杣木浩一のエッセイ「宮脇愛子さんとの出会い」
第7回 作品が完成するまでの時間
イリュージョンをもとめて 〈黒〉へのまなざし
4人のアーチストたちの特別なしごと
成田克彦1977(1976~応答)
成田克彦の〈黒〉といえば1968年から八王子市小田野(株)青木製材所の〈炭窯〉に通い詰めて焼き上げた『SUMI』シリーズが特筆されよう。その後1980年代には、1989年の晩年まで継続した『Shade』シリーズにおける一貫した〈黒い兎毛片〉の謎めいた添付を見せている。
近年、造形大学の調査によって明らかになった成田のドローイングを見ると、矩形を折ったり曲げたり様々なアイデアに満ちている。幾何形体のみならず松の枝ぶり、草、ガラス瓶、リンゴの切り口のドローイングにしてもメビウスのリングのように裏表がつながったり、自由曲線で紐づけられたり、逆に、物質性を消去するかのように光・空間に浸る片側ぼかしで瓶の林立を描いてもいるのだ。成田の生涯を通じてその描かれた思考空間はいかようにも自由に伸縮するトポロジー界を呈していて、ゲーテの自然学などと共有する思わぬ世界に誘なわれることの意外さに驚かされた。

【1970 “SUMI”と成田克彦】

【1983宮脇愛子展“うつろひ”Gallery Ueda Ware-houseを訪れた成田克彦】

【1975“ the leaf”(2016アユミギャラリー)】

【1986“ Shade in the field”(2016アユミギャラリー)】
櫻井英嘉1978(1997~応答)
杣木は1978年銀座藍画廊2階で櫻井英嘉の作品に遭遇している。それ以降可能な限り見つづけて来たが櫻井英嘉のフォーマルな挑戦はきれいに3期に分けられた。杣木にとっての初期にあたる、最初にチタニウムホワイトを丹念に重層して研ぎ出した平滑な表面に黒鉛を摺り込んだ画面を見たとき、その黒鉛という粉末画材の弱定着性に着目せざるをえなかった。工業テクに見紛うような櫻井の塗布テクニックはペインティングの領分ではある。と同時に黒鉛そのものは鉛筆デッサンに通じている。静謐な黒鉛は黒の領域にあるが、金属質のリテラルな光彩を纏い絵画すれすれのイリュージョンにあった。
第2期にあたる1981年、黒鉛から色相界に転ずる。パネルに色相を刷毛塗り重層したのち、なんと、刃で横にストライプ溝を彫りつけるのだ。繰り返し塗り重ねた厚みある基層を形成しているからこそ可能な話なので驚かざるを得ない。そのすべての溝に原色を丹念に施したのち、全面に刷毛塗りと研ぎがさらに繰り返し重層されると、色の視覚混合が予期せぬイリュージョンを生んだ。一画面を左右に割り、配色の順列を変えて対比させている。櫻井のもっとも込み入ったシステムであったろう。すべては櫻井のビジュアルな構想のうちに在った。そして第3期1987年からは 3原色(赤、青、黄)か、第2次色(橙、緑、紫)から着色が繰り返される横ストライブの浸透重層はキワから数センチ余白を残して開始されているから滲んだキャンバスから〈浮遊黒化〉する色のイリュージョンを生み出した。

【1978 藍画廊 “無題”、パネルにジェッソ、チタニウムホワイト、黒鉛】

【1981“無題”パネルにアクリル】

【1987“無題”キャンバスにアクリル(左上部分)】
John McCracken1979(1988応答)
1979年、その作品は成田克彦と訪れた康画廊に常設されていた。わずか12~3cm角のキューブであったが、合板にグラスウールを貼り込み、ポリエステル樹脂でコーティング鏡面研磨された色=物質=形の三位一体に釘付けになった。70年代も終わろう頃、多摩美、芸大、モノ派系の残滓は、いささか眼に貧相だった。いままで画廊はおろか日本の美術館でさえこんな物体=作品など見たことが無かったのだから。成田克彦からラッカー塗装を学んでいたからなんとか持ちこたえられたが、いや、だからこそ、そのフィニッシュの発する色の表面は新世界だったのだ。そこには、唯一、当時の櫻井英嘉の作品の表面と共有する感性を見いだすことができたのだった。

【1988.黒い鏡面立柱に立つジョン・マクラッケン】

【1971 “Untitled”(red block)】
宮脇愛子1981 ~
〈黒〉について宮脇愛子からの2つの言葉

【1983宮脇愛子展“うつろひ”Gallery Ueda Ware-house】

【1983”うつろひ”画像を見る宮脇愛子、一色一成スタジオで】

【1991.マルト本社工場、“流れ”合板、カシュウ、鉛板 石巻】
1986年 ルートギャラリー個展における黒いurethan鏡面作品群を見に来られた折り、「杣木君、黒い作品を続けなさい。」という言葉を戴いている。
2003年「杣木浩一、黒への幻想」これは「宮脇愛子『うつろひ』をめぐる若手アーティストたち」カスヤの森現代美術館に参加出品したときに宮脇愛子が杣木に寄せたコンセプト案であった。通常は自作にたいして〈Untitled〉で通していたから、およそ「幻想=illusion~vision」などと言うという愛子さんの言葉はじつに意外かつ新鮮であり〈黒〉への考察を新たにした。
自作タイトルを振り返ると例外があった。1987年“Rising SUN”スイスユニオン・フィリップ&ドリュー証券会社(内幸町)、1988年“心・月・輪”ギャラリー伝、1990年“流れ”マルト本社工場(石巻、設計、三浦周治) タイトル通り2011年の津波に流され今は無い。その3つくらいしか思いつかない。
1977~2001 モノローグ メディウム テクニックをたどる
1977 成田克彦の課題 変形パネルにラッカー塗装

