昨日終了した「ウルトラバロック 尾形一郎 尾形優 写真展」にはたくさんの皆さんにご来廊いただきありがとうございました。今後も尾形さんの作品を積極的に扱ってまいりますので、どうぞよろしく。
さて本日は羽田から富山に飛んで、富山県立近代美術館に行ってきます。
同館で開催中の「可能性への挑戦 池田満寿夫の版画 京都国立近代美術館所蔵 M&Yコレクション」展に関連して、なぜか亭主が呼ばれ、「画商が見たマスオ版画の魅力、そのスター性」と題して講演するはめになりました。
ときの忘れものは、瑛九には強いけれど、池田さんの版画にそう強いわけではありません。
個人的に池田さんと親しかったわけでもありません。
富山の学芸員の方にもそのことを言って当初はお断りしたのですが、「それでもいいから」と熱心に口説かれ(亭主はチャーミングな女性には弱い)、この機会に池田さんの版画をじっくり見たいという気持ちもあって(今回は300点を展示)、とうとう引き受けてしまいました。
池田さんの版画を好きかといわれれば、もちろん「好きです、大好きです」と答えます。
亭主の最初の版画コレクションは池田さんの「うつろなスフィンクス」でした。
1974年に新聞社のサラリーマンから美術業界に入ったとき、知っていた版画家は「棟方志功と池田満寿夫」くらいでした(つまりど素人だった)。

亭主の版画人生で一番儲けたのは池田さんの「聖なる手」で、このときは天下のベルグランを出し抜いて(ハインツ・ベルクグリューンがパリに開いた画廊)大儲けをしました(エヘン)。
亭主の密かな誇りは、これぞと思って口説いた作家にほとんど断られたことがない、または断られてもそれはたいした作家ではなかった(失礼!)ということです。
例外はただひとり、池田さんでした。
誰にも紹介を受けずに、先ずは手紙を書いて、会って口説く。このやり方で、ウォーホルも加山又造さんも、安藤忠雄さんも、口説き落とした。
池田さんも同じやり方で口説きました。亭主が28歳、池田さんが40歳のときでした。
会ったときは「やってもいい」と言われたのですが、結局は振られました。
断られた理由がその頃はわからなかったのですが、今になって思うと、池田さんの自らの過去への苦い思いがその底流にあったのだとわかります。
以前、このブログで「画家とパトロン」と題して、池田満寿夫さんのことを少し書いたことがあります。
最初のパトロンだった久保貞次郎先生へ、池田さんは生涯複雑な感情を抱き続けていたようです。
久保先生が1996年年10月31日に87歳で死去した後、周囲の人たちによって直ちに追悼集『久保貞次郎を語る』の刊行が計画され、亭主も社長とともに編集委員会に参加し、ときの忘れものが事務局となって一周忌に間に合わせるために突貫作業で編集が進められました。
もちろん、私たちは池田さんにも追悼文の執筆を依頼しました。
今度は快く引き受けていただきました。
その直後でした。
1997年3月8日池田満寿夫さんは急逝されました。
書かれなかった追悼文はどういう内容だったのでしょうか。
富山では、遂に口説き落とせなかった池田さんのことを、少しおしゃべりしようかと思っています。
ご紹介するのは、60年代の代表作のひとつ「空の寝台」です。
6月26日(土)、27日(日)に開催する「とっておきセール」に出品します。

池田満寿夫「空の寝台」
1969年 カラー銅版
36.5x36.6cm Ed:50
サイン有り
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
さて本日は羽田から富山に飛んで、富山県立近代美術館に行ってきます。
同館で開催中の「可能性への挑戦 池田満寿夫の版画 京都国立近代美術館所蔵 M&Yコレクション」展に関連して、なぜか亭主が呼ばれ、「画商が見たマスオ版画の魅力、そのスター性」と題して講演するはめになりました。
ときの忘れものは、瑛九には強いけれど、池田さんの版画にそう強いわけではありません。
個人的に池田さんと親しかったわけでもありません。
富山の学芸員の方にもそのことを言って当初はお断りしたのですが、「それでもいいから」と熱心に口説かれ(亭主はチャーミングな女性には弱い)、この機会に池田さんの版画をじっくり見たいという気持ちもあって(今回は300点を展示)、とうとう引き受けてしまいました。
池田さんの版画を好きかといわれれば、もちろん「好きです、大好きです」と答えます。
亭主の最初の版画コレクションは池田さんの「うつろなスフィンクス」でした。
1974年に新聞社のサラリーマンから美術業界に入ったとき、知っていた版画家は「棟方志功と池田満寿夫」くらいでした(つまりど素人だった)。

亭主の版画人生で一番儲けたのは池田さんの「聖なる手」で、このときは天下のベルグランを出し抜いて(ハインツ・ベルクグリューンがパリに開いた画廊)大儲けをしました(エヘン)。
亭主の密かな誇りは、これぞと思って口説いた作家にほとんど断られたことがない、または断られてもそれはたいした作家ではなかった(失礼!)ということです。
例外はただひとり、池田さんでした。
誰にも紹介を受けずに、先ずは手紙を書いて、会って口説く。このやり方で、ウォーホルも加山又造さんも、安藤忠雄さんも、口説き落とした。
池田さんも同じやり方で口説きました。亭主が28歳、池田さんが40歳のときでした。
会ったときは「やってもいい」と言われたのですが、結局は振られました。
断られた理由がその頃はわからなかったのですが、今になって思うと、池田さんの自らの過去への苦い思いがその底流にあったのだとわかります。
以前、このブログで「画家とパトロン」と題して、池田満寿夫さんのことを少し書いたことがあります。
最初のパトロンだった久保貞次郎先生へ、池田さんは生涯複雑な感情を抱き続けていたようです。
久保先生が1996年年10月31日に87歳で死去した後、周囲の人たちによって直ちに追悼集『久保貞次郎を語る』の刊行が計画され、亭主も社長とともに編集委員会に参加し、ときの忘れものが事務局となって一周忌に間に合わせるために突貫作業で編集が進められました。
もちろん、私たちは池田さんにも追悼文の執筆を依頼しました。
今度は快く引き受けていただきました。
その直後でした。
1997年3月8日池田満寿夫さんは急逝されました。
書かれなかった追悼文はどういう内容だったのでしょうか。
富山では、遂に口説き落とせなかった池田さんのことを、少しおしゃべりしようかと思っています。
ご紹介するのは、60年代の代表作のひとつ「空の寝台」です。
6月26日(土)、27日(日)に開催する「とっておきセール」に出品します。

池田満寿夫「空の寝台」
1969年 カラー銅版
36.5x36.6cm Ed:50
サイン有り
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