オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO
「A.S.-9」
1982 Screenprint
Image Size 30.0×30.0cm
Frame Size 50.5×50.5cm
Ed.150 Signed
*レゾネNo.187
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◆オノサト・トシノブ先生の晩年のシルクスクリーンです。
年譜を見ていたら、私が29歳でオノサト先生に会ったとき、先生は62歳だったことに気付きました。つまり今の私と同じ歳ですね、うたた感慨を禁じえない。
オノサト先生に初めてお目にかかったのは1974年3月、桐生のアトリエに版画エディションのお願いに伺ったときでした。
「オノサト・トシノブ伝」(オノサト・トモコ著、1991年、アート・スペース刊)の340頁に<高森、尾崎両氏が三月頃見え、現代版画センターを知人が始めるからと、急いで小品版画を作ってくれるよう依頼があった(10×10二種になる)。>という記述があります。
じつはこのときアトリエを訪問したのは高森俊さん(創美会員)、尾崎正教さん(創美会員、現代版画センターの事務局長になっていただき、後に「わたくし美術館」運動を展開)だけではなく、刷り師の岡部徳三さんもおり、私と橋本凌一さん(現代版画センターの名付け親で、今は六月社を主宰)たちスタッフなど、大勢での訪問でした。
当時オノサト版画の実質的な版元となっていたのは俗に四人組(大野元明、尾崎、高森、岡部徳三)といわれた面々で、尾崎さんたち教師3人(いずれも創美のメンバーで小コレクター運動に参加していた)がオノサト先生へのサイン料や岡部さんの刷り代を分担する形で(完成した作品をメンバーが等分に分け、それぞれが仲間に頒布した)、精力的に版画のエディションを行っていました。その手法は小コレクター運動を主導した久保貞次郎先生に学んだものでした。
1966年「Silk-1」から始まるオノサト・トシノブのシルクスクリーンの制作は、プロの画商や版元ではなく、アマチュアの(小コレクター)四人組によって企画されたことは、誰か歴史にきちんとまとめておいておくべきでしょう。
私は、先ず1973年に久保貞次郎先生に会い、久保先生の紹介で四人組の皆さんを知り、現代版画センターの創立に際して助力を求めました。
1962年3月、志水楠男さんが主宰する南画廊で個展を開いたオノサト先生は、気鋭の現代美術の画商さんを後ろ盾にして1964年、66年とヴェニス・ビエンナーレに出品し、日本を代表する国際的作家としての地歩を進めるかと思われましたが、ある事情で、志水さんとオノサト先生が絶交状態になってしまいます。
当時の志水さんの威勢はたいへんなもので、どの画商さんもオノサト作品を扱おうとしなかった。
(決して志水さんが悪いと言うのではありません。私も志水さんにはとてもお世話になり尊敬もしています。双方を知る私としてはただ残念な状態だったというしかありません)
画商が扱わないから経済的にもオノサト先生はたいへんな苦境だったわけです。
それを救ったのが四人組でした。
中でも、若き刷り師の岡部徳三さんの貢献は、オノサト先生にとっても、日本の現代版画史にとっても特筆に価することでした。
そんな事情も知らず、突然毎日新聞社の事業の一環として現代版画センターを設立したど素人の私がのこのこ四人組についていってオノサト先生に版画制作のお願いをしたことは、今から考えると、いわば掟破りみたいなもんで、四人組の独占状態からオノサト先生が再び美術界に復帰するきっかけになったのかも知れません。ど素人の私をプロに育ててくれた四人組の皆さんの寛容さにはいまも深く感謝しています。
ところが上述のオノサト夫人著すところの「オノサト・トシノブ伝」、4百数十ページの大著のどこを探しても岡部徳三のオの字もない。僅かに355頁に、<66年頃からはシルクスクリーンの版画が主流になり、高森・尾崎・大野の各氏が企画したものを岡部版画工房が刷った。>という記述があるのみです。
この伝記にはアトリエをしばしば訪ねた四人組の尾崎、高森、大野、そしてその後にくっついていった私の名は出てくるのに、同行したオノサト版画の最大の貢献者岡部さんの名前はきれいに抹殺されている。
美術史研究で、「本人と遺族のいうことは鵜呑みにしてはいけない」とよくいわれますが、当事者のみでしか知りえない恩讐が、こういう記述の背後にあるのでしょう。
ある時期から、オノサト版画の刷りから岡部さんは退き、石田了一さんなどが担当することになります。
絶交状態だったオノサト・トシノブ先生と志水さんでしたが、双方を知る人々によって何回も修復の試みがなされました。そして1978年(昭和53)10月1日、桐生の国際きのこ会館でオノサト先生の画文集「実在への飛翔」出版記念会が開催され、志水さんが東京から出席し、長い空白を埋めて再会されたのでした。このとき東武線で桐生まで志水さんをご案内した(お供をさせていただいた)のは私でした。
前述の「オノサト・トシノブ伝」359頁には以下の記述があります。
<志水氏はきのこ会館に泊って、翌朝オノサトのアトリエに見え、次の個展を来年の四月にはやりたいとオノサトに話す。オノサトは「トモコと話し合ってもらいたい」とこの件だけは承諾しなかった。昼食は好物の寿司をとって志水氏と食べてから、新桐生駅までトシノブとトモコの二人で送った。>
微妙な表現ですね。
この個展は実現することなく、志水さんは翌1979年3月20日、自宅で悲劇的な死を遂げられます。
画家と画商、画家と刷り師の一言では言い表せない関係を、私はこれらの人々から学んだのでした。かくいう私だって、絶縁状態になった(ご迷惑をかけてしまった)画家の方は少なくない。
私にこういうことを書く資格がはたしてあるのか・・・・・
この版画が生まれてから、もう四半世紀が過ぎました。
オノサト先生、志水さん、久保貞次郎先生、尾崎さん、大野さん、そして岡部さんも鬼籍に入られました。
人生は短く、芸術はエイエンですね!
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