【無題、黒1977 造形大学70 x 45 cm 合板、ラッカー塗装仕上げ】
いきなり湾曲面パネルの木工から始まった。成田克彦を通して形のトポロジカルイリュージョンに触れ得たといえよう。そのパネル中央部から切り込みが入れられ、右反り凹面カーブ、左むくみ凸面カーブに分かつ。そしてその結果、パネル下辺で3~4cmに上下ジャンプし、左右に落差を生じる。
制作手順は以下、曲線木枠を組んだらに3mmベニヤ板を釘貼りする。次に木枠側面に3㎜ベニヤをガンタッカーでボンド接着。乾燥後針抜き、はみ出し余材の裁ち落し。2層目の3mmベニヤ板をガンタッカーでボンド接着。乾燥後タッカー刃を抜き、はみ出た余材を胴引き鋸(替え刃鋸で充分なのだ)で裁ち落としカンナ掛け。パネル全体の#240ペーパー掛けでパネル制作終了。次に塗装工程に入る。木工は慣れたもので造作なかったが、ラッカー塗装は新たな学習だった。まず、ラッカーパテをベニヤ繊維に擦り込み厚めにヘラ付けし、乾燥後、#320~#400ペーパー空研ぎし、肌ムラをチェック。そして中塗り工程サーフェーサーをシンナーで希釈して均等にガン吹き塗装。硬化後#400~#800耐水ペーパーによる水研ぎで滑らかにして仕上げ塗り工程へ。
成田ゼミの学生たちはパネル形体も色彩もさまざまであったが、自分は黒色ラッカーによって上塗りした。ムラを見ながら数回仕上げ塗りしてフィニッシュ。
1979 真和画廊
1979年4月から1年間、成田克彦担当の聴講生となり、大学には定められた制作費だけ納めればよい制度だった。さっそく発注した四八合板(120x240cm)を造形大プロダクトデザイン木工房でパネル用に細い矩形材にカットしてもらった。聴講期間の制作は10月の真和画廊個展(1979)とリンクしていたので、部材は文京区本郷の(株)ニッソウのマンション宿舎に運び、一階のベランダで業務後、毎日制作できた。成田克彦は大学の帰途たびたび立ち寄ってくれた。成田と同じ年頃の社長阪田もいったい何をしているのかと興味深そうに覗き込んだ。自分が美大に籍を置いていることは承知で4月から採用され、数字にめっぽう強いが夜は池之端界隈で遊んでいて自宅に居ないと見受けた。母親は伊東深水の弟子だったというから、業務をはみ出た制作も許容したのだろうか。たまに気をまわしてパースやレタリングの仕事を持ってくるのが煩わしかった。
胴付き鋸と鉋と鑿により曲面を支える竜骨を組む
展示予定の主作品が240×30cm×2ピースで上下カーブ凹凸反転で1組。これが2組で4ピース上下波打つ湾曲面を支える桟をつくり組み上げる。前述の要領で長い240cm辺は1cmメモリ、30cm辺は0.5cmメモリを線引き。定規で13目ずつ落としずらして疑似カーブを引く。ジグソーでカットして凸面カンナで反り曲線を仕上げる。この反りと膨らみの格子上に初層ベニヤを釘打ちして曲面ができる。
このころホゾ刻みに繊細な胴付き鋸を使っていた!高校から使い慣れた手道具への愛着があり、かなりの長尺カット鉋掛けも電動工具を使わなかった。目に見える場でもないのに胴付き鋸なんぞ不要でジグソーか替え刃鋸で充分であった。ラワン合板は薄い繊維が直交していて硬い。もともと柔らかな杉材を細密加工する胴付き鋸刃はしばしば刃こぼれして、目立て屋に回した。思い入れが災いした。まあ、こんなわけで1977年に成田克彦の「木工課題」と出会ったときは、1970年高卒から途絶えていた杣木の木工意欲にまったくストンと嵌まったのだった。
銅粒粉acrylic平筆塗り仕上げ
聴講生になってすぐに1年分の画材を手配した。ラッカーは使わなかった。数種のリキテックスアクリルメディウムとなぜか彩色顔料ではなく、多くの金属粉だった。東京八重洲口の㈱福田箔粉工業へ成田克彦と出向いた。銅粒粉と銅箔粉、鉄粒粉、ステンレス粒粉、亜鉛箔粉、アルミ箔粉、鉛箔粉を求めた。まったく地味な色合いだったので、これ、画材になるのか?いぶかった。おおくの日本画用平筆も。
1979年真和画廊個展の銅粒粉アクリリックによる塗装と研磨交互繰り返しの糸口は、櫻井英嘉の黒鉛作品の反復性からのインスピレーションだった。しかし銅の粒粉は重くてとても顔料として扱いづらいものだった。この一回で止めた。翌年の第13回日本国際美術展出品作では銅の箔粉を用いた。

