2006年4月〜の展覧会

弊廊「ときの忘れもの」の2006年4月〜の企画展・常設展のご案内を申し上げます。 


アール・デコと1920年代の画家たち


4月13日(木)、14日(金)、15日(土)の三日間、
エルテ、バルビエ、ラブルールはじめ1920年代を彩った画家たちの挿絵作品を特別頒布します。併せて八代 清水六兵衛や吉見螢石の陶作品も頒布します。


「アール・デコと1920年代の画家たち」出品リスト
No. 作家名 作品名 制作年 技法 限定 サイズ(cm) サイン
1 J.E.ラブルール 『軍隊の通過』 1900年 木版 Ed.60 22.9×30
2 J.E.ラブルール 『百貨店風景』より 1920-21年 銅版 Ed.335 16×12.7
3 W.カンディンスキー 『白い響き』 1911年
(1971年後刷)
木版 Ed.40 8.7×9.7 版上
4 W.カンディンスキー 『りんごの木』 1911年
(1971年後刷)
木版 Ed.40 9.8×10 版上
5 P.クレー 『Akrobaten』 1919年 リトグラフ   19.2×7.7  
6 P.クレー 『恐ろしい夢』 1919年 リトグラフ   20.1×13.6 版上
7 エルテ 『バラを持つ女』 1913年 水彩   26.3×19.8
8 恩地孝四郎 失題 1915年 ペン   18.1×13  
9 HERMANN PAUL LES ARTISTES DU LIVRE 5 1929年   Ed.700 26.5×20.5  
10 PIERRE BRISSAUD LES ARTISTES DU LIVRE 6 1929年   Ed.700 26.5×20.5  
11 MATHURIN MEHEUT LES ARTISTES DU LIVRE 7 1929年   Ed.700 26.5×20.5  
12 SYLVAIN SAUVAGE LES ARTISTES DU LIVRE 8 1929年   Ed.700 26.5×20.5  
13 DIGNIMONT LES ARTISTES DU LIVRE 9 1929年   Ed.700 26.5×20.5  
14

GEORGE BARBIER LES ARTISTES DU LIVRE 10 1929年   Ed.700 26.5×20.5  
15 LOBEL-RICHE LES ARTISTES DU LIVRE 11 1930年   Ed.700 26.5×20.5  
16

ANDRE-EDOUARD MARTY LES ARTISTES DU LIVRE 12 1930年   Ed.700 26.5×20.5  
17 GABRIEL BELOT LES ARTISTES DU LIVRE 13 1930年   Ed.700 26.5×20.5  
18 AUGUSTE BROUET LES ARTISTES DU LIVRE 14 1930年   Ed.700 26.5×20.5  
19 SIMEON LES ARTISTES DU LIVRE 15 1930年   Ed.700 26.5×20.5  
20 BERTHOLD-MAHN LES ARTISTES DU LIVRE 16 1930年   Ed.700 26.5×20.5  
21 LOUIS MORIN LES ARTISTES DU LIVRE 18 1930年   Ed.700 26.5×20.5  
22 PIERRE BONNARD LES ARTISTES DU LIVRE 19 1931年   Ed.700 26.5×20.5  
23 CHIMOT LES ARTISTES DU LIVRE 20 1931年   Ed.700 26.5×20.5  
24 LOUIS LEGRAND LES ARTISTES DU LIVRE 21 1931年   Ed.700 26.5×20.5  
25 PAUL JOUVE LES ARTISTES DU LIVRE 22 1931年   Ed.700 26.5×20.5  
26 JACQUES TOUCHET LES ARTISTES DU LIVRE 23 1932年   Ed.700 26.5×20.5  

出品番号9〜26までの作品は、パリのHenry Babou社から1928〜32年に刊行された当時の人気画家たちの挿絵集シリーズ"Les Artistes du Livre"からの出品です。
それぞれ限定700部刊行されましたが、挿絵画家たちに対する論評と書誌、そして代表的な作品を復刻して挿入しています。それぞれ額装できるように無綴で、ポショワール、銅版、ヘリオグラビュールなどによる美しい作品が多数入っています。
今回の展示では、原則として一作家1点を選んで額装しましたが、額装以外の作品も本とともにおつけしますので、たいへんお買得です。
最も評価の高い14番のバルビエは7点を額装、16番のマルティは2点を額装して展示します。

