写真展DM








 Deformity is real and natural.という言葉がガンガンと、いつまでも、暴力的に頭に響き渡っていた。
そこで岡崎京子の「へルター・スケルター」の連想をしてしまう自分は、なんて平凡なんだろうと思ってしまったけど、仕方がない。
あの暁の天使が、ガンガン杖を振り回したもとに集まったものたちに囲まれていたのだから。
 7日、「Eros&Khaos , The Photgraph Collection of Mr.X」展を見た。
五味彬の『Yellows』『村上麗奈』は、実はノーマルな肉体は奇形だらけだということを見せ付けてくる。
奇形というと語弊があるけれども、私たちが自分でそう在りたいと願う形とはかけ離れているし、正直それを美しいという人がいるとしたら、それは何らかの歪んだモラルのフィルターの持ち主だと思う。片方の乳房は奇妙にうなだれ、腰は胸に比べて大きく張り出し、腕は枯れ木のようにひょろ長く、湾曲した股下の生み出す、奇妙な空間。
自然とは人間の自意識にとってはコンプレックスの塊だ。
対して、ハーブ・リッツ『Three Male Torsos』「Dan&Fred」、イリナ・イオネスコの『Eva2』『Nude』は、憧れの肉の形をしている。つまりは問答無用に美しい身体。でも、どうだろう。その美しい輪郭を突き破ろうとしてくるこのものすごいテンションは。その奥底をひっぺがしたら、またそこには奇形がねむってるんじゃないか、いやそれ以上に禍々しいものが牙を顰めているんじゃないか。美しいということ、それには金と時間、あるとあらゆる肥大する欲望を膨大に不自然なまでに飲み込んで、破裂する寸前まで矯正され続ける奇妙な果実のことだ。
 Beauty is Deformity.その二つの世界を繋いでいるのがジョエル=ピーター・ウィトキン『Anti-Christ』ロベール・ドアノー『Geoges Braque』の2点のような気がした。ネガとポジのように対照的なこの2枚の放つ強烈な静けさは、この逆方向のテンションのベクトルの極北と極南、絶妙なバランスの上に静止している。
特に初めて目にするウィトキンは、人を跪かせてやまないような、清冽な力がある作品だった。
透明感のあるシルバープリント群の黒の中、ウィトキンの黒だけには色が在る。
それは存在の肯定の色。
「毒を、闇を否定するな、それはいつも共に在った。だから、これからも共に在り続ける。」
すべてのあらゆる暴力も闇も矛盾も悲哀も残酷も、それは世界の反対側のそのままの姿だ。
そして、すべてのあらゆる喜びも幸せも光も幸福も、また世界のこちら側にあるそのままの姿だ。
どちらをも否定するな。それこそは、冒瀆である、と語りかけてくる。
全てをつきぬけてきたひとが持っている気負わない視線だと思った。
それに出会うことができて良かった。在ることをゆるされれば、また今日も歩いてゆける。
 その肯定の静けさに引き込まれている内に、ふと後頭部に視線を感じて振り向いた。
フランセス・マーレイの『Twins/ Bed』の双子のひとり。
影に覆われてじっとこちらを透かし見ている。
艶かしく深度のある、陰半陽の眼差しをもつ彼女を見ながら、「やっぱりね。そこにいたのですか。」とまだ見ぬX氏にちょっと挨拶をしてみた。
ウロボロスの蛇を追っかけているんですね。ルシフェル。
次はどこへ蛇を探しにいくおつもりですか?
         (おだぎり ゆう)

写真展1




*「X氏写真コレクション」2006年9月6日~9月9日

*画廊亭主敬白/ときの忘れものの展覧会の<展評>をお客様に書いていただこうと思いついたのは、ブログやMIXIに日々書き込まれる文章の圧倒的な迫力を知ってからだった。
いわゆる美術ジャーナリズムが衰退して久しいが、あらゆる情報がフラット化した今、「書きたい」という人々のエネルギーは、ネットを駆け巡っている。
思わぬ出会いや発見がそこにある。
今回の展評の執筆は小田切遊さん。初めての女性登場です。
何を隠そう、私のマイミクだ。