【1979 凸凹上下反転曲面パネルのパーツ.真和画廊個展】


【1979凹曲面パネルの骨組み 真和画廊個展】

【各種カンナと鋸】

【造形大学聴講生1979.4月。造形大学絵画棟うらで成田克彦とアトリエ基礎工事中に。※成田克彦との作業途中で事務方が飛んで来て「なにをやっているのですか!」と直ちに中止要請された。ひるがえって佐藤忠良の威光ある彫刻科は「屋外に作業場をどんどん増築しているのに、なぜ絵画科は認められないのか!」と専任講師の成田はかなり憤慨していた。】
1980 ルナミ画廊
鉄粉刷毛塗研ぎ出し、
176×176cm前後の正方形パネルを5点制作した。平置きで塗布研ぎ作業なので(株)ニッソウでの制作は不可能だった。原健教授の紹介によるギャラリー山口個展を11月に控えていたので2年目の聴講生も特例で認められた。午前に(株)ニッソウの業務を終えると本郷三丁目からお茶の水経由で高尾の造形大学まで通うことになった。野外アトリエの増設は頓挫したので、絵画研究室奥の倉庫をかたづけて作業させてもらった。行くと教授、専任教員と必ず顔が合うのがいやだったが、左手が拳状に膠着して右手のみで横ストライプ絵画の大作を描いていた稲葉治夫教授などは面白い人で「俺のロッカーにウヰスキーが入っているから開けて飲んでいいよ」などとずいぶん優しい声をかけてくれたものだ。
ボールに鉄粒粉を入れ水性アクリルメディウムで攪拌しベニヤ面に直か塗りした。一定の厚みに至るまで、平筆で何度も何度も塗り続ける、いわば単純反復が延々と続いた。
一定の堆積層を形成したら、ここから研ぎ出し、塗りたての交互工程に入れる。水研ぎ400番だったのではないか。粒粉、箔粉とも粒子は荒いので800番が仕上げ肌の限度であり、それ以上の番手は意味がなかった。鉄粉の色はダークグレーで重みがあり魅力的だった。ステンレス粒粉も試行したがややライトな色合いは魅力なくやめた。
表面だけではなくむくり反りの曲線変化を見せる側面にも丸塗りした。一つの物体性を帯びた。これでも存在感として良かったのだろうが、絵画的な正面性へのこだわりから、側面には水酸化カリウム水を塗って赤錆を付けたが、かえって物質的な重量感が出てしまった。
銀座ルナミ画廊は2階階段を上って搬入しなければならない。ところが狭い階段を上がって右扉を作品が通過できない。2階に縦長の窓があったのでロープで吊り上げて運び入れた。
初日午前に非常勤講師の榎倉康二が見えたが「作品が多すぎる」とコメントしたので急遽一点外した。
確かに物質性と空間性のバランスが見違えって勉強になった。制作に息切れがしていて、搬入、展示での冷静さを欠いていたのだ。

【1980 “Untitled”ルナミ画廊176x176cm.鉄粒粉、acrylic】
1980 Gallery山口
亜鉛粉刷毛塗研ぎ出し
亜鉛箔粉は鉄粒粉よりもしっとりしたグレーの物質性を帯びた。側面は鉛粉刷毛塗り研ぎ出しで黒色になった。ずっと後に1990年代、酒席で櫻井英嘉に学生時代に魅了された1978年藍画廊での黒鉛塗布技法を聞いたことがある。櫻井英嘉は細かなテクニックなどは一切明かさなかったが、「ああ、あの水でジャバジャバするヤツね?」と。あの滑らかな面の形成には、あきらかに水研ぎ工程があったことが了解できた。

【1980“Untitled”ギャラリー山口、175x25cmx4pieces】
1981~ 2022 アトリエ53での制作

【アトリエ53 1983 ©森岡純】

【アトリエ53 4年に1度の屋根塗り】

【正方形パネルの制作】

【十文字捻り立柱の制作】
高尾の造形大学聴講生を終了して、八王子市下恩方のアトリエ53へ移動した。多摩美の院生たちが探した織物工場跡だった。とにかく広いのだがゴミもすごかった。それでアトリエ・ゴミ=53となったらしい。創設メンバーは芸大生をふくむ7名だったが大塩博美だけが最後まで残った。途中で芸大の藤村克裕や松本陽子も制作していた。
1984 グラスアート赤坂 設計、磯崎新
ウレタン吹き付け塗装、水研ぎ研磨交互重層鏡面仕上げへ
1984年、硬化剤によって硬化するウレタン塗料に変えたことで、100回以上の吹き付け水研ぎ交互重層が可能になった。#400~#1500の水研ぎでより平滑で強い被膜を形成できた。
フィニッシュでは、4種ほどのコンパウンド研磨で鏡面仕上げが可能になった。
早いころから初層のパテ箆付けは止めていた。どうも箆付けはボコボコして性に合わないのだ
それでパテ兼用の高濃度のサーフェーサー吹き付けることにした。ただしここで厚み不十分だ
と、数年して塗膜が痩せたときに、鏡面に榀材の木目がじんわり浮き出るという惨事になる。形
体の芯から感受できるような物質感 (実際は空洞なのだが) が重要である。

【125×25cm×4peaces ©安斎重男】

【125×125cm ©森岡純】

【25×225cm ©森岡純】
1986 ルートギャラリー
田園調布の坂の中途の住宅街にあり、池と竹の植わったこじんまりした庭をくぐった正面を解放した画廊だった。前年の山本美保との“ディソナンズ展”につづく個展だった。ひきつづき、黒いウレタン吹き付け、水研ぎ研磨交互重層鏡面仕上げである。ここで冒頭に記したように宮脇愛子から黒い作品制作を継続するように進言された。

【“21×21cm×7peaces】

【澤田陽子(編集者)、大滝文子(画廊主)、宮脇愛子】
1987 スイスユニオン・フィリップ&ドリュー証券会社
“Rising Sun”


【“Rising Sun “の配置図、ディーリング・オフィス窓側の13本柱に左右両サイド黒(闇)から7本目の中心柱=真紅(太陽)へのグラデーションと作品の推移。各作品の上下左右の厚みも含め、縦横のカーブは通常用いる方法によった。】