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展示風景


◆第129回企画展 アンディ・ウォーホル展
FROM THE PERSONAL COLLECTION OF Yutaka KURIYAMA

会期=2006年4月21日[金]〜5月13日[土]  *日曜・月曜・祝日は休廊
ポップ・アートの旗手としてますますその輝きを増すアンディ・ウォーホル(1928〜1987年)の版画作品と、故・栗山豊の蒐集した1960年代〜1990年代の新聞、雑誌、カタログ、ポスターなど資料300点を展示します。

■知る人ぞ知る史上最強のウォーホルのウォッチャーだった栗山豊は、1946年に和歌山県の田辺に生まれた。父が南方熊楠に師事したというから、後年の栗山の何でも蒐集癖は血かも知れない。文化学院を卒業後は、看板描きや、新宿、銀座、上野の街頭で似顔絵描きとして生計をたてていた。春になると全国の主要なお祭りに出かける、寅さんの如き生涯だった。栗山が60年代から集めた膨大なアンディ・ウォーホルに関する資料類は、 1983年、及び1996年の大規模な回顧展の折にはカタログ編集の重要な源泉となった。2001年2月22日街で倒れ、病院に運ばれるが誰にも看取られず死去、奇しくもウォーホルの命日だった。友人たちは天国でウォーホルに再会し、彼の似顔絵を描いているに違いないと噂している。




展示風景


■史上最強のウォーホル・ウォッチャーだった栗山豊さんについて、ブリキ彫刻で名高い秋山祐徳太子先生がその著書ですばらしい紹介文を書いていますので、秋山先生の了解を得て、再録させていただきます。
秋山祐徳太子先生は2002年に二玄社から「泡沫傑人列伝 知られざる超前衛」という快著(怪著)を出されました。有名無名50人の泡沫傑人が取り上げられ抱腹絶倒の人物記になっています。栗山豊さんもその一人。
もともとは「週刊読書人」に連載されたものですが、連載時には栗山さんは健在でした。単行本になったのは栗山さんの没後で、訃報の顛末を「それから」として加筆されています。
掲載した写真は同著からで、第二次都知事選のときの車内演説会のもので、右が栗山さん、左が秋山先生です(渡辺克己撮影)。

■秋山祐徳太子「泡沫傑人列伝 知られざる超前衛」より
栗山豊氏の巻
路上のウォーホル ”世界を点々とする画家”


