新連載・小林美紀のエッセイ「瑛九を囲む宮崎の人々」

第1回   妻であり母でもあった最愛の人~谷口ミヤ子

 「瑛九を囲む宮崎の人々」と題し、エッセイを書くことになった。そうなると、「第1回目はこの人について語りたい」と真っ先に思い浮かぶのが、瑛九の最愛の人、ミヤ子夫人である。本名の「谷口ミヤ子」という名前よりも「杉田都」もしくは「都夫人」と記されることの多かった方である。都という漢字は、瑛九からすすめられたものらしく、瑛九の作品の裏側などに「杉田都」と書かれた札が貼ってあったり、手紙の署名が「都」だったりと、夫人自身も気に入っていたのか頻繁に使われていた。瑛九と同じく宮崎県宮崎市の出身で、谷口家の7女(!)であるので、6人兄弟姉妹の瑛九よりも大家族出身ということになるし、男女の構成割合(女性が多め)も似通っている。ただ、夫人の生涯について書かれた本『いつもパトリーノ《お母さん》と呼ばれました』(鉱脈社刊)にもあるように、瑛九と結婚はしたものの、籍は入れていなかったため、本名は谷口ミヤ子のままである。それでも瑛九にとって唯一無二の存在がミヤ子夫人だったことは確かである。

20250430155740_00001
ミヤ子夫人と瑛九(『版画芸術』112号、2001年、p.76より)

 さて、瑛九を囲む人々の中で、筆者が実際にお目にかかれた人は少ない。筆者が瑛九を直接知る関係者に会う機会を得るには、少し時間が経ちすぎていたのである。そんな中、ミヤ子夫人に直接お会い出来たのは、2010年、すでに浦和のアトリエを出て施設に入所された後のことだった。だからアトリエで過ごされているミヤ子さんの様子は、残念ながら写真や映像の中でしか拝見したことはない。初対面の遠慮もあり、周りと夫人が話すのをいろいろと聞きながら、夫人の様子を観察したのを覚えている。とても品のある、そしてかわいらしい笑顔の方だった。当時の学芸課長に同行したのだが、課長は開館記念展など以前から交流があったため、夫人の好みなどもご存じだった。宮崎からのお土産を何にするか尋ねたときに青島の「ういろう」が好きらしいと知った。ういろうと言うと名古屋や小田原などが有名だが、宮崎のういろうは上用粉と白砂糖を混ぜて蒸した、もっちりとした食感の甘さが控えめなものである。ミヤ子夫人はこれが好きだということで土産に購入するのだが、困ったことにういろうは日持ちがしない。宮崎からミヤ子夫人の住む埼玉までは基本飛行機と電車での移動になる。朝一便で出たとしてもミヤ子夫人の元に到着するのは昼前。しかもミヤ子夫人は好物を見るとすぐ食べてしまうという。そうするとお昼御飯を食べられなくなってしまう。これでは施設にも迷惑がかかる。さらに空港で購入するには朝一便の時間帯では間に合わないこともあり、空港に目当てのういろうが入荷する午前8時過ぎの便を予約することで、昼食の後に伺うことができ、おやつとして土産を渡すことが出来るのである。夫人が「ういろう」を食した時のうれしそうな、おいしそうな表情を見ると、無事に(ミッションを)やりとげたような気持ちがしたものだ。高齢のため、宮崎に長く帰省することができなかった夫人にとって、故郷の変わらぬ味は懐かしいものだったと思う。

 その後、何回目かの訪問時に会話のきっかけにしたのは、宮崎県庁の写真本である。宮崎県庁の建物は瑛九やミヤ子夫人が住んでいた頃から現在も殆ど変わっていない。丁度写真集も出版されていたので、懐かしい風景を見ればその頃の想い出なども聞くことが出来るかもしれないという思惑もあった。ミヤ子夫人は「ああ、ここの近くにね、住んでいたのよ」と県庁写真のページをめくりながら懐かしそうな表情であった。当時の写真なども掲載されていたのも昔を思い出すきっかけとなった。夫人が最後に宮崎に帰省できたのは一体いつのことであったろうか。生誕100年記念瑛九展では、体調のこともあり、宮崎来訪は叶わなかった。宮崎県立美術館は今年で開館30周年を迎えるが、開館記念の瑛九展には埼玉からお越しいただけたのだが、公的にはそれ以降長く来られていないのではないかと思う。

