ときの忘れもの 今月のお勧め
■2021年6月22日(火)  クリスト CHRISTO 《包まれたベスパ》

クリスト CHRISTO
《包まれたベスパ》
2009年 
コラージュ、Digital pigment print+手彩色(クレヨン) 
31.0×31.0cm 
Ed.200 
Signed
※レゾネNo.201(Schellmann)

クリスト CHRISTO
ブルガリア生まれのクリスト(1935~2020)は、本名はフリスト・ヴラディミロフ・ヤヴァシェフ Христо Явашев, Christo Vladimirov Javasev(Javacheff)。夫人であるフランスのジャンヌ=クロード(Jeanne-Claude Denat de Guillebon、1935年モロッコ生まれ)とともに「Christo and Jeanne-Claude クリスト&ジャンヌ=クロード」の名で活動していた。二人が美術活動として何をやっていたかというと、「梱包」である。
瓶や椅子などの日用品を「梱包」することから始まり、巨大なモニュメント、はては建物をそっくり、自然そのものや公園までをすっぽりと布で梱包してしまった。実現までの長い時間、膨大な人手と費用、にもかかわらず「梱包」するやそれは短時間で撤去され、後には記憶とプロジェクトに関するドローイングや版画作品のみが残される。二人は作品実現までの社会的、政治的な交渉、経済的な問題、プロジェクトに関わった人々との交流などの全行程が自らの作品であるとみなしていました。


■2021年6月15日(火)  安藤忠雄 Tadao ANDO 《ピノー美術館》

安藤忠雄 Tadao ANDO
《ピノー美術館》
2003年
シルクスクリーン
イメージサイズ:36.0x86.0cm
シートサイズ:65.5x90.0cm
Ed.15
サインあり

安藤忠雄 Tadao ANDO
建築家、東京大学名誉教授。1941年大阪生まれ。独学で建築を学び、69年安藤忠雄建築研究所を設立。[住吉の長屋]により79年日本建築学会賞受賞、衝撃的なデビュー。代表作に[六甲の集合住宅][光の教会][ファブリカ/ベネトンアートスクール][フォーワース現代美術館][直島コンテンポラリーミュージアム][表参道ヒルズ]他。吉田五十八賞、日本芸術院賞、プリツカー賞、高松宮殿下記念世界文化賞、UIA賞他を受賞。2010年文化勲章受章。著書『連戦連敗』『旅』他多数。
学歴なしでいきなり東大教授に就任したときは世間をあったといわせましたが、阪神・淡路震災復興支援にも尽力するなど、安藤さんほど建築家という職業を世に知らしめた人はいないでしょう。84年から版画制作に取り組み、『安藤忠雄版画集 1998』をときの忘れものより出版。ニューヨークMoMA、パリ・ポンピドゥーセンターなど世界各地で建築展を開催、出品される美しいドローイング、版画類は世界中のコレクター垂涎の的です。


■2021年6月8日(火)  舟越直木 Naoki FUNAKOSHI 《Bedessa Moon》

舟越直木 Naoki FUNAKOSHI
《Bedessa Moon》
2000年
ブロンズ
14.5×9.0×7.5cm

舟越直木 Naoki FUNAKOSHI
1953年東京都生まれ。78年東京造形大学絵画科卒業。83年銀座・みゆき画廊で個展。以後、なびす画廊、MORIOKA第一画廊、ときの忘れもの、ギャラリー寺下、ギャラリーせいほう他での個展を中心に発表。1998年長岡・新潟県立近代美術館[インサイド/アウトサイド日本現代彫刻の8人]に出品。2000年岩手・萬鉄五郎記念美術館で[舟越直木・阿部陽子展]開催。
不定形な山型や人体の部分を思わせる独特のドローイング作品、何よりその色彩感覚に惹かれます。ブロンズによる彫刻作品も生物の原初のイメージを思わせるものから、葡萄粒のような球体が連鎖する作品など、大きな振幅を持っていますが、いずれもシンプルで豊かな感性がストレートに伝わってきます。2017年死去。


■2021年6月1日(火)  横尾忠則 Tadanori Yokoo《LA CHAPELLE LAND A》

横尾忠則 Tadanori Yokoo
《LA CHAPELLE LAND A》
1996年 
シルクスクリーン
94.7×71.8cm 
Ed.100 
サインあり

横尾忠則 Tadanori Yokoo
横尾忠則(よこお ただのり)は、1936年兵庫県生まれ。池田満寿夫と並ぶ戦後60年代が生んだ文字通りスーパースターです。幼少のころから絵や文字に興味を持ち、小学校時代には既に《漫画少年》に投稿していた。高校のときに漫画家か ら挿絵画家へ志望を変え、通信教育を受ける。また、同じころ油絵の制作を始め、絵画展へ応募し、入賞を重ねた。太平洋画会会友に推挙されたが、高校生であるということで断る。高齢の両親のことを思い、美大へ進学せず就職するが半年で解雇される。1956年カットの投稿や公募展への出品などを重ねるうち、神戸新聞宣伝技術研究所の助手として入社、翌年には神戸新聞社事業部関係のポスターを一手に引き受けるようになった。
1959年ナショナル宣伝研究所へ移るが、翌年には念願の日本デザインセンターへ入社、その才能を存分に発揮し、存在が広く知られるようになる。1965年の初個展の会場で三島由紀夫と出会う。1967年寺山修司主宰の天井桟敷に参加、美術を担当する。このころから海外での個展など、その活躍の場が世界的なものになった。グラフィックアーティストとして第一線で活躍を続けていた1980年、ニューヨークで見たピカソ展に衝撃を受け、画家への転向を表明、油彩の制作を本格的に開始する。その後もさまざまなジャンルのアーティストとのコラボレーションを行うなど、いまなおその活動は注目を集める現在稀有な作家である。


■2021年5月25日(火)  吉原英里 YOSHIHARA Eri 《草上のティータイム》

吉原英里 YOSHIHARA Eri 
《草上のティータイム》
1984年
エッチング、ラミネート
イメージサイズ:60.0×45.0cm
シートサイズ:70.0×54.0cm
Ed.30
サインあり

吉原英里 YOSHIHARA Eri
1959年大阪生まれ。1983年嵯峨美術短期大学版画専攻科修了。
1984年大阪の番画廊で初個展を開催し華々しいデビューを飾る。帽子やティーカップ、ワインの瓶など身近なものをモチーフに、独自の「ラミネート技法」で銅版画を制作。
1986年にインスタレーションを展開し、2001年から版画を組み入れた油彩の発表を始める。
主な展覧会:1997年 リュブリアナ国際版画ビエンナーレ招待出品、スロベニア/2000年 ボローニャアートフェアー、イタリア/2003年 文化庁買上優秀美術作品披露展 日本芸術院会館、東京/2007年 「日本版画の粋 現代版画展」南砥市立福光美術館、富山/2011年「吉原英雄を囲む作家展」和歌山県立近代美術館/2013年 新収蔵品展「信濃橋画廊コレクションを中心に」兵庫県立美術館/2016年「版画の誘惑展」砺波市美術館、富山/2016年 The 13th Gongju International Art Festival Lim Lip Art Museum、韓国/2018年 なつやすみの美術館8「タイムトラベル」和歌山県立近代美術館/2018年「ニュー・ウェイブ現代美術の80年代」展 国立国際美術館、大阪。 個展は、1984年~2020年 東京、名古屋、京都、大阪、福山、熊本、ソウル、ミラノ他で70回開催。
パブリックコレクション:文化庁・宮崎県立美術館・和歌山県立近代美術館・町田市立国際版画美術館・京都市立芸術大学・神戸アートビレッジセンター・嵯峨美術大学・ウィル愛知(愛知県女性センター)・兵庫県立美術館・砺波市美術館他。


■2021年5月18日(火)  吉原英里 YOSHIHARA Eri 《Sound of Silence 4》

吉原英里 YOSHIHARA Eri 
《Sound of Silence 4》
2020年
ミクストメディア
162×260cm (162×130cm×2枚組)
サインあり

吉原英里 YOSHIHARA Eri
1959年大阪生まれ。1983年嵯峨美術短期大学版画専攻科修了。
1984年大阪の番画廊で初個展を開催し華々しいデビューを飾る。帽子やティーカップ、ワインの瓶など身近なものをモチーフに、独自の「ラミネート技法」で銅版画を制作。
1986年にインスタレーションを展開し、2001年から版画を組み入れた油彩の発表を始める。
主な展覧会:1997年 リュブリアナ国際版画ビエンナーレ招待出品、スロベニア/2000年 ボローニャアートフェアー、イタリア/2003年 文化庁買上優秀美術作品披露展 日本芸術院会館、東京/2007年 「日本版画の粋 現代版画展」南砥市立福光美術館、富山/2011年「吉原英雄を囲む作家展」和歌山県立近代美術館/2013年 新収蔵品展「信濃橋画廊コレクションを中心に」兵庫県立美術館/2016年「版画の誘惑展」砺波市美術館、富山/2016年 The 13th Gongju International Art Festival Lim Lip Art Museum、韓国/2018年 なつやすみの美術館8「タイムトラベル」和歌山県立近代美術館/2018年「ニュー・ウェイブ現代美術の80年代」展 国立国際美術館、大阪。 個展は、1984年~2020年 東京、名古屋、京都、大阪、福山、熊本、ソウル、ミラノ他で70回開催。
パブリックコレクション:文化庁・宮崎県立美術館・和歌山県立近代美術館・町田市立国際版画美術館・京都市立芸術大学・神戸アートビレッジセンター・嵯峨美術大学・ウィル愛知(愛知県女性センター)・兵庫県立美術館・砺波市美術館他。


■2021年4月29日(木)  アンディ・ウォーホル Andy WARHOL 《LOVE 2》

アンディ・ウォーホル Andy WARHOL 
《LOVE 2》
1983年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
65.8×50.0cm
E.P. (Ed.100)
サインあり

アンディ・ウォーホル Andy WARHOL
83年[アンディ・ウォーホル全国展]を企画した私は、ウォーホルに日本の花をテーマに、日本の刷り師を使いエディションを作って欲しいと頼んだ。刷り上がった千数百枚の『KIKU』『LOVE』連作6点を担いで、生まれて初めてN.Y.に行きウォーホルにサインを貰ったのだが、「君も描いてあげるよ」と言われたのに遠慮してしまったのが今となっては悔しい!89年にファクトリーを再訪した時は既に主はいなかった・・・。


■2021年4月22日(木)  釣光穂 Mitsuho TSURI 《キンタローマリリン yel》

釣光穂 Mitsuho TSURI 
《キンタローマリリン yel》
2020年
陶土、磁土、顔料
D16×W9×H9cm
サインあり

「Tricolore2021より―釣光穂」

釣光穂 Mitsuho TSURI
1991年兵庫県生まれ。2014年京都市立芸術大学美術学部工芸科陶磁器専攻卒業。2016年京都市立芸術大学大学院 美術研究科修士課程工芸専攻陶磁器卒業。2020年金沢卯辰山工芸工房卒業。

主な展覧会:個展2016年「うつわの標本」KUNST ARZT/京都,グループ展2017年「ルンパルンパKanazawa Newly arrived Art&Craft 2017」青山スパイラル/東京,「ウォーホル美術/Warhol Art」KUNST ARZT/京都,2018年秋元雄史監修「もう一つの工芸未来派」銀座和光/東京, その他グループ展,国内のアートフェア,ワークショップなど多数参加)

受賞歴:2016年「京都市立芸術大学作品展」奨励賞,2017年「第7回菊池ビエンナーレ 現代陶芸の<今>」菊池寛実記念智美術館 奨励賞,2019年「金沢市工芸展」NHK金沢放送局長賞,「金沢卯辰山工芸工房研修者作品展」卯辰山工芸工房賞。


■2021年4月13日(火)  宇田義久 Yoshihisa UDA 《aquarium 21-2》

宇田義久 Yoshihisa UDA  
《aquarium 21-2》
2021年
パネル・アクリル・ウレタンニス
91x113cm 
サインあり

「Tricolore2021より―宇田義久」

宇田義久 Yoshihisa UDA
1966年 福島県会津若松市生まれ 岩手県盛岡市在住
1992年 岩手大学特設美術科卒業
1991年 「磁気状況シリーズ」/ギャラリー彩園子(岩手・盛岡市/'95, '00, '08)
1993年 個展/ギャラリー彩園子(岩手・盛岡市/'94, '14, '16)
1996年 岩手県芸術選奨受賞・個展/盛岡クリスタル画廊(岩手・盛岡市/'99, '02)
2003年 VOCA展/上野の森美術館(東京・上野)・ホルベインスカラシップ
2004年 個展/諄子美術館(岩手・北上市/'06, '10)・個展/足利ギャラリー(福島・会津若松市)
2005年 N.E.blood21 Vol.17宇田義久展/リアス・アーク美術館(宮城・気仙沼市)
2007年 「奥の若手道」展 /リアス・アーク美術館ほか(宮城、北海道、山形)
2008年 石神の丘アートウォーク2008/石神の丘美術館(岩手・岩手町)

2009年 福島の新世代2009/福島県立美術館(福島・福島市)・多彩な表現の中で展/石井県令邸(岩手・盛岡市)・はじめる視点・博物館から覚醒するアーティストたち/福島県立博物館
2011年 センダイモリオカアート/宮城県立美術館・県民ギャラリー・「2011.3.11~展」/諄子美術館(岩手・北上市)
2012年 センダイモリオカアート/石井県令邸(岩手・盛岡市)
2013年 個展/turn around(宮城・仙台市)
2014年 BOX ART展/リアス・アーク美術館(宮城・気仙沼市)・国民文化祭秋田市/秋田県立美術館
2015年 個展/萬鉄五郎記念館 八丁土蔵ギャラリー(岩手・花巻市)・個展/MORIOKA第一画廊(岩手・盛岡市/'17)
2018年 宇田義久展/もりおか啄木・賢治青春館(岩手・盛岡市)
2020年 宇田義久展 Aqua/石神の丘美術館(岩手・岩手町)


■2021年4月6日(火)  ジャスパー・ジョーンズ Jasper JOHNS 《Cicada》

ジャスパー・ジョーンズ  
《Cicada》
1979年
セリグラフ
イメージサイズ:44.7×34.5cm
シートサイズ:55.8×46.0cm
Ed.100
サインあり

こちらの作品は、「オマージュ志水楠男 Marginalia-Hommage to Shimizu」に挿入されている作品の中の1点です。

「志水楠男と南画廊 Marginalia-Hommage to Shimizu」

ジャスパー・ジョーンズ Jasper JOHNS
1930年、ジョージア州オーガスタに生まれた。少年期をサウスカロライナで過ごした後、1949年、ニューヨークに出る。徴兵されて陸軍に入り、1952年に除隊。1954年頃から、国旗、数字、標的などを題材にした絵画を発表し始める。ほぼ同世代の美術家ラウシェンバーグとは、たまたま同じビルに入居していたこともある友人同士である。

ラウシェンバーグの作品がしばしば2次元の枠をはみ出ているのに対し、ジョーンズは標的や地図のようなもともと2次元的な事物を平面に描くことにこだわった。3次元の事物を2次元の平面に再現する「イリュージョン」としての絵画はここでは否定され、絵画自体が「もの」であることが強調され、平面的な「オブジェ」と化しているのである。また、ビールの缶をブロンズで本物そっくりに鋳造し彩色した「彫刻」も手掛けている。


■2021年3月30日(火)  関根伸夫 Nobuo SEKINE 《位相ー大地》

関根伸夫  
《位相ー大地》
1986年
シルクスクリーン(刷り:岡部徳三)
シートサイズ:79×59.5cm
Ed.75
サインあり

関根伸夫 「〈発想〉について」(全5回)
関根伸夫 「空相ー皮膚 Phase of nothingness-skin のためのノート」
鏑木あづさ 「関根伸夫資料をめぐって」
土渕信彦 「梅津元の関根伸夫 追悼トーク」
追悼 関根伸夫先生
ルイジアナ美術館の関根ガーデン
関根伸夫の版画
関根伸夫の生前最後の個展
濱田千里 「川越市立美術館 小特集:関根伸夫と現代の美術について」
関根伸夫73歳 「日本美術オーラル・ヒストリー」
ロスのBlum & Poeで関根伸夫個展
'82関根伸夫全国展とオリジナル入りカタログ刊行
関根伸夫ヨーロッパ巡回展歓送会
現代版画センター全国同時展 「島州一・関根伸夫クロスカントリー7500km」MORIOKA第一画廊

関根伸夫 Nobuo SEKINE
1942年埼玉県生まれ。68年多摩美術大学大学 院油画研究科卒業。同大学で斉藤義重に師事。第8回 現代美術展、 神戸須磨離宮公園現代彫刻展、第5回長岡現代美術館賞展などで次々と受賞。美術界に旋風を巻き起こす。日本 発の現代 美術ムーブメント[もの派]を代表する作家として活躍する。70年ヴェニス・ビエンナーレ出品。73年環境 美術研究 所設立。78年デンマーク・ルイジアナ美術館他でヨーロッパ巡回展を開催。

須磨の公園の大地に大きな穴(円筒)をスコップで ひたすら掘り、掘り出した土をその穴の脇に円筒形に 積み上げた [位相ー大地]。彫刻の既成概念をひっくり返したこの作品は数週間の命で、人々の記憶にしか残りません。も し延々と その作業を続けたとしたら地球の中身は空っぽになり、隣にまったく同じ地球が生まれます。位相幾何学を援用 した思考 実験ともいうべき壮大なスケールのこの作品で関根先生は一躍スターとなりました。
2019年5月永眠。


■2021年3月23日(火)  関根伸夫 Nobuo SEKINE 《位相絵画《不滅のもの》 (G8-133)

関根伸夫  
《位相絵画《不滅のもの》 (G8-133)
1989年
位相絵画(ミクストメディア、金)
45.5×37.5cm (F8号)
サインあり

関根伸夫 「〈発想〉について」(全5回)
関根伸夫 「空相ー皮膚 Phase of nothingness-skin のためのノート」
鏑木あづさ 「関根伸夫資料をめぐって」
土渕信彦 「梅津元の関根伸夫 追悼トーク」
追悼 関根伸夫先生
ルイジアナ美術館の関根ガーデン
関根伸夫の版画
関根伸夫の生前最後の個展
濱田千里 「川越市立美術館 小特集:関根伸夫と現代の美術について」
関根伸夫73歳 「日本美術オーラル・ヒストリー」
ロスのBlum & Poeで関根伸夫個展
'82関根伸夫全国展とオリジナル入りカタログ刊行
関根伸夫ヨーロッパ巡回展歓送会
現代版画センター全国同時展 「島州一・関根伸夫クロスカントリー7500km」MORIOKA第一画廊

関根伸夫 Nobuo SEKINE
1942年埼玉県生まれ。68年多摩美術大学大学 院油画研究科卒業。同大学で斉藤義重に師事。第8回 現代美術展、 神戸須磨離宮公園現代彫刻展、第5回長岡現代美術館賞展などで次々と受賞。美術界に旋風を巻き起こす。日本 発の現代 美術ムーブメント[もの派]を代表する作家として活躍する。70年ヴェニス・ビエンナーレ出品。73年環境 美術研究 所設立。78年デンマーク・ルイジアナ美術館他でヨーロッパ巡回展を開催。