【この図は横に寝ているが縦の配置図である。ディーリング・オフィス窓側の13本柱に左右両サイド黒(闇)から、7本目の中心柱、真紅(太陽)へのグラデーションと作品カーブの推移が重なり収まっている。13作品の上下左右の厚みは、この図のカーブによって制作した。】

【No.2~6,No.13~7】

【No.1,No.13】

【鏡面塗装ウレタン吹き付け、水研ぎ研磨交互重層】

【窓側のゆるい、たわみラインは、ディーリングルーム空間へ波及した】
フロアーの下はコンピューターを繋ぐ配線の束が走るスペースで40cmほど底上げしてあるので、天井高は240cmわずかと低く、オフィスの広さに比してやや窮屈な感じの空間であった。間口40mが幅240cmの窓12と幅64cmの13柱で区切られている。職員はここで一日コンピューター画面とむきあうのである。施主の依頼はこの13本柱へのアートワークであった。
同行した画廊主から日の出をイメージするタイトルの提案があり、太陽の運行をイメージする作品設置を考案した。高さ120cm×幅40m、横に延びる窓の13柱に円弧を描いて運行する黒=夜から深紅=朝へのグラデーションワークを設置しよう。しかし円弧の切片を120cm×40mに納めるにはその巨大な円弧の中心は遙か天空に在り、計算の仕様もないことに気づいた。それで発想を変えて、いつも限定された長さのカーブ出しに用いている疑似曲線にした。40mに描かれるカーブラインに13作品を当て嵌めていくわけだ。いびつに変化する底板形と表面の厚みの差、その最大値から最小値を13の作品すべて逆算するから、4本の横軸と13柱×4本=52本の縦軸交差の変化を作図した。ウレタン塗装した作品を床に詰めて仮り置きしたら、歪んで反り返ったピアノの鍵盤のようだった。
1987 Gallery +1
8月に信州犀川の展覧会から戻ってすぐ展覧会依頼を受け、9月末の会期だったのでひと月少しの制作期間しかなかった。銀座七丁目の地下、空調室跡の天井の高い狭い空間だった。初めての床置き壁体を制作した。リシツキーの“雲の鐙”へのオマージュ。上辺が横に突き出ている。
urethan鏡面塗装ウレタン吹き付け、水研ぎ研磨交互重層によった。


【1987エアガンとコンプレッサー圧縮空気による黒色塗料吹き付け】

【1987ウレタン塗装 水研ぎ】

【1924 リシツキー 雲の鐙】

【1987 杣木浩一 Untitled ©森岡純】
(そまき こういち)
■杣木浩一
1952年新潟県に生まれる。1979年東京造形大学絵画専攻卒業。1981年に東京造形大学聴講生として成田克彦に学び、1981~2014年に宮脇愛子アトリエ。2002~2005年東京造形大学非常勤講師。
1979年真和画廊(東京)での初個展から、1993年ギャラリーaM(東京)、2000年川崎IBM市民文化ギャラリー(神奈川)、2015年ベイスギャラリー(東京)など、現在までに20以上の個展を開催。
主なグループ展に2001年より現在まで定期開催中の「ABST」展、1980年「第13回日本国際美術展」(東京)、1985年「第3回釜山ビエンナーレ」(韓国)、1991年川崎市市民ミュージアム「色相の詩学」展(神奈川)、2003年カスヤの森現代美術館「宮脇愛子と若手アーチストたち」展(神奈川)、2018年池田記念美術館「八色の森の美術」展(新潟)など。制作依頼、収蔵は1984年 グラスアート赤坂、1986年 韓国々立現代美術館、2002 年グランボア千葉ウィングアリーナ、2013年B-tech Japan Bosendorfer他多数。
・杣木浩一のエッセイ「宮脇愛子さんとの出会い」次回は3月8日の更新を予定しています。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、宮脇愛子です。
《MEGU》
ガラス
33.0×12.0×17.3cm
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
*画廊亭主敬白
明日2月9日(土)のNHK日曜美術館のアートシーンでは、京都・アサヒグループ大山崎山荘美術館で開催中の「松本竣介 街と人 -冴えた視線で描く-」が紹介されます。
ときの忘れものでは「ポートレイト/松本竣介と現代作家たち」展(仮題)を開催予定です。
会期:2025年4月16日(水)~4月26日(土) 11:00-19:00 ※日曜・月曜・祝日休廊
松本竣介の素描を中心に、現代作家たちが描くポートレイトをご覧いただきます。
自画像や、家族、知名人、民衆など実在する人物、またモデルのいないポートレイトなど、人物画の表現の豊かさをご堪能ください。
出品作家:松本竣介、野田英夫、瑛九、舟越保武、駒井哲郎、小野隆生、靉嘔、池田満寿夫、宮脇愛子+マン・レイ、細江英公、北川民次
同展に合わせて、原田光先生と松本莞さんのギャラリートークを4月19日(土)15時より開催します。
参加ご希望の方は、こちらから早めにご予約ください。
※要予約 参加費1,000円
●松本莞さんが『父、松本竣介』(みすず書房刊)を刊行されました。ときの忘れものでは莞さんのサインカード付本書を頒布するとともに、年間を通して竣介関連の展示、ギャラリートークを開催してゆく予定です。
『父、松本竣介』の詳細は1月18日ブログをお読みください。
ときの忘れものが今まで開催してきた「松本竣介展」のカタログ5冊も併せてご購読ください。
画家の堀江栞さんが、かたばみ書房の連載エッセイ「不手際のエスキース」第3回で「下塗りの夢」と題して卓抜な竣介論を執筆されています。
著者・松本莞
『父、松本竣介』
発行:みすず書房
判型:A5変判(200×148mm)・上製
頁数:368頁+カラー口絵16頁
定価:4,400円(税込)+梱包送料650円
●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
第7回 作品が完成するまでの時間
イリュージョンをもとめて 〈黒〉へのまなざし
4人のアーチストたちの特別なしごと
成田克彦1977(1976~応答)
成田克彦の〈黒〉といえば1968年から八王子市小田野(株)青木製材所の〈炭窯〉に通い詰めて焼き上げた『SUMI』シリーズが特筆されよう。その後1980年代には、1989年の晩年まで継続した『Shade』シリーズにおける一貫した〈黒い兎毛片〉の謎めいた添付を見せている。
近年、造形大学の調査によって明らかになった成田のドローイングを見ると、矩形を折ったり曲げたり様々なアイデアに満ちている。幾何形体のみならず松の枝ぶり、草、ガラス瓶、リンゴの切り口のドローイングにしてもメビウスのリングのように裏表がつながったり、自由曲線で紐づけられたり、逆に、物質性を消去するかのように光・空間に浸る片側ぼかしで瓶の林立を描いてもいるのだ。成田の生涯を通じてその描かれた思考空間はいかようにも自由に伸縮するトポロジー界を呈していて、ゲーテの自然学などと共有する思わぬ世界に誘なわれることの意外さに驚かされた。