 埼玉のアトリエには、瑛九の没後、長い間ミヤ子夫人が1人で暮らしていた。瑛九と過ごした当時の庭は、記録写真によると数種の木々と畑などがあるくらいだったのが、訪ねたときはチューリップなどの花がたくさん植えられ、果樹や花木がよく育っていた。ミヤ子夫人のいるアトリエの写真には、いつもきれいに咲き誇る花々が写っていた。後見人の方に、これらの花々は夫人が好んで植えていたのだと伺った。制作に没頭し上手に日常生活を送れない瑛九を支えたのはミヤ子夫人だったが、ミヤ子夫人が病気のときは瑛九が看病をしたのだった。お互いが支え合っていたのだと思う。宮崎市内で住んでいたときには庭らしい庭はなかったが、猫などと一緒に写っている写真がある。十数年の結婚生活であったが、宮崎時代の暮らしも、埼玉の暮らしもかけがえのないものであっただろう。

915d1f33-s (1)
埼玉のアトリエの様子(2023年12月25日ブログより)

 ミヤ子夫人のことを時には母のように慕っていたという瑛九(瑛九は幼い頃実母を亡くしている)。ミヤ子夫人もまた、そのように接していたこともあったようだが、2人の写真をみると、やはり互いの愛情が感じられることが多い。瑛九亡き後、作品を子どものように守り続けたミヤ子夫人。そんな夫人に会うことができたのは本当に幸運であった。

(こばやし みき)

小林美紀(こばやし みき)
 1970年、宮崎県生まれ。1994年、宮崎大学教育学部中学校教員養成課程美術科を卒業。宮崎県内で中学校の美術科教師として教壇に立つ。2005年~2012年、宮崎県立美術館
 学芸課に配属。瑛九展示室、「生誕100年記念瑛九展」等を担当。2012年~2019年、宮崎大学教育学部附属中学校などでの勤務を経て、再び宮崎県立美術館に配属、今に至る。

●本日のお勧め作品は、瑛九です。
qei-250 (2)《南風》
1954年
キャンバスに油彩
46.0×38.0cm(F8)
サイン・年記あり
作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。


*画廊亭主敬白
浦和のアトリエで都夫人にお会いした日々のことが懐かしい。
亡くなられてから(2018年12月8日)もう六年経ちます。
1997_09_5_フジテレビG瑛九作品集記念展1997年9月5日
瑛九作品集刊行記念展オープニング
会場:フジテレビギャラリー(お台場)
綿貫不二夫と都夫人
後列左から、秋山祐徳太子、中上光雄、森下啓子、靉嘔

待望の新連載「瑛九を囲む宮崎の人々」をお届けします。
宮崎県立美術館の学芸員として同館の瑛九展示に深く関わってこられた小林美紀先生ですが、今まで幾度もご寄稿いただいてきましたので併せてお読みください。
https://tokinowasuremono.blog.jp/archives/cat_50038825.html

画廊では明日まで瀬木愼一先生の旧蔵作品の特別頒布会を開催していますが、瑛九の希少な自刷り銅版画の出品が漏れていました。ぜひこの機会にコレクションしてください。

◆「2025コレクション展2/瀬木愼一旧蔵作品他
会期:2025年5月7日(水)~5月10日(土) 11:00-19:00
collection2_表面瀬木愼一先生(1931~2011)は、1950年代から岡本太郎、花田清輝らの「夜の会」に参加、海外美術の紹介やテレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」に出演するなど、幅広い批評活動を展開し、美術市場の調査・研究にも積極的に携わり、他の批評家にはない独自の存在感を発揮されました。瀬木先生のもとには必然的に多くの作品が集まり、貴重な資料群は没後に国立新美術館に収蔵されています。
今回、瀬木先生とU氏の旧蔵コレクションを4日間のみの特別価格にて頒布します。
瀬木先生自身が制作された珍しい陶芸作品などもあり、是非この機会に皆様のコレクションに加えていただければ幸いです。詳しい出品内容は5月4日ブログに掲載しました。
出品作品:宮脇愛子瑛九、岡本一平、望月菊磨、草間彌生谷川晃一、吹田文明、吉仲太造、吉田勝彦、利根山光人、脇田愛二郎、松崎真一、針生鎮郎、橋場信夫、筆塚稔尚、井上公雄、鶴岡義雄、篠原有司男、山高登、大沢昌助吉原英雄、岩渕俊彦、藤森静雄、元永定正磯辺行久、永井勝、村瀬雅夫、中村義孝、平塚運一、オノサト・トシノブ、瀬木愼一、 ナイマン、サミュエル・マーティン、J.F.ケーニング、Julius Bissier、Jean Deyrolle、他

●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
photo (16)〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com 
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は原則として休廊ですが、企画によっては開廊、営業しています。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。