画商という商売に携わっている者なら誰にでも10代の若いときに接した「決定的な一点」があると思います。私にとってはそれは絵画ではなく、蔵原惟繕監督の映画『執炎』でした。偶然見たこの映画によって、一時本気で映画界に進もうと思ったくらいです。(先日のブログにも書いた通り、浮気性の私の最初の夢は建築家で、次に本屋さん、ついで映画。それが新聞社を経て、とうとう画商になってしまった。)
執炎ポスター
 私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)の4月に中央大学法学部法律学科に入学した。18組あるクラスの最後の18組だった。当時、入学金を支払った順番で手続きがされたから、18組ということは締め切りぎりぎりにかけこんだ連中、第一志望の大学を落ちて仕方なく滑り止めの中央大に入ったという落ちこぼれの集まったクラスだった(だから今でもとても仲がいい)。私も第一志望の早稲田の文学部に受かりながら、母親の「文学部なんかつぶしがきかない、早稲田の入学金は払わない」というひと言で(受験のときはそんなことは言わなかったから、私にしてみれば両方受かった末の母親の騙まし討ちみたいなものだった。それがもとで以後四年間母親と絶交するにいたるが、それはまた別の話)泣く泣く、入学手続き締め切りの最終日、もう真っ暗になった校舎に現金をもってかけつけたのを覚えている。不本意な大学選択だった。
 周りは年寄りばかりで(つまり浪人が多かった)私と同じ現役入学者は少なかった。10代の頃の一歳違いは大きい。そんな年上ばかりの同級生の中で最初に親しくなったのが、川越高校から現役で入ったO君だった。私が母親と絶交し、つまり仕送りを拒絶し、アルバイトで学費と生活費のすべてを稼ぐうえで、物心ともに支援してくれた生涯の恩人なのだが(彼は経済的必要もないのに私の町工場の守衛のアルバイトにつきあった上、そのバイト代を受け取らず、私はそれを当然の如く使って卒業した)、スポーツマンで、趣味が料理(在学中に調理師学校に通い、免許もとった)と吉永小百合だった。吉永小百合が雑誌や新聞に載った記事や写真は残らず切り抜きスクラップしていた。そんなO君に引きずられて観に行ったのが吉永小百合主演の映画「うず潮」だった。サユリストでもない私には退屈極まりない映画で半分寝ていた。当時の日活のプログラムピクチャーは二本立てだったから、「うず潮」の後にもう一本上映されたのが、蔵原惟繕監督の『執炎』だった。
 さして映画少年でもなかった私だが、そのモノクロの映像美にすっかり圧倒されてしまった。
伊丹一三(十三になる前)と浅丘ルリ子の演じる若い夫婦の純愛物語というか、戦場シーンの全く無い反戦映画ともいえるのだが、そんなストーリーはどうでもよく、冒頭の死んだ二人を弔う海の鎮魂の儀式から、海の若者と山の娘の邂逅と結婚、夫の出征、雪の餘部鉄橋の上からくるくると落ちていく傘のシーン、すべてのシーンが目に焼きついて離れない。高校時代から好きな映画には何度も通っていたから(「ウエストサイドストーリー」は8回観た)『執炎』にも通うつもりが二回観たところでお終いになってしまった。まったく人が入らなかったらしい。
 原作・加茂菖子(この本、当時何年もかけて探しだしました)、脚本・山田信夫、撮影・間宮義雄、美術・松山崇、音楽・黛敏郎(この人、私は大嫌いなのだが、この音楽だけは認めざるを得ない)、出演=浅丘ルリ子、伊丹一三、芦川いづみ、松尾嘉代、信欽三、細川ちか子、宇野重吉、岡田可愛。
 なぜこんなに美しい映画がヒットしないのか不思議でならなかったし、今でも信じられない。いつかもう一度(といわず、お金があったらフィルムごと買って)観たいとずっと思ってきたのだが、機会がなかった。一度だけテレビで放映されたのを(117分の映画がかなりカットされていた)観たがそれからでも、もう30年になる。
 私は映画の話になると馬鹿の一つ覚えのように「日本映画史上、最高傑作は蔵原惟繕の『執炎』だ」といい続けてきました。そんな熱意(?)が通じたのか、昨年、画廊に蔵原監督の弟さんが偶然来廊された。居合わせたお客さんたちと、『執炎』の話で盛り上がったのだが、この秋、11月22日~30日に開催されている第9回東京フィルメックスで、遂に蔵原惟繕特集が組まれ『執炎』が上映されることになった。
 昨日26日、仕事も休み社長と二人、京橋の東京国立近代美術館フィルムセンターにかけつけました。2時間前に並んだのに、既に4人いて私は5番目だった。私にとっては劇場で44年ぶりに観る『執炎』でした。劇場での上映は初めての社長は涙ぽろぽろ。
 あんなに浅丘ルリ子ってふくよかで可愛かったのか、伊丹一三の初々しさがまぶしい。
 30(日)14:00からも上映されます。これを見逃したらまた40年待つのかと思うと(とっくに死んでいる)いてもたってもいられない。二度目も行こう。僅か800円(私たちはシルバーで600円でした)で、日本の最も美しい映像が観られるンですよ、ぜひGo!

蔵原惟繕(1927~2002)
1927年ボルネオ生まれ。1952年に日本大学芸術学部映画学科卒業後、松竹京都撮影所に入社。1954年に日活に移り、石原裕次郎主演の『俺は待ってるぜ』(57)で監督デビュー。石原裕次郎主演作『銀座の恋の物語』(62)『憎いあンちくしょう』(62)、『執炎』』(64)など、日活の第一線の監督として活躍。三島由紀夫原作の『愛の渇き』(67)を撮るが、日活が公開延期にしたことをきっかけに、67年に退社してフリーとなる。その後、『栄光への5000キロ』(69)『海へ See You』(88)といった海外ロケによる大作を手がける。1983年に『南極物語』を大ヒットさせ、興行記録を塗り替えた。同作は、翌年のベルリン映画祭のコンペティション部門で上映されたほか、2006年にアメリカでリメイク版が製作された。2002年75歳で死去。生涯で監督した映画は36作品。