丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」

その19 パラウ・サン・ジョルディ①


丹下敏明

コンペ
このところまたバルセロナの新聞記事に出るようになったのが、パラウ・サン・ジョルディの事だ。この室内体育館は1992年の第25回夏季オリンピックのメイン会場の一つとして建設されたものだから、すでに竣工してから35年経過している(編註:竣工は1990年)。パラウ・サン・ジョルディの設計依頼はこの連載のその7で書いたように、1983年の夏に開催された指名コンペの結果、磯崎新アトリエは室内競技場パラウ・サン・ジョルディの設計をすることに決まった。その他スタジアムはコレア=ミラ+グレゴッティ、プレス・センターはボフィール、全体計画はコレア=ミラという結果だった。市の構想は市内から比較的近距離にあるモンジュイックの山にこれらの主幹施設を集めるという判断で、この主幹施設であるスタジアム、室内競技場、プレス・センターをコンパクトに集めるというものだった。もともとは全体計画を1チームに依頼するというコンペ主旨だったのだが、市役所などの判断で、それぞれ別々の設計者に依頼することとなった。この判断は設計者を1チームに全て委任することで起こりうるリスクを避けるという事もあったが、多国籍の設計者を選んで、設計者が自国の国内オリンピック委員会に働きかけて1票入れてもらう裏心があったのかもしれない。まだその時は開催候補に名乗りを上げただけだったからだ。ちなみにドイツのスポーツ関連の建築家は落選。その理由は定かではないが、出来すぎているという事を耳に挟んだことがある。落選したもう1チームはマドリッドの建築家たちだった。これはその後カタルーニャの根強い自意識がここでも反映して、マドリッドでやるのならオリンピックに反対するが、バルセロナでやるなら大賛成だという市民が沢山でて、反対運動らしい動きは最後まで無かった。それが落選の一因になっていたのだろう。

4
1.コレア=ミラのコンペ案

5
2. グレゴッティのコンペ案

6
3.ボフィールのコンペ案

7
4.サエンス・デ・オイサ+ラファエル・モネオのコンペ案

8
5.入選者が集まった最初の会議(右から磯崎新、マラガイ市長、秘書官、グレゴッティ、ボフィール、ミラ、壁には磯崎アトリエ案が貼られている)

スタジアム
2チームが協働して設計に当たることになったスタジアムは1936年の人民オリンピック会場と決まっていたのだが実際には開催されなかった。これはナチス・ドイツが行おうとしていたベルリンでのオリンピックをボイコットするために、バルセロナで反旗を揚げることが目的だった。公式に決まっていたオリンピックに反対するのは歴史上最初で最後の出来事であった。しかし、実際には独裁者フランコの圧力がマドリッドからかかり、実現しなかった。つまりこれは市民にとっては幻の競技場となっていた。この経緯に市の歴史を残すためにファサードを保存、修復して、内部を現行の規格に合わせフィールドを整え、IOCが要求する6万2千という収容人員にも対応するというものだった。当時グランドはかろうじて練習用に使われていたが、木のスタンドは朽ち見る影もなく、鉄骨のキャノピーは一部崩れ落ちていた。

9
6.保存することが決まっていたほぼ廃墟化していたスタジアムフィールド面

10
7.スタジアムのVIP席キャノピーは崩れていた

コレア=ミラ(Federico Correa, 1924-2020年, Alfons Mila, 1924-2009年)というローカルの建築家はミラのヴィットリオ・グレゴッティ(Vittorio Gregotti, 1927-2020年)と組んでスタジアムのファサード修復と改装をすることになったが、両者があまりに違うデザイン傾向にあったため、どうやら観客席、その下の諸室は前者が、一等席をカヴァーするキャノピーを後者が担当することに作業分担したらしく、明快な違いが分かる。

11
8. グレゴッティによってデザインされたキャノピー(ファサードはほぼ修復が終わっている)

プレス・センター
一方プレス・センターは当時フランスに事務所を設けていたリカルド・ボフィール(Ricard Bofill, 1939-2022年)はバルセロナから逃げるようにしてパリに出たと言われていたが、スペインの中央制政府とのコンタクトもあってプレス・センターのプロジェクトを与えられた。これはポスト・オリンピックには体育大学を置くという事が決まっていたからだ。しかし、バルセロナでは嫌われものだったボフィールは全体計画を担当していたコレア=ミラたちの決定的なイジメにあって、全体の敷地から言えば、スタジアムからは対極の位置に置かれ、しかも、コンタの低い位置が与えられた。この頃のボフィールはパリ時代に学んだプレキャストをネオ・クラシックでデザインしていた。しかし、フランスのプレキャストはスペインに比べかなり歴史があって、それはそれでうまく仕上がるのだが、ここでは完全に失敗している。ボフィールも与えられた敷地にやる気を無くしていたのかもしれない。

12
9.ボフィールが担当したプレス・センター(現在は体育大学)

13
10.同・内部

パラウ・サン・ジョルディ
さて、本題の室内競技場だが、当時のバルセロナには室内体育館というと3千人程度のキャパの会場はあるにはあったが、メンテナンスも十分されていなくほぼ廃墟化していた。ここで1万7千人収容の体育館を新たに建設するということはかなりの飛躍だった。しかも3千人収容の体育館が監理できないでいる市役所が、その6倍近い1万7千人収容の体育館を建設するのは冒険的な行為だった。この収容人員はIOCからの要求というのではなく、同じ第25回オリンピックの候補に手を挙げていたパリが、すでに1984年にベルシー・アレナをシラク市長によってこけら落とししていた。この収容人員が1万6千人だった。このために候補地として登録していたパリのそれより千人多い収容人員というところで決まっていた。