 アメリカのポップ・アーティストの巨匠、アンディ・ウォーホルに魅せられ、アメリカまで会いに出かけていく。栗山豊さんは、そんな行動力を持った人である。だからと言って、そのことを自慢したり、名誉欲に生きようとすることは微塵もない。見上げたものだ。
 彼の本業は似顔絵描きである。知り合ったのは七〇年代のはじめ頃だが、その以前から似顔絵描きをつづけ、今も現役である。全国で開かれる祭りはもちろんのこと、あらゆるところにイーゼルを立て、じっとお客を待ちかまえている姿には、なかなかの風格がある。
 七九年、私の第二次都知事選の折りには、彼は自費で選挙ポスターを作ってくれた。金がかかるのでもちろん白黒である。それで充分、今や栗山さんの作品として、全国各地の美術館にコレクションされている。
 それはともかく、彼にはもうひとつ妙なる行動癖がある。全世界への旅に出ることである。旅をすること自体別段当たり前のことだが、それだけではない。彼は旅先から世界地図の絵葉書を送ってくる。そして、そこには毎回、赤い点がひとつだけ記してある。時候の挨拶も近況の報告も全く記されていないが、おそらく自分が今その場所に来ているという印なのだろう。「エアメール・アート」というものだが、しばらくすると、また同じような絵葉書が届く。ある時はヨーロッパから、またある時はアフリカ大陸の中央から。葉書サイズなので正確な場所ははっきりとしないが(おそらく本人もわかっていないのだろう)、世界を“点々”としながら似顔絵描きをつづけている、その足跡証明ということなのかもしれない。それでどうした、という気持ちにもなるのだが、来なければ来ないでやはり気にはなる。便りがあるうちは無事ということなのだから・・・・・・。
 今から七年ほど前、彼は交通事故の被害にあった。幸い一命はとりとめ、何ヵ月かの休養の後に、仕事を再開した。その頃、私が知り合いたちと酔っ払って新宿の街を歩いている時、客待ちをしている栗山さんに偶然出会った。酔っ払った友人が、「よう、画伯!」と大声で叫んだので、私はその友人をたしなめた。栗山さんの方は、照れくさそうに下を向いていた。我々は彼を尻目に、素早くその場を立ち去ることにした。そうすることが彼に対する礼儀ではないか、私にはそう思えたからだ。
 昨年の十月、私は、上野の森美術館の一角で展覧会を開いた。テーマは「岡倉天心の逆襲」というもので、天心のコスチュームを身にまとい、公園の中を歩いていると、何か明治を背負っている感じがした。そんな時のことである。ふと見ると、西郷さんの銅像へ向かう階段の途中に、栗山さんがいるではないか。驚いたことに、イーゼルに貼り付けられた有名人の似顔絵の中に、私の都知事選のポスターがある。すかさず私は彼に駆け寄り、岡倉天心の格好をした姿を描いてもらった。人だかりがして描きづらそうだったが、出来上がった絵は文句なしの名作だった。
 今年の夏、栗山さんは、友人の個展を訪れた際に突然倒れたという。救急車で病院に運ばれたが、血圧が異常に高く、しばらく危険な状態がつづいたらしい。それでも難は逃れ、再び現役に復帰、あちらこちらの祭りに出没している。
 そんな彼は、今でも私のことを「夜の東京都知事」といって慕ってくれている。感謝。
 似顔絵描きに徹する彼こそ、西郷どん、よか男でごあす。
 なお、栗山さんは、KKSKIPより『似顔絵ストリート』という本を出しているので、一読あれ。
 敬服満点。(二〇〇〇・一一・一〇)

◎それから◎
 栗山豊さんの訃報が入った。まさかとは思ったが、何度も死線をきり抜けていたので予感はあったものの、その後連絡が取れず、気にしていたのだが。彼は確か和歌山県出身で、時々田舎からカラフルでポップなカマポコを送ってきてくれた。新宿にあった彼のマンションに泊めてもらったこともあった。板橋の葬儀場に行くと主だった友人たちが来ていた。なんでも彼は身内が無く、いとこの女の人が世話をしていたという。赤羽の方の病院に入っていたというのだが、我々も全く知らなかった。色々な事情があったと思うと胸が痛む。この日はなんと彼が尊敬してやまないアンディ・ウォーホルの亡くなった日と同じだという。二〇〇一年二月二十二日、世紀を越えた劇的な日である。帰りに白夜書房の末井昭さんたちと高田馬場で彼を偲んだ。酒が入って誰かが言った。葬儀場で、栗山さんとどこかのおばさんを間違えて、手を合わせてしまったそうだ。私は遅れて立ち会えなかったのだが、あまりにも似ていたという。なんともおかしな話だった。集まった人数は少なかったが、心温まるものだった。後日、青山の360°という画廊で彼を思う別れの会が行なわれた。彼が作ってくれた都知事選のポスターは遺作として永久に輝いている。今頃はウォーホルの似顔絵を描いているだろう。
 ヨウ! 男・栗山豊、見事な人生だった。
 合掌。




[ウォーホル展の感想1]
最近mixiというのに入り、ネットでの発信をしています。紹介者がないと参加できないので、あまり乱暴なやりとりがない、安心です。
今、開催中のウォーホル展に関しても、mixiで見て来廊される方が少なくない。その方が、またネット上の日記にいろいろ感想を書いてくださっています。とても面白いので、ご当人の許可を得て、転載させていただきます。編集は一切していません。