【1970 “SUMI”と成田克彦】

【1983宮脇愛子展“うつろひ”Gallery Ueda Ware-houseを訪れた成田克彦】

【1975“ the leaf”(2016アユミギャラリー)】

【1986“ Shade in the field”(2016アユミギャラリー)】
櫻井英嘉1978(1997~応答)
杣木は1978年銀座藍画廊2階で櫻井英嘉の作品に遭遇している。それ以降可能な限り見つづけて来たが櫻井英嘉のフォーマルな挑戦はきれいに3期に分けられた。杣木にとっての初期にあたる、最初にチタニウムホワイトを丹念に重層して研ぎ出した平滑な表面に黒鉛を摺り込んだ画面を見たとき、その黒鉛という粉末画材の弱定着性に着目せざるをえなかった。工業テクに見紛うような櫻井の塗布テクニックはペインティングの領分ではある。と同時に黒鉛そのものは鉛筆デッサンに通じている。静謐な黒鉛は黒の領域にあるが、金属質のリテラルな光彩を纏い絵画すれすれのイリュージョンにあった。
第2期にあたる1981年、黒鉛から色相界に転ずる。パネルに色相を刷毛塗り重層したのち、なんと、刃で横にストライプ溝を彫りつけるのだ。繰り返し塗り重ねた厚みある基層を形成しているからこそ可能な話なので驚かざるを得ない。そのすべての溝に原色を丹念に施したのち、全面に刷毛塗りと研ぎがさらに繰り返し重層されると、色の視覚混合が予期せぬイリュージョンを生んだ。一画面を左右に割り、配色の順列を変えて対比させている。櫻井のもっとも込み入ったシステムであったろう。すべては櫻井のビジュアルな構想のうちに在った。そして第3期1987年からは 3原色(赤、青、黄)か、第2次色(橙、緑、紫)から着色が繰り返される横ストライブの浸透重層はキワから数センチ余白を残して開始されているから滲んだキャンバスから〈浮遊黒化〉する色のイリュージョンを生み出した。

【1978 藍画廊 “無題”、パネルにジェッソ、チタニウムホワイト、黒鉛】

【1981“無題”パネルにアクリル】

【1987“無題”キャンバスにアクリル(左上部分)】
John McCracken1979(1988応答)
1979年、その作品は成田克彦と訪れた康画廊に常設されていた。わずか12~3cm角のキューブであったが、合板にグラスウールを貼り込み、ポリエステル樹脂でコーティング鏡面研磨された色=物質=形の三位一体に釘付けになった。70年代も終わろう頃、多摩美、芸大、モノ派系の残滓は、いささか眼に貧相だった。いままで画廊はおろか日本の美術館でさえこんな物体=作品など見たことが無かったのだから。成田克彦からラッカー塗装を学んでいたからなんとか持ちこたえられたが、いや、だからこそ、そのフィニッシュの発する色の表面は新世界だったのだ。そこには、唯一、当時の櫻井英嘉の作品の表面と共有する感性を見いだすことができたのだった。

【1988.黒い鏡面立柱に立つジョン・マクラッケン】

【1971 “Untitled”(red block)】
宮脇愛子1981 ~
〈黒〉について宮脇愛子からの2つの言葉

【1983宮脇愛子展“うつろひ”Gallery Ueda Ware-house】

【1983”うつろひ”画像を見る宮脇愛子、一色一成スタジオで】

【1991.マルト本社工場、“流れ”合板、カシュウ、鉛板 石巻】
1986年 ルートギャラリー個展における黒いurethan鏡面作品群を見に来られた折り、「杣木君、黒い作品を続けなさい。」という言葉を戴いている。
2003年「杣木浩一、黒への幻想」これは「宮脇愛子『うつろひ』をめぐる若手アーティストたち」カスヤの森現代美術館に参加出品したときに宮脇愛子が杣木に寄せたコンセプト案であった。通常は自作にたいして〈Untitled〉で通していたから、およそ「幻想=illusion~vision」などと言うという愛子さんの言葉はじつに意外かつ新鮮であり〈黒〉への考察を新たにした。
自作タイトルを振り返ると例外があった。1987年“Rising SUN”スイスユニオン・フィリップ&ドリュー証券会社(内幸町)、1988年“心・月・輪”ギャラリー伝、1990年“流れ”マルト本社工場(石巻、設計、三浦周治) タイトル通り2011年の津波に流され今は無い。その3つくらいしか思いつかない。
1977~2001 モノローグ メディウム テクニックをたどる
1977 成田克彦の課題 変形パネルにラッカー塗装

