし、「Run Wild」と「Walk ~ Wild ~ 」が共鳴している、そして、「Run Wild」は、「Walk on the Wild Side」を、加速させ、間違っているのか、正しいのか、そんなことは関係ない、危ない道でも、突き進むしかない、そう、背中を押されているような気がするのだ、たとえ、ひとりよがりの思い込みにすぎないのだとしても。
(うめづ げん)
図版出典
fig.1, fig.2:『魂の叙事詩 瑛九展』宮崎県立美術館、1996年
fig.3:『瑛九-まなざしのその先に-』横須賀美術館、2024年
fig.4:『生誕100年記念 瑛九展』宮崎県立美術館ほか、2011年
fig.5:「第33回瑛九展・湯浅コレクション」より
■梅津 元
1966年神奈川県生まれ。1991年多摩美術大学大学院美術研究科修了。専門は芸術学。美術、写真、映像、音楽に関わる批評やキュレーションを中心に領域横断的な活動を展開。主なキュレーション:「DE/construct: Updating Modernism」NADiff modern & SuperDeluxe(2014)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17)など。1991年から2021年まで埼玉県立近代美術館学芸員 。同館における主な企画(共同企画を含む):「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000)、「アーティスト・プロジェクト:関根伸夫《位相-大地》が生まれるまで」(2005)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(2018)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。
・梅津元のエッセイ「瑛九-フォト・デッサンの射程」は毎月24日更新、次回は2024年11月24日です。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、瑛九です。

瑛九 Q Ei
《題不詳》
フォト・デッサン
45.2×55.7cm
*久保貞次郎旧蔵作品
作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●「瑛九 ―まなざしのその先に―」展図録
B5版変形 159頁
発行:2024年9月 横須賀美術館
執筆:小林美紀(宮崎県立美術館)
栗林陵(横須賀美術館)
2,200円(税込み)
ご購入はこちらから。
ときの忘れものでも扱っています。
●パリのポンピドゥーセンターでブルトンのシュルレアリスム宣言100年を記念して「シュルレアリスム展」が開催されています(~2025年1月13日まで)。ときの忘れものは同展に協力し瀧口修造のデカルコマニーを貸し出し、出展しています。展覧会の様子はパリ在住の中原千里さんのレポート(10月8日ブログ)をお読みください。
カタログ『SURREALISME』(仏語版)を特別頒布します。
サイズ:32.8×22.8×3.5cm、344頁 22,000円(税込み)+送料1,500円