まずは「Aさんの日記」から。

場所は青山にある「ときの忘れもの」(ステキ!)というギャラリー。
青山通り・外苑西通りと、でっかい通りから
ちょこっとはいったところにあります。
あったかいかんじのとても居心地の良い場所でした。

ドアをあけると壁前面記事!
机の上も記事!
おおおお、こんないっぺんにウォーホルの記事をみることなんて
なかなかないでしょ。

今回展示されていたたっくさんの記事やら切り抜きは、
栗山豊さんという方のもの。
似顔絵かきとして生計をたてていた寅さんのような人だったそうです。
しっかしファイルするとものすごい量の記事。記事。記事。
どんだけ読んでも追いつかず結局3時間も1人で居座ってしまった…
もう、すごいです。量が。
愛かんじました。

エンパイアステートビルって映画(あのビルだけ8時間撮っている)は、
日本人が京都の庭をじいいいっと見る様子からひらめいたんだそうな。
なるほど。
フェイスいっぱいの時計かっちょよかった…300万。
なんでもっと早くに替え玉は気づかれなかったのか。
ポップな食器がいっぱいの棚。
個人個人で印象が違う人。
冷静なのかあったかいのか無邪気なのか計算高いのか。
ウォーホル日記よみたいな。

あー満足満足な3時間。
お茶までだしてもらっちゃって…お世話になりました。
とても良い時間が過ごせました。
まだ書きたいのに文章になりません。
まぁいいや!




[ウォーホル展の感想2]
「Kさんの日記」から

それから青山通りをてくてく歩くこと数分。ハーゲンダッツの角を右折して、小さい階段を降り、ギャラリー「ときの忘れもの」に到着。

ライブハウス青山マンダラには、もう数え切れないくらい行っているのに、そのすぐ奥にあるグレイの四角い建物がギャラリーだったとは、ずっと知らなかったのでした。

目的は、先日日記に書いた「アンディ・ウォーホル展」です。
↓その日記(略)

ソリッドな印象の建物に、ぬくもりのある木のとびら。そこをそっと開けると、両側の壁じゅうに、ウォーホル収集家であった栗山豊氏のコレクションである雑誌の切り抜きやちらし、ポスターなどのカラーコピーがびっしりと展示されていました。

さあでは端から行ってみようか、と思うとまもなく、ギャラリーのご主人と思われる方が、「どうぞお荷物を椅子においてください」と声をかけてくださり、お言葉に甘えてそうさせて頂いてまた壁に向かうと、お茶を用意してくださいました。静かなるご好意に、ギャラリー慣れしていない緊張した面持ちの私は心なごんだのでした。

プレゼントに添えて渡してしまったポストカードの、ドクロの絵柄がどこかに見ることはできないかな、という思いを持ってこの展示を訪ねたのですが、

入ってすぐ左の壁に、みつけました。

1990年6月のメンズノンノに掲載されたリーバイスジーンズの広告記事の写真。 リーバイスを履き、腰掛けたウォーホル氏の背後に、私が持っていたのとは色違い、若干の構成違いの、大きなドクロリトグラフが飾られていました。

それから少しづつ、壁一面の切り抜きを見ていきました。

私は、アンディ・ウォーホルという名前、そしてキャンベルスープの缶をはじめとする数々の作品の絵柄、パーティでさまざまな有名人とともに居る姿の写真、などなどを目にしてきてはいましたが、実のところどういうひとだったかはよく知りませんでした。

見覚えのある資生堂の広告(ジャン・コクトーふうな天使の線描き)や、TVで見たことのあるエログロな恐怖映画も、彼の手によるものと初めて知りました。

切り抜きの記事は、1960年代から2001年の死亡記事まで、それもアート、カルチャー雑誌もあれば、大衆誌もあり、展覧会の小さな告知までものすごい量。壁に張り切れない分は、A3サイズのファイルに入ってそれはテーブルの上に高く積まれています。

目にとまった記事を読んでいくだけでも、私が知らなかった、アンディ・ウォーホルの日常や、人間関係、思考・哲学、趣味、よりどころとしたもの、などがちょっとづつ見えて、大変興味深いものでした。

