ヘレン・ケラーの手の上を冷たいモノが流れている。
アン・サリバンが、ヘレンのもう一方の手に“w-a-t-e-r”と感触を残す。
このようなことが繰り返されてきたある日、ヘレンは突然、冷たいモノと“w-a-t-e-r”が同じということを「理解」する。
それは、ヘレンが、それまでとは決定的に違うヘレンへと変貌を遂げた瞬間。
あたかも何かが降臨し、ヘレンの中の闇の体系と、外部の光の体系が関係を結び、交換されたような瞬間。
言語の海原、ロジックの森へと、ヘレンが大きく飛翔する第一歩となった瞬間。
それまで見えなかったモノが一気に「見える」ようになる、いわゆる「闇に光を見た」瞬間。
ヘレンにとって、忘れられない「あの日、あの時」。

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十勝ヘレン・ケラー記念塔」の設計者石山修武さんが、ヘレンに付き合うのはここまでです。
ヘレンと一緒に、<光=ロジック>の世界へと飛翔することはありません。
石山さんは、<光=ロジック>による俯瞰の視点を信じていません。
あるいは信じていないふりをしています。
ヘレンはいずれ、“w-a-t-e-r”が決して喉の渇きを癒すことのないことに気付くでしょう。
「理解」が「誤解」に基づいていることを知るでしょう。
その時、ヘレンが再び闇に根拠を求めることを石山さんは知っています。

石山さんにとっての光とは、飛翔のための翼ではなく、闇の深さを、豊かさを知らしめるための方便です。
あるいは、静寂の重なりや、静けさの彩り豊かな相を知らしめる役目を負った音のようなものです。
ヘレンの闇は、もともと十分に豊かだったのであり、闇の深さなくして、光の広がりはなかったのです。

いまだカタチが、オトが、コトバが与えられていないモノ、モノ、モノ。
それら不確かなモノたちのエネルギーで満ち満ちているのが、石山さんの闇です。
光がありすぎて見えない、音がありすぎて聞こえない、言葉がありすぎてしゃべれない。
そういう闇です。
スタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』に出てくるモノリスへの連想を誘う闇です。

そのような光と闇との往還の中、石山さんを飛翔へと誘うのはスピリット(spirit:精)です。
空気中に溶け込んでいる水分が、冷たいガラスに触れて、水滴となって目に見えるものになるように、
風が、電線によって、ヒュルルル~という音の姿となって現れるように、
在るのに無いように扱われる不確かなモノたちが、スピリットに触れて、形、音、言葉となって命を宿します。
その時に産婆術を施すのが、職人「石山修武」です。
産婆術はロジックではなく、手の術、心の術です。
「宿り」が、「降臨」が、「産まれること」が、石山さんの手に委ねられます。
サリバンがヘレンに与えた「あの日、あの時」が再現されます。

気仙大工に思いを馳せながら石山さんは言います。
「より高度なモノを自然に求めてゆく自由な精神。困難に対面した時の勇気」が職人にはあると。
(「建築家、職人に会いに行く」より。『建築はおもしろい』所収。)
不確かなモノとの対話を通じて、それを確かなものに変える熟練の人が職人であるならば、
職人もまた、あるいは、職人こそは産婆術の人、スピリットに導かれし者です。

そういえば、石山さん設計の「観音寺」には観音様が数珠を引っかけるためのフックが屋根に付いています。
東京都北清掃工場」には、ゴミを野辺送りするために、ゴミの精の寄合う家が煙突の先端に付いています。
リアス・アーク美術館」には、どこかの神様が腰掛けてつくってしまった凹みがあります。
しかも、立ち去るときに着物の袖を引っかけたらしく、屋根の一部がめくれ上がっています。
スピリットに対する感謝が、それに応えるかのようなスピリットの痕跡が、石山さんの建築にはあります。

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在るのに無いように扱われる不確かなモノたち。
それらが、石山さんの手を通して、目に見える世界に呼び出されるということ。
「現象化」するということ。
それが、今回の「石山修武展」で確認できると思います。

記憶に閉じこめられたアンモナイト。記憶を閉じこめるアンモナイト。
ヒマラヤの記憶となったアンモナイト。建築の、都市の、拠り所としてのアンモナイト。
都市を睥睨する朴訥怪獣の目は、そして、脳はアンモナイト。
ヒマラヤを割って泳ぐ魚。記憶を泳ぐ魚。時間を超越して泳ぐ魚。
うねり、褶曲するヒマラヤ。触手を伸ばすヒマラヤ。圧縮された時間を刻むヒマラヤ。
胞子をばらまかんとするヒマラヤ。
陽炎のような、蜃気楼のような、幽体のような、家の守り神のようなK氏。

でもどうかスピリット(精)そのものが見られるなんて、そんなには欲張らないでください。
その痕跡、その名残に触れ、そして、楽しむということ。それも<宿り>。

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【追記】
「十勝ヘレン・ケラー記念塔」の体験を語ってくださった当画廊主の話をヒントとさせてもらいました。
真っ暗な中、靴を脱いで、足の感触だけを頼りに塔を登って行く。すると、やがて光が...
ヘレン・ケラーが闇に光を見た「あの日、あの時」の再現がなされているようです。
ただし、溢れる光によって一気にカタルシスに導くようなものにはなっていないようです。
それが、闇への礼儀。石山さんの流儀。

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作られた闇体験には懐疑の念を持つぼくです。
光の記憶を持つ者の闇と、文字通り闇を生きている者の闇は別モノと思っています。
一歩足を踏み出すときの信頼感が、潔さが、諦念の深さが、闇を生きている人にはあるような気がします。

ニヤッっと石山さんが笑いながら言います。
「そうかもしれん。そうでないかもしれん。どうだろう、一度光への信仰を捨ててみては?」

(たむらけん)

「monolith #1 観音寺」
石山展・田村1


「monolith #2 北清掃工場」
石山展・田村2







*「石山修武展 チベット・インスピレーション」2006年10月6日~10月21日

画廊亭主敬白/当初このコーナーのタイトルを「コレクターたちの展評」としていましたが、回を重ねる毎に執筆者たちの筆はギャラリーの展示を超えて自由に天地をかけまわり、いわゆる「展評」という枠に収まりきれない雰囲気になってきました。これを脱線と考えるか、面白いと感じるか、私はいいんじゃないかと歓迎しとります。
そこで例によって朝令暮改、君子豹変、タイトルを「コレクターの声」に変更します。
執筆者の皆さん、お許しを。