●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

第14回「Turn My Way-第33回瑛九展・湯浅コレクション(その7)」
梅津 元
Turn My Way、前回の「Crystal」と同じく、ニュー・オーダーが2001年にリリースしたアルバム『Get Ready』の収録曲である。前回、『Get Ready』からの選曲となったのは、思いがけないことだったのだが、それは、1回だけの寄り道のつもりだったスピンオフが、思いがけず、3回にわたったことと、どこかで連動しているのだろう。3回にわたるスピンオフを終えて、本筋へと戻る今回は、まさに、「Turn My Way」の回なのだから。
なぜか道を見失ってしまった、あの場所に戻らねば、というフレーズが、胸に刺さる。確かに、いま、本来の場所、つまり、「湯浅コレクション」に戻らなければ、先に進むことが出来なくなってしまう気がしている。同時に、スピンオフに入る前の記述を、さらには、私がこれまで書いて来たことを、見直さなければならなくなる、そんな予感さえ、ある。そのような心情を見透かすように、最後に待ち構えているフレーズは、「I thought that I was right」、自分は正しいと思っていた、なのである。
「瑛九-まなざしのその先に-」横須賀美術館
3回にわたることになったスピンオフの渦中に、思いがけない幸運が訪れた。前回、追記として一言だけ書くことができた、横須賀美術館における瑛九の個展「瑛九-まなざしのその先に-」のことである。横須賀美術館が瑛九の個展を準備しているという話は聞いていたが、具体的な会期は知らないままだったため、私にとっては、そうか、この会期だったのか、もう始まるのか、という、とてつもなく幸運な出来事である。
そもそも、「連載」という形で文章を書くのは、今回が初めてであるため、執筆が続く中で、色々なことを考えてしまう。瑛九について書いているのだから、瑛九にまつわる出来事が何か起きているのならば、そのことに触れないのは不自然ではないか、そんな気持ちに駆られて、その時々に、思いを綴ってきた、迷走だらけではあったけれど。だからこそ、横須賀美術館における瑛九展にまつわる出来事についても、書いておきたい。今回の第14回の公開は10月24日、瑛九展の会期は11月4日まで、つまり、次回15回が公開される時には、すでにこの展覧会は終了してしまっている。
展覧会全体については、展覧会の担当学芸員である栗林陵さんのエッセイや、ときの忘れもののスタッフである松下さんのレポートを参照いただきたい。瑛九の全貌を体感することのできる素晴らしい展覧会となっているので、11月4日の閉幕までに、ひとりでも多くの方に見ていただきたい。ここで、この展覧会にまつわる出来事として、どうしても書いておかねばならないと私が強く思っているのは、開幕初日、9月14日に行われた、宮崎県立美術館の学芸員である小林美紀さんによるレクチャー「瑛九の目」のことである。
今回、「湯浅コレクション」に戻るにあたり、小林さんのレクチャーのことを書いている、いや、書かせてもらえていることに、必然以上の巡り合わせを感じざるをえない。2023年の6月、「第33回瑛九展 湯浅コレクション」を見に行き、私の中で何かが覚醒したことを、第1回で書いている。この時、小林さんとの再会を果たしており、そのことも含めて、この連載の仕事に向き合い、「書かねばならない」と思うに至ったのである。
だからこそ、「湯浅コレクション」に戻るこのタイミングで、小林さんのレクチャーを聞くことができたことへの感謝の気持ちが強くなる。ここで、どうしても書いておきたいのは、小林さんが、その感動的なレクチャーの最後に、瑛九が死の直前にスケッチブックに描いた、「絶筆詩」と呼ばれる、絵でもあり、詩でもある、《ヒミツ》を、読んでくださったことである。
《ヒミツ》
小林さんは、その前に、瑛九の声が録音された記録があるはずだが、見つからない、瑛九の声を聞くことができない、ということを、力説されていた。瑛九の調査に小林さんがどれほどのエネルギーを注いできたかを、注いでいるかを、これからも注ぐであろうことを、このうえなくよく知る身としては、小林さんの深い気持ちが滲み出るその語り方に、深い感銘を受けた。そして、録音された瑛九の声の記録についての山田光春の記述を読んだ時の記憶が、よみがえってきた。小林さんの語り口からも、以下の光春の文章からも、瑛九の声の記録が行方不明であることの無念さが、ひしひしと伝わってくる。
「ところでこれを郡司三郎が録音したものも、放送局で使われた音盤もその後散逸し、彼の声の録音されたものはそれ以外にはないので、人なつっこい口調で語った彼の声を耳にすることは、残念ながら今日ではできなくなっている。」
(出典:山田光春『瑛九 評伝と作品』青龍洞、1976年、384頁。)
上記引用の最初の方の「これ」は、1956年の正月に、瑛九が宮崎放送の「声の年賀状」というラジオ番組で15分の放送をし、それを郡司三郎が録音したもののことを示す。光春は、瑛九の父である杉田直の日記に、この放送と録音のことが記されていることを、直の日記からの引用も含めて、記述している。そのような事情であるが故に、瑛九と深い親交のあった山田光春が記した「人なつっこい口調で語った彼の声」という言葉は、極めて貴重である。小林さんも、瑛九と直接の親交があった方々への調査によって得られた、瑛九の声、話し方について、朗読の前に話しており、この上なく貴重な証言である。
そして、小林さんは、このように話したのである、宮崎弁で、宮崎のイントネーションで、読みます、と。当たり前のようであるが、これこそが、この日の朗読の貴重さを、物語る。つまり、宮崎の方でなければ、瑛九のこの痛切な絶筆詩を、瑛九の気持ちに寄り添って読むことはできないのである。単なる朗読、単なる音読、となってしまうのである。だからこそ、小林さんが読み上げる、瑛九の絶筆詩《ヒミツ》が、まるで、レコード盤に刻まれる溝のように、私の耳に、脳に、心に、深く、深く、刻み込まれたのである。その朗読を、レコード盤を再生するように、脳裏で再生することができる。


