「第14回サンパウロ・ビエンナーレ」
会期:1977年10月1日~11月30日
XIV BIENAL DE SÃO PAULO
1 October - 30 November 1977
president Oscar P. Landmann
art and culture council Alberto Beuttenmüller, Clarival do Prado Valadares, Leopoldo Raimo, Lisetta Levi, Marc Berkowitz, Maria Bonomi and Yolanda Mohalyi
artists 302 of 36 countries
artworks 476
venue Ciccillo Matarazzo Pavilion (Bienal Pavilion)
第14回サンパウロ・ビエンナーレの日本人作家の参加は磯崎新、粟津潔、工藤哲巳、松澤宥の4人でコミッショナーは針生一郎だった。
磯崎新は「空洞としての美術館Ⅰ」「空洞としての美術館Ⅱ」の2点の現代版画センターのエディションを出品した。
「空洞としての美術館Ⅰ」
1977年 シルクスクリーン+ドローイング+立体(キャンバス) 119×480cm Ed.5
「空洞としての美術館Ⅱ」
1977年 シルクスクリーン+ドローイング+立体(キャンバス) 119×360cm Ed.5
刷りは2点ともに石田了一
*群馬県立近代美術館と秀巧社をモチーフにした巨大な作品で、現代版画センターの11年余の全エディションの中でもっとも大きな作品だった。
当時の石田工房にはそれだけのスペースはなく、神楽坂にあった磯崎新アトリエを一時的に休みにし、製図台その他を窓際に押しやり、刷り台を急造して徹夜に次ぐ徹夜で制作した。
サンパウロに空輸する前に東京セントラルアネックス開館記念「今日の造型 建築+美術」展でお披露目された。

<はじめて版画をつくったのは1977年で、もちろん版画センターのすすめによるものだ。建築家の私に版画をつくらせるなど、どこで思いついたのか、つい聞きそびれてしまったが、それ以来深入りしてしまいつつある。
有難かったのは、サンパウロ・ビエンナーレの日本代表に突然えらばれながら、どういうメディアで表現しようか、と迷っていたときのことだ。綿貫さんが、それも版画でやったらどうですか、とすすめてくれた。だが、大きい展覧会だから作品も大きくなりますよ、というと、いいですよ、世界最大の版画にしたらいい、と平然たるものだった。必ずしも彼に成算あってのことだったとも見うけなかったが、その気迫にたよって、立体と組合わさった版画ができた。とにかくばかでかく、こんなあほらしく手のかかる仕事はめったに手がける人はいないだろう。(以下略)
*『堀内正和・磯崎新展ー西田画廊開廊記念展図録』より(1982年 奈良・西田画廊刊)>
●国際交流基金のカタログ




会期:1977年10月1日~11月30日
XIV BIENAL DE SÃO PAULO
1 October - 30 November 1977
president Oscar P. Landmann
art and culture council Alberto Beuttenmüller, Clarival do Prado Valadares, Leopoldo Raimo, Lisetta Levi, Marc Berkowitz, Maria Bonomi and Yolanda Mohalyi
artists 302 of 36 countries
artworks 476
venue Ciccillo Matarazzo Pavilion (Bienal Pavilion)
第14回サンパウロ・ビエンナーレの日本人作家の参加は磯崎新、粟津潔、工藤哲巳、松澤宥の4人でコミッショナーは針生一郎だった。
磯崎新は「空洞としての美術館Ⅰ」「空洞としての美術館Ⅱ」の2点の現代版画センターのエディションを出品した。
「空洞としての美術館Ⅰ」
1977年 シルクスクリーン+ドローイング+立体(キャンバス) 119×480cm Ed.5
「空洞としての美術館Ⅱ」
1977年 シルクスクリーン+ドローイング+立体(キャンバス) 119×360cm Ed.5
刷りは2点ともに石田了一
*群馬県立近代美術館と秀巧社をモチーフにした巨大な作品で、現代版画センターの11年余の全エディションの中でもっとも大きな作品だった。
当時の石田工房にはそれだけのスペースはなく、神楽坂にあった磯崎新アトリエを一時的に休みにし、製図台その他を窓際に押しやり、刷り台を急造して徹夜に次ぐ徹夜で制作した。
サンパウロに空輸する前に東京セントラルアネックス開館記念「今日の造型 建築+美術」展でお披露目された。

<はじめて版画をつくったのは1977年で、もちろん版画センターのすすめによるものだ。建築家の私に版画をつくらせるなど、どこで思いついたのか、つい聞きそびれてしまったが、それ以来深入りしてしまいつつある。
有難かったのは、サンパウロ・ビエンナーレの日本代表に突然えらばれながら、どういうメディアで表現しようか、と迷っていたときのことだ。綿貫さんが、それも版画でやったらどうですか、とすすめてくれた。だが、大きい展覧会だから作品も大きくなりますよ、というと、いいですよ、世界最大の版画にしたらいい、と平然たるものだった。必ずしも彼に成算あってのことだったとも見うけなかったが、その気迫にたよって、立体と組合わさった版画ができた。とにかくばかでかく、こんなあほらしく手のかかる仕事はめったに手がける人はいないだろう。(以下略)
*『堀内正和・磯崎新展ー西田画廊開廊記念展図録』より(1982年 奈良・西田画廊刊)>
●国際交流基金のカタログ




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