「LOVE」のスポンサー
アンディ・ウォーホル Andy WARHOL
「LOVE 1」
1983 Silkscreen(刷り:石田了一)
66.0x50.0cm
Ed.100 signed
*ウォーホルのレゾネではCat.No.311「LOVE 2」となっています。
この題名「LOVE」は「KIKU」とともに私が提案し、ウォーホルがそれをそのまま受け入れたのですが、なぜか私どもが最初につけた順番が、レゾネ編集段階で入れ違ってしまい、「LOVE 1」が「LOVE 2」に、「LOVE 2」が「LOVE 1」となってしまいました。
<愛に関して、もっともエキサイティングなことは、それをしないことだ。もし誰かと恋に落ちても、決して愛を交わさなければ、もっとわくわくする。人々が15歳でセックスについて学び、35歳で死んでいた頃、彼らは、8歳かそこらでセックスのことを知り、80歳まで生きる今日の人々より、明らかに悩みはずっと少なかっただろう。同じ問題、あいも変わらぬ退屈な問題をもてあそぶには、人生は長い。 ~ウォーホル語録より>
このブログの連載は、私がエディションした「KIKU」連作4点(3点ではありません、後述)の制作の経緯を簡単にお伝えしようと書き始めたのですが、そういえば「LOVE」のこともあったと気付きました。
あらためて、「KIKU」「LOVE」の誕生の契機となった現代版画センター企画「アンディ・ウォーホル全国展」について説明します。
この全国展は1983年6月7日の渋谷パルコでのオープニングから約1年間、日本各地で開催されました。
その大要は以下の通りです。
1)ウォーホルの日本初のエディションとして、「KIKU」シリーズ3点、「LOVE」シリーズ3点が石田了一さんの刷りで発表されました。
「KIKU」の版元は私が主宰していた現代版画センター。「LOVE」の版元は宮井陸郎さんの友人が経営していた<Form K.K.>という会社です。
2)「KIKU」「LOVE」の日本エディションはじめ、代表作「マリリン」、完成したばかりの「危機に瀕している種」や「神話」「ドル」「シューズ」など80年代の新作版画を中心とする「アンディ・ウォーホル全国展」を全国で開催。
同時に東京では、「ウォーホル東京365日展」を、画廊やバー、ショップなど様々な可能性をもった空間において開催。美術だけでなく、映像、音楽なども含めた多角的視野から把える連続展として組織されました。
3)『アンディ・ウォーホル展 1983~1984』オリジナル版画入りカタログの刊行
「KIKU」小判を挿入したカタログを現代版画センターから刊行しました。
宮井さんは、私をメイン・スポンサーにウォーホル展を仕掛けたのですが、他にも資金を出してくれる人を求めて動き「LOVE」が誕生しました。実際の制作進行は刷りからサインまで現代版画センターが代行しました。
この「LOVE」の版元となった<Form K.K.>の社長さんは、当時「ビニ本」でかなり儲けており、宮井さんに口説かれ、「思いっきり危ないポルノ」を作ってくれるならお金を出そうとスポンサーになったらしい。
いま考えると不思議ですが、片や美術業界に生きているとはいえウォーホル体験のない私と、美術業界には縁も所縁もないビニ本屋さんしか、1982年の段階ではウォーホルのスポンサーになり手がなかった。
いかに日本の美術界が保守的であったかおわかりになるでしょう。
宮井さんを窓口としてウォーホルとの交渉を開始したのですが、ウォーホルへの最初の手紙の代筆は、現代版画センターのエディション作家でもあるドミニコ会の神父様、ガストン・プチさんがしてくれました。プチさんが暮らす教会は歩いて直ぐの南平台にありました。
宮井さんがニューヨークで交渉の第一段階を何とかまとめ、実際の制作に入ってからはニューヨーク在住の一色与志子さんが私どもの代理人として活躍してくれました。
試刷りを持った石田了一さんがウォーホルに会いに行ったときは、ニューヨーク在住の木村利三郎先生とシュロウィッツ村山アツ子さんが通訳して下さり、最終的に私が契約と、エディションのサインを貰いに初めてパスポートをとってニューヨークに行ったときには、木村、村山のお二人の他に今では世界的ディーラーとなった真田一貫さんにお世話になりました。契約書のチェックや、渡航の書類一式を用意してくれたのは木下哲夫さんです。いまや美術書翻訳の第一人者を秘書のごとく酷使したのですから、足を向けては寝られませんね。
その後の皆さんの大活躍を見れば随分と豪華なメンバーに支えられたのだとつくづく思います。
ともあれ、私たちの
「日本の花をテーマに」
「日本の紙(和紙)で」
「日本の刷り師を使って」作品を作って欲しいという願いはどのようにウォーホルに受け取られたか、次回以降述べることにしましょう。
(続く)
●ウォーホルを偲んで~KIKUシリーズの誕生
その1 現代版画センターと宮井陸郎
その2 全員反対を押し切って
その3 日本の花をテーマに、日本の刷り師が刷る
その4 「LOVE」のスポンサー
その5 本邦初のウォーホル展は西武デパート渋谷店
その6 「恋するマドリ」でKIKUは刷られた
その7 渋谷パルコ店で全国展スタート
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アンディ・ウォーホル Andy WARHOL「LOVE 1」