【無題、黒1977 造形大学70 x 45 cm 合板、ラッカー塗装仕上げ】
いきなり湾曲面パネルの木工から始まった。成田克彦を通して形のトポロジカルイリュージョンに触れ得たといえよう。そのパネル中央部から切り込みが入れられ、右反り凹面カーブ、左むくみ凸面カーブに分かつ。そしてその結果、パネル下辺で3~4cmに上下ジャンプし、左右に落差を生じる。
制作手順は以下、曲線木枠を組んだらに3mmベニヤ板を釘貼りする。次に木枠側面に3㎜ベニヤをガンタッカーでボンド接着。乾燥後針抜き、はみ出し余材の裁ち落し。2層目の3mmベニヤ板をガンタッカーでボンド接着。乾燥後タッカー刃を抜き、はみ出た余材を胴引き鋸(替え刃鋸で充分なのだ)で裁ち落としカンナ掛け。パネル全体の#240ペーパー掛けでパネル制作終了。次に塗装工程に入る。木工は慣れたもので造作なかったが、ラッカー塗装は新たな学習だった。まず、ラッカーパテをベニヤ繊維に擦り込み厚めにヘラ付けし、乾燥後、#320~#400ペーパー空研ぎし、肌ムラをチェック。そして中塗り工程サーフェーサーをシンナーで希釈して均等にガン吹き塗装。硬化後#400~#800耐水ペーパーによる水研ぎで滑らかにして仕上げ塗り工程へ。
成田ゼミの学生たちはパネル形体も色彩もさまざまであったが、自分は黒色ラッカーによって上塗りした。ムラを見ながら数回仕上げ塗りしてフィニッシュ。
1979 真和画廊
1979年4月から1年間、成田克彦担当の聴講生となり、大学には定められた制作費だけ納めればよい制度だった。さっそく発注した四八合板(120x240cm)を造形大プロダクトデザイン木工房でパネル用に細い矩形材にカットしてもらった。聴講期間の制作は10月の真和画廊個展(1979)とリンクしていたので、部材は文京区本郷の(株)ニッソウのマンション宿舎に運び、一階のベランダで業務後、毎日制作できた。成田克彦は大学の帰途たびたび立ち寄ってくれた。成田と同じ年頃の社長阪田もいったい何をしているのかと興味深そうに覗き込んだ。自分が美大に籍を置いていることは承知で4月から採用され、数字にめっぽう強いが夜は池之端界隈で遊んでいて自宅に居ないと見受けた。母親は伊東深水の弟子だったというから、業務をはみ出た制作も許容したのだろうか。たまに気をまわしてパースやレタリングの仕事を持ってくるのが煩わしかった。
胴付き鋸と鉋と鑿により曲面を支える竜骨を組む
展示予定の主作品が240×30cm×2ピースで上下カーブ凹凸反転で1組。これが2組で4ピース上下波打つ湾曲面を支える桟をつくり組み上げる。前述の要領で長い240cm辺は1cmメモリ、30cm辺は0.5cmメモリを線引き。定規で13目ずつ落としずらして疑似カーブを引く。ジグソーでカットして凸面カンナで反り曲線を仕上げる。この反りと膨らみの格子上に初層ベニヤを釘打ちして曲面ができる。
このころホゾ刻みに繊細な胴付き鋸を使っていた!高校から使い慣れた手道具への愛着があり、かなりの長尺カット鉋掛けも電動工具を使わなかった。目に見える場でもないのに胴付き鋸なんぞ不要でジグソーか替え刃鋸で充分であった。ラワン合板は薄い繊維が直交していて硬い。もともと柔らかな杉材を細密加工する胴付き鋸刃はしばしば刃こぼれして、目立て屋に回した。思い入れが災いした。まあ、こんなわけで1977年に成田克彦の「木工課題」と出会ったときは、1970年高卒から途絶えていた杣木の木工意欲にまったくストンと嵌まったのだった。
銅粒粉acrylic平筆塗り仕上げ
聴講生になってすぐに1年分の画材を手配した。ラッカーは使わなかった。数種のリキテックスアクリルメディウムとなぜか彩色顔料ではなく、多くの金属粉だった。東京八重洲口の㈱福田箔粉工業へ成田克彦と出向いた。銅粒粉と銅箔粉、鉄粒粉、ステンレス粒粉、亜鉛箔粉、アルミ箔粉、鉛箔粉を求めた。まったく地味な色合いだったので、これ、画材になるのか?いぶかった。おおくの日本画用平筆も。
1979年真和画廊個展の銅粒粉アクリリックによる塗装と研磨交互繰り返しの糸口は、櫻井英嘉の黒鉛作品の反復性からのインスピレーションだった。しかし銅の粒粉は重くてとても顔料として扱いづらいものだった。この一回で止めた。翌年の第13回日本国際美術展出品作では銅の箔粉を用いた。

