建築家の展覧会としては、少々変わった趣きである。スケッチやドローイングを多くものにする建築家は少なくない。感激した空間を記録するために、もしくは自らの創意を確認するために、建築家は日常的にスケッチを描く。であるから、建築家のドローイング展としては、自らの建築案のスタディなり、旅先でのスケッチなどが並ぶことになる。
 石山修武さんの今回の展覧会では、建築を思わせる造形はほとんど見かけられない。2年前、同じくときの忘れものでの展覧会では、奇妙な形であっても建築と認められる要素があった。しかし、今回はアンモナイトや魚といったモチーフばかりが繰り返し描かれている。建築家の手によるとの情報がなければ、夢想に遊ぶ作家なのかと了解もするだろうが、石山さんはれっきとした現役の建築家であることがこちらを混乱させる。もともと、挑発好きとの評判のある石山さんではあるが、しかしここでは作為による選ばれた画材ではなく、氏の内面のダイレクトな発露だと受け取るのが正しいのだろう。
 建築家のドローイングが始まるのは、ルネッサンスからだとされることが多い。それは、その時期に中国からヴェニスに紙の技術がもたらされ、そこに設計案を定着することが可能になったという実際的な理由もある。しかし、一方では建築を構想する主体としての建築家像が確立されたのがルネッサンス期であり、よって単なる技術者ではなく、自らの表現をドローイングとして残したのがこの時代の建築家なのであった。そして、今日に至るまで、無数のドローイングが建築家によって生産されてきたのである。
 しかし、今回並べられた石山さんのドローイングは、そうした建築家のドローイングの系譜からは外れている。何か、そうしたこととは無関係の場所にあって、異質の衝動が石山さんをドローイングへと向かわせているのではないだろうか。太古の人々が描いたラスコーの壁画のような、悠然とした、しかし何か切迫した緊張感も漂っている。チベットからインスピレーションを受けて描かれたという事実から、悟りを求める僧たちが動植物の画をものにするように、魚や貝を描いているのか。いやそれは、チベットに関しては貧しい知識しか持たない(ましてや経験はもちろんまったくない)私の皮相的な連想に過ぎず、石山さんがチベットで何を感じたのかはぜんぜん共感し得ない。だが、アンモナイトや古代魚(?)といった対象が、太古イコール永遠性を指向していることは間違いなく、そうした普遍性を持った観点において、わずかに多くの人と接点を持ち得る気もする。
 石山さんの特異な造形は、氏の建築作品の最初期から現代にいたるまで、さまざまな変遷を経ながらも一貫して認められる。それには、自らの立脚点を宣言するにあたって、反近代を戦略的に表意したという側面もあるであろうが、一方では常にある存在を成立させるためには不可欠な要素であったとも想像できる。だが、数年前に石山さんはそうした造形が人を惑わし、自らの計画意図の理解を妨げていると、表現欲を封印すると宣言する。私の観察によれば、建築から表現を減らすことを意図したあたりから、氏のドローイングからは却って建築の影が消え、自在な意識の定着が試みられるようになったように見える。今回の展覧会での成果は、そうした変化のある段階の予感があり、はてこの次はどのような展開を見せるのか、楽しみは続きそうである。
               2006年10月15日  (いまむらそうへい

*「石山修武展 チベット・インスピレーション」2006年10月6日~10月21日

石山・カイラスへの旅

石山修武「カイラスへの旅」銅版画

石山・ヒマラヤ生誕2

「ヒマラヤ生誕2」ドローイング

石山・海底のチベット1

「海底のチベット1」ドローイング

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