須磨の公園の大地に大きな穴(円筒)をスコップで ひたすら掘り、掘り出した土をその穴の脇に円筒形に 積み上げた [位相ー大地]。彫刻の既成概念をひっくり返したこの作品は数週間の命で、人々の記憶にしか残りません。も し延々と その作業を続けたとしたら地球の中身は空っぽになり、隣にまったく同じ地球が生まれます。位相幾何学を援用 した思考 実験ともいうべき壮大なスケールのこの作品で関根先生は一躍スターとなりました。
2019年5月永眠。


■2021年3月09日(火)  ハ・ミョンウン HA Myoung-eun 《Firecracker BRUSH》

ハ・ミョンウン 
《Firecracker BRUSH》
2018年
ミクストメディア
115x80x6cm
サインあり

ハ・ミョンウン HA Myoung-eun
韓国の若い世代を代表する女性アーティスト。20世紀のポップアートを用いて、さまざまな素材のオブジェへと再解釈して、独自の作品を作る。2011年ソンシン女子大学一般大学院西洋画科卒業。

主な個展:2009年「A master piece of painting Preznt展」ギャラリーS101(ソンシン女子大学)、2011年「A master piece BRUSH」Gana Art Wilギャラリー(ソウル)。その他グループ展、団体展多数。受賞歴:2010年マノフィン新進作家公募優秀賞、2011年ギャラリードール 選定作家。


■2021年3月02日(火)  ボブ・ウィロビー Bob WILLOUGHBY 《Hepburn, Audrey, 1953
Audrey Hepburn getting into a car after her first photo shoot at Paramount, having recently finished her first film "Roman Holiday," 1953. (A120) ※「ローマの休日」》

ボブ・ウィロビー  
《Hepburn, Audrey, 1953
Audrey Hepburn getting into a car after her first photo shoot at Paramount, having recently finished her first film "Roman Holiday," 1953. (A120) ※「ローマの休日」》

1953 (Printed in 2004)
ゼラチンシルバープリント
12×16in.
Ed.200
Initialed by Bob Willoughby, stamped and signed by Christopher Willoughby

「ボブ・ウィロビー写真展 ハリウッド・スペシャル」よりオードリー・ヘプバーン

ボブ・ウィロビー Bob WILLOUGHBY
1927年アメリカ・ロサンゼルスで生まれる。12歳のときに父からもらったカメラで写真を撮り始める。高校卒業後、ハリウッドのカメラマンたちの助手として修業し、かたわらジャズを対象に写真修業をした。南カリフォルニア大学の夜間部で写真を学び、専門学校でデザインを学習。やがて演劇や文化イベントを手がけるようになり、雑誌のために映画関連の撮影が増えた。

オードリー・ヘプバーン出演作のほか、「地上より永遠に」「スタア誕生」「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」「卒業」など30年あまりの間に120本ほどの映画でスチル写真を撮り、『ライフ』『ヴォーグ』など世界的な雑誌に提供している。写真集として、『プラチナの時代』(1974)、『ロサンゼルスのジャズ』(1990)、『ハリウッド・スペシャル』(1993)などがある。彼の写真は、数多くの国の美術館に展示されている。2009年12月フランス・ヴァンスに永逝(享年82)。


■2021年2月23日(火)  平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko 《黒澤明 北海道苫小牧市。 『影武者』ロケ現場。》

平嶋彰彦  
《黒澤明 北海道苫小牧市。 『影武者』ロケ現場。》
1979年10月
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:25.9×38.7cm
シートサイズ:35.6×43.0cm
Ed. 3
サインあり

平嶋彰彦「東京下町の私的な体験」
平嶋彰彦
「東京ラビリンス」のあとさき
森山大道「平嶋彰彦展~写真を支える多様なレイヤー」
大竹昭子「東京上空に浮遊する幻の街 平嶋彰彦写真展に寄せて」
飯沢耕太郎「日本の写真家たち 第10回 都市観察者の眼差し 平嶋彰彦」

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。

編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。 同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。


■2021年2月16日(火)  マン・レイ Man RAY 《モデル エルザ》

マン・レイ  
《モデル エルザ》
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:31.9×26.0cm
シートサイズ:38.3×27.9cm
裏面にスタンプあり
※ピエール・ガスマンによるモダンプリント

マン・レイ Man RAY
マン・レイ(Man Ray, 1890年8月27日~ 1976年11月18日)はアメリカ合衆国の画家、彫刻家、写真家。ダダイストまたはシュルレアリストとして、多数のオブジェを制作したことでも知られる。

レイヨグラフ、ソラリゼーションなど、さまざまな技法を駆使し、一方でストレートなポートレート(特に同時代の芸術家のポートレート)も得意とし、ファッション写真と呼べるような作品もあったりと、多種多様な写真作品群を残している。


■2021年2月09日(火)  細江英公 HOSOE Eikoh 《草間彌生、NYにて》

細江英公  
《草間彌生、NYにて》
1964年(printed later)
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:37.0×55.7cm
シートサイズ:50.4×60.7cm
Signed

細江英公「写真絵巻とフレスコ画の時を越えた出会い~イタリア・ルッカ」
細江英公
「「ガウディ」の肉体と霊性」
飯沢耕太郎「細江英公の演劇的想像力」
原 茂「細江英公写真展―写真絵巻とフレスコ画の時を越えた出会い~イタリア・ルッカ」オープニングに出席して
森下隆「鎌鼬美術館——秋田県羽後町田代に開館」(全3回)
細江英公、瀧口修造を撮る

細江英公 Eikoh HOSOE
写真家。清里フォトアートミュージアム館長。1933年山形県生まれ。本名・敏廣。18歳のときに[富士フォトコンテスト学生の部]で最高賞を受賞し、写真家を志す。52年東京写真短期大学(現東京工芸大学)入学。デモクラート美術家協会の瑛九と出会い強い影響を受ける。54年卒業。56年小西六ギャラリーで初個展。63年三島由紀夫をモデルに撮った[薔薇刑]で評価を確立し、70年[鎌鼬(かまいたち)]で芸術選奨文部大臣賞受賞。

[薔薇刑][鎌鼬][抱擁][おとこと女]などの写真集は今や稀覯本です。瑛九の周辺に集まった画家たちの中では最年少だった細江先生ですが、98年紫綬褒章、2003年には英国王立写真協会創立百五十周年記念特別賞を受賞するなど、国内外において高い評価を獲得しています。功なり名を遂げても一ケ所に安住することなく、時代の先端をカメラを通して見つめ、謙虚で若い才能を愛する姿勢は一貫しています。


■2021年2月02日(火)  ル・コルビュジエ LE CORBUSIER 《モデュロール》

ル・コルビュジエ 
《モデュロール》
1956年
リトグラフ
70.3×52.8cm
版上サインあり

倉方俊輔「『悪』のコルビュジエ」(全12回)
磯崎新「ル・コルビュジエへのオマージュ」
藤本貴子「建築圏外通信 第1回(没後50年 ル・コルビュジエの資料)」
藤本貴子「建築圏外通信 第11回(ル・コルビュジエ ロンシャンの丘との対話)」
八束はじめ「建築家のドローイング 第15回 ル・コルビュジエ」
王聖美「気の向くままに展覧会逍遥 第1回〜ラ・ロシュ=ジャンヌレ邸とエスプリ・ヌーヴォー館を通じてル・コルビュジエが試みた絵画と建築の融合」
杉山幸一郎「幸せにみちたくうかんを求めて 第42回〜チューリッヒのコルビュジエ」
尾立麗子「映画 ル・コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ」
「ル・コルビュジエの版画と資料」

ル・コルビュジエ Le Corbusier
建築家。1887年スイスのジュラ地方ラ・ショー・ド・ファン生まれ。本名シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ。1906年初めての住宅[ファレ邸]を設計。1917年パリに出るが、翌年左目を失明する。『エスプリ・ヌーボー』の創刊に関わり、美術運動にも参加。1922年建築事務所設立。代表作[サヴォア邸][ロンシャン礼拝堂][ラ・トゥーレット修道院][国立西洋美術館]他。1965年水泳中にカプ・マルタンで死去(78歳)。

ライト、ミースと並ぶ20世紀建築界の巨匠はリトグラフによる詩画集『直角の詩』など多くの版画を残しました。[近代建築の五原則]を提唱、近代建築国際会議(CIAM)メンバーとして近代建築理論の最大の指導者でした。油彩、彫刻、版画を制作、生涯絵筆を手放しませんでしたが、その死は悲劇的でした(母なる海に帰ったともいえますが)。そのあたりのことは磯崎新『栖十二』の美しいオマージュをお読み下さい。


■2021年1月26日(火)  磯崎新 ISOZAKI Arata 『版画掌誌ときの忘れもの』第2号より 磯崎新 《ファテプール・シクリ3》

磯崎新
『版画掌誌ときの忘れもの』第2号より 磯崎新 《ファテプール・シクリ3》
2000年
エッチング
イメージサイズ:13.5×18.0cm
Ed.135
サインあり
※『版画掌誌ときの忘れもの』第2号A・B版に挿入

磯崎新「内部風景シリーズについて」
磯崎新「<極薄>〜東野芳明へのオマージュ」
磯崎新「<還元>〜建築家はなぜ版画をつくるのか」
植田実「磯崎新の七つの美術空間 Seven Art Galleries」
深野一朗「建築家というもの、建築家の仕事というもの[たてもの]」
植田実「建築家の手の在り処」
今村創平「大分市美術館[磯崎新の謎]展」

磯崎新 Arata ISOZAKI
建築家。1931年大分市生まれ。54年東京大学卒業。61年東京大学数物系大学院建築学博士課程修了。63年磯崎新アトリエを設立。代表作に[大分県立中央図書館][岩田学園][福岡相互銀行本店][つくばセンタービル][MOCA―ロサンゼルス現代美術館][バルセロナ市オリンピック・スポーツホール][ティーム・ディズニー・ビルディング][山口県秋吉台国際芸術村][トリノ冬季五輪アイスホッケーメーン会場]他。近年は頻繁にアジアに出向き、多数のプロジェクトに参加している。日本建築学会賞、RIBA賞、朝日賞、ヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞、他受賞。著書『空間へ』『建築の解体』『手法が』『栖十二』『建築家捜し』など多数。

早くから建築のみならず、思想、美術、デザイン、映画などの国際的な舞台で活躍、評論や設計競技の審査を通じて、世界のラディカルな建築家たちの発想を実現に導くうえでのはかり知れない支援を果たしてきた。日本を代表するとともに、世界の建築界で最も信頼されている建築家である。自らの建築観(コンセプト)を紙の上に表現することに強い意欲を示し、77年から既に200点もの版画を制作している。現在、ときの忘れものを版元に、版画とエッセイによる連刊画文集《百二十の見えない都市》に取り組んでいる。


■2021年1月19日(火)  内間安瑆 UCHIMA Ansei 《Forest Byobu with Bouquet》『版画掌誌ときの忘れもの』第4号より

内間安瑆
《Forest Byobu with Bouquet》
原版制作1979年(2001年後刷り)
木版
イメージサイズ:19.7×26.5cm
シートサイズ:24.0×31.4cm
Ed.35(初版の作家自刷りはEd.30)
作家印を捺し、限定版号を記入)
『版画掌誌ときの忘れもの』第4号A版に挿入

内間安瑆「インタビュー(1982年7月 NYにて)第1回」
内間安瑆「インタビュー(1982年7月 NYにて)第2回」
内間安瑆「インタビュー(1982年7月 NYにて)第3回」
水沢勉「版の音律—内間安瑆の世界」
水沢勉「ふたりでひとりー内間安瑆と内間(青原)俊子」
内間安樹「My parents: A Reflection  追想:両親のこと」
永津禎三「内間安瑆の絵画空間
『版画掌誌ときの忘れもの』第04号/内間安瑆

内間安瑆 Ansei UCHIMA
1921年アメリカ生れ。40年父母の国日本に留 学。早稲田大学で建築を学ぶ。戦後、創作版画の恩地 孝四郎に巡り逢い抽象木版に志す。55年東京・養清 堂画廊で初個展。60年帰米、以降ニューヨーク在 住。62,70年グッゲンハイム・フェローシップ版 画部門で受賞。サラ・ローレンス大学名誉教授。 2000年永逝(享年79)。メトロポリタン美術 館、ホイットニー美術館、シカゴ美術館、アムステル ダム国立美術館他が作品を収蔵。

日米、二つの祖国をもった内間先生は浮世絵の伝統 技法を深化させ「色面織り」と呼ぶ独自の技法を確立 し、伝統的な手摺りで45度摺を重ねた『森の屏風  Forest Byobu』連作を生み出します。鮮 やかな色彩のハーモニー、微妙なぼかしが入った色面 が幾重にも重なる複雑な構成、多色にもかかわらず画 面全体には静かな気品が漂う。現代感覚にあふれた 瑞々しい木版画はこれからもっともっと評価されるに 違いない。


■2021年1月12日(火)  草間彌生 Yayoi KUSAMA 《南瓜》 『版画掌誌ときの忘れもの』第3号より

草間彌生
《南瓜》
2000年
シルクスクリーン・コラージュ
27.0×21.0cm
Ed.135
サインあり
※レゾネNo.294(阿部出版 2005年新版)
『版画掌誌ときの忘れもの』第3号A・B版に挿入

草間彌生 Yayoi KUSAMA
1929年長野県生まれ。49年京都市立美術工芸 学校卒。57年渡米。無限に増殖する網や水玉の作品 を制作、ソフトスカルプチャーなど環境彫刻の先駆け をなし、ボディペインティング、反戦運動など多数の ハプニングを行う。75年帰国。93年ベネチア・ビ エンナーレに参加。98-99年ニューヨーク MoMA他で大回顧展が巡回し、20世紀の最も優れ た女性作家の評価を決定的にした。2004年には 【クサマトリックス】(森美術館)と【草間彌生―永 遠の現在】(東京国立近代美術館)の二つの大展覧会 が開催された。2000年芸術選奨文部大臣賞、 2001年朝日賞、2006年高松宮殿下記念世界文 化賞(第18回)を受賞。

草間さんが版画を発表したのは帰国後の79年から ですが、当初は全く売れませんでした。版元の私たち には辛いことでしたが、草間さんの自作に寄せる自信 は揺るぎないものでした。これだけ自己の才能を信じ られる作家はそうはいない。バブル崩壊で男が自信喪 失する中、経済的にも力をつけてきた女性達が、抑圧 された女性の才能をアートで開花させた草間さんに圧 倒的な支持を寄せ、空前の草間ブームを呼んだのはご 承知の通りです。


■2021年1月5日(火)  安藤忠雄 ANDO Tadao 《ベネトン・アートスクール I》

安藤忠雄
《ベネトン・アートスクール I》
1998年
シルクスクリーン
イメージサイズ:39.0×111.5cm
シートサイズ:60.0×120.0cm
A版:Ed.10
B版:Ed.35
サインあり

植田実「安藤忠雄展―挑戦―」
今村創平「建築への思いを伝える、安藤忠雄の建築図面(安藤忠雄 初期建築図面集―個の自立と対話、於国立近現代建築資料館)」
スタッフS「Tadao Ando. The Challenge」
スタッフS「Tadao Ando, Le defi ~ Centre Pompidou」

安藤忠雄 Tadao ANDO 
建築家、東京大学名誉教授。1941年大阪生まれ。独学で建築を学び、69年安藤忠雄建築研究所を設立。[住吉の長屋]により79年日本建築学会賞受賞、衝撃的なデビュー。代表作に[六甲の集合住宅][光の教会][ファブリカ/ベネトンアートスクール][フォーワース現代美術館][直島コンテンポラリーミュージアム][表参道ヒルズ]他。吉田五十八賞、日本芸術院賞、プリツカー賞、高松宮殿下記念世界文化賞、UIA賞他を受賞。2010年文化勲章受章。著書『連戦連敗』『旅』他多数。

学歴なしでいきなり東大教授に就任したときは世間をあったといわせましたが、阪神・淡路震災復興支援にも尽力するなど、安藤さんほど建築家という職業を世に知らしめた人はいないでしょう。84年から版画制作に取り組み、『安藤忠雄版画集 1998』をときの忘れものより出版。ニューヨークMoMA、パリ・ポンピドゥーセンターなど世界各地で建築展を開催、出品される美しいドローイング、版画類は世界中のコレクター垂涎の的です。


■2020年12月26日(土)  オディロン・ルドン 《ベアトリーチェ》

オディロン・ルドン
《ベアトリーチェ》
1897年
カラーリトグラフ
イメージサイズ:33.0×29.5cm
シートサイズ:51.6×38.4cm
Ed.100
※レゾネNo.168

山上紀子「オディロン・ルドン『聖アントワーヌの誘惑』第3集について」
荒井由泰「マイコレクション物語 第1回 ルドン作<光の横顔>の話」
東海林 洋「近代との距離 ”モネ それからの100年”と”ルドン ひらかれた夢」

オディロン・ルドン Odilon REDON 
フランスの象徴主義の画家。1840年ボルドー生まれ。15歳のときに画家のスタニスラス・ゴランから素描を学び、ゴランを通して知ったウジェーヌ・ドラクロワの作品などに感銘を受ける。また植物学者のアルマン・クラヴォーからの紹介で、エドガー・アラン・ポーやシャルル・ボードレールの文学にふれる。一時、画家ジャン・レオン=ジェロームの教室に通うが、新古典主義に順応できず地元に戻る。その後、ボルドーに定住していた放浪の版画家ロドルフ・ブレスダンに師事。ブレスダンのロマン主義的な作品から影響を受け、後の伝記的主題につながる。

普仏戦争後、素描家になることを決心してパリに移住し、木炭による素描を広く発表するための方法を模索する中、出入りしていたサロンでリトグラフ技法を教わり、これによって初の版画集『夢のなかで』(1879年)を出版。続いて、ポーの小説に着想を得た『エドガー・ポーに』(1882年)、チャールズ・ダーウィンの進化論を独自に解釈した『起源』(1883)を刊行し、作中では、世界を見通すための道具として「眼球」のモチーフを多用している。


■2020年12月22日(火)  オディロン・ルドン 〈聖アントワーヌの誘惑 第三集〉より 《XIII. そして頭を持たない目が軟体動物のようにただよっていた》

オディロン・ルドン
〈聖アントワーヌの誘惑 第三集〉より 《XIII. そして頭を持たない目が軟体動物のようにただよっていた》
1896年(1933年版)
リトグラフ
イメージサイズ:31.2×22.5cm
Ed.220
レゾネ No. 146

山上紀子「オディロン・ルドン『聖アントワーヌの誘惑』第3集について」
荒井由泰「マイコレクション物語 第1回 ルドン作<光の横顔>の話」
東海林 洋「近代との距離 ”モネ それからの100年”と”ルドン ひらかれた夢」

オディロン・ルドン Odilon REDON 
フランスの象徴主義の画家。1840年ボルドー生まれ。15歳のときに画家のスタニスラス・ゴランから素描を学び、ゴランを通して知ったウジェーヌ・ドラクロワの作品などに感銘を受ける。また植物学者のアルマン・クラヴォーからの紹介で、エドガー・アラン・ポーやシャルル・ボードレールの文学にふれる。一時、画家ジャン・レオン=ジェロームの教室に通うが、新古典主義に順応できず地元に戻る。その後、ボルドーに定住していた放浪の版画家ロドルフ・ブレスダンに師事。ブレスダンのロマン主義的な作品から影響を受け、後の伝記的主題につながる。