パーティ好きであっても、その場ではほとんどしゃべらず、他愛ない言葉で相槌を打つだけ。でも、そんなふうに見聞きしたことが後にウォーホル日記としてまとめられ公表されると、ものすごいゴシップの山だったそうです。

とあるインタビュアーは、ウォーホルがつぶやくような声で「グレイト」「ファンタスティック」「ああそう」としか言わず、そのために相手は自分がしゃべらずにいられない状況になる、という様子を見てインタビューの方法を学んだよ、と書いていました。

その一方で、とある日本人記者がいわく、自分のアメリカン・コミックコレクションについてこぼすと、とたんにウォーホルは目の色をかえておしゃべりになったと。コミックフェアに2ドルのチケットを買って普通に見にいくようなコミックオタクだったらしいです。

印象に残った記事のひとつは、「僕が、わたしたち、というときそれは、僕とテープレコーダーのことを意味するのだが、それを理解してもらうのに努力が必要だった。今は、わたしたち、というときそのパートナーはテレビ」というような発言。

ひとは他人の言うことでどういう存在か決まってしまう、と考えていて、大勢の個性的な人物に囲まれていながらほんの少しのひとにしか心を許すことなく、商業的な活動は芸術だ、だから?(So what?) とクールな姿勢を示し、 相棒はTVだけ(ってことはないんだろうけれど。イーディというミューズや、恋したたくさんの美しい男性もいたみたいだから。)、

ただ黙って広告やリトグラフを作っているだけでまわりがどんどん自分を注目のまとのひとにしていくのを眺めて楽しんでいたのかしら、と、ちょっと愉快な気持ちになりました。

何の雑誌に掲載されたものか忘れてしまいましたが、愛らしいイラストでつくられたウォーホルをめぐる人間相関図が楽しかったです。

そんななかのひとりである、アーティスト、ジャン・ミッシェル・バスキア。
http://www.az-art.net/poster/a-jean-michel-basquiat.html

バスキアについては、展覧会を見たことがあり、それはちょうど、27歳という若さで他界した彼の伝記映画「バスキア」も公開されていたときでした。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005FXMM/249-6221984-1969143

その映画も見にいったんですけど、映画によりますと、バスキアは、ウォーホル(映画ではデヴィット・ボウイが演じる)がよく立ち寄るカフェに待ち伏せして、ある日ウォーホルをみつけると、つかつかとテーブルに近づいて、いきなり自分の描いたポストカード数枚を目の前に出し「買ってください」と言う。そこからウォーホルとのつながりが始まる、というエピソードがあったと思います。

今日はそんなことも思い出して、バスキアの描いた恐竜が胸の中央に小さくプリントしてあるTシャツを着て行きました。 写真右。
写真中央は、ウォーホルとバスキア。

そういえば。山と積まれたその他の切り抜きファイルのなかに、栗山豊さんが撮ったウォーホルの顔のアップ写真と、栗山さんのコメントが載った記事があったのですが、栗山さんは、ウォーホルのファクトリー(アトリエ、ではなくウォーホルはこう呼んでいた)前にあるピザ屋で食事しながら待ち伏せて、ウォーホルがスタッフ数人と出てきたところで店を出、近づいて写真を撮ったと。

ウォーホルのドクロ絵柄のポストカードについて妹と会話したことがきっかけでしたが、この栗山豊さんの膨大なコレクションそしてそれらを展示してくださったギャラリーがあったことでそこへ足を運び、上にも書いたように、名前とキャンベルスープ缶を始めとするリトグラフ作品は見ていても、知ってたようで知らなかったアンディ・ウォーホルの一端をかじることができました。

また、記事とその文章表現などを通して、そのそれぞれの時代の状況が見えたり、そんないろいろものぞけます。
(展覧会の広告記事の片隅に、「今夜、日本テレビ11PMに生出演します!」なんていう告知も。)

