尾崎正教事務局長・夏の全国行脚
前半・1976年7月21日(鶴岡)~8月11日(盛岡)
後半・1976年8月17日(小倉)~8月29日(豊岡)
1974年創立時から「会員」「支部」によって版画の普及を図ることが現代版画センターの基本的考えで、それは倒産に至るまで不変だった。
会員を増やし、支部網をつくるための方法としては、「富山の薬売り」と尾崎事務局長が喝破したように、ひたすら全国を版画をもって行脚することだった。
単発の企画(展覧会、オークション、講演会など)には、事務局から必ずスタッフが現地に赴いた。
長期間にわたる「版画普及の行脚」は事務局長の尾崎先生(本職の小学校の教師だった)と、事務局次長(のちに代表)の綿貫が分担して行なった。
尾崎先生は現役の教師だったため夏休みしか使えなかったが、綿貫は夏もキャラバンを組み、特に冬(12月)は年末の資金繰りを兼ねて、全国を隈なく行脚した。
創立の1974年夏から、1984年までそれは続けられた。
幸いにも1976年の夏の全国行脚の日程表(ガリ版)が残っていたので、掲載する。
1974年夏、1975年夏につづく尾崎先生の「三たび事務局長全国遊説の行脚」である。




前半・1976年7月21日(鶴岡)~8月11日(盛岡)
後半・1976年8月17日(小倉)~8月29日(豊岡)
1974年創立時から「会員」「支部」によって版画の普及を図ることが現代版画センターの基本的考えで、それは倒産に至るまで不変だった。
会員を増やし、支部網をつくるための方法としては、「富山の薬売り」と尾崎事務局長が喝破したように、ひたすら全国を版画をもって行脚することだった。
単発の企画(展覧会、オークション、講演会など)には、事務局から必ずスタッフが現地に赴いた。
長期間にわたる「版画普及の行脚」は事務局長の尾崎先生(本職の小学校の教師だった)と、事務局次長(のちに代表)の綿貫が分担して行なった。
尾崎先生は現役の教師だったため夏休みしか使えなかったが、綿貫は夏もキャラバンを組み、特に冬(12月)は年末の資金繰りを兼ねて、全国を隈なく行脚した。
創立の1974年夏から、1984年までそれは続けられた。
幸いにも1976年の夏の全国行脚の日程表(ガリ版)が残っていたので、掲載する。
1974年夏、1975年夏につづく尾崎先生の「三たび事務局長全国遊説の行脚」である。




コメント