1974年5月に現代版画センターとして正式に発足し、会員を募った。
会費は当初は年3,000円、後に4,000円とした。
会員台帳に基づき、会員更新手続きが行われた。
1976年12月に綿貫不二夫が毎日新聞社を退職して、独立して法人化(株式会社)するまでは、任意団体であり、経理関係はすべて毎日新聞の子会社の管轄化にあった。
会員への毎月の通信はコピーも使われたが、多くはガリ版だった。
渋谷の事務局にはコピー機はなく、どうしても必要な場合は、綿貫が夜中に本社(毎日新聞社)に行き、販売局のコピー機を使用した。
下記の会員宛の書類は、ガリ版である。
創立メンバーの橋本凌一さん(現・六月社代表)は早稲田の学生運動以来のガリ版の名手で、たった一人で夜中2000枚からのガリ版印刷をこなした。

更新手続き書類と、会員証は物持ちの良い社長(旧姓・池田)が保管していたものです。
会員証のマークはミミズクですが、創立時に関西でただ一人エディション制作を引き受けてくださった吉原英雄先生によるものです。


会費は当初は年3,000円、後に4,000円とした。
会員台帳に基づき、会員更新手続きが行われた。
1976年12月に綿貫不二夫が毎日新聞社を退職して、独立して法人化(株式会社)するまでは、任意団体であり、経理関係はすべて毎日新聞の子会社の管轄化にあった。
会員への毎月の通信はコピーも使われたが、多くはガリ版だった。
渋谷の事務局にはコピー機はなく、どうしても必要な場合は、綿貫が夜中に本社(毎日新聞社)に行き、販売局のコピー機を使用した。
下記の会員宛の書類は、ガリ版である。
創立メンバーの橋本凌一さん(現・六月社代表)は早稲田の学生運動以来のガリ版の名手で、たった一人で夜中2000枚からのガリ版印刷をこなした。

更新手続き書類と、会員証は物持ちの良い社長(旧姓・池田)が保管していたものです。
会員証のマークはミミズクですが、創立時に関西でただ一人エディション制作を引き受けてくださった吉原英雄先生によるものです。


コメント