1983 Silkscreen(刷り:石田了一)
66.0x50.0cm
Ed.100 signed
*ウォーホルのレゾネではCat.No.311「LOVE 2」となっています。
この題名「LOVE」は「KIKU」とともに私が提案し、ウォーホルがそれをそのまま受け入れたのですが、なぜか私どもが最初につけた順番が、レゾネ編集段階で入れ違ってしまい、「LOVE 1」が「LOVE 2」に、「LOVE 2」が「LOVE 1」となってしまいました。
<愛に関して、もっともエキサイティングなことは、それをしないことだ。もし誰かと恋に落ちても、決して愛を交わさなければ、もっとわくわくする。人々が15歳でセックスについて学び、35歳で死んでいた頃、彼らは、8歳かそこらでセックスのことを知り、80歳まで生きる今日の人々より、明らかに悩みはずっと少なかっただろう。同じ問題、あいも変わらぬ退屈な問題をもてあそぶには、人生は長い。 ~ウォーホル語録より>
このブログの連載は、私がエディションした「KIKU」連作4点(3点ではありません、後述)の制作の経緯を簡単にお伝えしようと書き始めたのですが、そういえば「LOVE」のこともあったと気付きました。
あらためて、「KIKU」「LOVE」の誕生の契機となった現代版画センター企画「アンディ・ウォーホル全国展」について説明します。
この全国展は1983年6月7日の渋谷パルコでのオープニングから約1年間、日本各地で開催されました。
その大要は以下の通りです。
1)ウォーホルの日本初のエディションとして、「KIKU」シリーズ3点、「LOVE」シリーズ3点が石田了一さんの刷りで発表されました。
「KIKU」の版元は私が主宰していた現代版画センター。「LOVE」の版元は宮井陸郎さんの友人が経営していた<Form K.K.>という会社です。
2)「KIKU」「LOVE」の日本エディションはじめ、代表作「マリリン」、完成したばかりの「危機に瀕している種」や「神話」「ドル」「シューズ」など80年代の新作版画を中心とする「アンディ・ウォーホル全国展」を全国で開催。
同時に東京では、「ウォーホル東京365日展」を、画廊やバー、ショップなど様々な可能性をもった空間において開催。美術だけでなく、映像、音楽なども含めた多角的視野から把える連続展として組織されました。
3)『アンディ・ウォーホル展 1983~1984』オリジナル版画入りカタログの刊行
「KIKU」小判を挿入したカタログを現代版画センターから刊行しました。
宮井さんは、私をメイン・スポンサーにウォーホル展を仕掛けたのですが、他にも資金を出してくれる人を求めて動き「LOVE」が誕生しました。実際の制作進行は刷りからサインまで現代版画センターが代行しました。
この「LOVE」の版元となった<Form K.K.>の社長さんは、当時「ビニ本」でかなり儲けており、宮井さんに口説かれ、「思いっきり危ないポルノ」を作ってくれるならお金を出そうとスポンサーになったらしい。
いま考えると不思議ですが、片や美術業界に生きているとはいえウォーホル体験のない私と、美術業界には縁も所縁もないビニ本屋さんしか、1982年の段階ではウォーホルのスポンサーになり手がなかった。
いかに日本の美術界が保守的であったかおわかりになるでしょう。
宮井さんを窓口としてウォーホルとの交渉を開始したのですが、ウォーホルへの最初の手紙の代筆は、現代版画センターのエディション作家でもあるドミニコ会の神父様、ガストン・プチさんがしてくれました。プチさんが暮らす教会は歩いて直ぐの南平台にありました。
宮井さんがニューヨークで交渉の第一段階を何とかまとめ、実際の制作に入ってからはニューヨーク在住の一色与志子さんが私どもの代理人として活躍してくれました。
試刷りを持った石田了一さんがウォーホルに会いに行ったときは、ニューヨーク在住の木村利三郎先生とシュロウィッツ村山アツ子さんが通訳して下さり、最終的に私が契約と、エディションのサインを貰いに初めてパスポートをとってニューヨークに行ったときには、木村、村山のお二人の他に今では世界的ディーラーとなった真田一貫さんにお世話になりました。契約書のチェックや、渡航の書類一式を用意してくれたのは木下哲夫さんです。いまや美術書翻訳の第一人者を秘書のごとく酷使したのですから、足を向けては寝られませんね。
その後の皆さんの大活躍を見れば随分と豪華なメンバーに支えられたのだとつくづく思います。
ともあれ、私たちの
「日本の花をテーマに」
「日本の紙(和紙)で」
「日本の刷り師を使って」作品を作って欲しいという願いはどのようにウォーホルに受け取られたか、次回以降述べることにしましょう。
(続く)
●ウォーホルを偲んで~KIKUシリーズの誕生
その1 現代版画センターと宮井陸郎
その2 全員反対を押し切って
その3 日本の花をテーマに、日本の刷り師が刷る
その4 「LOVE」のスポンサー
その5 本邦初のウォーホル展は西武デパート渋谷店
その6 「恋するマドリ」でKIKUは刷られた
その7 渋谷パルコ店で全国展スタート
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