2月22日のアンディ・ウォーホルの命日に書いた通り、史上最強のウォーホル・ウォッチャーだった栗山豊さんの収集した膨大な資料のほんの一部ですが、4月21日からの「アンディ・ウォーホル展」で公開します。アンディ・ウォーホルについては、説明するまでもありませんが、栗山豊さんについては詳しく紹介せねばなりますまい。
最もふさわしい紹介文をブリキ彫刻で名高い秋山祐徳太子先生が書いています。
早速電話して、ホームページで全文を転載する許可をいただきました。
秋山祐徳太子先生は2002年に二玄社から「泡沫傑人列伝 知られざる超前衛」という快著(怪著)を出されています。
この本、今回の展覧会でも並べて売ります(1575円)が、有名無名50人の泡沫傑人が取り上げられ抱腹絶倒の人物記になっています。栗山豊さんもその一人。
もともとは「週刊読書人」に連載されたものですが、連載時には栗山さんは健在でした。単行本になったのは栗山さんの没後で、秋山先生がその訃報の顛末を「それから」として加筆されています。
掲載した写真は同著からで、第二次都知事選のときの車内演説会のもので、右が栗山さん、左が秋山先生です(渡辺克己撮影)。
秋山祐徳太子「泡沫傑人列伝 知られざる超前衛」より
栗山豊氏の巻
路上のウォーホル ”世界を点々とする画家”
アメリカのポップ・アーティストの巨匠、アンディ・ウォーホルに魅せられ、アメリカまで会いに出かけていく。栗山豊さんは、そんな行動力を持った人である。だからと言って、そのことを自慢したり、名誉欲に生きようとすることは微塵もない。見上げたものだ。
彼の本業は似顔絵描きである。知り合ったのは七〇年代のはじめ頃だが、その以前から似顔絵描きをつづけ、今も現役である。全国で開かれる祭りはもちろんのこと、あらゆるところにイーゼルを立て、じっとお客を待ちかまえている姿には、なかなかの風格がある。
七九年、私の第二次都知事選の折りには、彼は自費で選挙ポスターを作ってくれた。金がかかるのでもちろん白黒である。それで充分、今や栗山さんの作品として、全国各地の美術館にコレクションされている。
それはともかく、彼にはもうひとつ妙なる行動癖がある。全世界への旅に出ることである。旅をすること自体別段当たり前のことだが、それだけではない。彼は旅先から世界地図の絵葉書を送ってくる。そして、そこには毎回、赤い点がひとつだけ記してある。時候の挨拶も近況の報告も全く記されていないが、おそらく自分が今その場所に来ているという印なのだろう。「エアメール・アート」というものだが、しばらくすると、また同じような絵葉書が届く。ある時はヨーロッパから、またある時はアフリカ大陸の中央から。葉書サイズなので正確な場所ははっきりとしないが(おそらく本人もわかっていないのだろう)、世界を“点々”としながら似顔絵描きをつづけている、その足跡証明ということなのかもしれない。それでどうした、という気持ちにもなるのだが、来なければ来ないでやはり気にはなる。便りがあるうちは無事ということなのだから・・・・・・。
今から七年ほど前、彼は交通事故の被害にあった。幸い一命はとりとめ、何ヵ月かの休養の後に、仕事を再開した。その頃、私が知り合いたちと酔っ払って新宿の街を歩いている時、客待ちをしている栗山さんに偶然出会った。酔っ払った友人が、「よう、画伯!」と大声で叫んだので、私はその友人をたしなめた。栗山さんの方は、照れくさそうに下を向いていた。我々は彼を尻目に、素早くその場を立ち去ることにした。そうすることが彼に対する礼儀ではないか、私にはそう思えたからだ。
昨年の十月、私は、上野の森美術館の一角で展覧会を開いた。テーマは「岡倉天心の逆襲」というもので、天心のコスチュームを身にまとい、公園の中を歩いていると、何か明治を背負っている感じがした。そんな時のことである。ふと見ると、西郷さんの銅像へ向かう階段の途中に、栗山さんがいるではないか。驚いたことに、イーゼルに貼り付けられた有名人の似顔絵の中に、私の都知事選のポスターがある。すかさず私は彼に駆け寄り、岡倉天心の格好をした姿を描いてもらった。人だかりがして描きづらそうだったが、出来上がった絵は文句なしの名作だった。
今年の夏、栗山さんは、友人の個展を訪れた際に突然倒れたという。救急車で病院に運ばれたが、血圧が異常に高く、しばらく危険な状態がつづいたらしい。それでも難は逃れ、再び現役に復帰、あちらこちらの祭りに出没している。
そんな彼は、今でも私のことを「夜の東京都知事」といって慕ってくれている。感謝。
似顔絵描きに徹する彼こそ、西郷どん、よか男でごあす。
なお、栗山さんは、KKSKIPより『似顔絵ストリート』という本を出しているので、一読あれ。
敬服満点。(二〇〇〇・一一・一〇)
◎それから◎
栗山豊さんの訃報が入った。まさかとは思ったが、何度も死線をきり抜けていたので予感はあったものの、その後連絡が取れず、気にしていたのだが。彼は確か和歌山県出身で、時々田舎からカラフルでポップなカマポコを送ってきてくれた。新宿にあった彼のマンションに泊めてもらったこともあった。板橋の葬儀場に行くと主だった友人たちが来ていた。なんでも彼は身内が無く、いとこの女の人が世話をしていたという。赤羽の方の病院に入っていたというのだが、我々も全く知らなかった。色々な事情があったと思うと胸が痛む。この日はなんと彼が尊敬してやまないアンディ・ウォーホルの亡くなった日と同じだという。二〇〇一年二月二十二日、世紀を越えた劇的な日である。帰りに白夜書房の末井昭さんたちと高田馬場で彼を偲んだ。酒が入って誰かが言った。葬儀場で、栗山さんとどこかのおばさんを間違えて、手を合わせてしまったそうだ。私は遅れて立ち会えなかったのだが、あまりにも似ていたという。なんともおかしな話だった。集まった人数は少なかったが、心温まるものだった。後日、青山の360°という画廊で彼を思う別れの会が行なわれた。彼が作ってくれた都知事選のポスターは遺作として永久に輝いている。今頃はウォーホルの似顔絵を描いているだろう。
ヨウ! 男・栗山豊、見事な人生だった。
合掌。
以上が全文です。
すばらしい追悼文になっています。
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