普仏戦争後、素描家になることを決心してパリに移住し、木炭による素描を広く発表するための方法を模索する中、出入りしていたサロンでリトグラフ技法を教わり、これによって初の版画集『夢のなかで』(1879年)を出版。続いて、ポーの小説に着想を得た『エドガー・ポーに』(1882年)、チャールズ・ダーウィンの進化論を独自に解釈した『起源』(1883)を刊行し、作中では、世界を見通すための道具として「眼球」のモチーフを多用している。1888年から1896年にかけて、代表作となるギュスターヴ・フローベールの文学作品を題材にした石版画集『聖アントワーヌの誘惑 第一集~第三集』を制作。幻覚を見るような魔的な世界を、「あらゆる色彩の中で最も本質的な色」とした黒一色で表現した。第三集に限り、初版と1933年版の2種類のエディションが存在する。 1916年没。


■2020年12月15日(火)  野口琢郎 《Azure》

野口琢郎
《Azure》
2020年
箔画/木パネル、漆、金、銀箔、石炭、アクリル絵具、樹脂
55.0×100.0cm
Signed

野口琢郎「京都西陣から」
島敦彦「静謐な輝き—野口琢郎の箔画」
石鍋博子「文句なく世界一」

野口琢郎 Takuro NOGUCHI 
1975年京都府生まれ。1997年京都造形芸術大学洋画科卒業。2000年長崎市にて写真家・東松照明の助手に就く。2001年京都西陣の生家 箔屋野口に戻り、西陣織に使われる引箔製造の技法を応用し箔画作家として活動を開始、2004年に初個展開催、以来毎年個展を行なっている。ときの忘れものでは2012年、2014年、2018年に個展開催。

漆を塗った木のパネルに金・銀・プラチナ箔や石炭粉を接着する独自の技法を用いて、抽象的な街の風景〈Landscape〉シリーズや、花火をモチーフにしたシリーズ、海と空、夜明けや星空などの風景を題材に希望の光を感じられる美しさを作品に表現している。箔画の最大の魅力は、画面全体に箔が施されている為に、観る角度、光源の強弱や方向によって輝きが変化する所にあります。


■2020年12月08日(火)  難波田龍起 《青の風景》

難波田龍起
《青の風景》
1973年頃
油彩
45.5×38.0cm (F 8号)
サインあり

難波田龍起「絵画への道」(再録)
難波田龍起「瑛九について」(再録)
栗田秀法『難波田龍起作品史 1928-1996 アトリエに遺された作品による』
中尾美穂〜ギャラリートーク「難波田龍起と遺された作品について」に参加して
難波田龍起「生命体の集合」油彩120号と第七画廊
6月5日・開廊25周年と難波田龍起先生
難波田龍起銅版画集『街と人』『海辺の詩』発表記念展
綿貫不二夫「難波田龍起先生の銅版画」

難波田龍起 NAMBATA Tatsuoki  
1905年北海道旭川生まれ。23年高村光太郎を知り生涯私淑する。27年早稲田大学中退。太平洋画会研究所、本郷絵画研究所に学ぶ。川島理一郎主宰の金曜会に入り、仲間と[フォルム]を結成。37年自由美術家協会の創立に参加。78年現代版画センターより銅版画集『街と人』『海辺の詩』を刊行。87年東京国立近代美術館で回顧展を開催。88年毎日芸術賞を受賞。96年文化功労者。97年永逝(享年92)。

難波田先生は戦前戦後の前衛美術運動の中で誠実に己の道を歩み、形象の詩人に相応しい澄んだ色彩、連続したモティーフと曲線による生命感あふれる独自の画風を築かれました。アトリエに初めて伺ったのは二人のご子息を亡くすという非運の直後でしたが、以後亡くなるまで20年にわたり版元として多くの版画誕生に立ち会うことができました。95年ときの忘れものの最初のエディションも『銅版画集 古代を想う』でした。


■2020年12月01日(火)  平嶋彰彦 《新宿三丁目(角筈一丁目) 御大典広場の飲食店》

平嶋彰彦
《新宿三丁目(角筈一丁目) 御大典広場の飲食店》
1985.9-1986.2
(Printed in 2020)
ゼラチンシルバープリント
シートサイズ:25.4x30.2cm
Ed.10
Signed

平嶋彰彦「東京下町の私的な体験」
平嶋彰彦「東京ラビリンス」のあとさき
森山大道「平嶋彰彦展~写真を支える多様なレイヤー」
大竹昭子「東京上空に浮遊する幻の街 平嶋彰彦写真展に寄せて」
飯沢耕太郎「日本の写真家たち 第10回 都市観察者の眼差し 平嶋彰彦」

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko  
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。

編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。 同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。


■2020年11月24日(火)  倉俣史朗 《花瓶(1990)、花瓶》

倉俣史朗
《花瓶(1990)、花瓶》
2020年
シルクスクリーン10点組
37.5×48.0cm
限定 35部(1/35~35/35)
発行 ときの忘れもの

「倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier」
倉俣史朗の版画
橋本啓子「倉俣史朗の宇宙」全9回
植田実「手紙 倉俣さんへ」
植田実「倉俣史朗とエットレ・ソットサス展」
倉俣史朗の作品集と資料
倉俣史朗展のポスター

倉俣史朗 KURAMATA Shiro  
1960年代後半から革新的な作品を発表した世界的デザイナー。アクリル、グラス、アルミニウム、スチールメッシュを多用した作品が多い。 1934年、東京都生まれ。東京都立工芸高等学校木材科で学び、1953年から帝国器材に勤める。1953年から56年まで桑沢デザイン研究所リビングデザイン科で学び、1957年に三愛の宣伝課に就職、ウィンドウディスプレイなどのデザインを手掛ける。1965年クラマタデザイン事務所を設立。1967年、横尾忠則らとコラボレーションしたインテリアデザインなどで脚光を浴びる。

このころから、彼が生涯にわたって好んだアクリル素材を用いて、日常の空間に無重力を作り出したような、透明で浮遊感のある作品を生み出していく。 1970年「Furniture in Irregular Forms」シリーズで世界に広く認知される。1972年毎日デザイン賞を受賞。1981年エットレ・ソットサス Jr.らによるイタリアンデザインの新しいムーブメントであるメンフィス(Menphis)の展示会に磯崎新、マイケル・グレイブスらと共に参加。1990年フランス文化省芸術文化勲章を受勲。 1991年、急性心不全のため死去。享年56。


■2020年11月17日(火)  平嶋彰彦 《桜丘町 丸西アパート》

平嶋彰彦
《桜丘町 丸西アパートり》
1985.9-1986.2
(Printed in 2020)
ゼラチンシルバープリント
シートサイズ:25.4x30.2cm
Ed.10
Signed

平嶋彰彦「東京ラビリンス」のあとさき
森山大道「平嶋彰彦展~写真を支える多様なレイヤー」
大竹昭子「東京上空に浮遊する幻の街 平嶋彰彦写真展に寄せて」
飯沢耕太郎「日本の写真家たち 第10回 都市観察者の眼差し 平嶋彰彦」

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko  
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。

編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。 同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。


■2020年11月10日(火)  平嶋彰彦 《永代 大島川西支川の舟溜まり》

平嶋彰彦
《永代 大島川西支川の舟溜まり》
1985.9-1986.2
(Printed in 2020)
ゼラチンシルバープリント
シートサイズ:25.4x30.2cm
Ed.10
Signed 

平嶋彰彦「東京ラビリンス」のあとさき
森山大道「平嶋彰彦展~写真を支える多様なレイヤー」
大竹昭子「東京上空に浮遊する幻の街 平嶋彰彦写真展に寄せて」
飯沢耕太郎「日本の写真家たち 第10回 都市観察者の眼差し 平嶋彰彦」

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko  
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。

編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。 同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。


■2020年11月04日(水)  平嶋彰彦 《高田馬場一丁目(諏訪町) 賄付き下宿日本館》

平嶋彰彦
《高田馬場一丁目(諏訪町) 賄付き下宿日本館》
1985.9-1986.2
(Printed in 2020)
ゼラチンシルバープリント
シートサイズ:25.4x30.2cm
Ed.10
Signed 

平嶋彰彦「東京ラビリンス」のあとさき
森山大道「平嶋彰彦展~写真を支える多様なレイヤー」
大竹昭子「東京上空に浮遊する幻の街 平嶋彰彦写真展に寄せて」
飯沢耕太郎「日本の写真家たち 第10回 都市観察者の眼差し 平嶋彰彦」

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko  
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。

編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。 同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。


■2020年10月27日(火)  マン・レイ  《ガラスの涙》

マン・レイ
《ガラスの涙》
c.1930年(1988年プリント)
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:28.8×20.9cm
シートサイズ:30.0×22.0cm
裏面にスタンプあり
※ピエール・ガスマンによるモダンプリント
※額裏にツァイト・フォトのラベルシールあり

「ガラスの涙」とツアィト・フォト・サロン
小林美香「写真のバックストーリー第29回 マン・レイ”ジュリエット”」
石原輝雄「マン・レイへの写真日記」全24回
石原輝雄のエッセイ(ただいま連載中)
石原輝雄「ウィーンでのマン・レイ展報告」
銀紙書房『光の時代 レイヨグラフを中心とした、マン・レイと三條廣道辺り』
宮脇愛子「私が出逢った作家たち~マン・レイのこと」
マン・レイによる宮脇愛子ポートレート

マン・レイ Man RAY 
マン・レイ(Man Ray, 1890年8月27日~ 1976年11月18日)はアメリカ合衆国の画家、彫刻家、写真家。ダダイストまたはシュルレアリストとして、多数のオブジェを制作したことでも知られる。

レイヨグラフ、ソラリゼーションなど、さまざまな技法を駆使し、一方でストレートなポートレート(特に同時代の芸術家のポートレート)も得意とし、ファッション写真と呼べるような作品もあったりと、多種多様な写真作品群を残している。


■2020年10月20日(火)  靉嘔 《透明な波 スリランカ》

靉嘔
《透明な波 スリランカ》
1981年
シルクスクリーン (刷り:岡部徳三)
90.0x150.0cm
Ed.85 
サインあり

岡部徳三とシルクスクリーン/オノサト・トシノブ、靉嘔
中村惠一「靉嘔のレインボー・ディナーショー」
靉嘔・池田満寿夫「金沢八景ビル 壁画解体」
針生一郎「現代日本版画家群像」第7回 靉嘔と池田満寿夫

靉嘔 Ay-O 
1931年茨城県生まれ。本名・飯島孝雄。54年東京教育大学卒。53年瑛九ら「デモクラート美術家協会」に参加。55年池田満寿夫らと[実在者]を結成。58年渡米、以後ニューヨークと日本を行き来する。62年ハプニングを中心とする前衛芸術グループ[フルクサス]に参加。71年のサンパウロ・ビエンナーレはじめ各国際展で次々と受賞。全ての物体、イメージを虹色で分解し再構築した虹の作品で世界的な評価を受ける。

1974年美術界に入り、版元として初めてエディションしたのが靉嘔さんの "I love you (Love letters)" でした。世界一を目指そうと未だ誰もやったことのないシルクスクリーン手刷りで限定11,111部という途方もない作品でした。 刷り上がった作品をトラックで靉嘔さんのアトリエに運び込み16時間ぶっ通しでサインして貰いました。お互い若かった!一目で虹=靉嘔とわかるほど、その作風は独創的でオリジナリティは強烈です。


■2020年10月13日(火)  植田正治 "無題"

植田正治
"無題"
1977
Type-Cプリント, 木製パネル
27.0×40.0cm
『植田正治作品集』(2016年、河出書房新社) P132参照

飯沢耕太郎「植田正治―世界に開かれたローカリティ」
大竹昭子<迷走写真館>一枚の写真に目を凝らす 第40回 植田正治
森本悟郎「その後・第13回 植田正治 (1) 写真展のはじまり」
森本悟郎「その後・第14回 植田正治(2) いつも新しい写真家」
『植田正治写真展―光と陰の世界―Part I』    図録
『植田正治写真展―光と陰の世界―Part II』   図録

植田正治 Shoji UEDA 
1913年、鳥取県生まれ。15歳頃から写真に夢中になる。1932年上京、オリエンタル写真学校に学ぶ。第8期生として卒業後、郷里に帰り19歳で営業写真館を開業。この頃より、写真雑誌や展覧会に次々と入選、特に群像演出写真が注目される。1937年石津良介の呼びかけで「中国写真家集団」の創立に参加。1949年山陰の空・地平線・砂浜などを背景に、被写体をオブジェのように配置した演出写真は、植田調(Ueda-cho)と呼ばれ世界中で高い評価を得る。1950年写真家集団エタン派を結成。

1954年第2回二科賞受賞。1958年ニューヨーク近代美術館出展。1975年第25回日本写真協会賞年度賞受賞。1978年文化庁創設10周年記念功労者表彰を受ける。1989年第39回日本写真協会功労賞受賞。1995年鳥取県岸本町に植田正治写真美術館開館。1996年フランス共和国の芸術文化勲章を授与される。2000年歿(享年88)。2005~2008年ヨーロッパで大規模な回顧展が巡回、近年さらに評価が高まっている。


■2020年10月06日(火)  宮森敬子 "Birdcage Without Roof #4"

宮森敬子
"Birdcage Without Roof #4"
2009年
鳥かご、樹脂、穀物、和紙、炭
30.0X21.5X35.0cm
サインあり


ご縁があって、5年ほど前から御代田(長野)のpacearound という雑貨店で作品を見せ始めました。広い店内に、ヨーロッパのアンティックや、クラフト、アートまで、若い店主の目で選んだものが並んでいます。わざわざ探してゆかねば行き着けない場所にあるのですが、地元の人たち、文化人にも愛されており、小諸に仕事場を持っていた文芸評論家の加藤典洋さんも、時々行かれていたのでした。そこで時々見る私の作品を気に入ってくださり、ご自分の掲載される文章の挿絵に使いたい、ということでやりとりが始まりました。
(宮森敬子のエッセイ 「ゆらぎの中で」 第1回より)


宮森敬子の連載エッセイ「ゆらぎの中で」
大藤敏行「宮森敬子個展/ある小説家の肖像~生きているものと死んでいるものの間に~」

宮森敬子 Keiko MIYAMORI 
1964年神奈川生まれ。 筑波大学大学院芸術研究科日本画専攻修了。三木多聞賞受賞(1994)、文化庁新進芸術家海外留学制度により米国ペンシルバニア大学大学院在籍(1998)。 2000年よりフィラデルフィアで、2011年よりニューヨークで制作をする。 第6回柏市文化フォーラム104大賞展TAMON賞-谷新の眼大賞(1995)、第16回今立現代美術紙展 大賞(1997)、リーウェイ財団 ウインドウオブオポチュニティー賞(2003)、The Meijer Sculpture Competition 大賞2004)、Leeway Foundation Transformation Award(2008)、センターフォーエマージングビジュアルアーティストトラベルグラント受賞(2009)The Independence Foundation Fellowships in the Arts 受賞(2010)、朝日新聞文化財団助成(2018)。

主な展覧会は、VOCA’97「現代美術の展望—新しい平面の作家達」(上野の森美術館/東京 、1997)、「拡兆する美術’97 」(つくば美術館/茨城、1997)、「流通と大地」(カスミつくばセンター/茨城、1998)などのグループ展に参加し、以降、アメリカ(フィラデルフィアやニューヨーク、ピッツバーグなど)を中心に日本、ドイツ、韓国などでのグループ展に多数参加。
作品は絵画、彫刻からインスタレーションに及び、現在は日本とアメリカを基盤に制作活動を行なっている。和紙や木炭を使い、異なる時間や場所に存在する自然や人工物の組み合わせを、個と全体のつながりに注目した作品を作っている。


■2020年09月30日(水)  オノサト・トシノブ "白い大小の円"

オノサト・トシノブ
"白い大小の円"
1955年
キャンバスに油彩
24.5x33.5cm
サインあり


私の仕事は物理学だ。だから、そこには絵画的なものはなにもないともいえる。私は物理に一番興味をもっていた。いつか、美術の側に立つことになったが、もともと「人間ドラマ」とは無縁なのだ。ちょうど物理学に物体とか、力関係とか、数字という記号があるように、私には形と色があるのだ。
(『美術手帖』1962年8月号<基本的な形態と色から>より)


小此木美代子「”オノサト・トシノブと戦後桐生の青春~1950年代を中心に”をめぐって、思うこと」
瀧口修造「画家の時刻のかなた(再録)」
オノサト・トシノブ文献資料

オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO
1912年長野県生まれ。その後群馬県桐生に移り住む。本名・小野里利信。津田青楓洋画塾に学ぶ。35年黒色洋画展を結成。38年自由美術家協会会員となる(~56年、以後無所属)。41年に一兵卒として出征、戦後のシベリア抑留を経て48年に帰国後は桐生のアトリエでひたすら円を描き続けた。64年・66年にはベニス・ビエンナーレに日本代表として出品。戦前、戦後と親友の瑛九とともに前衛美術の道を歩み続けた。86年永逝。

瑛九、山口長男、菅井汲らとともに日本を代表する抽象画家オノサト先生は、油彩のほかに約200点の版画作品(リトグラフ、シルクスクリーン)を残しました。版元の私がアトリエに通い出した70年代はアトリエをほとんど一歩も出ず、終日絵筆を握る孤高の生活でした。東京国立近代美術館など多くの美術館に作品が収蔵されていますが、本格的な回顧展と画集の刊行が待たれます。


■2020年09月23日(水)  杉山幸一郎 "Line & Fill 09"

杉山幸一郎
"Line & Fill 09"
2020
水彩
21.0×29.7cm
Signed


世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています。
(杉山幸一郎)

杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」

杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro
浜松出身。一級建築士。 日本大学高宮研究室、東京藝術大学大学院北川原研究室にて建築を学び、在学中にスイス連邦工科大学チューリッヒ校(ピーターメルクリ スタジオ)に留学。 2014年文化庁新進芸術家海外研修制度によりアトリエ ピーター ズントーにて研修、2015年から同アトリエ勤務。 2016年同アトリエのワークショップチーフ、2017年からプロジェクトリーダー。 学生時代にいくつかの旅を経験したことが、ゆっくりと確実に僕の視野を大きくしてくれました。

一人で初めてインドを旅したこと。 トルコからエジプトまで乗り合いバスで縦断したこと。イベリア諸国を2ヶ月かけて周ったこと。 フランス中西部からピレネー山脈を抜けてイベリア半島の先まで、約1400kmを歩いて巡礼したこと。 上手な言い回しをしようとするよりも、自分の経験からくる言葉を大切にしたい。 そして、世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています。


■2020年09月16日(水)  杉山幸一郎 "Line & Fill 01"

杉山幸一郎
"Line & Fill 01"
2019
水彩
14.8x21.0cm
Signed


世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています。
(杉山幸一郎)



杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro
浜松出身。一級建築士。 日本大学高宮研究室、東京藝術大学大学院北川原研究室にて建築を学び、在学中にスイス連邦工科大学チューリッヒ校(ピーターメルクリ スタジオ)に留学。 2014年文化庁新進芸術家海外研修制度によりアトリエ ピーター ズントーにて研修、2015年から同アトリエ勤務。 2016年同アトリエのワークショップチーフ、2017年からプロジェクトリーダー。 学生時代にいくつかの旅を経験したことが、ゆっくりと確実に僕の視野を大きくしてくれました。

一人で初めてインドを旅したこと。 トルコからエジプトまで乗り合いバスで縦断したこと。イベリア諸国を2ヶ月かけて周ったこと。 フランス中西部からピレネー山脈を抜けてイベリア半島の先まで、約1400kmを歩いて巡礼したこと。 上手な言い回しをしようとするよりも、自分の経験からくる言葉を大切にしたい。 そして、世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています。


■2020年09月09日(水)  倉俣史朗 "How High the Moon"