fig.1, 2:《ヒミツ》(上が[1]、下が[2]) スケッチブックより 1960年 宮崎県立美術館蔵
ナンタラコトダベエ
この絶筆詩《ヒミツ》について、山田光春が書き記している経緯を紹介しておきたい。以下は、瑛九が東京・神田の同和病院に入院している時の記述からの引用である。
「三月を迎えてからの瑛九の病状は、体温も三十六度から八度辺りまでを往復していて、さしたる変化は見られなかったので、都をはじめとする周囲の者たちに、このまま持ち前の旺盛な精神を発揮して、次第に快方に向かうのではなかろうかとの、明るい希望を抱かせるようになっていた。そして、そうした日々のしばらく続いた七日の朝には、粥と味噌汁の朝食をおいしそうに食べた彼が、その後一日中、絵が描きたい、絵が描きたいと訴えつづけ、時々涙を流しているので、それを見た都は街に買いものに出た時、小さなスケッチブックと一箱の色鉛筆とを手にして来て彼に渡した。それを受けとった瑛九は大へん喜び、早速黒い鉛筆をとって、小さな円形の連鎖で画面をうずめた一枚のデッサンを描きあげ、その夜は静かに眠った。
翌八日の朝、早く眼をさました瑛九は、次ぎ次ぎと赤、青、黄、緑などの色筆を手にとって、スケッチブックの二頁にわたって次の詩を書いた。」
(出典:山田光春『瑛九 評伝と作品』青龍洞、1976年、457頁。)
以下は、光春による記述をベースに、若干の修正を施し、[1](fig.1)の右端に記載されている題名と日付を追加したものである。[1](fig.1)は右から左へ、[2](fig.2)は左から右へ、描かれている。
ヒミツ 三ガツ八ニチレイメイ
1
くまんバチガ
マイアサ サシタドガ
イタカ イタカ
ナイテイマシタ
クマンバチハ
白衣ノ天使
ガ サスノデス
ナンタラコトダベエ
2
ソレデモ アルアサハ
カナシクテ
アマリアマリ カナシクテ
イタイ イタイ
クマンバチガ
クレバイイト
イノッタノデス
「クマンバチ」とは、注射のことである。[1] では、その注射の痛さに泣いてしまうこと、その泣くほど痛い注射を「白衣ノ天使」が射すことを、「ナンタラコトダベエ」と記している。小林さんは、朗読の際、この[1] の最後の「ナンタラコトダベエ」を、少し、間をあけ、少し、力を込めて、読み上げていた。その声が、その音が、その空気の震えが、いまでも、私の鼓膜を震わせているようだ、脳裏に、くっきりと、その空気の震えが、その音が、その声が、響いている。
光春によれば、瑛九の病状は、この絶筆詩-光春は「美しい詩であり絵であるもの」と記している-を書いた日、3月8日の午後、急変したという。そして、3月10日の朝、都さんに、早く退院して大きな作品が描きたいという言葉を残した後、危険な状態となり、ついに帰らぬ人となってしまう。瑛九の壮絶な最後について、光春は、以下のように記している(文中の「小田」は同和病院の医師の名前)。
「しかし、彼がそのしづかな眠りに入って行くまでを見守った小田は、その最後の姿に、図り知れないほどの大きな希いと深い悩みとを持った勝れた人物が、その不可能にも近い悲願を達成するために、自分に課せられたどのような苦しみにも耐えて、自らの生をこの世に繋ぎとめるために闘い抜こうとする、底知れず深くて烈しい苦悶の様を眼のあたりに見たと言っている。」
(出典:山田光春『瑛九 評伝と作品』青龍洞、1976年、459頁。)
まるで瑛九が降臨したかのような、小林さんによる《ヒミツ》の朗読、宮崎弁による朗読に、今まで感じたことのないほどの深い感動を覚え、私は涙を堪えるのに必死だった。この連載において、光春による評伝の記述を参照することは、あまりなかった。しかし、宮崎弁による、小林さんの迫真の朗読を全身で受けとめた、あの震えるような感動から、瑛九の壮絶な最後を言葉にした光春の記述を思い起こしてしまい、ここに記しておきたいと思うに至ったのである。
Turn My Way - 杉田秀夫の場合
瑛九という装置がとまり、杉田秀夫という人間の肉体に死が訪れた、その瞬間を折り返し点として、瑛九の芸術を、杉田秀夫の人生を、そこから、逆照射してみる。そのために、杉田秀夫の最初期の取り組みから、再び、始めよう。その意味で、横須賀美術館の瑛九展に出品されている作品の中に、一点、気になる作品があった。その作品は、出品番号[PD13] のフォト・デッサンである。

