「船着場のある風景」
etching
13.0×15.1cm(紙:17.8×21.1cm)
サイン無し
「港」
etching
12.1×18.1cm(紙:15.2×23.7cm)
サイン無し
◆ご無沙汰してしまいました。連載を再開します。
2008年の駒井哲郎ファンにとっての大ニュースは、京橋の白銅鞮画廊(Gallery Hakudohtei)で1月10日~26日の会期で開催された「駒井哲郎展ー若き日の希少作品3点ー」に、新発掘の最初期の銅版画2点が出品公開されたことでしょう。
「ついに出てきたか」というのが私の感慨です。
15歳のときから西田武雄について銅版画を習得した駒井哲郎先生ですが、初期の作品で公にされているもの(生前、没後の作品集や回顧展に出品・収録されたもの)があまりにも少なく、眠っているものが少なくないはずと、これは誰でもが想像できるからです。
今回の展覧会には、上に掲載した2点の新発掘作品を含む初期から晩年までの銅版画15点とモノタイプ1点の計16点が出品されました。没後、多くの画廊で数多く駒井哲郎展が開催されてきましたが、それらの中で、今回の白銅鞮画廊さんの展覧会はまさに歴史に残る快挙といっていいでしょう。
埋もれていた初期銅版画2点を掘り出したことはもちろんですが、それをきちんとした形で公開し、図録まで刊行したことの意義はいくら賞賛してもしたりません。
今回の展覧会で新発掘2点を購入された某氏のご厚意で、作品を詳細に調べさせていただきました。サインはありませんが、間違いなく最初期の作品です。
上述のように主催者の画廊によって32ページ(表紙含む)の図録が製作され、町田市立国際版画美術館学芸員の瀧沢恭司先生によるテキスト「駒井哲郎 最初期の銅版画について」が9ページにわたり掲載されています。
ご興味のある方はぜひこの瀧沢論文をお読みいただきたいのですが、駒井哲郎の初期作品について的を絞り詳細に論じたのは、今まであまりなく、私もたいへん勉強になりました。
以下、< >内は瀧沢論文の引用です。
瀧沢論文は<《孤独な鳥》を制作した1948年以前の版画を「初期銅版画」と見なすことと>して、<そのうち、召集される1944年までに駒井が制作した>作品を<「最初期の銅版画」-十代後半から二十代前半の制作>と定義しています。
駒井先生が戦後、日本版画協会(1948年から出品、28歳)や春陽会(1950年から出品、30歳)で活躍を始める以前を初期とすることには私も異論はありませんが、15歳から27歳までの13年間に制作された銅版画で実在が確認されているものが僅か10数点(瀧沢論文では12点のリストを掲載、他の文献その他を参照しても現在まで確認されているものは20点に満たない)というのはいくら何でも少な過ぎる、きっともっとあるに違いない、というのが私の推測です。
私が福原コレクションの特徴として「初期作品の重要性」をあげたのは、初期作品がもっと眠っているはずだ、その解明なくしては駒井版画の評価は確定しないと思っているからです。
ともあれ、今回出てきた2点の<初出作品には、画廊主と駒井美子氏の協議によって《船着場のある風景》、《港》という題名が付けられた>とのことですがが、瀧沢論文は<今後の調査研究によってこれらの題名に根拠が与えられるか、適切な題名が付されるべきである。>としています。私も同感で、まだまだ文献その他でこれらの作品の正式な題名が確認できるかも知れないので、<説明的な題名は適当ではな>く、せめて題名の後ろに(仮題)としていただきたかったと思います。
また今回の図録では制作年を《船着場のある風景》を1935年、《港》を1935年頃と特定していますが、これについても瀧沢論文は<決め手となる客観的根拠を提示できない以上は、現時点では幅を持たせて1935-42とすべきであるように思われる。>と丁寧に指摘なさっています。
