作家の略歴や、年表というのは、日本では学芸員や研究者の(言い方は悪いのですが)片手間の仕事として見られ勝ちです。
ある一定の基準をつくり、それに沿って事実を時系列に積み重ねていく作業は地味ですが、何かを突き詰めていくときに必ず基礎としなければならない物差しをつくるようなものだと思います。
ドキュメンタリストという言葉は日本ではまだ市民権をもっていませんが、美術の世界において略歴や年表作りの重要性がもっと高く評価されることを期待しています。
前置きはそれくらいにして、久しぶりにここ数ヶ月、年表作成の作業に没頭しておりました。
別項1月8日の項に書いたように、資生堂主催の「椿会の春 60年の輝き」という展覧会にアドバイザーとして参加しています(会場は銀座並木通りのHOUSE OF SHISEIDO)。
1919年開設、今日まで88年という日本最古の資生堂ギャラリーの歴史は、いまや一企業の文化施設というよりは、近代日本美術史に欠かすことのできない重要な位置を占めていると私は思っています。
横山大観、梅原龍三郎ら、歴代の椿会の出品作家は錚錚たるものですが、彼らがなぜ椿会に参加したのか、それを資生堂ギャラリーの88年の年表によって、浮かび上がらせたいと思っていました。
和光大学の三上豊教授の監修で膨大な記録の中から<選ぶべき事項>を精選し、作業を進めたのですが、展覧会の年表パネルほど「労多くして、誰も読まない」ものはなく、精神的には随分と消耗する作業でした。
年表には誤記は許されません。確認できる事実だけを、淡々と記載しながら、それを読む人に歴史の積み重ねを想像させる魅力も持たねばなりません。細かいだけでは誰も読まない。ことさらの自慢話になってもいけない。88年の歴史の数々から、重要なものをせいぜい20項目くらい絞ってパネルにしたい。
たとえば、資生堂ギャラリーは昭和16年12月の開戦から、昭和19年12月(敗戦の8ヶ月前)に閉鎖に追い込まれるまでの戦火のもとでの約3年間、あらゆる困難を乗り越えギャラリーの灯を点し続けました。その間に開催された展覧会は実に270。これだけでも資生堂ギャラリーの歴史の凄さがわかりますが、ではその270の展覧会から年表にはどれを選んで記載するか。
私たちは、270の展覧会開催リストとにらめっこしながら、最終的には松本竣介、靉光ら当時の若い前衛作家たちの「新人画会展」と、個人誌「近きより」によって反軍、反権力の言論を貫いた弁護士正木ひろし主催の展覧会の二つを選び、今回の年表に記載しました。
平和産業である化粧品製造の資生堂だからこそ、あの戦争中にもギャラリー活動をぎりぎりまで展開できた、それを象徴する展覧会がこの二つだと、判断したわけです。
苦心の末、できあがった年表ですが、さて
こんなに苦労しても、恐らく読む人なんかいないよなあ・・・・
ところで、昨年から私も遅ればせながらMIXIに参加しています。
検索機能で、この展覧会についての感想を探していたら、えいぜとさんという方の日記につきあたりました。
そこには以下のような感想が書かれていました。
(えいぜとさんのご了解を得て、引用させていただきます。)
「・・・そして昼間読んだ記事で気になったのが、『徳は巡る』ということ。東京新聞夕刊に連載中の、福原義春資生堂名誉会長の連載『この道』。すでに100回を超えているのですが、現在は社長時代のさまざまな改革に話が及んでいます。目に留まったのは、資生堂が会社全体の改革をせまられたときに、外部から人を招いて改革について講演してもらう、その後援者(ママ)として白羽の矢をたてたのが、JR東海の須田寛氏。ふたつ返事で快諾してくれたその裏には、彼の父、須田国太郎が画家としてまだかけだしだったころ、当時の資生堂社長、福原信三が、資生堂ギャラリーでの初個展を開催してあげて、その後とんとん拍子に売れっ子となっていくきっかけを作ってくれた、その恩があったとのこと。
情けは人のためならず、ともいいますが、徳は巡る、なるほど・・・と、その歴史をちょっと確認しに、『椿会の春 60年の輝き』 House of SHISEIDO へ。1919年の資生堂ギャラリー開廊後、一旦戦争で中断したのち再開する1947年から始まる、そうそうたるメンバーのそろった『椿会』というグループ展がありました。メンバーの増加や入れ替えを繰り返しながら、今年2007年4月からは第6次が始まるそうです。そんな椿会の初期、第1次から第3次までの作家の資生堂アートハウスが所蔵する作品を一堂に会した、初の所蔵品展となる今回の展覧会。
2階にあがったところにある年表をみていると、須田国太郎の初個展は、昭和7年とあり、またその横に、資生堂が戦争で不況、経営危機に、とあります。そんな中でも、メセナ活動を続けた創業者、福原信三の想いが、今の資生堂に脈々と受け継がれているのかもしれません。」
以上ですが、たったひとりでもあの年表を読んでくださる方がいたということは、嬉しい限りです。
えいぜとさん、ありがとう!
コメント