倉俣史朗
"How High the Moon"
1986年デザイン(2020年製造)
素材:スチール・エキスバンド・メタル
仕様:ニッケル・サテン・メッキ
サイズ:w955×D825×H695(SH330)㎜
クラマタデザイン事務所による復刻証明プレート付


メッシュの作品に関して言うと、一枚の板から余分なものをどんどん消去していって、かろうじて自立している面を表現しているわけです。それでよくミニマリズムの作家だという言い方をされるんだけど、本当はそれとは反対のことをやっている。メッシュはクロームメッキをかけることによって網目が輝いて、増殖していくように見える。消し去っていく作業と増殖させる作業を同時にやっているわけです。ぼくにとって、そうしょくという概念は稀薄なんだけれども、消去していく中で増殖していく細胞のようなメッシュの網目などに、自分なりの装飾を見い出しているのかもしれません。
(CHANCE '88 夏『倉俣史朗の世界 1934-1991』(1996)より)


植田実「倉俣史朗とエットレ・ソットサス展」
倉俣史朗の家具と写真
橋本啓子「倉俣史朗の宇宙」(全9回)
倉俣史朗展のポスター
倉俣史朗の作品集と資料
シンポジウム「PASS the BATON 倉俣史朗を語ろう」
倉俣史朗の版画
植田実「手紙 倉俣さんへ」
シルクスクリーン作品集「倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier」

倉俣史朗 KURAMATA Shiro
1960年代後半から革新的な作品を発表した世界的デザイナー。アクリル、グラス、アルミニウム、スチールメッシュを多用した作品が多い。 1934年、東京都生まれ。東京都立工芸高等学校木材科で学び、1953年から帝国器材に勤める。1953年から56年まで桑沢デザイン研究所リビングデザイン科で学び、1957年に三愛の宣伝課に就職、ウィンドウディスプレイなどのデザインを手掛ける。1965年クラマタデザイン事務所を設立。1967年、横尾忠則らとコラボレーションしたインテリアデザインなどで脚光を浴びる。

このころから、彼が生涯にわたって好んだアクリル素材を用いて、日常の空間に無重力を作り出したような、透明で浮遊感のある作品を生み出していく。 1970年「Furniture in Irregular Forms」シリーズで世界に広く認知される。1972年毎日デザイン賞を受賞。1981年エットレ・ソットサス Jr.らによるイタリアンデザインの新しいムーブメントであるメンフィス(Menphis)の展示会に磯崎新、マイケル・グレイブスらと共に参加。1990年フランス文化省芸術文化勲章を受勲。 1991年、急性心不全のため死去。享年56。


■2020年09月1日(火) ジョナス・メカス 《ひまわり》

ジョナス・メカス
《ひまわり》
1961年(printed later)
ゼラチンシルバープリント
20.0x30.0cm
サインあり


今からおよそ30 年ほど前、わたしは初めて日本各地を訪ねる旅をした。
それ以来わたしは幾度も日本に出かけ、北の果てから南の端まで旅をして、新たな友人の数も増した。そしてきみたち、わたしの良い日本人の友人たちは、これまでの長い年月、たくさんの美しい贈り物を送りつづけ、わたしはそれを一つ残らず大切に手許に残してきた。そのお返しに、わたしはきみたちにささやかな贈り物、わたしの映画、わたしの詩、わたしの文章を送りつづけた。

(2012 年9月ジョナス・メカス『ジョナス・メカス ノート、対話、映画』より)

ジョナス・メカスの初めての版画制作
『ジョナス・メカス映画美術館建設賛助計画 オリジナル版画入りカタログ』
原美術館で「アメリカ現代版画と写真展ージョナス・メカスと26人の仲間たちー」
福岡でジョナス・メカスさんがアコーディオンで歌う
ジョナス・メカスさんに「映画美術館建設賛助計画」インタビュー
ジョナス・メカスさんからのFAX
オリジナル版画入り『版画掌誌第5号/ジョナス・メカス、日和崎尊夫』
原茂「天使の謡う夜に~ジョナス・メカス展オープニング」
中村惠一「リトアニアへの旅の追憶」を見て
ヴィートウタス・ランズベルギス「メカス マチューナス フルクサス」
西村智弘「ジョナス・メカスをめぐる断章」(全三回)
浜田宏司の展覧会ナナメ読み No.1「ジョナス・メカス写真展」
植田 実「美術展のおこぼれ第27回 ジョナス・メカス写真展」
ジョナス・メカス『ジョナス・メカス ノート、対話、映画』
トゥルーリ・オカモチェク「虹の彼方 こことどこかをつなぐ、アーティストたちとの遊飛行」
小林美香「写真のバックストーリー第31回 ジョナス・メカス」
西村大佑「Jonas Mekas Film 上映会@横須賀 レポート」
井戸沼紀美「ジョナス・メカスとその日々をみつめて」
植田 実『メカスの映画日記 ニュー・アメリカン・シネマの起源1959―1971』
井戸沼紀美「メカスさんに会った時のこと」
メカスさんの版画制作
佐伯誠「その人のこと、少しだけ_追憶のジョナス・メカス」
井戸沼紀美「東京と京都で Sleepless Nights Stories 上映会」


ジョナス・メカス Jonas MEKAS
1922年リトアニア生まれ。ソ連次いでナチス・ドイツがリトアニアを占領。強制収容所に送られるが、45年収容所を脱走、難民キャンプを転々とし、49年アメリカに亡命。16ミリカメラで自分の周りの日常を日記のように撮り始める。65年『営倉』がヴェネツィア映画祭で最優秀賞受賞。83年初来日。89年NYにアンソロジー・フィルム・アーカイヴズを設立。2005年ときの忘れものの個展のために4度目の来日。

『リトアニアへの旅の追憶』『ウォルデン』の作者は映像を志す人にとって神様のような人ですが、前衛映画の蒐集保存のための美術館建設計画を進めていた頃のメカスさんは「フィルムは山ほどあるがお金がない」状態で、少しでも応援しようと83年に日本にお招きし7点の版画をつくって貰いました。それがメカスさん独自の写真作品制作のきっかけです。メカスさんの写真と版画はときの忘れものでいつでもご覧になれます。

2019年1月23日死去、享年96。


■2020年08月26日(水)  細江英公 《薔薇刑 作品32》

細江英公
《薔薇刑 作品32》
1961年(printed later)
ゼラチンシルバープリント
20.0x30.0cm
サインあり


三島氏がぼくに求めたものは、よくある「作家の肖像写真」などというシロモノではない。氏自身が”ダンサー”としてぼくの写真の被写体になりたかったのだ。だからぼくは当然のことながら、舞踏家三島由紀夫をモデルとして細江英公作品をつくればいいのである。この二八歳と六ヶ月になったばかりの若い写真家は、神も畏れぬ血気盛んな青年だった。
(細江英公『薔薇刑』撮影ノートより)


第6回シンポジウム瑛九・細江英公フォトデッサン実技講座
細江英公「写真絵巻とフレスコ画の時を越えた出会い~イタリア・ルッカ」
原 茂「細江英公写真展―写真絵巻とフレスコ画の時を越えた出会い~イタリア・ルッカ」オープニングに出席して
飯沢耕太郎「細江英公の演劇的想像力」
細江英公、瀧口修造を撮る
細江英公~「ガウディ」の肉体と霊性(再録)
森下隆「鎌鼬美術館——秋田県羽後町田代に開館」(全3回)

細江英公 Eikoh HOSOE
写真家。清里フォトアートミュージアム館長。1933年山形県生まれ。本名・敏廣。18歳のときに[富士フォトコンテスト学生の部]で最高賞を受賞し、写真家を志す。52年東京写真短期大学(現東京工芸大学)入学。デモクラート美術家協会の瑛九と出会い強い影響を受ける。54年卒業。56年小西六ギャラリーで初個展。63年三島由紀夫をモデルに撮った[薔薇刑]で評価を確立し、70年[鎌鼬(かまいたち)]で芸術選奨文部大臣賞受賞。

[薔薇刑][鎌鼬][抱擁][おとこと女]などの写真集は今や稀覯本です。瑛九の周辺に集まった画家たちの中では最年少だった細江先生ですが、98年紫綬褒章、2003年には英国王立写真協会創立百五十周年記念特別賞を受賞するなど、国内外において高い評価を獲得しています。功なり名を遂げても一ケ所に安住することなく、時代の先端をカメラを通して見つめ、謙虚で若い才能を愛する姿勢は一貫しています。


■2020年08月18日(火) ル・コルビュジエ 〈ユニテ〉より#11b

ル・コルビュジエ
〈ユニテ〉より#11b
1965年
カラー銅版画
シートサイズ:57.5×45.0cm
額寸:66.0×54.5cm
Ed.130
サインあり


自分の建築は絵画という運河を通って来た。
(ル・コルビュジエ)


磯崎新 ル・コルビュジエへのオマージュ
ル・コルビュジエの版画と資料
磯崎新『栖十二』より第二信ル・コルビュジェ[母の小さい家]
藤本貴子「建築圏外通信」第1回(没後50年 ル・コルビュジエの資料)
藤本貴子「建築圏外通信」第11回(ル・コルビュジエ ロンシャンの丘との対話)
八束はじめ「建築家のドローイング第15回 ル・コルビュジエ」
倉方俊輔「『悪』のコルビュジエ」(全13回)
番頭おだちの東奔西走 「映画 ル・コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ」
王聖美「気の向くままに展覧会逍遥」第1回~ラ・ロシュ=ジャンヌレ邸とエスプリ・ヌーヴォー館を通じてル・コルビュジエが試みた絵画と建築の融合
杉山幸一郎「幸せにみちたくうかんを求めて」第42回~チューリッヒのコルビュジエ

ル・コルビュジエ Le Corbusier
建築家。1887年スイスのジュラ地方ラ・ショー・ド・ファン生まれ。本名シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ。1906年初めての住宅[ファレ邸]を設計。1917年パリに出るが、翌年左目を失明する。『エスプリ・ヌーボー』の創刊に関わり、美術運動にも参加。1922年建築事務所設立。代表作[サヴォア邸][ロンシャン礼拝堂][ラ・トゥーレット修道院][国立西洋美術館]他。1965年水泳中にカプ・マルタンで死去(78歳)。

ライト、ミースと並ぶ20世紀建築界の巨匠はリトグラフによる詩画集『直角の詩』など多くの版画を残しました。[近代建築の五原則]を提唱、近代建築国際会議(CIAM)メンバーとして近代建築理論の最大の指導者でした。油彩、彫刻、版画を制作、生涯絵筆を手放しませんでしたが、その死は悲劇的でした(母なる海に帰ったともいえますが)。そのあたりのことは磯崎新『栖十二』の美しいオマージュをお読み下さい。


■2020年08月05日(水)  磯崎新 《影1》

磯崎新
《影1》
1999年
シルクスクリーン
イメージサイズ:58.3×77.0cm
シートサイズ:70.0×90.0cm
Ed.35
サインあり


(版画は)建築の基本コンセプトを抽象化し、視覚化してある。実際にできた建築は三次元的な存在だし、内部に空間をかかえこんでいるから、その見えかたも体験のしかたも違っている。しかし、それが構想されるときには、手がかりとなるひとつの形式を導入せねばならない。版画で表現しようとしているのは、その部分である。だから、建築が、建築家の手からうまれでていくその瞬間のイメージの視覚化といっていい。それと同時に、建築家が自分の仕事をもういちど解釈しなおそうとしている部分もある。
(磯崎新「版画としての建築」)


磯崎新「内部風景シリーズについて」
磯崎新「極薄」~東野芳明へのオマージュ
磯崎新「還元」~建築家はなぜ版画をつくるのか
植田実「磯崎新の七つの美術空間 Seven Art Galleries」
深野一朗「建築家というもの、建築家の仕事というもの[たてもの]」
植田実「建築家の手の在り処」
今村創平「大分市美術館[磯崎新の謎]展」

磯崎新 Arata ISOZAKI
建築家。1931年大分市生まれ。54年東京大学卒業。61年東京大学数物系大学院建築学博士課程修了。63年磯崎新アトリエを設立。代表作に[大分県立中央図書館][岩田学園][福岡相互銀行本店][つくばセンタービル][MOCA―ロサンゼルス現代美術館][バルセロナ市オリンピック・スポーツホール][ティーム・ディズニー・ビルディング][山口県秋吉台国際芸術村][トリノ冬季五輪アイスホッケーメーン会場]他。近年は頻繁にアジアに出向き、多数のプロジェクトに参加している。日本建築学会賞、RIBA賞、朝日賞、ヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞、他受賞。著書『空間へ』『建築の解体』『手法が』『栖十二』『建築家捜し』など多数。

早くから建築のみならず、思想、美術、デザイン、映画などの国際的な舞台で活躍、評論や設計競技の審査を通じて、世界のラディカルな建築家たちの発想を実現に導くうえでのはかり知れない支援を果たしてきた。日本を代表するとともに、世界の建築界で最も信頼されている建築家である。自らの建築観(コンセプト)を紙の上に表現することに強い意欲を示し、77年から既に200点もの版画を制作している。現在、ときの忘れものを版元に、版画とエッセイによる連刊画文集《百二十の見えない都市》に取り組んでいる。


■2020年07月29日(水)  安藤忠雄 《近つ飛鳥博物館》
ozaki

安藤忠雄
《近つ飛鳥博物館》
1998年
シルクスクリーン
イメージサイズ:70.5×51.0cm
シートサイズ:90.0×60.0cm
A版:Ed.10
B版:Ed.35
サインあり


日本は、近代を受け入れる過程で、もっとも重要な自我に目覚めた〈個人〉をないがしろにしながら、効率や合理性の名の下に〈夢想〉や〈狂気〉を排除していった。そして、画一化の中、日本人は他者と自己を区切り自立することに極めて臆病であり〈凡庸〉や〈慣習〉を信奉する国民となった。

私は〈個〉からの発想を大切にしたい。豊かな〈個人〉が、豊かな〈家族〉、〈地域〉〈国家〉、〈世界〉をつくっていくという当然とも思えることを私は信じている。そして、近代の枠に収まらない〈個人〉がもつ〈直感〉や〈夢想〉、〈狂気〉こそが建築に生をもたらし、そこに住む人間に活力を与えていくのだと思っている。

(安藤忠雄『家』より)


スタッフS「Tadao Ando. The Challenge」
安藤忠雄の初期版画
スタッフS「Tadao Ando, Le defi」
植田実「安藤忠雄展―挑戦―」
光嶋裕介「安藤忠雄展を見て 手の痕跡が示す〈挑戦〉の彼方」

安藤忠雄 Tadao ANDO
建築家、東京大学名誉教授。1941年大阪生まれ。独学で建築を学び、69年安藤忠雄建築研究所を設立。[住吉の長屋]により79年日本建築学会賞受賞、衝撃的なデビュー。代表作に[六甲の集合住宅][光の教会][ファブリカ/ベネトンアートスクール][フォーワース現代美術館][直島コンテンポラリーミュージアム][表参道ヒルズ]他。吉田五十八賞、日本芸術院賞、プリツカー賞、高松宮殿下記念世界文化賞、UIA賞他を受賞。2010年文化勲章受章。著書『連戦連敗』『旅』他多数。

学歴なしでいきなり東大教授に就任したときは世間をあったといわせましたが、阪神・淡路震災復興支援にも尽力するなど、安藤さんほど建築家という職業を世に知らしめた人はいないでしょう。84年から版画制作に取り組み、『安藤忠雄版画集 1998』をときの忘れものより出版。ニューヨークMoMA、パリ・ポンピドゥーセンターなど世界各地で建築展を開催、出品される美しいドローイング、版画類は世界中のコレクター垂涎の的です。


■2020年07月22日(水)  尾崎森平 《昨日の世界》
ozaki

尾崎森平
《昨日の世界》
2018年
アクリル、キャンバス、パネル
サイズ:144.5x163.5cm
サインあり


ペインターは少なからず、自らの言葉の力よりも、キャンバスの上の色と形の力を信じる人種である。
(尾崎森平)


尾崎森平のエッセイ「長いこんにちは」

尾崎森平 Ozaki Shinpey
1987年仙台市生まれ 。岩手大学教育学部芸術文化課程造形コース卒業。現代の東北の景色から立ち現れる神話や歴史的事象との共振を描く。2016年「VOCA 2016 現代美術の展望ー新しい平面の作家たち 」大原美術館賞 。平成27年度 岩手県美術選奨。


■2020年07月15日(土)  クリスト "The Museum of Modern Art Wrapped (Project for New York)"
christo

クリスト
"The Museum of Modern Art Wrapped (Project for New York)"
1971年
リトグラフ
71×56cm
Ed.100
サインあり
*レゾネNo.37(Schellmann)


プロジェクトは動きのある計画で、単なる物体ではありません。ある空間にエネルギーを注ぎ込んで特別な光景を作り出して注目を集めることなのです。たとえば《包まれたポン・ヌフ》で、周辺の人々に計画を知ってもらい、関心を高めてもらうことも創作活動の一部でした。完成の時までに育まれた期待は、何ものにも代え難いものなのです。でも、作品が完成した時に集まったエネルギー、情熱、体験をずっと保ち続けることはできません。だからこそ、私たちはプロジェクトが一時的であるべきだと考えているのです。

(柳正彦『ライフ=ワークス=プロジェクト』より)



柳正彦「アートと本、アートの本、アートな本、の話し」
スタッフSの「柳正彦ギャラリートーク」レポート


クリスト Christo
ブルガリア生まれのクリスト(1935~2020)は、本名はフリスト・ヴラディミロフ・ヤヴァシェフ Христо Явашев, Christo Vladimirov Javasev(Javacheff)。夫人であるフランスのジャンヌ=クロード(Jeanne-Claude Denat de Guillebon、1935年モロッコ生まれ)とともに「Christo and Jeanne-Claude クリスト&ジャンヌ=クロード」の名で活動した。二人が美術活動として何をやっていたかというと、「梱包」である。瓶や椅子などの日用品を「梱包」することから始まり、巨大なモニュメント、はては建物をそっくり、自然そのものや公園までをすっぽりと布で梱包してしまった。実現までの長い時間、膨大な人手と費用、にもかかわらず「梱包」するやそれは短時間で撤去され、後には記憶とプロジェクトに関するドローイングや版画作品のみが残される。二人は作品実現までの社会的、政治的な交渉、経済的な問題、プロジェクトに関わった人々との交流などの全行程が自らの作品であるとみなしていました。


■2020年07月08日(水)  野口琢郎 "Landscape #45"
noguchi

野口琢郎
"Landscape #45"
2018年
箔画/木パネル、漆、金・銀・プラチナ箔、石炭、樹脂、アクリル絵具
137.3×112.1cm
サインあり




野口琢郎「京都西陣から」
島敦彦「静謐な輝きー野口琢郎の箔画」


野口琢郎 Takuro NOGUCHI
1975年京都府生まれ。1997年京都造形芸術大学洋画科卒業。2000年長崎市にて写真家・東松照明の助手に就く。2001年京都西陣の生家 箔屋野口に戻り、西陣織に使われる引箔製造の技法を応用し箔画作家として活動を開始、2004年に初個展開催、以来毎年個展を行なっている。ときの忘れものでは2012年、2014年、2018年に個展開催。
漆を塗った木のパネルに金・銀・プラチナ箔や石炭粉を接着する独自の技法を用いて、抽象的な街の風景〈Landscape〉シリーズや、花火をモチーフにしたシリーズ、海と空、夜明けや星空などの風景を題材に希望の光を感じられる美しさを作品に表現している。箔画の最大の魅力は、画面全体に箔が施されている為に、観る角度、光源の強弱や方向によって輝きが変化する所にあります。


