社長は趣味で本の製本を学んでいる。一年に一冊、好きな本を自分のデザインで装丁している。何を隠そう、あの栃折久美子先生の孫弟子である。
その社長が「紙魚の手帳」という小さな雑誌を愛読している。
毎号、出版文化の縁の下を支える職人やデザイナーのことを丹念に記録し、伝え続けてきたミニコミ誌である。
日本デザインの開拓者たち、太田英茂、登村ヘンリー、原弘、高橋錦吉、祐乗坊宣明、奥山儀八郎、新井泉らの足跡をたどり、その業績を顕彰したことは大きな功績である。

<1974年4月、「E+D+P」の誌名で出版表現の研究誌として創刊しました。名称の由来は、E=編集、D=デザイン、P=印刷の各セクションで働く人たちが、協力「+」することで良い本を造ろうという趣旨で、エディトリアル・デザイナーの多川精一さんが有志の友人と計画、創刊したものです。50号まで発行後、1999年3月に「紙魚の手帳」と改題後は、内容も一般読者向けに変更しました。>同37号の「お知らせ」より。

文章では戦争を防げませんがその愚行は書けます。デザインや写真で戦争をやめさせることは出来ませんが、そのはかなさを表現することは可能です。・・・・・>同37号の「紙魚のあしあと&つぶやき」より。

つまり、多川精一さんの個人雑誌といっていい。多川さんは戦時中に原弘の助手として東方社に入社し「FRONT」の制作に参加。戦後は「岩波写真文庫」「太陽」「カラーガイド」「季刊銀花」をはじめ多くの書籍雑誌のデザインで活躍されました。

採算度外視の雑誌を、80歳をこえて刊行し続ける志の高さとその生き方を私たちはひそかに尊敬しています。
その多川さんから、先日最新号37号とともに編集発行人の「辞任のご挨拶」が送られてきました。その文面は痛切です。
何事によらず創るより終わる事のほうが難しいと言われます。このことを今しみじみと感じていますが、散るサクラのようにはいかなくても、多くの休廃刊雑誌のように無言で消えることだけはしたくないと思いました。

ご自身の年齢、気力、体力の減退、赤字補填の努力の限界などを、「熟慮の末決断」されたようです。
老後を迎えてこれからどう生きようと悩む私達にとってもひとごとではありません。

多川さん、ほんとうにご苦労さまでした。
これからもお元気で!EDP14号