時間が許せばまたギャラリーを訪ねて、ファイルの中をさらにじっくり見て読んでみたいです。



[ウォーホル展の感想3]
「Tさんの日記」から

いまでこそ「ウォーホル」という表記でほぼ統一されていますが、長い間、「ウォーホール」と「ウォーホル」が混在していました。1980年代前半から「ウォーホル」が定着してきたように記憶しています。それまでは、ニュースとして接するひとは「ウォーホール」、アートとして接するひとは「ウォーホル」、そんな感じではなかったでしょうか。
そんな、たくさんの「ウォーホール」や「ウォーホル」時たま「ウォホール」に、<ときの忘れもの>で再会することができました。

「アンディ・ウォーホル展 〜FROM THE PERSONAL COLLECTION OF Yutaka KURIYAMA」を観てきました。(28日、東京・南青山のときの忘れもの、4/21-5/13)

              **********

背後にある豊かさを、地面の下の根の長さと太さを感じさせる展覧会でした。
それは、展示されなかった膨大な資料の存在を想像させることからきていることもあるでしょうし、アンディ・ウォーホルがいまだにたくさんの“読み”を受け付けながら消費されることのない深さや広がりを持っているからでもあるでしょうし、今でこそ冷たく“資料”と呼ばれているモノを憑かれたように蒐集した故・栗山豊(ぼくにとって初めての名前でした)氏に対する画廊主“ときの忘れもの亭主”さんの想いからでもあるでしょう。

「トリシャ・ブラウン ドローイング展」(4/7の日記参照)の時はグリッド状に並んだ余白の多い、“冷静”が仕切った展示でしたが、今回は出入口廻りの壁、造り付け家具の上、テーブルの上と資料で埋め尽くされ、ウォーホルの作品が肩身の狭い想いをしているような、“情熱”が仕切った展示となっていました。
そんな中、ファイルで提供された資料もありました。コピーで取り直された資料と、もとのままの資料の入ったファイルからは、時間をかけて朽ちていく紙のにおいがしました。ファイルをめくっていて、一枚の見たことのないウォーホルが写っている写真(のコピー)を見つけました。栗山氏が撮った写真でした。

栗山氏とウォーホルが初めて会ったのは、1977年、栗山氏がウォーホルの“ファクトリー”前でパパラッチよろしくカメラのシャッターを切るという行為によるものだったらしいですが、その時の写真がファイリングされていたのです。

ウォーホルは、貨幣や言語や数や商品のように、流通・交換・消費に対し、作品のみならず自分の身をも供してきました。それによって内面や意味という物語に絡め取られることなく、表層に留まり続け、結果、共同体と共犯関係を結ぶ必要もありませんでした。
写真に撮られる時も、ウォーホルは大量生産品・大量消費財としての自分を常にプロデュースしていたと思います。
しかし、ぼくにはファイルの中にあった栗山氏の撮った写真が、唯一、そのようなウォーホルを裏切っているように見えました。無いはずの内面が写っているように見えました。消費されたくない何かが写っているように見えました。そして、錯覚かもしれません、しかし、ウォーホルと切り結んだ栗山氏が一瞬見えたような気がしました。

              **********

竪琴の名手オルフェウスは黄泉の国から妻を連れ帰る途上、冥界の王ハデスの命令に背いて妻を振り返ります。振り返る前まではオルフェウスの前方に確かに未来も過去もありました。しかし、振り返った途端、妻もろとも未来も過去も失います。オルフェウスには絶望が、、、絶望という内面が残ります。この内面に呼応するように共同体側に救済というシステムが用意されます。オルフェウスには絶望が残りましたが孤独ではありません。

ぼくのウォーホル観は次のようなものです。
ウォーホルも振り返った後のオルフェウス同様、未来も過去もない局面を生きています。しかし、絶望をうちに宿すことはしません。内面を豊かにすることはウォーホルのテーマではありませんから。
ウォーホルは「永遠に変転する、永遠に新しい幻影」(ニーチェ『悲劇の誕生』)である今を、決して救済されることのない破壊的な孤独感のうちに生きたひとだと思います。

「芸術家になることなんか簡単さ。ぼくのようにやればいいのさ」っていうウォーホルの言葉を信じてはいけません。孤独を前にして、絶望という安易な解決策に走ってヤケドを負うくらいで済めばいいのですが・・・。



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