■2020年06月27日(土)  駒井哲郎 《顔(びっくりしている少女)》
sugiyama

駒井哲郎
《顔(びっくりしている少女)》
1975年
銅版
23.0×21.0cm
Ed.60
サインあり
※レゾネNo.312(美術出版社)


芸術家にとって大切なのは、なんらかの新しい、独自の思想だと思うが、詩人が言葉で思索するように、銅板画家は銅板をなんらかの方法で刻むことによって、つまり素材に対する抵抗によって、逆に思索の動機をとらえ、同時に創作の世界に入っていくこともありうるわけだ。

(駒井哲郎『白と黒の造形』より)



栗田秀法/前編
栗田秀法/後編
吉岡知子
片多祐子
S氏のエッセイ/私の駒井哲郎コレクション
瀧沢恭司
針生一郎
駒井哲郎を追いかけて
綿貫不二夫「駒井哲郎ー福原コレクションをめぐって」


駒井哲郎 Tetsuro KOMAI
1920年東京生まれ。35年西田武雄に銅版画を学び始める。42年東京美術学校卒。50年春陽会賞、翌年第1回サンパウロ・ビエンナ-レで受賞。木版の棟方志功とともにいち早く世界の舞台で高い評価を獲得し、戦後の美術界に鮮烈なデビューを飾る。53年資生堂画廊で初個展。54年渡仏。56年南画廊の開廊展は駒井哲郎展だった。72年東京芸術大学教授。銅版画のパイオニアとして大きな足跡を残す。1976年永逝(享年56)。 銅版画の詩人と謳われた駒井先生は15歳の少年時代から56歳で亡くなるまで銅版画一筋の生涯でした。名作『束の間の幻影』はじめ、心にしみるエッチング作品を多数残し、長谷川潔、池田満寿夫とともに銅版画の魅力を人々に知らしめた功績は大きなものがあります。


■2020年06月17日(水)  杉山幸一郎 “Line & Fill 02”  
sugiyama

杉山幸一郎
“Line & Fill 02”
2019
水彩
14.8x21.0cm
Signed


「建築とはマテリアルを用いて新しい感覚を創ること」
建築は、数えきれないほどのマテリアルから成り立っています。音が連なってメロディができあがるように、単体では意味を成し得ないマテリアルもいくつか集まって組み合わさることで、単なる要素の羅列«1+1+1+…»では達成し得ないような、共鳴効果が起こることがあります。建築空間を創り上げるとはつまり、複数のマテリアルを秩序をもって配置し互いに共鳴させることで、新しい感覚を創っていくことだ。と僕は考えています。


(杉山幸一郎)



杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」


杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro
浜松出身。一級建築士。 日本大学高宮研究室、東京藝術大学大学院北川原研究室にて建築を学び、在学中にスイス連邦工科大学チューリッヒ校(ピーターメルクリ スタジオ)に留学。 2014年文化庁新進芸術家海外研修制度によりアトリエ ピーター ズントーにて研修、2015年から同アトリエ勤務。 2016年同アトリエのワークショップチーフ、2017年からプロジェクトリーダー。 学生時代にいくつかの旅を経験したことが、ゆっくりと確実に僕の視野を大きくしてくれました。 一人で初めてインドを旅したこと。 トルコからエジプトまで乗り合いバスで縦断したこと。イベリア諸国を2ヶ月かけて周ったこと。 フランス中西部からピレネー山脈を抜けてイベリア半島の先まで、約1400kmを歩いて巡礼したこと。 上手な言い回しをしようとするよりも、自分の経験からくる言葉を大切にしたい。 そして、世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています。


■2020年06月10日(水)  奈良原一高 写真集〈王国〉より《沈黙の園》(2)
NARAHARA

奈良原一高
写真集〈王国〉より《沈黙の園》(2)
1958年 (Printed 1984)
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:47.8×31.5cm
シートサイズ:50.8×40.6cm


果たして死者は単に過ぎ去った者でしかないのだろうか。果たして写真は単に過ぎ去った時間の記録でしかないのだろうか。もし死ぬことがなかったならば生まれて来る必要もないのではなかろうか。死者は予言者のように愛と生の味覚を人に知らせる。

(奈良原一高「ヨー ロッパ・静止した時間」より)



小林美香「母さん目線の写真史第16回/奈良原一高「王国」
大竹昭子「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」第25回
蔦谷典子~奈良原一高 文集『太陽の肖像』
蔦谷典子「奈良原一高≪肖像の風景≫」
飯沢耕太郎「日本の写真家たち 第13回 奈良原一高-複眼のヴィジョン」
銀塩写真の魅力 VI展より 奈良原一高


奈良原一高 Ikko NARAHARA
1931年福岡県生まれ。本姓は楢原。中央大学法学部卒業後、早稲田大学大学院で美術史を専攻。前衛美術に傾倒し、1955年には池田満寿夫、靉嘔らが結成したグループ「実在者」に参加。在学中の1956年に、初個展「人間の土地」を開催し、ほぼ無名の新人の個展としては例外的な反響を呼び、鮮やかなデビューを飾った。それに続き、1958年には極限状況を生きる人間にフォーカスを当てた「王国」を発表、日本写真批評家協会賞新人賞受賞。1959年東松照明・細江英公・川田喜久治・佐藤明・丹野章と、写真家によるセルフ・エージェンシー「VIVO」を結成(1961年解散)。 その後滞欧し、帰国後の出版した写真集 『ヨーロッパ静止した時間』で、日本写真批評家協会賞作家賞、芸術選奨文部大臣賞、毎日芸術賞を受賞。1975年写真集 『消滅した時間』、1986年写真集『ヴェネツィアの夜』で日本写真協会賞年度賞。1996年紫綬褒章受章。2002年パリ写真美術館で、2004年東京都写真美術館で回顧展が開催されるなど、国内外で高く評価されている。2005年日本写真協会賞功労賞受賞。 2020年死去。


■2020年06月03日(水)  瑛九 《二人》
EiQ

瑛九
《二人》
1951年
フォトデッサン
27.5x21.5cm
サインあり


自己から脱出して絵画の中に突入できるかどうか、最後の冒険を試みようとしています。(瑛九)

1958年10月14日 木水宛書簡
(山田光春「瑛九 評伝と作品」(1976年、株式会社青龍洞) p.441より引用)



大谷省吾「ウェブ上で見る瑛九晩年の点描作品」
大谷省吾「瑛九 ー 光の探求者」
飯沢耕太郎「瑛九とフォト・デッサン」
田中章夫「本間美術館と瑛九」
難波田龍起「瑛九について」(再録)
瀧口修造「瑛九の訪れ」
浅野智子「瑛九の型紙考」
綿貫不二夫「瑛九の画商として」
瑛九の世界


瑛九 Q Ei
1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。36年フォトデッサン作品集『眠りの理由』を刊行。37年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォトデッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。60年48歳で永逝。 明治以来、多くの画家たちが悪戦苦闘した油彩画ですが、私は瑛九こそがもっとも優れたカラーリスト(色彩画家)であると思います。既に1930年代にフォトグラムを制作した表現の地平は今から思えばマン・レイ等と並ぶ世界的な水準でした。油彩、水彩、フォトデッサン、版画それぞれに独自の表現を求め、決して自分を模倣することはありませんでした。いつもそこには光り(最も美しい色彩)がありました。


■2020年05月27日(水)  瑛九 《海辺》
EiQ

瑛九
《海辺》
1955年 
べニア板に油彩 
27.3×22.0cm(F3号)
サインあり
※「瑛九作品集」(1997年、日本経済新聞社)p.68
※山田光春「瑛九油絵作品写真集」No.244
※レゾネNo.274
※「瑛九回顧展」(1970年、福井瑛九の会)出品 2


自己から脱出して絵画の中に突入できるかどうか、最後の冒険を試みようとしています。(瑛九)

1958年10月14日 木水宛書簡
(山田光春「瑛九 評伝と作品」(1976年、株式会社青龍洞) p.441より引用)



大谷省吾「ウェブ上で見る瑛九晩年の点描作品」
大谷省吾「瑛九 ー 光の探求者」
飯沢耕太郎「瑛九とフォト・デッサン」
田中章夫「本間美術館と瑛九」
難波田龍起「瑛九について」(再録)
瀧口修造「瑛九の訪れ」
浅野智子「瑛九の型紙考」
綿貫不二夫「瑛九の画商として」
瑛九の世界


瑛九 Q Ei
1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。36年フォトデッサン作品集『眠りの理由』を刊行。37年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォトデッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。60年48歳で永逝。 明治以来、多くの画家たちが悪戦苦闘した油彩画ですが、私は瑛九こそがもっとも優れたカラーリスト(色彩画家)であると思います。既に1930年代にフォトグラムを制作した表現の地平は今から思えばマン・レイ等と並ぶ世界的な水準でした。油彩、水彩、フォトデッサン、版画それぞれに独自の表現を求め、決して自分を模倣することはありませんでした。いつもそこには光り(最も美しい色彩)がありました。


■2020年05月19日(火)  瑛九 《赤の舞い(仮)》
EiQ

瑛九
《赤の舞い(仮)》
1958年
べニア板に油彩
22.0×27.2cm(F3号)
サインあり
※山田光春「瑛九油絵作品写真集」No.389
※レゾネNo.444


自己から脱出して絵画の中に突入できるかどうか、最後の冒険を試みようとしています。(瑛九)

1958年10月14日 木水宛書簡
(山田光春「瑛九 評伝と作品」(1976年、株式会社青龍洞) p.441より引用)



大谷省吾「ウェブ上で見る瑛九晩年の点描作品」
大谷省吾「瑛九 ー 光の探求者」
飯沢耕太郎「瑛九とフォト・デッサン」
田中章夫「本間美術館と瑛九」
難波田龍起「瑛九について」(再録)
瀧口修造「瑛九の訪れ」
浅野智子「瑛九の型紙考」
綿貫不二夫「瑛九の画商として」
瑛九の世界


瑛九 Q Ei
1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。36年フォトデッサン作品集『眠りの理由』を刊行。37年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォトデッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。60年48歳で永逝。 明治以来、多くの画家たちが悪戦苦闘した油彩画ですが、私は瑛九こそがもっとも優れたカラーリスト(色彩画家)であると思います。既に1930年代にフォトグラムを制作した表現の地平は今から思えばマン・レイ等と並ぶ世界的な水準でした。油彩、水彩、フォトデッサン、版画それぞれに独自の表現を求め、決して自分を模倣することはありませんでした。いつもそこには光り(最も美しい色彩)がありました。


■2020年05月13日(水)  佐藤研吾 「囲い込むためのハコ1」
kiku3

佐藤研吾
「囲い込むためのハコ1」
2018年
クリ、ナラ、アルミ、柿渋
H80cm
Photo by comuramai


ハコが一人歩きまたは群動するような、家具ないし建築がこちらへ「おーい」と呼びかけてくるような、不可視の応答関係を見てみたいと考えるようになった 。(佐藤研吾)


2018年12月:佐藤研吾展―囲いこみとお節介
佐藤研吾「大地について―インドから建築を考える―」
佐藤研吾「『異形建築巡礼』を注釈する」


佐藤研吾 Kengo SATO
建築家、一級建築士。1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院創造理工学研究科建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professorに就任。同年より東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。
2016年より福島県大玉村で藍染めの活動をする歓藍社に所属。同年よりインドでのデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。2017年に「インド・シャンティニケタンに同志を募って家を作りに行く」でSDレビュー2017の鹿島賞を受賞。2018年より福島県大玉村地域おこし協力隊。インド、東京、福島という複数の拠点を往還しながら、創作活動に取り組んでいる。


■2020年05月07日(木)  アンディ・ウォーホル "KIKU 3"
kiku3

アンディ・ウォーホル
"KIKU 3"
1983年
スクリーンプリント
イメージサイズ:50.0x66.0cm
シートサイズ:50.0x66.0cm
Ed.300
サインあり
*現代版画センター・エディション


「ねえ、ぼく何を描いたらいいんだろう?」と、人に聞くのをためらったことはいっぺんもない。ポップは外界からくるものだし、雑誌からアイディアを得るのも、人に聞くのもたいして違いやしない。 ―アンディ・ウォーホル」


森下泰輔「私の Andy Warhol 体験 」
ウォーホルを偲んで~KIKUシリーズの誕生
1983年6月7日 渋谷パルコでの「アンディ・ウォーホル展」全国展オープニング
1983年7月23日宇都宮大谷・巨大地下空間でのウォーホル展オープニング
綿貫不二夫「アンディ・ウォーホル展 1983~1984カタログ」編集後記


アンディ・ウォーホル Andy WARHOL
1928年8月6日アメリカ・ピッツバー生まれ。本名“Andrew Warhola”。49年カーネギー工科大学卒業。52年ニューヨーク・ヒューゴー画廊でドローイングによる初個展。56年友人と約6週間で世界一周旅行、日本にも立ち寄る。62年[ファクトリー]を設立。同年8月5日モンローの死に会い[マリリン]を制作。63年映画の制作を始める。68年ファクトリーで狙撃される。74年10月大丸の大個展のため来日。1987年永逝。 83年[アンディ・ウォーホル全国展]を企画した私は、ウォーホルに日本の花をテーマに、日本の刷り師を使いエディションを作って欲しいと頼んだ。刷り上がった千数百枚の『KIKU』『LOVE』連作6点を担いで、生まれて初めてN.Y.に行きウォーホルにサインを貰ったのだが、「君も描いてあげるよ」と言われたのに遠慮してしまったのが今となっては悔しい!89年にファクトリーを再訪した時は既に主はいなかった・・・。


■2020年04月30日(木)  宮森敬子 〈Portrait of Myself〉シリーズより
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宮森敬子
〈Portrait of Myself〉シリーズより
2019年
麻布、木枠、和紙、木炭、チョーク、胡粉
185.0×323.0cm
サインあり


“ 樹拓を採ることは、私が意図した形をつくる、というより、ある場 (それはどこでも良いのです) を私が選択し、それぞれの場所や状況に、一瞬で折り合いをつけてゆくことです。”
(宮森敬子)

宮森敬子「ゆらぎの中で」

大藤敏行「宮森敬子個展/ある小説家の肖像~生きているものと死んでいるものの間に~」


宮森敬子 Keiko MIYAMORI
1964年神奈川生まれ。 筑波大学大学院芸術研究科日本画専攻修了。三木多聞賞受賞(1994),文化庁新進芸術家海外留学制度により米国ペンシルバニア大学大学院在籍(1998)。 2000年よりフィラデルフィアで、2011年よりニューヨークで制作をする。 第6回柏市文化フォーラム104大賞展TAMON賞-谷新の眼大賞(1995)、第16回今立現代美術紙展 大賞(1997), リーウェイ財団 ウインドウオブオポチュニティー賞(2003)、The Meijer Sculpture Competition 大賞2004)、Leeway Foundation Transformation Award(2008)、 センターフォーエマージングビジュアルアーティストトラベルグラント受賞(2009)The Independence Foundation Fellowships in the Arts 受賞(2010)、朝日新聞文化財団助成(2018)。 主な展覧会は、VOCA’97「現代美術の展望—新しい平面の作家達」(上野の森美術館/東京 、1997)、「拡兆する美術’97 」(つくば美術館/茨城、1997)、「流通と大地」(カスミつくばセンター/茨城、1998)などのグループ展に参加し、以降、アメリカ(フィラデルフィアやニューヨーク、ピッツバーグなど)を中心に日本、 ドイツ、韓国などでのグループ展に多数参加。 作品は絵画、彫刻からインスタレーションに及び、現在は日本とアメリカを基盤に制作活動を行なっている。和紙や木炭を使い、異なる時間や場所に存在する自然や人工物の組み合わせを、個と全体のつながりに注目した作品を作っている。


■2020年04月22日(水)  松本竣介 《人物(W)》
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松本竣介
《人物(W)》
1942年
紙に鉛筆
イメージサイズ:23.5x20.5cm
シートサイズ: 27.5x22.5cm


“ 元来素描とは仏語のDesseinであり英語のDesignの事であつて、計画であり、決意決心を意味してゐるのである。”
(松本竣介『生命の藝術』より)

小松崎拓男「松本竣介研究ノート」
植田実「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」
大谷省吾「松本竣介の素描について」


松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO
松本竣介(旧名佐藤俊介)は1912年東京に生まれ、2歳のときに岩手に移り少年時代を盛岡で過ごす。松本姓となるのは1936年に松本禎子と結婚してからである。 盛岡中学の入学後に聴力を失い、画家を志す。同級生には舟越保武がいる。1929年中学を中退し、上京、太平洋画会研究所に通う。1935年前衛グループNOVAの同人となり、二科展に初入選。翌年松本禎子と結婚し、二人で月刊の随筆雑誌『雑記帳』を創刊する(綜合工房刊、14号で廃刊)。同誌には林芙美子、難波田龍起、高村光太郎、萩原朔太郎らが文章を、藤田嗣治、鶴岡政男、麻生三郎らがデッサンや口絵を寄せた。1940年銀座の日動画廊で初個展を開催。
1941年美術雑誌『みづゑ』1月号に掲載された座談会記事「国防国家と美術」に反論し、「生きてゐる画家」を投稿、同誌4月号に掲載された。同年盛岡・川徳画廊で「舟越保武・松本俊介二人展」を開催。戦時中は1943年靉光や麻生三郎、寺田政明ら同志8名で新人画会を結成し、第3回展まで開催した。戦後1946年美術家組合を提唱、戦争に疲れ沈退した全日本美術家の提携再起を促した。1947年自由美術家協会に新人画会のメンバーと共に参加し、翌1948年毎日新聞主催の連合展に「彫刻と女」「建物」を出品、これが絶筆となり、僅か36歳の短い生涯を終えた。


■2020年02月04日(火)  オノサト・トシノブ 《59-B》
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オノサト・トシノブ
《59-B》
1959年
リトグラフ
イメージサイズ:31.0×49.0cm
Ed.50
サインあり
※レゾネNo.3(Art Space 1989年)

オノサト・トシノブは生涯に約210点の版画作品(リトグラフ、シルクスクリーン、捺染によるタペストリー、立体マルチプル)を制作しました。
もっとも重要なのが、初期リトグラフ(石版画)で、1958~1966年までに制作された18点(レゾネ1番~18番)である。
それら18点はオノサト自ら版(石またはジンク版)に直接描画し、桐生の石版職人・荻野栄一郎が刷った。
まだ版画専門のリトグラフの工房は少ない時代で、初期18点には、色むら、色抜け、版ずれなどがあり、それがまた味わいともなって魅力を醸し出している。

油彩でも最も評価が高いのは1950年代後半の「べた丸」だが、リトグラフによる「べた丸」はわずか3点しかない。

オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO
1912年長野県生まれ。その後群馬県桐生に移り住む。本名・小野里利信。津田青楓洋画塾に学ぶ。35年黒色洋画展を結成。38年自由美術家協会会員となる(~56年、以後無所属)。41年に一兵卒として出征、戦後のシベリア抑留を経て48年に帰国後は桐生のアトリエでひたすら円を描き続けた。64年・66年にはベニス・ビエンナーレに日本代表として出品。戦前、戦後と親友の瑛九とともに前衛美術の道を歩み続けた。86年永逝。