【1979 凸凹上下反転曲面パネルのパーツ.真和画廊個展】


【1979凹曲面パネルの骨組み 真和画廊個展】

【各種カンナと鋸】

【造形大学聴講生1979.4月。造形大学絵画棟うらで成田克彦とアトリエ基礎工事中に。※成田克彦との作業途中で事務方が飛んで来て「なにをやっているのですか!」と直ちに中止要請された。ひるがえって佐藤忠良の威光ある彫刻科は「屋外に作業場をどんどん増築しているのに、なぜ絵画科は認められないのか!」と専任講師の成田はかなり憤慨していた。】
1980 ルナミ画廊
鉄粉刷毛塗研ぎ出し、
176×176cm前後の正方形パネルを5点制作した。平置きで塗布研ぎ作業なので(株)ニッソウでの制作は不可能だった。原健教授の紹介によるギャラリー山口個展を11月に控えていたので2年目の聴講生も特例で認められた。午前に(株)ニッソウの業務を終えると本郷三丁目からお茶の水経由で高尾の造形大学まで通うことになった。野外アトリエの増設は頓挫したので、絵画研究室奥の倉庫をかたづけて作業させてもらった。行くと教授、専任教員と必ず顔が合うのがいやだったが、左手が拳状に膠着して右手のみで横ストライプ絵画の大作を描いていた稲葉治夫教授などは面白い人で「俺のロッカーにウヰスキーが入っているから開けて飲んでいいよ」などとずいぶん優しい声をかけてくれたものだ。
ボールに鉄粒粉を入れ水性アクリルメディウムで攪拌しベニヤ面に直か塗りした。一定の厚みに至るまで、平筆で何度も何度も塗り続ける、いわば単純反復が延々と続いた。
一定の堆積層を形成したら、ここから研ぎ出し、塗りたての交互工程に入れる。水研ぎ400番だったのではないか。粒粉、箔粉とも粒子は荒いので800番が仕上げ肌の限度であり、それ以上の番手は意味がなかった。鉄粉の色はダークグレーで重みがあり魅力的だった。ステンレス粒粉も試行したがややライトな色合いは魅力なくやめた。
表面だけではなくむくり反りの曲線変化を見せる側面にも丸塗りした。一つの物体性を帯びた。これでも存在感として良かったのだろうが、絵画的な正面性へのこだわりから、側面には水酸化カリウム水を塗って赤錆を付けたが、かえって物質的な重量感が出てしまった。
銀座ルナミ画廊は2階階段を上って搬入しなければならない。ところが狭い階段を上がって右扉を作品が通過できない。2階に縦長の窓があったのでロープで吊り上げて運び入れた。
初日午前に非常勤講師の榎倉康二が見えたが「作品が多すぎる」とコメントしたので急遽一点外した。
確かに物質性と空間性のバランスが見違えって勉強になった。制作に息切れがしていて、搬入、展示での冷静さを欠いていたのだ。

【1980 “Untitled”ルナミ画廊176x176cm.鉄粒粉、acrylic】
1980 Gallery山口
亜鉛粉刷毛塗研ぎ出し
亜鉛箔粉は鉄粒粉よりもしっとりしたグレーの物質性を帯びた。側面は鉛粉刷毛塗り研ぎ出しで黒色になった。ずっと後に1990年代、酒席で櫻井英嘉に学生時代に魅了された1978年藍画廊での黒鉛塗布技法を聞いたことがある。櫻井英嘉は細かなテクニックなどは一切明かさなかったが、「ああ、あの水でジャバジャバするヤツね?」と。あの滑らかな面の形成には、あきらかに水研ぎ工程があったことが了解できた。

【1980“Untitled”ギャラリー山口、175x25cmx4pieces】
1981~ 2022 アトリエ53での制作

【アトリエ53 1983 ©森岡純】

【アトリエ53 4年に1度の屋根塗り】

【正方形パネルの制作】

【十文字捻り立柱の制作】
高尾の造形大学聴講生を終了して、八王子市下恩方のアトリエ53へ移動した。多摩美の院生たちが探した織物工場跡だった。とにかく広いのだがゴミもすごかった。それでアトリエ・ゴミ=53となったらしい。創設メンバーは芸大生をふくむ7名だったが大塩博美だけが最後まで残った。途中で芸大の藤村克裕や松本陽子も制作していた。
1984 グラスアート赤坂 設計、磯崎新
ウレタン吹き付け塗装、水研ぎ研磨交互重層鏡面仕上げへ
1984年、硬化剤によって硬化するウレタン塗料に変えたことで、100回以上の吹き付け水研ぎ交互重層が可能になった。#400~#1500の水研ぎでより平滑で強い被膜を形成できた。
フィニッシュでは、4種ほどのコンパウンド研磨で鏡面仕上げが可能になった。
早いころから初層のパテ箆付けは止めていた。どうも箆付けはボコボコして性に合わないのだ
それでパテ兼用の高濃度のサーフェーサー吹き付けることにした。ただしここで厚み不十分だ
と、数年して塗膜が痩せたときに、鏡面に榀材の木目がじんわり浮き出るという惨事になる。形
体の芯から感受できるような物質感 (実際は空洞なのだが) が重要である。

【125×25cm×4peaces ©安斎重男】

【125×125cm ©森岡純】

【25×225cm ©森岡純】
1986 ルートギャラリー
田園調布の坂の中途の住宅街にあり、池と竹の植わったこじんまりした庭をくぐった正面を解放した画廊だった。前年の山本美保との“ディソナンズ展”につづく個展だった。ひきつづき、黒いウレタン吹き付け、水研ぎ研磨交互重層鏡面仕上げである。ここで冒頭に記したように宮脇愛子から黒い作品制作を継続するように進言された。

【“21×21cm×7peaces】

【澤田陽子(編集者)、大滝文子(画廊主)、宮脇愛子】
1987 スイスユニオン・フィリップ&ドリュー証券会社
“Rising Sun”


【“Rising Sun “の配置図、ディーリング・オフィス窓側の13本柱に左右両サイド黒(闇)から7本目の中心柱=真紅(太陽)へのグラデーションと作品の推移。各作品の上下左右の厚みも含め、縦横のカーブは通常用いる方法によった。】

