今日7月7日は七夕様、子供の頃天の川を仰ぎながら(亭主の育った群馬県嬬恋村には天の川が満天の星とともにまさに大河のごとく空にあった)母から彦星と織姫の伝説を聞いたものでした。
7日生まれの画家にマルク・シャガールがいます(1887年7月7日~1985年3月28日)。
亭主は20数年前、日本とフランスで開催されたシャガール生誕百年記念展に携わったことがあり、バランティーナ夫人を日本にお招きし、ニースの国立マルク・シャガール聖書のメッセージ美術館で開かれた生誕百年記念レセプションには日本人数人の一人として招待されたことを懐かしく思い出します。

シャガールは誰でも知っているけれど、同じ七夕生まれの画家に、創作版画の歴史で忘れがたい佳品を残した「春村ただを」がいます。
といっても、亭主自身「春村ただを」が七夕生まれだと知ったのはつい先日です。
春村ただをといってもほとんどの方はご存知ないでしょう。
グーグルで検索しても何もわからない。
僅かに千葉市美術館「画人たちと千葉」の出品リストに名前があるのがひっかかるくらいです。

亭主が編集に携わり執筆もした『原色浮世絵大百科事典 第十巻 風俗絵師と現代版画家』(1981年 大修館書店)は、創作版画から現代版画まで網羅した人名事典として今でも重宝されていますが、その「春村ただを」の項目(亭主が執筆)の記述は以下の通りです。

春村ただを 木版 生没年不詳。関西における創作版画運動の作家の一人。大正十四年ロスアンジェルス国際版画展に出品。昭和四年川西英・北村今三等と神戸で版画グループ三紅会を結成し、第一回展を神戸三越で開催(三紅会はその後前田藤四郎等が加わり昭和六年第六回展まで開催)。神戸に住んで連刊版画誌『HANGA』(神戸版画の家 大正一三年~昭和五年)や『きつつき』(創作版画倶楽部 昭和五~六年)などに作品を発表。きつつき同人。昭和七年日本版画協会会員となるが、その後不明、一四年には同協会を自然退会となっている。白黒や、淡い色彩による抒情感漂う風景作品を遺している。(以下略)(綿貫不二夫)>

つまり生没年すらわからないマイナーな版画家だった。
ところが先日、神戸市立博物館の学芸員・金井紀子先生から『神戸市立博物館研究紀要第26号』抜刷り(2010年3月発行)が送られてきました。
そこには金井紀子先生の労作大論文「版画家・春村ただをとその作品について」が掲載されており、今まで謎だった春村ただをの生涯が詳しく紹介されています。
創作版画研究では重要な新発見ニュースであります。

26頁にわたる大論文の最初のところだけ引用させていただきます。
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「版画家・春村ただをとその作品について」 金井紀子

要旨
 川西英とともに戦前の神戸で活躍した創作版画の作家、春村ただをは長く生没年と経歴が不詳だった。2004(平成16)年に遺族と出会い、千葉出身で大正期に来神し、戦後再び千葉に戻った様相が初めて分かった。本稿ではその生涯と主要作品を明らかにする。

はじめに
1.房総から神戸へ
2.玄関に表札を二つ掲げた男
 ~「春村ただを」になるまで(同人誌時代)
3.版画集『神戸風景』
 ~創作版画がとらえた神戸モダニズム
4.三紅会の時代と版画集『春』
5.版画から離れて
おわりに

はじめに
 「春村ただを」は、戦前の神戸で活躍した版画家である。日本創作版画協会、日本版画協会、春陽会等へ出品し、神戸出身の創作版画史を代表する作家・川西英(1894~1965)の仲間であった。当地でも知名度は高くないが、洒落た版画集『神戸風景』(1927)や『春』(1931)を出版し、昭和初期にモダニズム都市・神戸の良質なイメージを川西とほぼ同時期に表現した、注目するべき点が多い作家である。彼の活動は、神戸で1924(大正13)年より刊行された版画誌『HANGA』(神戸版画の家)への作品発表と、1929(昭和4)年に川西英を中心に結成されたグループ・三紅会(1936年の第6回展まで開催)への参加が知られる。
 かつて筆者は、「川西英と神戸の版画-三紅会に集った人々-展」(会期:1999年10月8日~11月28日)、神戸市立小磯記念美術館)を企画し、埋もれた神戸の創作版画の作家たちを追跡調査したが、春村ただをについては関係者と出会えず、生没年や具体的な経歴を辿ることが叶わなかった。春村の名前は、1922(大正11)年に版画展の目録などに突如現れ、1937(昭和12)年以降、忽然と姿を消す。
 変化が生じたのは2004(平成16)年夏だった。千葉市美術館の西山純子学芸員より電話が入り、労作の「日本の版画展」シリーズを手がけられた氏が、興奮気味に「春村ただをの娘さんが見つかった」と連絡してくださった。同年9月25日、西山氏と三木哲夫氏(国立新美術館特任研究員)と共に、長女の多田晶子氏宅(千葉市花見川区)を初めて訪れ、聞き取り調査をおこなった。本稿は、それをもとに更に調査を進め、彼の足跡を明らかにし、現在把握できた主要作品の紹介と検証を目的とするものである。
(以下略)

春村ただを 1春村ただを 2

春村ただを 3

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上記論文で、「春村ただを」が、1901年(明治34)7月7日に千葉県長生郡南白亀村(現白子町)に生まれ、1977年(昭和52)10月15日76歳で死去されたことが判明した次第です。
巻末の年譜によれば、1938年(昭和13)頃、肝油会社で作業中に右手を大怪我し、版画を断念。戦後故郷千葉に帰り村役場に勤め、65歳まで働く。62~3歳の頃、千葉県展に出品するも落選とあります。
いずれ回顧展が開催されることを祈るとともに、金井先生の研究に敬意を表したいと思います。