瑛九、山口長男、菅井汲らとともに日本を代表する抽象画家オノサト先生は、油彩のほかに約200点の版画作品(リトグラフ、シルクスクリーン)を残しました。版元の私がアトリエに通い出した70年代はアトリエをほとんど一歩も出ず、終日絵筆を握る孤高の生活でした。東京国立近代美術館など多くの美術館に作品が収蔵されていますが、本格的な回顧展と画集の刊行が待たれます。


■2019年08月01日(木)  フンデルトヴァッサー 《屋根の上の川》
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フンデルトヴァッサー
《屋根の上の川》
1987年
耳付和紙に木版
シートサイズ:57.0x42.0cm
イメージサイズ:53.0x40.0cm
Ed. 200
サインあり

フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー Friedensreich HUNDERTWASSER
オーストリアの画家、建築家。ユダヤ系チェコ人の母を持つ。ナチスの政策によって親類を失うという過去をもつフンデルトヴァッサーは全体主義的な制度を徹底して否定し個人の自由意志を尊重すべきだという考えに基づいて作品制作を行った。 20歳のときウィーン美術アカデミーで3か月ほど学ぶ。その後画家を志し旅に出た北アフリカで大自然と人との共存を目にする。そのころからすでに彼の絵は明るい色彩が多用され、曲線によって描かれていた。彼の作品には、常に自然との共存という哲学がこめられている。 都市に戻りそこで見た無機質・無彩色の画一的な建築物に違和感を覚えた彼は「血を流す建物」(1952年)で四角い高層建築の壁が赤く傷つき血を流しているような独特の建物を造る。その頃から独自の路線で建築を作ってゆく。

定規で引いたような直線を否定し自然を愛した彼は、建築でも自然への回帰を唱え、曲線を多用した独自の様式を編み出した。「直線に神は宿らない」という言葉は有名。日本国内では、大阪市扇町公園に隣接するキッズプラザ大阪や、大阪市環境事業局舞洲工場(ゴミ処理場)などを手掛ける。環境問題を意識した多彩な建築活動を行い独自の芸術観や自然観を表現していた。 1981年から母校であるウィーン美術アカデミーの教授をつとめた。2000年、晩年をすごしたニュージーランドへ向かう客船上で死去。


■2019年06月01日(土)  葉栗剛 《<男気>KABUKI(小)》
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葉栗剛
《<男気>KABUKI(小)》
2016
木彫 楠木、アクリル
H 49.0cm
サインあり

葉栗剛 Takeshi HAGURI
1957年名古屋市に生まれる。1982年に愛知県立芸術大学彫刻科を卒業し、1984年に愛知県立芸術大学大学院を修了。卒業後は木彫を主に制作しているが、野外作品はアルミニウム素材を使用する。主な個展は1996年・1998年 村松画廊(東京)、2006年 中京大学 C・スクエア(名古屋)、2009年千葉県アンデルセン公園こども美術館など多数。主なグループ展は1996年 神戸具象彫刻大賞展、2000年 フォクトランド国際彫刻シンポジウム(ドイツ)、2001年 富獄ビエンナーレ展(静岡県立美術館)、2013年 第16回岡本太郎現代 芸術賞」展 ほか。

愛知県立日進西高等学校、ふれあい公園(静岡県春野町)、伊自良村総合運動公園(岐阜県)、愛知県立西春高等学校 愛西市立佐屋小学校(愛知県)、長久手町立北小学校(愛知県) に作品が設置されている。


■2019年04月02日(火)  瑛九 《赤と黄》
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瑛九
《赤と黄》
1957年
板に吹き付け
(スパッタリング)
45.5×38.0cm(F8号)
※レゾネNo.353

瑛九 Q Ei
1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。36年フォトデッサン作品集『眠りの理由』を刊行。37年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォトデッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。60年48歳で永逝。

明治以来、多くの画家たちが悪戦苦闘した油彩画ですが、私は瑛九こそがもっとも優れたカラーリスト(色彩画家)であると思います。既に1930年代にフォトグラムを制作した表現の地平は今から思えばマン・レイ等と並ぶ世界的な水準でした。油彩、水彩、フォトデッサン、版画それぞれに独自の表現を求め、決して自分を模倣することはありませんでした。いつもそこには光り(最も美しい色彩)がありました。


■2019年03月01日(金)  ル・コルビュジエ 《二人の女》
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ル・コルビュジエ
《二人の女》
1938年
リトグラフ
イメージサイズ:17.6×26.7cm
シートサイズ:38.5×50.2cm
Ed.100
Signed

ル・コルビュジエ Le Corbusier
建築家。1887年スイスのジュラ地方ラ・ショー・ド・ファン生まれ。本名シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ。1906年初めての住宅[ファレ邸]を設計。1917年パリに出るが、翌年左目を失明する。『エスプリ・ヌーボー』の創刊に関わり、美術運動にも参加。1922年建築事務所設立。代表作[サヴォア邸][ロンシャン礼拝堂][ラ・トゥーレット修道院][国立西洋美術館]他。1965年水泳中にカプ・マルタンで死去(78歳)。

ライト、ミースと並ぶ20世紀建築界の巨匠はリトグラフによる詩画集『直角の詩』など多くの版画を残しました。[近代建築の五原則]を提唱、近代建築国際会議(CIAM)メンバーとして近代建築理論の最大の指導者でした。油彩、彫刻、版画を制作、生涯絵筆を手放しませんでしたが、その死は悲劇的でした(母なる海に帰ったともいえますが)。そのあたりのことは磯崎新『栖十二』の美しいオマージュをお読み下さい。


■2019年02月05日(火)  ジョナス・メカス 《John, Atlantic ocean. Montauk, Aug. 1972》
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ジョナス・メカス
《John, Atlantic ocean. Montauk, Aug. 1972》
1972年 (Printed in 1999)
Type-Cプリント
イメージサイズ:49.1x32.4cm
シートサイズ :50.6x40.7cm
Ed.10
サインあり

ジョナス・メカス Jonas MEKAS
1922年リトアニア生まれ。ソ連次いでナチス・ドイツがリトアニアを占領。強制収容所に送られるが、45年収容所を脱走、難民キャンプを転々とし、49年アメリカに亡命。16ミリカメラで自分の周りの日常を日記のように撮り始める。65年『営倉』がヴェネツィア映画祭で最優秀賞受賞。83年初来日。89年NYにアンソロジー・フィルム・アーカイヴズを設立。2005年ときの忘れものの個展のために4度目の来日。

『リトアニアへの旅の追憶』『ウォルデン』の作者は映像を志す人にとって神様のような人ですが、前衛映画の蒐集保存のための美術館建設計画を進めていた頃のメカスさんは「フィルムは山ほどあるがお金がない」状態で、少しでも応援しようと83年に日本にお招きし7点の版画をつくって貰いました。それがメカスさん独自の写真作品制作のきっかけです。メカスさんの写真と版画はときの忘れものでいつでもご覧になれます。
2019年1月23日死去、享年96。


■2019年01月08日(火)  瑛九 《海の原型》
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瑛九
《海の原型》
1958年
板に油彩
91.0×160.0cm
100号変型
裏にサインと年記あり
※レゾネNo.441

瑛九 Q Ei
1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。36年フォトデッサン作品集『眠りの理由』を刊行。37年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォトデッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。60年48歳で永逝。

明治以来、多くの画家たちが悪戦苦闘した油彩画ですが、私は瑛九こそがもっとも優れたカラーリスト(色彩画家)であると思います。既に1930年代にフォトグラムを制作した表現の地平は今から思えばマン・レイ等と並ぶ世界的な水準でした。油彩、水彩、フォトデッサン、版画それぞれに独自の表現を求め、決して自分を模倣することはありませんでした。いつもそこには光り(最も美しい色彩)がありました。


■2018年11月02日(金)  光嶋裕介 《幻想都市風景2018-03》
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光嶋裕介
《幻想都市風景2018-03》
2018年
和紙にインク、箔画
45.0×90.0cm
サインあり

光嶋裕介 Yusuke KOSHIMA
建築家、一級建築士。1979年米国ニュージャージー州生。87年に日本に帰国。
以降、カナダ(トロント)、イギリス(マンチェスター)、東京で育ち、最終的に早稲田大学大学院修士課程建築学を2004年に卒業。同年にザウアブルッフ・ハットン・アーキテクツ(ベルリン)に就職。 2008年にドイツより帰国し、光嶋裕介建築設計事務所を主宰。2010年に桑沢デザイン研究所、2011年に日本大学短期大学部にて非常勤講師に就任。


■2018年10月02日(火)  倉俣史朗 《無極 I》
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倉俣史朗
《無極 I》
1979年
平版
イメージサイズ:74.0x103.4cm
シートサイズ: 79.6x109.3cm

倉俣史朗 Shiro KURAMATA
1960年代後半から最新の科学技術に可能性を見出し、革新的な作品を発表した世界的デザイナー。アクリル、グラス、アルミニウム、スチールメッシュを多用した作品が多い。 1934年、東京都生まれ。東京都立工芸高等学校木材科で学び、1953年から帝国器材に勤める。1953年から56年まで桑沢デザイン研究所リビングデザイン科で学び、1957年に三愛の宣伝課に就職、ウィンドウディスプレイなどのデザインを手掛ける。1965年クラマタデザイン事務所を設立。1967年、横尾忠則らとコラボレーションしたインテリアデザインなどで脚光を浴びる。

このころから、彼が生涯にわたって好んだアクリル素材を用いて、日常の空間に無重力を作り出したような、透明で浮遊感のある作品を生み出していく。 1970年「Furniture in Irregular Forms」シリーズで世界に広く認知される。1972年毎日デザイン賞を受賞。1981年エットレ・ソットサス Jr.らによるイタリアンデザインの新しいムーブメントであるメンフィス(Menphis)の展示会に磯崎新、マイケル・グレイブスらと共に参加。1990年フランス文化省芸術文化勲章を受勲。 1991年、急性心不全のため死去。享年56。


■2018年09月21日(金)  野口琢郎 《azure》
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野口琢郎
《azure》
2017年
箔画/紙、漆、金・銀箔、石炭、樹脂、アクリル絵具
79.0×108.0cm
Signed

野口琢郎 Takuro NOGUCHI
1975年京都府生まれ。1997年京都造形芸術 大学洋画科卒業。2000年長崎市にて写真家・東松 照明の助手に就く。2001年京都西陣の生家に戻 り、家業である箔屋野口の五代目を継ぐため修行に入 る。その後も精力的に創作活動を続け、2004年の 初個展以来毎年個展を開催している。


■2018年06月01日(火)  松本竣介 《作品》
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松本竣介
《作品》
1946年2月
紙にペン、墨、水彩、コラージュ
イメージサイズ:15.5x29.5cm
シートサイズ:23.5x32.3cm
サインあり
※『松本竣介素描』(1977年 株式会社綜合工房)口絵

松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO
松本竣介(旧名佐藤俊介)は1912年東京に生まれ、2歳のときに岩手に移り少年時代を盛岡で過ごす。松本姓となるのは1936年に松本禎子と結婚してからである。 盛岡中学の入学後に聴力を失い、画家を志す。同級生には舟越保武がいる。1929年中学を中退し、上京、太平洋画会研究所に通う。1935年前衛グループNOVAの同人となり、二科展に初入選。翌年松本禎子と結婚し、二人で月刊の随筆雑誌『雑記帳』を創刊する(綜合工房刊、14号で廃刊)。同誌には林芙美子、難波田龍起、高村光太郎、萩原朔太郎らが文章を、藤田嗣治、鶴岡政男、麻生三郎らがデッサンや口絵を寄せた。1940年銀座の日動画廊で初個展を開催。1941年美術雑誌『みづゑ』1月号に掲載された座談会記事「国防国家と美術」に反論し、「生きてゐる画家」を投稿、同誌4月号に掲載された。同年盛岡・川徳画廊で「舟越保武・松本俊介二人展」を開催。

戦時中は1943年靉光や麻生三郎、寺田政明ら同志8名で新人画会を結成し、第3回展まで開催した。戦後1946年美術家組合を提唱、戦争に疲れ沈退した全日本美術家の提携再起を促した。1947年自由美術家協会に新人画会のメンバーと共に参加し、翌1948年毎日新聞主催の連合展に「彫刻と女」「建物」を出品、これが絶筆となり、僅か36歳の短い生涯を終えた。


■2018年04月03日(火)  ボブ・ウィロビー "Audrey Hepburn on the phone. Paramount Studios - 1953 (BWP040)" (A004)
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ボブ・ウィロビー
"Audrey Hepburn on the phone. Paramount Studios - 1953 (BWP040)"
1953年(2017年プリント)
アーカイバルデジタルピグメントプリント
シートサイズ:20×16インチ
Ed.25
クリストファー・ウィロビー(息子)によるサインとスタンプあり

ボブ・ウィロビー Bob WILLOUGHBY
1927年アメリカ・ロサンゼルスで生まれる。12歳のときに父からもらったカメラで写真を撮り始める。高校卒業後、ハリウッドのカメラマンたちの助手として修業し、かたわらジャズを対象に写真修業をした。南カリフォルニア大学の夜間部で写真を学び、専門学校でデザインを学習。やがて演劇や文化イベントを手がけるようになり、雑誌のために映画関連の撮影が増えた。

オードリー・ヘプバーン出演作のほか、「地上より永遠に」「スタア誕生」「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」「卒業」など30年あまりの間に120本ほどの映画でスチル写真を撮り、『ライフ』『ヴォーグ』など世界的な雑誌に提供している。写真集として、『プラチナの時代』(1974)、『ロサンゼルスのジャズ』(1990)、『ハリウッド・スペシャル』(1993)などがある。彼の写真は、数多くの国の美術館に展示されている。2009年12月フランス・ヴァンスに永逝(享年82)。


■2018年03月01日(木)  植田正治 《無題》
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植田正治
《無題》
1977
Type-Cプリント, 木製パネル
40.0×27.0cm
『植田正治作品集』(2016年、河出書房新社) P132参照

植田正治 Shoji UEDA
1913年、鳥取県生まれ。15歳頃から写真に夢中になる。1932年上京、オリエンタル写真学校に学ぶ。第8期生として卒業後、郷里に帰り19歳で営業写真館を開業。この頃より、写真雑誌や展覧会に次々と入選、特に群像演出写真が注目される。1937年石津良介の呼びかけで「中国写真家集団」の創立に参加。1949年山陰の空・地平線・砂浜などを背景に、被写体をオブジェのように配置した演出写真は、植田調(Ueda-cho)と呼ばれ世界中で高い評価を得る。1950年写真家集団エタン派を結成。

1954年第2回二科賞受賞。1958年ニューヨーク近代美術館出展。1975年第25回日本写真協会賞年度賞受賞。1978年文化庁創設10周年記念功労者表彰を受ける。1989年第39回日本写真協会功労賞受賞。1996年鳥取県岸本町に植田正治写真美術館開館。1996年フランス共和国の芸術文化勲章を授与される。2000年歿(享年88)。2005~2008年ヨーロッパで大規模な回顧展が巡回、近年さらに評価が高まっている。


■2018年02月01日(木)  ハ・ミョンウン 《Gradation brush-vermillion (1)》
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ハ・ミョンウン
《Gradation brush-vermillion (1)》
2012年
ミクストメディア
42.0x136.0cm
サインあり

ハ・ミョンウン (河明殷)HA Myoung-eun
韓国の若い世代を代表する女性アーティスト。20世紀のポップアートを用いて、さまざまな素材のオブジェへと再解釈して、独自の作品を作る。2011年ソンシン女子大学一般大学院西洋画科卒業。

主な個展:2009年「A master piece of painting Preznt展」ギャラリーS101(ソンシン女子大学)、2011年「A master piece BRUSH」Gana Art Wilギャラリー(ソウル)。その他グループ展、団体展多数。受賞歴:2010年マノフィン新進作家公募優秀賞、2011年ギャラリードール 選定作家。


■2018年01月11日(木)  磯崎新 《TSUKUBA III》
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磯崎新
《TSUKUBA III》
1985年
シルクスクリーン
イメージサイズ:56.0×56.0cm
シートサイズ:76.0×61.5cm
Ed.75
サインあり

磯崎新 Arata ISOZAKI
建築家。1931年大分市生まれ。54年東京大学卒業。61年東京大学数物系大学院建築学博士課程修了。63年磯崎新アトリエを設立。代表作に[大分県立中央図書館][岩田学園][福岡相互銀行本店][つくばセンタービル][MOCA―ロサンゼルス現代美術館][バルセロナ市オリンピック・スポーツホール][ティーム・ディズニー・ビルディング][山口県秋吉台国際芸術村][トリノ冬季五輪アイスホッケーメーン会場]他。近年は頻繁にアジアに出向き、多数のプロジェクトに参加している。日本建築学会賞、RIBA賞、朝日賞、ヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞、他受賞。著書『空間へ』『建築の解体』『手法が』『栖十二』『建築家捜し』など多数。

早くから建築のみならず、思想、美術、デザイン、映画などの国際的な舞台で活躍、評論や設計競技の審査を通じて、世界のラディカルな建築家たちの発想を実現に導くうえでのはかり知れない支援を果たしてきた。日本を代表するとともに、世界の建築界で最も信頼されている建築家である。自らの建築観(コンセプト)を紙の上に表現することに強い意欲を示し、77年から既に200点もの版画を制作している。現在、ときの忘れものを版元に、版画とエッセイによる連刊画文集《百二十の見えない都市》に取り組んでいる。


■2017年12月07日(木)  金坂健二 《無題》 01
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金坂健二
《無題》 01
1968  
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ : 31.5x21.2cm
シートサイズ: 35.0x26.5cm
サインあり

金坂健二 Kenji KANESAKA
映画作家、評論家、写真家。1934年東京都生まれ。1957年慶応義塾大学文学部英米文学科卒業。松竹映画国際部に社長(城戸四郎)付きの通訳として籍を置き、ハーバード大学の国際セミナーに参加するうちに米国のアングラ映画作家と知り合い、松竹を休職中にフルブライト基金を受けて渡米、ノースウェスタン大学に1年間留学。

映画『アメリカ、アメリカ、アメリカ』を完成して学校を離れ、日本に帰国後、1966年に映画『ホップスコッチ』を完成。1964年、飯村隆彦、石崎浩一郎、大林宣彦、高林陽一、佐藤重臣、ドナルド・リチー、足立正生らと実験映画製作上映グループ「フィルム・アンデパンダン」を結成した。1999年永逝。


■2017年11月02日(木)  細江英公 《薔薇刑 作品32》
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細江英公
《薔薇刑 作品32》
1961年(printed later)
ゼラチンシルバープリント
20.0x30.0cm
サインあり

細江英公 Eikoh HOSOE
写真家。清里フォトアートミュージアム館長。1933年山形県生まれ。本名・敏廣。18歳のときに[富士フォトコンテスト学生の部]で最高賞を受賞し、写真家を志す。52年東京写真短期大学(現東京工芸大学)入学。デモクラート美術家協会の瑛九と出会い強い影響を受ける。54年卒業。56年小西六ギャラリーで初個展。63年三島由紀夫をモデルに撮った[薔薇刑]で評価を確立し、70年[鎌鼬(かまいたち)]で芸術選奨文部大臣賞受賞。

[薔薇刑][鎌鼬][抱擁][おとこと女]などの写真集は今や稀覯本です。瑛九の周辺に集まった画家たちの中では最年少だった細江先生ですが、98年紫綬褒章、2003年には英国王立写真協会創立百五十周年記念特別賞を受賞するなど、国内外において高い評価を獲得しています。功なり名を遂げても一ケ所に安住することなく、時代の先端をカメラを通して見つめ、謙虚で若い才能を愛する姿勢は一貫しています。