【この図は横に寝ているが縦の配置図である。ディーリング・オフィス窓側の13本柱に左右両サイド黒(闇)から、7本目の中心柱、真紅(太陽)へのグラデーションと作品カーブの推移が重なり収まっている。13作品の上下左右の厚みは、この図のカーブによって制作した。】

【No.2~6,No.13~7】

【No.1,No.13】

【鏡面塗装ウレタン吹き付け、水研ぎ研磨交互重層】

【窓側のゆるい、たわみラインは、ディーリングルーム空間へ波及した】
フロアーの下はコンピューターを繋ぐ配線の束が走るスペースで40cmほど底上げしてあるので、天井高は240cmわずかと低く、オフィスの広さに比してやや窮屈な感じの空間であった。間口40mが幅240cmの窓12と幅64cmの13柱で区切られている。職員はここで一日コンピューター画面とむきあうのである。施主の依頼はこの13本柱へのアートワークであった。
同行した画廊主から日の出をイメージするタイトルの提案があり、太陽の運行をイメージする作品設置を考案した。高さ120cm×幅40m、横に延びる窓の13柱に円弧を描いて運行する黒=夜から深紅=朝へのグラデーションワークを設置しよう。しかし円弧の切片を120cm×40mに納めるにはその巨大な円弧の中心は遙か天空に在り、計算の仕様もないことに気づいた。それで発想を変えて、いつも限定された長さのカーブ出しに用いている疑似曲線にした。40mに描かれるカーブラインに13作品を当て嵌めていくわけだ。いびつに変化する底板形と表面の厚みの差、その最大値から最小値を13の作品すべて逆算するから、4本の横軸と13柱×4本=52本の縦軸交差の変化を作図した。ウレタン塗装した作品を床に詰めて仮り置きしたら、歪んで反り返ったピアノの鍵盤のようだった。
1987 Gallery +1
8月に信州犀川の展覧会から戻ってすぐ展覧会依頼を受け、9月末の会期だったのでひと月少しの制作期間しかなかった。銀座七丁目の地下、空調室跡の天井の高い狭い空間だった。初めての床置き壁体を制作した。リシツキーの“雲の鐙”へのオマージュ。上辺が横に突き出ている。
urethan鏡面塗装ウレタン吹き付け、水研ぎ研磨交互重層によった。


【1987エアガンとコンプレッサー圧縮空気による黒色塗料吹き付け】

【1987ウレタン塗装 水研ぎ】

【1924 リシツキー 雲の鐙】

【1987 杣木浩一 Untitled ©森岡純】
(そまき こういち)
■杣木浩一
1952年新潟県に生まれる。1979年東京造形大学絵画専攻卒業。1981年に東京造形大学聴講生として成田克彦に学び、1981~2014年に宮脇愛子アトリエ。2002~2005年東京造形大学非常勤講師。
1979年真和画廊(東京)での初個展から、1993年ギャラリーaM(東京)、2000年川崎IBM市民文化ギャラリー(神奈川)、2015年ベイスギャラリー(東京)など、現在までに20以上の個展を開催。
主なグループ展に2001年より現在まで定期開催中の「ABST」展、1980年「第13回日本国際美術展」(東京)、1985年「第3回釜山ビエンナーレ」(韓国)、1991年川崎市市民ミュージアム「色相の詩学」展(神奈川)、2003年カスヤの森現代美術館「宮脇愛子と若手アーチストたち」展(神奈川)、2018年池田記念美術館「八色の森の美術」展(新潟)など。制作依頼、収蔵は1984年 グラスアート赤坂、1986年 韓国々立現代美術館、2002 年グランボア千葉ウィングアリーナ、2013年B-tech Japan Bosendorfer他多数。
・杣木浩一のエッセイ「宮脇愛子さんとの出会い」次回は3月8日の更新を予定しています。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、宮脇愛子です。

ガラス
33.0×12.0×17.3cm
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
*画廊亭主敬白
明日2月9日(土)のNHK日曜美術館のアートシーンでは、京都・アサヒグループ大山崎山荘美術館で開催中の「松本竣介 街と人 -冴えた視線で描く-」が紹介されます。
ときの忘れものでは「ポートレイト/松本竣介と現代作家たち」展(仮題)を開催予定です。
会期:2025年4月16日(水)~4月26日(土) 11:00-19:00 ※日曜・月曜・祝日休廊
松本竣介の素描を中心に、現代作家たちが描くポートレイトをご覧いただきます。
自画像や、家族、知名人、民衆など実在する人物、またモデルのいないポートレイトなど、人物画の表現の豊かさをご堪能ください。
出品作家:松本竣介、野田英夫、瑛九、舟越保武、駒井哲郎、小野隆生、靉嘔、池田満寿夫、宮脇愛子+マン・レイ、細江英公、北川民次
同展に合わせて、原田光先生と松本莞さんのギャラリートークを4月19日(土)15時より開催します。
参加ご希望の方は、こちらから早めにご予約ください。
※要予約 参加費1,000円
●松本莞さんが『父、松本竣介』(みすず書房刊)を刊行されました。ときの忘れものでは莞さんのサインカード付本書を頒布するとともに、年間を通して竣介関連の展示、ギャラリートークを開催してゆく予定です。
『父、松本竣介』の詳細は1月18日ブログをお読みください。
ときの忘れものが今まで開催してきた「松本竣介展」のカタログ5冊も併せてご購読ください。
画家の堀江栞さんが、かたばみ書房の連載エッセイ「不手際のエスキース」第3回で「下塗りの夢」と題して卓抜な竣介論を執筆されています。

『父、松本竣介』
発行:みすず書房
判型:A5変判(200×148mm)・上製
頁数:368頁+カラー口絵16頁
定価:4,400円(税込)+梱包送料650円
●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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