fig.3:《題名不詳》 1930年頃 東京都写真美術館蔵
会場でこの作品を見てからキャプションを見て、思わず、声をあげそうになってしまった。なぜ、それほど驚いたのか、この連載を読んでくださっている方は、おわかりいただけたのではないだろうか、そう、この作品の制作年が、「1930年頃」と記載されていることに、驚いたのである。
この連載の中で紹介しているように、杉田秀夫の名前で発表された「フォトグラムの自由な制作のために」(『フォトタイムス』1930年8月号)と「フォトグラムはいかに前進すべきか-フォトグラム試作報告-」(『フォトタイムス』1931年2月号)の2本の論考には、それぞれ、5点のフォトグラムの試作が掲載されている。この10点は、最初期のフォト・デッサンとして、極めて重要な作例である。しかしながら、この10点の試作は、現在に至るまで、見つかっていない。そのため、もし、1930年頃に制作されたフォト・デッサンが存在するのならば、その作品は、極めて貴重な作例ということになる。
だからこそ、横須賀美術館の展覧会場で、キャプションに「1930年頃」の制作という記載がある作品を見つけ、驚いたのである。さらに、そのキャプションには、所蔵先として、「東京都写真美術館」という記載があることに、驚きが増す。かなり前になるが、東京都写真美術館所蔵のフォト・デッサンを調査した際、1930年頃の制作とされる作品は所蔵されていなかったと記憶しているからである。
この点について、展覧会担当の栗林学芸員に確認したところ、制作年の表記を改める旨の連絡が所蔵先からあったとのことである。確かに、図録では、この作品は「制作年不詳」とされている。今後、より具体的なことがわかれば、次回以降、報告したいと考えている。このように、制作年が「1930年頃」とされている作品が、スピンオフから「湯浅コレクション」へと戻るきっかけとなったのは、必然であるように思う。
なぜなら、スピンオフへと展開するきっかけとなった作品は、「現代美術の父 瑛九展」(1979年)の図録に掲載されている、制作年が「1931年」とされているフォト・デッサンだったからである。(このことについては、スピンオフの最初の回である第11回を参照いただきたい。)こうして、スピンオフへの突入と、スピンオフからの帰還が、ともに、1930-31年頃の最初期のフォト・デッサンを契機として果たされたことになる。
「I thought that I was right」
次に紹介したいのは、「湯浅コレクション」へと戻るための橋渡しの役割を果たしてくれる、制作年が「1932年」とされているフォト・デッサンである。その作品を見てみよう。

fig.4:《作品(71)》 1932年 埼玉県立近代美術館蔵
この作品の制作年は、私自身が、「光の化石」(1997年)に出品するにあたり、「1932年」と改めた経緯がある。それまでは、制作年は不詳となっていた。そのように判断した理由は、ふたつある。ひとつ目は、画面全体の階調に、あまり差がないことである。このことは、この作品が制作される際に、画面に当てられる光の量や時間が、うまくコントロールできなかったことを示しているように思われる。具体的に言えば、1936年の『眠りの理由』よりも前に制作されたのではないか、そう判断したのである。『眠りの理由』に収録されている作品では、光の量と時間は、うまくコントールされているからである。
ふたつ目は、この作品の印画紙の裏面に、「Q.Ei」のサインと「32」という書き込みがあることである。この「32」を、当時の私は、「1932」ではないかと読み取ったのである。だが、「光の化石」の図録に以下のように書いたように、この判断には矛盾もある。
「この作品の裏面にQ.Eiのサインと32という書き込みがある。この書き込みがなされたのは、初めて瑛九という作家名が用いられた1936年以降のはずであり、慎重に判断されるべきではあるが、この作品が1932年制作であれば、『眠りの理由』でデビューする前の貴重な作例ということになる。」
(出典:『光の化石』埼玉県立近代美術館、1997年、74頁。)
もし、「32」が「1932」という制作年を示す書き込みなのだとすれば、それは、1932年の制作の時点で書き込まれた可能性が高い。事後になってしまえば、瑛九自身でさえも、手元にあるフォト・デッサンの、どの作品が何年の制作であるか、ということを、正確に判断することは困難になってゆくはずだからである。だが、上記の引用にもあるとおり、瑛九の名前が使われるのは、1936年からである。従って、「Q.Ei」は、1936年以降に書き込まれたことになる。
サインについては、真贋を示すために、制作された時点ではなく、事後に書き込まれるケースが多々あるため、この点は説明がつく。従って、当時の私の判断は、「32」は1932年に書き込まれ、「Q.Ei」は1936年以降に書き込まれたのではないか、そのように推測したのである。だが、この判断は、推測を重ねた結果得られるものでしかなく、より冷静に、「1932年頃」としておくべきだったと、今では思っている。
当時のことを思い出してみると、裏面の書き込みよりも、作品の画像と印画紙の状態から、『眠りの理由』よりも前の制作なのではないかという判断を導いたことを、記憶している。印画紙はセピア調で、1930年代に制作されたフォト・デッサンと同様の質感であった。そして、光の量と時間のコントロールがうまくできていないことは、技術的にまだ習熟段階であったことを示しているのではないか、そのように判断したのである。その前提のもとに、裏面の「32」という書き込みを、「1932年」と結びつけたのである。
「I thought that I was right」、そう、今回やってきたニュー・オーダーの「Turn My Way」の最後のフレーズが、私を直撃する、自分は正しいと思っていた。だが、それが間違っていたとまでは言わないまでも、この作品の制作年を「1932年」とするためには、さらなる調査が必要であり、少なくとも、1997年の時点においては、「1932年頃」とするのが妥当であったと、今は思う。瑛九のフォト・デッサンのレゾネ的な目録化と、現存するフォト・デッサンの網羅的な調査が、切実に求められている。
湯浅コレクション
こうしてようやく、湯浅コレクションへと戻ってくることができた。今回取り上げる作品を見てみよう。