■2017年10月05日(木)  安藤忠雄 《水の教会》
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安藤忠雄
《水の教会》
リトグラフにドローイング
イメージサイズ:102.0×71.3cm
シートサイズ:103.0×73.0cm
サインあり

安藤忠雄 Tadao ANDO
建築家、東京大学名誉教授。1941年大阪生まれ。独学で建築を学び、69年安藤忠雄建築研究所を設立。[住吉の長屋]により79年日本建築学会賞受賞、衝撃的なデビュー。代表作に[六甲の集合住宅][光の教会][ファブリカ/ベネトンアートスクール][フォーワース現代美術館][直島コンテンポラリーミュージアム][表参道ヒルズ]他。吉田五十八賞、日本芸術院賞、プリツカー賞、高松宮殿下記念世界文化賞、UIA賞他を受賞。2010年文化勲章受章。著書『連戦連敗』『旅』他多数。

学歴なしでいきなり東大教授に就任したときは世間をあったといわせましたが、阪神・淡路震災復興支援にも尽力するなど、安藤さんほど建築家という職業を世に知らしめた人はいないでしょう。84年から版画制作に取り組み、『安藤忠雄版画集 1998』をときの忘れものより出版。ニューヨークMoMA、パリ・ポンピドゥーセンターなど世界各地で建築展を開催、出品される美しいドローイング、版画類は世界中のコレクター垂涎の的です。


■2017年09月07日(木)  クリスト 《The Museum of Modern Art Wrapped (Project for New York)》
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クリスト
《The Museum of Modern Art Wrapped (Project for New York)》
1971年
リトグラフ
71×56cm
Ed.100
Signed
*レゾネNo.37(Schellmann) 

クリスト CHRISTO
ブルガリア生まれのクリスト(1935~ )は、本名はフリスト・ヴラディミロフ・ヤヴァシェフ Христо Явашев, Christo Vladimirov Javachev(Javacheff)。夫人であるフランスのジャンヌ=クロード(Jeanne-Claude Denat de Guillebon、1935年モロッコ生まれ)とともに「Christo and Jeanne-Claude クリスト&ジャンヌ=クロード」の名で活動している。二人が美術活動として何をやっているかというと、「梱包」である。

瓶や椅子などの日用品を「梱包」することから始まり、巨大なモニュメント、はては建物をそっくり、自然そのものや公園までをすっぽりと布で梱包してしまった。実現までの長い時間、膨大な人手と費用、にもかかわらず「梱包」するやそれは短時間で撤去され、後には記憶とプロジェクトに関するドローイングや版画作品のみが残される。二人は作品実現までの社会的、政治的な交渉、経済的な問題、プロジェクトに関わった人々との交流などの全行程が自らの作品であるとみなしています。


■2017年06月01日(木)  植田正治 《光の筺》
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植田正治
《光の筺》
1994年
Type-Cプリント
20.2x30.1cm
イメージサイズ: 24.2×35.5cm
シートサイズ: 25.3×36.3cm

植田正治 Shoji UEDA
1913年、鳥取県生まれ。15歳頃から写真に夢中になる。1932年上京、オリエンタル写真学校に学ぶ。第8期生として卒業後、郷里に帰り19歳で営業写真館を開業。この頃より、写真雑誌や展覧会に次々と入選、特に群像演出写真が注目される。1937年石津良介の呼びかけで「中国写真家集団」の創立に参加。1949年山陰の空・地平線・砂浜などを背景に、被写体をオブジェのように配置した演出写真は、植田調(Ueda-cho)と呼ばれ世界中で高い評価を得る。1950年写真家集団エタン派を結成。

1954年第2回二科賞受賞。1958年ニューヨーク近代美術館出展。1975年第25回日本写真協会賞年度賞受賞。1978年文化庁創設10周年記念功労者表彰を受ける。1989年第39回日本写真協会功労賞受賞。1996年鳥取県岸本町に植田正治写真美術館開館。1996年フランス共和国の芸術文化勲章を授与される。2000年歿(享年88)。2005~2008年ヨーロッパで大規模な回顧展が巡回、近年さらに評価が高まっている。


■2017年05月01日(月)  植田正治 《砂丘人物》
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植田正治
《砂丘人物》
1950年(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
26.7×23.7cm
サインあり

植田正治 Shoji UEDA
1913年、鳥取県生まれ。15歳頃から写真に夢中になる。1932年上京、オリエンタル写真学校に学ぶ。第8期生として卒業後、郷里に帰り19歳で営業写真館を開業。この頃より、写真雑誌や展覧会に次々と入選、特に群像演出写真が注目される。1937年石津良介の呼びかけで「中国写真家集団」の創立に参加。1949年山陰の空・地平線・砂浜などを背景に、被写体をオブジェのように配置した演出写真は、植田調(Ueda-cho)と呼ばれ世界中で高い評価を得る。1950年写真家集団エタン派を結成。

1954年第2回二科賞受賞。1958年ニューヨーク近代美術館出展。1975年第25回日本写真協会賞年度賞受賞。1978年文化庁創設10周年記念功労者表彰を受ける。1989年第39回日本写真協会功労賞受賞。1996年鳥取県岸本町に植田正治写真美術館開館。1996年フランス共和国の芸術文化勲章を授与される。2000年歿(享年88)。2005~2008年ヨーロッパで大規模な回顧展が巡回、近年さらに評価が高まっている。


■2017年04月01日(土)  堀尾貞治 《20 October 2016》
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堀尾貞治
《20 October 2016》
2016年
ドローイング
シートサイズ: 108.5×77.0cmm
サインあり

堀尾貞治 Sadaharu HORIO
1939年神戸に生まれる。三菱重工に勤務する傍ら、美術活動を精力的に継続。1957年より芦屋市展に連続出品。1964年より京都アンデパンダンに連続出品。

1965年第15回具体美術展に出品、翌年会員となり、1972年の解散まで参加。1968年吉原治良に師事する。「あたりまえのこと」をテーマに、年間100回以上の展示・パフォーマンスを行なっている。


■2017年03月11日(土)  石山修武 《アフリカの谷の門を出た者がいた》
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石山修武
《アフリカの谷の門を出た者がいた》
2016年
銅版
イメージサイズ: 36.0x28.8cm
シートサイズ: 50.0x39.5cm
Ed. 3
サインあり

石山修武 Osamu ISHIYAMA
建築家、早稲田大学教授。1944年生まれ。66年早稲田大学卒業。同大学院建設工学科修士課程終了。75年[幻庵]で衝撃的なデビュー。[伊豆の長八美術館]で85年吉田五十八賞、[リアス・アーク美術館]で95年日本建築学会賞、96年ヴェネチア・ビエンナーレでは瓦礫が散乱する廃墟を出現させ金獅子賞を受賞。著書『建築家、突如雑貨商となり至極満足に生きる』『現代の職人』『笑う住宅』『石山修武画文集 世田谷村日記』他。

雑誌『室内』連載のエッセイでファンになった方も多いでしょう。雪原に屹立する[十勝ヘレン・ケラー記念塔]に登ったときの震えるような感動を忘れられません。石山さんはまさに画家的資質をもった建築家だと確信しました。でなければあんな闇の建築を作れるはずがない。2004年春から突如始まった銅版画制作は到底はじめてとは思われぬ銅版の刻みが見事です。さすが建築界の異端児、豊かな色彩のドローイングも素晴らしい。


■2017年02月02日(木)  ソニア・ドローネ 《作品》
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ソニア・ドローネ
《作品》
リトグラフ
65.0x53.0cm
Ed. 75
サインあり

ソニア・ドローネ Sonia DELAUNAY
20世紀の前衛画家の中で女性として大きな足跡を残したソニア・ドローネ。昔、新聞社時代、お昼時に歩いて数分の竹橋の国立近代美術館によく通った。常設展示されていた夫のロベールの細長い「リズムー螺旋」を見るのが楽しみだった。ソニアとロベールの二人展が開かれたのも同美術館だった。新聞社を辞めて美術の世界に入ってから、パリに出張する機会が増えた。ロベールとソニアの夫婦の作品にたくさんめぐり合うことができた。ちょうど1980年代後半、パリにはソニアの作品を専門に扱う大きなギャラリーがあり、そこで彼女のテキスタイル作品、花瓶などのセラミック作品、そして版画を買い込んだものだ。ロシアのウクライナに生れたソニア・テルク(1885-1979)は、カールスルーエで絵を習い始め、1905年にパリに出て、アカデミー・ド・ラ・パレットで、アメデ・オザンファンやスゴンザックとともに学んだ。

1910年ロベール・ドローネ(Robert Delaunay, 1885年-1941年)と結婚した。パリ生まれのロベールはワシリー・カンディンスキー(ロシア)、ピエト・モンドリアン(オランダ)とともに抽象絵画の先駆者の一人であり、リズムと色彩に満ちた画風は「オルフィスム」といわれた。エッフェル塔を描いた連作はよく知られている。夫妻はともにディアギレフのロシア・バレエに協力し、彼女は衣装を担当した。ロベールより長命だったソニアは、油彩だけでなく、テキスタイルや版画など多方面にその才能を開花させた。特に色彩豊かな版画作品(リトグラフ、銅版)は素晴らしい。


■2017年01月07日(土)  オノサト・トシノブ 《二つの丸 黒と赤》
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オノサト・トシノブ
《二つの丸 黒と赤》
1958年
油彩、キャンバス
16.2x23.2cm
サインあり

オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO
1912年長野県生まれ。その後群馬県桐生に移り住む。本名・小野里利信。津田青楓洋画塾に学ぶ。35年黒色洋画展を結成。38年自由美術家協会会員となる(~56年、以後無所属)。41年に一兵卒として出征、戦後のシベリア抑留を経て48年に帰国後は桐生のアトリエでひたすら円を描き続けた。64年・66年にはベニス・ビエンナーレに日本代表として出品。戦前、戦後と親友の瑛九とともに前衛美術の道を歩み続けた。86年永逝。

瑛九、山口長男、菅井汲らとともに日本を代表する抽象画家オノサト先生は、油彩のほかに約200点の版画作品(リトグラフ、シルクスクリーン)を残しました。版元の私がアトリエに通い出した70年代はアトリエをほとんど一歩も出ず、終日絵筆を握る孤高の生活でした。東京国立近代美術館など多くの美術館に作品が収蔵されていますが、本格的な回顧展と画集の刊行が待たれます。


■2016年12月01日(木)  野口琢郎 《Landscape#32》
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野口琢郎
《Landscape#32》
2014年
箔画(木パネル、漆、金・銀・プラチナ箔、石炭、樹脂、透明アクリル絵具)
227.3×145.5cm
サインあり

作家コメント
画像で見て頂くと一目瞭然ですが、まず一番目立っていた金地の盛り上げ部分を、部分的に残した以外はノミで全て剥がし、左下の水玉部分他、何ヶ所かもヤスリで表面を削りました。 ノミでパネルまで傷つけてしまった箇所はパテで補修し、削った部分にそれぞれまた地の漆を塗り直してから、密度にこだわってコツコツと箔押しをした結果、元の作品よりも質の高い、良い作品に仕上げる事ができました。不思議なもので、細部を描き密度が増した事で全体の迫力が増し、作品のサイズまで大きく感じます。 また、石炭によって黒い道を描いた事で、作品を寝かして俯瞰するとまるで本当の町を見渡しているようにも見えます。

野口琢郎 Takuro NOGUCHI
1975年京都府生まれ。1997年京都造形芸術大学洋画科卒業。2000年長崎市にて写真家・東松照明の助手に就く。2001年京都西陣の生家に戻り、家業である箔屋野口の五代目を継ぐため修行に入る。その後も精力的に創作活動を続け、2004年の初個展以来毎年個展を開催している。


■2016年11月01日(火)  光嶋裕介 《ベルリン》
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光嶋裕介
《ベルリン》
2016年
和紙にインク
45.0×90.0cm
サインあり

作家コメント
雲のような、大地のような、予期せぬ形で混ざり合う白黒の和紙のなかに、古典主義の建築家シンケルを、モダニストのミースを、シャローンのフェルハーモニーを描き込んでいく。思いが赴くままにペンを進めていく。ひとつの建築を描き、余白との関係性を考慮しながら、次の建築を描き足していく。直感的に全体のバランスを意識しながらジャズのインプロビゼーション(即興)のようにして、ドローイングを描いていく。現実と幻想の狭間を彷徨いながら、独特な質感が獲得されていく。それは、建築群によって立ち上がる空間の質感のようなもの。

光嶋裕介 Yusuke KOSHIMA
建築家、一級建築士。 1979年米国ニュージャージー州生。 87年に日本に帰国。 以降、カナダ(トロント)、 イギリス(マンチェスター)、 東京で育ち、最終的に 早稲田大学大学院修士課程建築学を 2004年に卒業。 同年にザウアブルッフ・ハットン・ アーキテクツ(ベルリン)に就職。 2008年にドイツより帰国し、 光嶋裕介建築設計事務所を主宰。 2010年に桑沢デザイン研究所、 2011年に日本大学短期大学部にて 非常勤講師に就任。


■2016年10月01日(土)  秋葉シスイ「次の嵐を用意している」
akiba_32.JPG 600×481 140K 秋葉シスイ
《次の嵐を用意している》(24)
2016年
油彩、キャンバス
112.0x162.0cm (P100号)
サインあり

作家コメント
一番新しく描いた絵は、そのときの自分の状態と反して、とても静かで穏やかな絵になりました。
自分が心がけていることに、「深刻でない暗さ」というのがあります。
淋しさとか、取り残される感覚とか、それも肯定するような絵でありたいのです。
毎回コメントを求められる度に言っていますが、海の音を聞いていると、焚き火の炎を見ていると心が落ち着くように、自分の絵もそういう存在に近づけたらいいなと思います。
自分は恵まれた環境をいただいていて、大学を卒業してからもずっと絵を描き続けています。
「淡々と、続ける。」
これを今より大切にしながら、また絵を描いていきたいと思います。

秋葉シスイ Sisui AKIBA(1984-)
1984年千葉県生まれ。2007年和光大学表現学部芸術学科卒業。同年フタバ画廊で初個展「そこから」を開催。個展:2009年「向かう」(小島びじゅつ室/東京)、2010年「メロディーはない」(gallery坂巻/東京)、主なグループ展:2008年2009年「4 winds」(ときの忘れもの/東京)、2009年「この世界とのつながりかた」(ボーダレス・アートミュージアムNO-MA/滋賀)。
人物が佇む静謐とした風景や、遠くに何かの気配が存在する風景、又それすら何もない風景を描き続けている。

■2014年08月20日(水)  ウィージー 《コニー・アイランド、1940年7月28日午後4時》
weegee_05_coney-island.JPG 600×481 140Kウィージー
《コニー・アイランド、1940年7月28日午後4時》
1940年(Printed later)
Gelatin Silver Print
26.9×34.0cm
裏面にスタンプあり

1940年は記録的な猛暑が続き、ニューヨーカーはどのように乗り切ったのかを撮影するよう依頼されたことから、この写真が生まれました。
この作品は、1945年に発行した写真集『Naked City』の表紙にもなり、ジョージ・マイケルのCDジャケット(1990年)にもなっている代表的な作品のひとつです。
遥か彼方地平線までびっしりと人で埋め尽くされ、ジャンプしている人、大きく手をあげている人、担いでもらっている人など、人々の視線からは、今撮られようとしていることがわかっていることが読み取れます。

ウィージー WEEGEE(1899-1968)
1899年オーストリアのズロチエフ(現ポーランド領)生まれ。本名ウジェル・H・フェリグ (後にアーサー・フェリグ, 1899-1968)。1910年家族とともにアメリカへ移住。家計を助けるため14歳で学校をやめ、皿洗いや映画館のバイオリニスト、パスポート写真スタジオのアシスタントなどに従事した後、1924年にアクメ・ニューズピクチャーズ(現UPI通信社)の暗室技師として採用。1935年にフリーランスとなり、ニューヨーク市警マンハッタン本部を足掛りに殺人現場や交通事故、火事場の救出作業等を大型フラッシュで撮影し、数々の新聞に掲載される。警察無線を傍受し、愛車のシボレーで事故現場や殺人現場に先回りして数多くのスクープ写真で名を馳せた世界で最も名の知られたタブロイド紙写真家。警官と同時に現場に着くことがあり、警官に「占い(Ouija)板でも持っているのか?」と聞かれたことから Ouija から Weegee という異名が生まれたそうだ。1940年ニューヨークの近代美術館で展覧会を開催し、世に知られるようになり、1945年に出版した『裸の街』で時代の寵児となる。ニューヨークの暗部にシニカルな視線を注ぎ、直截的かつドラマティックな独自のスタイルを確立した。

■2014年07月22日(火)  ザオ・ウーキー 《無題》
29.jpg 600×386 55Kザオ・ウーキー
《無題》
1959年
アクアチント
イメージサイズ:34.5x59.3cm
シートサイズ :50.0x65.0cm
Ed.29/75
サインあり

今回紹介する作品は難波田龍起先生のアトリエに飾られていたザオ・ウーキーの銅版画です。黒の中にうっすらと浮かぶ青、中国水墨画の伝統に根ざした、東洋と西洋の美意識が融合したザオ・ウーキーの叙情的抽象の世界が難波田先生の心を捉えたのでしょうか。

ここ数年、ザオ・ウーキー(趙無極)の評価は高騰しており、オークションで銅版画が100万円を超すことも珍しくありません。
宗王朝にまでさかのぼる北京の名門の家系に生まれたザオ・ウーキーは杭州の国立美術学校に学び、1948年にパリに移住。翌年には早くも個展をひらき“中国のボナール”と評され大成功を収めます。アンフォルメル(非定形絵画)運動の渦中に身を投じながら、次第に独自の画風を成熟させます。ヨーロッパ各地を旅し、古典から現代美術に至るまで貪欲に吸収していった彼は「パリの影響が私の技術形成すべてに及んでいることを否定できなくとも、私の個性が確立されるにしたがって、次第に中国を再発見した」と語っています。
1964年、ウーキーの最大の支持者アンドレ・マルローの助力でフランス国籍を取得し、83年には故国北京で個展を開催。日本にもしばしば訪れており、箱根・彫刻の森美術館に「アンドレ・マルローに捧ぐ」(1976)が収蔵されています。

■ザオ・ウーキー Zao Wou-ki 趙無極(1921-2013)
1921年北京に生まれる。宋朝の王族の血を引く名家であり、高い教養を学べる環境に育つ。1941年出身校である杭州美術学校の講師となり、作品展を開く。1948年渡仏しアカデミー・グラン・ショミエールに通う。詩人のアンリ・ミショーや、画家ジョルジュ・マチウ、ピエール・スーラージュらと交流する。その頃パウル・クレーを知り、その記号的な題材の扱い方を模倣しながら、クレーが中国美術に目を向けていたことに注目。このことがザオ自身の出自を再確認するきっかけになる。1957年にアメリカを旅行し、フランツ・クライン、マーク・ロスコらアメリカ抽象表現主義の作家たちと知り合い影響を受ける。1960年代は中国の書を思わせる不定形が画面に立ち現れ、やがて動的なブラッシュワークが画面全体に広がる作風を展開する。さらに1980年代以降は色彩を空間に解き放つような画面に転換し、中国山水画や抽象表現主義を融合するかのような作品を制作した。

■2014年06月21日(土)  葉栗剛 〈男気〉 《祭りより・・・》
haguri_03.jpg 760×1140 278K葉栗剛
〈男気〉 《祭りより…》
2013年
木彫(寄木つくり)楠木、彩色
H210.0cm
サインあり

