海の風
難波田龍起
さわやかな海の風が吹く。
さっきから私は海に消えたFのことを想っていた。彼が下塗りしたまま残していた30号のキャンバスに、いく本かの線をひいて、画室においてきたのが気になりだした。あの線はどう展開するのだろうか。海底のイメージはどう捕えられるものか。
Fが一ヶ月余をすごした海底の日々はどうであったろうか。彼は現実の生活に絶望したわけではなかった。制作の困難な壁にぶつかったわけでもなかった。しかし九州の旅は、苛酷な戦争の終りの日を思いおこさせたのにちがいない。そして阿蘇山の噴煙。
幼い日、彼のみつめたものは何であったろうか。ざら紙に色チョークで描きなぐった火をふく戦車。舞い落ちる戦闘機。人間の原罪のしるしをはっきり見たはずである。
彼は時に友人に激烈な口調で世界の終りを語っていたが、いそぐことはないよ、あと十年は待ってくれよと、友人からそんな言葉が返ってきたと、笑って受話器をおいた彼。
若者は追いかけられ、追いつめられて、走りまわったりするが、自己を見失うまいと必死にたたかっているのだ。
海は暮れてゆく。海はいっさいを包んで、遠く去ってゆく。あの日のように。私は突きはなされたような空しさを感じながら、花束を海にちらす。
あるいは、彼はもう海底にいないはずだ。さわやかな風にのって、ひょうひょうと、どこかを遊泳しているのかもしれない。
さあ画室に戻ろう。
たちまち青色が甦ってくる。Fも好きだった青だ。私は青色をキャンバスに塗りこめよう。
若しかすると、奇跡がおこって、Fは復活するかもしれない。大きな貝殻にのって、きぜんとして、ほこり高く、そして海のきらめく古城について私に話してくれるかもしれない。
さわやかな海の風が吹く。

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