一度活字になったものは一人歩きしがちです。ましてやまだ解明されるべき点の多々ある駒井初期作品については、実物、作品の来歴(旧蔵者)、文献などにより実証的な検証がなされていき、最終的には完全なカタログレゾネの刊行によってきちんとした年代が確定されることを期待します。
瀧沢論文は今回の展示の意義について、<二点の初出作品が展示されることは驚きだが、それ以上に本展覧会で注目すべきことは、初出作品とともに、駒井が版を制作した時期かもしくはそれに近い時期に自刷りしたと考えられる、最初期の銅版画の新出の刷り三点が展示されることである。これら全ては一人の個人が所蔵するものであったらしい。今回、来歴が明らかにされないことも手伝って、これらが版の制作と同時期の刷りであることを限定できないが、周知の作品の刷りや署名と比較しても、概ねそのことを証明出来るだろう。>として、上述の新発掘のほかに出品された初期作品《滞船》《丸の内風景》《足場》の個々について、インクの色、刷りを検討し、さらに初期作品の<署名とエディションについて>、<モチーフ、造形空間、表現について>詳細に論じています。素人の私たちと専門の研究者の視点の設定、論証には格段の差があると思い知る労作です。
瀧沢論文では今回の新発掘作品について、<来歴が明らかにされない>とありましたが、テキスト依頼の際に、出所は瀧沢先生には伏されていたのでしょうか。それとも活字になることを慮って瀧沢先生の方で遠慮なさったのでしょうか・・・。
結論的にいえば、私がこの連載の第9回で紹介した新発掘の作品と旧蔵者は同じです。
詳しくは、それを読んでいただきたいのですが、先ず「R夫人」のモデルとも擬されたHさん旧蔵の初期作品が5点一括で出てきました(全てサイン付)。作品(新発掘ではないもの)に記載された献辞から旧蔵者は特定できました。それを世に出した画商さんはおそらくサインのあるものだけを買い取りされたのでしょう。
今回出てきた《船着場のある風景》《港》《滞船》《丸の内風景》《足場》にはいずれもサインがありませんから、その推測はそう的を外れていないと思います。
考えてみれば、駒井先生のノーサインの作品が出てくる可能性はそういくつもありません。
先ず考えられるのはご本人のところ(つまりはご遺族)ですが、今回は違います。
次に駒井先生の生前に版を預けられ刷りを担当したお弟子さんや版画工房(本来、ノーサインの作品が残されるのはおかしいのですが、尊敬のあまり先生に内緒で密かに手元に残したという例は少なくありません。私も実際それらのいくつかのノーサイン作品を譲って貰い所蔵しています。)からの流出ですが、今回の最初期の作品は駒井先生の10代から20代前半の時期の自刷りと思われるものですから、これもないでしょう。
だとすれば、少年~青年期にかけての駒井先生がノーサインの作品をまとめて5点(もっとあったかも知れません)も贈る相手は限られてきます。
友人や知人へのちゃんとした献呈なら当然サインを入れるはずです。
お身内か、師匠の西田武雄か。
それとも「当時彼が手がけていた作品のすべてについてその試刷りを、ときには未完成段階の作品の試刷りまで夫人に送って、彼女の批評を乞い、彼女の批評によって励まされ、教示を懇願し」(中村稔、『駒井哲郎 若き日の手紙 「夢」の連作から「マルドロオルの歌」へ』加藤和平・駒井美子編の32頁)た相手のHさんではないか。
Hさんのことは、上掲の、『駒井哲郎 若き日の手紙 「夢」の連作から「マルドロオルの歌」へ』で公開されているのですから、今回の実物の発掘を、手紙などの文献と旧蔵者の調査によって、詳しい検証が積み重ねられることを切に期待する次第です。
今回の新発掘の作品は、駒井先生の魅力解明の大きな前進であると思います。
新発掘の功労者であり、貴重な図録を刊行された白銅鞮画廊さんに心より敬意を表します。
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