ときの忘れものは1995年の開廊以来、秋山祐徳太子(ブリキ彫刻)、北郷悟(テラコッタ、ブロンズ)、井桁裕子(桐塑)、宮脇愛子(真鍮、ガラス)など幾人かの立体の展覧会を開催したことはありますが、木彫による個展を開催したのは、先月開催した葉栗剛が初めてです。
先月の葉栗剛展では、2体の大作〈男気〉シリーズを中心に、9点の木彫作品を展示しました。

狭い会場、扱い経験のほとんどない木彫作品とあって、開催を躊躇する気持ちもあったのですが、それを上回る魅力と面白さに私たちは取り付かれました。
作家と知り合ったのも偶然で、昨年8月のアートフェア「ART NAGOYA」のレセプション会場で森本悟郎さんに紹介されました。あの夜は「あいちトリエンナーレ」のオープニングと重なり、愛知の美術関係者はほとんどそちらに流れ、レセプション会場にいた森本さんはよほどのへそ曲がりなのか(笑)と思ったほどでした。
その場でタブレット端末で葉栗さんに作品画像を見せてもらい興味をいだきました。ちょうどノリタケの森で個展があるというので名古屋滞在を一日延ばして実作をまとめて拝見することができ、その場で二体の木彫作品を購入したのでした。

2メートルを超す大作には皆さん圧倒されるでしょう。
来月上旬のART OSAKA 2014にも出展予定です。近隣にお住まいの方は是非お出かけ下さい。


葉栗剛 Takeshi HAGURI(1957-)
1957年名古屋市に生まれる。1982年に愛知県立芸術大学彫刻科を卒業し、1984年に愛知県立芸術大学大学院を修了。卒業後は木彫を主に制作しているが、野外作品はアルミニウム素材を使用する。主な個展は1996年・1998年 村松画廊(東京)、2006年 中京大学 C・スクエア(名古屋)、2009年千葉県アンデルセン公園こども美術館など多数。主なグループ展は1996年 神戸具象彫刻大賞展、2000年 フォクトランド国際彫刻シンポジウム(ドイツ)、2001年 富獄ビエンナーレ展(静岡県立美術館)、2013年 第16回岡本太郎現代 芸術賞」展 ほか。義をひろげた。愛知県立日進西高等学校、ふれあい公園(静岡県春野町)、伊自良村総合運動公園(岐阜県)、愛知県立西春高等学校 愛西市立佐屋小学校(愛知県)、長久手町立北小学校(愛知県) に作品が設置されている。

■2014年05月20日(火)  ジョン・ケージ "Fontana Mix (Light Grey)"
cage_01_Fontana-Mix.jpg 600×472 82Kジョン・ケージ
"Fontana Mix"(Light Grey)
1982
シルクスクリーン、紙フィルム4枚組
Image size: 50.0×70.0cm
Sheet size: 56.5×76.5cm
Ed.97
鉛筆サインあり
刷り:岡部徳三

今回ご紹介するのはジョン・ケージの作品です。
音楽家、作曲家、詩人、思想家、キノコ研究家とさまざまな貌をもつジョン・ミルトン・ケージ・ジュニア(John Milton Cage Jr.、1912年9月5日~1992年8月12日)が制作した希少な版画作品は実は日本でつくられました。
プロデュースしたのは名人刷り師・岡部徳三さんです。
実験音楽家としてジョン・ケージは前衛芸術全体に大きな影響を与え、独特の音楽論や表現によって、音楽の定義をひろげた20世紀の巨人といっていいでしょう。「沈黙」をも含めたさまざまな素材を作品や演奏に用いており、代表的な作品に『4分33秒』があります。

岡部さんが刷ったこの作品、図版だけではよくわからないでしょう。
まるでジョン・ケージの楽譜のような複雑さですが、この作品は4つのパーツから成り立っています。

1)一番下側の紙(56.2×76.5cm)には、曲線が刷られています。
紙の上に3枚の透明なフィルムが重ねてあります。
それぞれサイズが違うので、セッティングの仕方で、絵柄が変化します。

2)大きいフィルム(56.5×76.0cm)には水玉が刷られています。
3)中サイズのフィルム(23.0×74.0cm)には格子縞が刷られています。
4)小サイズのフィルム(6.0×79.0cm)には直線が刷られています。

つまり、1)の紙と2)の大判フィルムはほぼ同じサイズですので、セッティングしても皆同じですが、
3)と4)はそれぞれ細長いので、セッティング(置き方)の仕方で、見え方が違ってくるわけです。
ジョン・ケージの音楽を思わせる版画作品です。


ジョン・ケージ John CAGE(1912-1992)
1912年アメリカ、ロサンゼルスに生まれる。ロサンゼルスのハイスクールを優秀な成績で卒業し、クレアモントのポモナ・カレッジに入学するが、学業に興味を失い渡欧の計画を立てる。1930年パリで建築家エルノ・ゴールドフィンガーに建築を学んだ後、マジョルカではじめて作曲を行なうが、当時の作品は現存しない。1931年にアメリカに戻り、ピアニストのリチャード・ビューリックに音楽を学ぶ。のちにヘンリー・カウエルの紹介でアルノルト・シェーンベルクに師事し、1934年から1937年にかけて南カリフォルニア大学のシェーンベルクのクラスで学んだ。音楽家、作曲家、詩人、思想家、キノコ研究家として知られる。「沈黙」をも含めたさまざまな素材を作品や演奏に用いるなど、実験音楽家として前衛芸術全体に影響を与え、独特の音楽論や表現によって音楽の定義をひろげた。

■2014年04月15日(火)  瑛九 《いじわる》 "Malicious"
qei_130_ijiwaru.jpg 438×600 198K瑛九
いじわる》 "Malicious"
1953年
エッチング (First state) (自刷り)
36.2×26.8cm
Ed.1
鉛筆サイン及び年記あり
※都夫人私家版銅版レゾネNo.144
※林グラフィックプレスNo.16

瑛九は1951年から1958年までの僅か足掛け8年の間に銅版画を約350点制作しました。
短期間に集中して制作した瑛九のエネルギーも凄いものですが、実際に刷られた数(自刷り)は極くまれに銅版画集などで25部刷ったものもありますが、ほとんどは1部から数部です。
中でも珍しいのが今回新発見の「いじわる」(ファースト・ステート)で、1部しか存在しない作品です。


瑛九 Q Ei(1911-1960)
1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。36年フォトデッサン作品集『眠りの理由』を刊行。37年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォトデッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。60年48歳で永逝。

■2013年07月30日(火)  瀧口修造の詩による版画集 『スフィンクス』
takiguchi01_01.jpg 493×600 103K瀧口修造
瀧口修造の詩による版画集 『スフィンクス』
限定50部
1954年
アイデア:久保貞次郎
編集:福島辰夫
表紙デザイン・レイアウト:山城隆一
挿絵:北川民次、瑛九、泉茂、加藤正、利根山光人、青原俊子(内間)
瀧口修造、北川民次、久保貞次郎、福島辰夫のサインあり

今回ご紹介するのは、瀧口修造の詩による版画集『スフィンクス』です。
ときの忘れものでは、1997年10月に開催した久保貞次郎追悼集刊行記念展で一度ご紹介しています。

『スフィンクス』は1954年に限定50部刊行されました。
瀧口修造の1930年代の詩に、北川民次瑛九泉茂、加藤正、利根山光人、青原俊子(内間)の6名の版画を組み合わせたもので、奥付に<アイデア久保貞次郎・編集福島辰夫>とありますが、久保先生が実質的な版元で、制作の実務を福島さんが担当されたようです。
1番本から6番本までには、通常の6枚の版画に加え、各作家のオリジナル・デッサンがそれぞれ1枚ずつ入っており、1番本は瑛九です。

ときの忘れものは、2冊を所蔵しています。
先ず、限定1/50、文字通り一番。岡鹿之助の旧蔵本で、瑛九のオリジナル・デッサンが挿入され、奥付には瀧口修造、北川民次、福島辰夫、久保貞次郎の4人の自筆ペン・サインが記入されています。
なぜ1番本が岡鹿之助の旧蔵本かというと、これは亭主の推測ですが、久保先生は(意外に思われるかも知れませんが)岡鹿之助を非常に尊敬しており、おそらく刊行後、真っ先に献呈されたのではないかと思います。

もう一冊は、限定48/50。こちらの奥付には瀧口修造、北川民次、久保貞次郎の3人の自筆ペン・サインが記入されています。

福島辰夫のサインが片方にあり、片方にないのはどうもたいした理由ではないようです。
なぜなら、この詩画集の2冊を詳細にチェックすると、6人の作家のサインもあったり、なかったりするからです。おそらくサイン漏れと思われます。

■2013年07月20日(土)  E.J.ベロック「Untitled」
bellocq_02_untitled.jpg 461×600 46KE.J.ベロック
Untitled
ゼラチンシルバープリント
25.2×20.2cm
裏面にサインあり

その生涯が謎に包まれ、生前はまったく知られること無く、遺された娼婦の写真が没後にフリードランダーによって再発見されたE.J.ベロックの作品をご紹介します。
この写真を撮影したのはベロックですが、モデルである笑みを浮かべた女性の視線の先には別のカメラマンが居たのではないか、と想像してしまいます。
画面の右下に写り込んでいるのはおそらく人の肩でしょう。
この肩と左上にある何かの影は同じような形で画面を切り取っていて、この写真がどのような状況で撮影されたのか判然としないまま、ミステリアスな印象を残しています。

ベロックについては、小林美香さんのエッセイ「写真のバックストーリー」第33回でも取りあげていただきました。


E.J.ベロック Ernest James BELLOCQ(1873-1949)
1873年生まれ。1949年、歿。写真家。ベロックの手によるものとして知られる現存の写真は、すべてニューオリンズの紅燈街「ストーリーヴィル」の娼館で撮られており、そこで働く女性たちが被写体として登場している。おおむねの女性たちは、やわらかな太陽光の差しこむ場所にいて、着衣でもヌードでも、こわばりを解いたゆったりとした時間のなかにあるように見える。こうした、男性が撮したように思えない極めてニュートラルなエロスが現在でも人々を魅了している。
ベロックの存在が写真史に登録されることになったのは、1958年ニューヨークからやってきた写真家リー・フリードランダーがあるギャラリーを訪れ、ベロック撮影の乾板を見出し関心を抱いたことをきっかけとする。1966年フリードランダーは、ベロックの乾板89点を買い取り、焼付け作業を行う。こうして1970年にニューヨーク近代美術館で公開されるなど、ベロックの女性たちは再出現した。

■2013年07月10日(水)  国吉康雄「綱渡りの女」
kuniyoshi_06.jpg 409×550 32K国吉康雄
綱渡りの女
1938年
リトグラフ
39.5x30.0cm
サインあり

1906年、国吉康雄は弱冠17歳の時に渡米し、以後4年間をロサンゼルス周辺で過ごします。労働に明け暮れる毎日を送りながら、次第に画家になりたいと考えるようになり、1910年にニューヨークを目指して東海岸へと移りました。
1916年にアート・スチューデンツ・リーグに入学。そこで出会った師や友人たちとの交遊と勉学が、国吉を芸術家に育て上げます。1922年、ニューヨークのダニエル画廊で個展を開き、以後同所での作品発表により、アメリカ美術界での地歩を着実に築いていきました。

1930年代に入り評価が高まる一方で、悪化する国際情勢のもと、アメリカで暮らす国吉にとって、日本人であることが大きな障害となり始めました。この時期の作品には、国吉の代表的なモチーフであるサーカスや酒場で働く女性たちが多く登場します。この作品もまた、その頃制作されたものです。
下からライトが照らされているのか、傘を持ってポーズをとる女の表情は陰影が濃くなり際立っています。国吉が描く女たちの身体はいずれも肉付きを誇張するようにデフォルメされ、女の美しさ、逞しさを感じさせます。
サーカスの女の哀愁と美をモノクロ一色のリトグラフで表現したこの作品は、日本版画史のみならず、20世紀を代表する名作版画と言えるでしょう。

日本では、2004年に東京国立近代美術館で大規模な回顧展が開催されましたが、特筆すべきはアメリカでの生前からの高い評価です。

1929年、ニューヨーク近代美術館での「19人の現代アメリカ作家展」の出品作家に選ばれたことで、その評価を決定的なものとします。
1948年にはホイットニー美術館で、現存作家としては初の回顧展を開催し、さらに1952年には第26回ヴェネツィア・ビエンナーレに、アメリカ代表として出品します。
同年の移民帰化法の成立により、ようやくアメリカ市民権を保有する資格が生じたものの、その手続きが完了するのを前に、翌年胃癌のため亡くなりました。
国吉の死去に際し、アメリカの新聞は「アメリカ最高の芸術家ヤスオ・クニヨシ死す」と報じ、アメリカ画壇における不動の地位と人望を讃えました。

困難な時代をアメリカ人画家になる事を夢見て懸命に生き抜き、見事にその夢を実現した国吉。彼は母校のリーグを中心に後進の指導にあたるかたわら、美術家組合の初代会長としてアーティストの地位向上のためにも尽力しました。
現在では、ベン・シャーン、エドワード・ホッパーらとともに、20世紀前半のアメリカを代表する画家の一人として評価され、その名声は世界的なものとなっています。

国吉康雄 Yasuo KUNIYOSHI(1889-1953)
1889年岡山県に生まれる。1906年アメリカ・シアトル移住。1910年ニューヨークに渡り、美術を学び始める。 1914年ホーマー・ボッスの指導するニューヨーク市の進歩的な美術学校、インディペンデント・スクールに入学。1916年にはアート・スチューデンツ・リーグに入学し、1920年4月までそこで学ぶ(終わりの3年間は特待生であった)。 ケネス・ヘイズ・ミラーに師事し、多大な影響を受ける。1922年ニューヨークのダニエル画廊で《国吉康雄油絵素描展》を開催。 1928年、1925年につづきヨーロッパに旅行し、ジュール・パスキンらパリの美術家たちと親交を深める。この頃石版画制作に没頭する。 1929年ニューヨーク近代美術館での《19人の現代アメリカ作家展》出品作家に選ばれる。
1931年父親を見舞うため日本に旅行。日本での初個展が東京三越百貨店と大阪三越百貨店で同時開催される。1932年アメリカに帰国。 翌年からアート・スチューデント・リーグで教鞭をとる(1953年まで)。 1937年アメリカ美術家会議の一員として1940年まで活発に活動する。 1942年の真珠湾攻撃により、日本に向けて停戦勧告のため短波ラジオ放送を行うなど日本の軍事侵略に抗議する活動を行う。 1948年ホイットニー美術館で回顧展が開催。これは同美術館がアメリカの現存作家に関して行なう個人展覧会の最初のものであった。 1952年ヴェネチアビエンナーレのアメリカ代表に選ばれる。 1953年アメリカ市民権の獲得を目前にニューヨークで亡くなる。享年63。

■2013年06月30日(日)  北川民次「男」
tamiji_06.jpg 422×600 60K北川民次

1934年
素描
46.5×34.0cm
サインあり

北川民次を知る人は先ずメキシコを思い浮かべるでしょう。
1914年、北川はアメリカのオレゴン州在住の兄を頼り渡米します。ニューヨークのアート・ステューデンツ・リーグの夜学に通い、ジョン・スローンに師事、学友には国吉康雄がいました。その後1921年にメキシコに渡り、ダビッド・アルファロ・シケイロス、ディエゴ・リベラらと交友を持ち、メキシコ革命を標榜する彼らの壁画運動に影響を受けます。北川は革命後の美術を民衆のものにすることを目指した野外美術学校の教師として活動し、メキシコの児童画に取り組むなかで、アカデミックな美術概念から開放された独自の作風を形成します。
この作品は北川が日本に帰国する2年前に描かれました。穏やかな男の表情が印象的です。ところどころ太く引いた線は流動的で、すこし丸まった背中や足に手を掛けているポーズなどからリラックスしているように感じます。メキシコで一人の生活者として日々を送り絵を描いていた北川だからこそ、何気ない人々の一瞬を捉えることが出来たのでしょう。

北川民次 Tamiji KITAGAWA(1894-1989)
1894年静岡県生まれ。早 稲田大学を中退して1914(大正3)年渡米。ニューヨークのアート・スチューデ ンツ・リーグでジョン・スローンに師事、学友に国吉康雄がいた。1923(大正 12)年メキシコに渡り、シケイロス、リベラ等と交友、メキシコ・ルネサンス を標榜する壁画運動に賛同、またメキシコ郊外のトラルパムで児童美術教育に携わる。1931(昭和6)年タスコに野外美術学校を移して校長となる。1936(昭和 11)年帰国。翌年の第29回二科展に《タスコの祭》ほかを出品し注目を浴びる。
メキシコの風土や人々を描く独特の画風は多くのファンを集め、二科展、日本国際美術展で活躍した。1979(昭和53)年二科会会長となるも同会を退会、以後、悠々自適の生活を送り、明治、大正、昭和、平成の四代を見事に生き抜き、1989年瀬戸で歿した。
まさに大人の風格をもった作家でした。生涯に400点近い版画を制作しています。

■2013年06月20日(木)  ベン・ニコルソン「柱と木」
nicholson_03_column_and_tree.jpg 412×600 67Kベン・ニコルソン
柱と木
1967年
エッチング
29.5×20.7cm
Ed.50
サインあり

縦長の画面に簡潔な線で描かれているモチーフ。
右側の木はともかく、真ん中の大きなモチーフは、タイトルを見て柱であることに気がつきます。
背景はなく、色や細部よりもそのものが持つ形に興味があったように思えます。
白い画面に引かれた黒い線は、ニコルソンの代表作であるホワイトレリーフで表現された陰影のリズムにも通じるものがあるように感じられます。

ベン・ニコルソンは1894年イギリスに生まれ、ロンドンのスレード美術学校で学びます。画家である父親ウィリアムの影響から重厚なリアリズム作品を出発点とし、1920年代には静物画や風景画をおもに描いていました。
やがてパリでジョルジュ・ブラックらに出会い、モンドリアンやドローネーらが名を連ねていた「アブストラクション・クレアション」(抽象=創造)に参加。これを契機にヘンリー・ムーアらと共に、抽象芸術グループ「ユニット・ワン」を結成し、イギリスに本格的な抽象美術の土壌を築きました。
1930年代末から戦後にかけてはセント・アイヴスで抽象化の進んだ静物画や風景画を描き、1950年代後半からはスイスで暮らし、生涯精力的に創作活動を続けました。

リアリズムから出発し、具象と抽象の間を揺れ動きながらその繊細な接点を探求し続けたニコルソンの作品は、シンプルでありながらも観る者の感性にリズムを響かせてくれます。

ベン・ニコルソン Ben NICHOLSON(1894-1982)
1894年、イギリスのバッキンガムシャー生まれ。両親が画家であった。 ロンドンのスレード美術学校で学んだあと、ヨーロッパ諸国やアメリカ各地を旅し、第一次大戦後もロンドンとパリを往復し、アルプ、ミロ、モンドリアンと出会う。 1933年からグループ「ユニット・ワン」に参加していたが、モンドリアンに出会うことで、抽象的構成主義への傾向が確固なものとなる。
1937年にはナウム・ガポらとともに「サークル」を出版し、イギリスに構成主義美術を広げた。抽象作品については、白い彫刻レリーフなど、幾何学的抽象作品を制作した。単なる絵画にとどまらず、彫刻的な要素をたぶんに含む作品が多く、しかも、白や淡い色のものなど、色彩が抑えられている作品が多い。1982年、歿。

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