14
11.候補地を競っていたパリにすでに完成していたベルシー・アレナ

市役所側もポスト・オリンピックの事を考えていたに違いない。それというのもバスケットや新体操などができるサブ・アリーナをメイン・アリーナに抱き合わせて若干多目的な用途を考えていた。しかし、我々もベルシーをパリに視察したが、可動式の自転車競技のトラックを組み込み、座席は大胆な可動席で、各種のイベントにも対応できるハードが盛り込まれていて、舞台用の奈落まで考えられていた。ベルシー見学は設計期間中2度訪問したが、その間にも可動式の様々なメカニズムに不具合が見つかり改装工事を繰り返していた。

15
12.ベルシ・アレナーではすべてのイヴェントに対応できるように座席も可動式

そこでヨーロッパ内でフランス以外でも大型の室内競技場の施設で何があるかを探し、スペイン事務所に張り付いていた藤江秀一さんらと実際に視察旅行をした。それで分かったことはスポーツはまず金にならないという事だった。収入を産み出すには別の事が出来る箱を作ることが必要なようだった。別な事というのはコンサート、見本市、その他各種のイヴェントという事だ。見学した施設では当時スポーツ施設としては年間2割を若干上回る程度しか使われていなかった。しかもスポーツは開催しても大きな収入には繋がらないという事も分かった。収益が出なければ、市内にあるような3千人収容の体育館と同じ運命になってしまう・・・。

そこで、如何に効率良く各種の行事開催に必要な道具を搬入、搬出できるか。これによってイヴェントの回転が容易となり、使用頻度も上がるようにするしかないということだ。まず大型のトラックが2方向から入ることを考え、そうすればイヴェント終了後の撤去する側と、新たなイヴェントを組み立てる搬入側の作業がぶつからない。しかも、スポーツより、それ以外のイヴェントが多いという事であれば、予め舞台を想定し大型映像装置を舞台の背景になるように作り、もしバスケットのような小さなコートを設営する時はその舞台の前に仮設で観客席を組めばいい。

ところが実際にはそうは簡単にこの方向を見定めることができず、1年以上模索を続けてプランが完成した。その間、プログラムも国内の各スポーツ連盟との要求をすり合わせる必要があり、それを解決するごとにかなりまとまり、箱も更に単純化してきた。当初はメインのアリーナの他、3つの小型の複数の協議ができる室内体育館を繋がるという案だったのが、この作業の中で長方形の中に全て納めることができた。この間、磯崎さんは毎月1度のペースでバルセロナに来られていた。その頃はアメリカでもプロジェクトを進めていたので、東京を出ると、まずアメリカへ飛び、その後にヨーロッパへ来るという地球の自転に合わせた移動をされて、これで時差ボケ対策をされていた。つまり1週間は東京とバルセロナに費やし、その他はアメリカ各地、ヨーロッパ各国を回られていた。このスタイルは1984年から2年間以上コンスタントに続けられていた。定宿は旧市街のカテドラルの真ん前にあるホテル・コロンで、部屋も決まっていた。

最近のパラウ・サン・ジョルディの新聞記事はそこで毎週あるコンサートの事だ。

1
13.基本設計がほぼ固まったパラウの模型の前(1984年12月4日)、前列左から二人目が藤江秀一さん、中央の白セーターは磯崎新先生

2
14.当時のアトリエ内は机とトレペが散乱

3
15.全体のレイアウトはコレア+ミラのチームが担当(上からスタジアム、パラウ・サン・ジョルディ、一番下がプレス・センターで、コンペ後になってプール、野球場などが全体のレーアウトに付け加えられた)

たんげ としあき
(写真は全て筆者撮影)


■丹下敏明 (たんげ としあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作 (カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画 (現在進行中) などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画 (全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展 (バルセロナ・アパレハドール協会展示場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展 (サン・ジョアン・デスピCan Negreにて)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加

主な著書
『スペインの旅』実業之日本社 (1976年)、『ガウディの生涯』彰国社 (1978年)、『スペイン建築史』相模書房 (1979年)、『ポルトガル』実業之日本社 (1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社 (1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会 (1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版 (1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社 (1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社 (2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社 (2022年)、『バルセロナのモデルニスモ建築・アート案内』Kindle版 (2024 年)、Walking with Gaudi Kindle版 (2024 年)、ガウディの最大の傑作と言われるサグラダ・ファミリア教会はどのようにして作られたか:本当に傑作なのかKindle版 (2024 年)など

・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は5月16日です。どうぞお楽しみに。

●本日のお勧め作品は、磯崎新です。
isozaki_09_corbusier「ル・コルビュジエ/母の小さい家」
1998年
銅版・和紙
イメージサイズ:10.0×15.0cm
シートサイズ:28.5×38.0cm
Ed.15
サインあり
作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。


*画廊亭主敬白
元・新宿書房主の村山恒夫さんからのご案内を受けて、3月13日ブログに「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」という映画の紹介をしました。
会場のラピュタ阿佐ヶ谷というのは定員48名というミニ映画館、座れなかったらどうしようと早めに出かけ8番と9番の整理券を受け取り、時間はたっぷりあるので近所のうなぎ屋さんに入り昼酒とうな重の豪華昼食。社長はウナギが好物なので大枚はたいての奥様孝行であります(2900円)。
観たのは「故郷は緑なりき」、70年前に見たきりなので内容もラストもほとんど覚えていませんでしたが、鮮明に記憶に残っている佐久間良子と水木襄のラブシーンがありました。
ところが今回観たら、そんなシーンは無い! いったい記憶にあるシーンは亭主の妄想なのか。ショックでしたねえ。人間の記憶なんてあてにならない(トホホ)。
因みに観客は10数人、女性は社長を入れて2人、あとは中高年の男性ばかり、若い人は皆無でした。

●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com 
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
photo (2)