fig.5:《題不詳》 制作年不詳
前述したように、スピンオフから、このフォト・デッサンへの橋渡しをしてくれたのが、fig.4 である。なぜかといえば、fig.4 とfig.5 は、どちらも、矩形の中に円形がみえる、同様の構図だからである。つまり、矩形に円形という基本的な構図を採用しているfig.5 は、光の量と時間のコントロールがうまくできなかったfig.4 の構図を意識して、成功に導こうとする意図があったのではないか、そのように考えることができるのである。今回は、このように、ようやく湯浅コレクションへと戻ってくることができたところまでとしたい。この作品については、型紙の問題もふまえ、次回、具体的に論じてみたい。
Run Wild
冒頭の「Turn My Way」と同様、2001年にリリースされたアルバム『Get Ready』に、最後の曲として収録されているのが、「Run Wild」である。『Get Ready』は、アグレッシヴなギターのサウンドに特徴があるアルバムだが、最後を飾る「Run Wild」は、アコースティックな響きの、静かで、牧歌的な曲であり、驚きを感じる。そして、この曲は、ルー・リードの「Walk on the Wild Side」を思い起こさせる、極私的な感想にすぎないけれど。
「Walk on the Wild Side」のサウンドもアコースティックな響きであるし、「Run Wild」と「Walk ~ Wild ~ 」が共鳴している、そして、「Run Wild」は、「Walk on the Wild Side」を、加速させ、間違っているのか、正しいのか、そんなことは関係ない、危ない道でも、突き進むしかない、そう、背中を押されているような気がするのだ、たとえ、ひとりよがりの思い込みにすぎないのだとしても。
(うめづ げん)
図版出典
fig.1, fig.2:『魂の叙事詩 瑛九展』宮崎県立美術館、1996年
fig.3:『瑛九-まなざしのその先に-』横須賀美術館、2024年
fig.4:『生誕100年記念 瑛九展』宮崎県立美術館ほか、2011年
fig.5:「第33回瑛九展・湯浅コレクション」より
■梅津 元
1966年神奈川県生まれ。1991年多摩美術大学大学院美術研究科修了。専門は芸術学。美術、写真、映像、音楽に関わる批評やキュレーションを中心に領域横断的な活動を展開。主なキュレーション:「DE/construct: Updating Modernism」NADiff modern & SuperDeluxe(2014)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17)など。1991年から2021年まで埼玉県立近代美術館学芸員 。同館における主な企画(共同企画を含む):「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000)、「アーティスト・プロジェクト:関根伸夫《位相-大地》が生まれるまで」(2005)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(2018)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。
・梅津元のエッセイ「瑛九-フォト・デッサンの射程」は毎月24日更新、次回は2024年11月24日です。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、瑛九です。

瑛九 Q Ei
《題不詳》
フォト・デッサン
45.2×55.7cm
*久保貞次郎旧蔵作品
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●「瑛九 ―まなざしのその先に―」展図録

発行:2024年9月 横須賀美術館
執筆:小林美紀(宮崎県立美術館)
栗林陵(横須賀美術館)
2,200円(税込み)
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ときの忘れものでも扱っています。
●パリのポンピドゥーセンターでブルトンのシュルレアリスム宣言100年を記念して「シュルレアリスム展」が開催されています(~2025年1月13日まで)。ときの忘れものは同展に協力し瀧口修造のデカルコマニーを貸し出し、出展しています。展覧会の様子はパリ在住の中原千里さんのレポート(10月8日ブログ)をお読みください。
カタログ『SURREALISME』(仏語版)を特別頒布します。
サイズ:32.8×22.8×3.5cm、344頁 22,000円(税込み)+送料1,500円

●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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